武田信玄の外交方針についてお聞きします。

信玄は、駿河侵攻に際し、今川家、北条家との三国同盟を破り、両家とも交戦しています。
氏康の死後、北条家とは再び同盟を結んでいます。

ここで疑問なのですが、信玄は西上するに際して、本願寺や浅井家、朝倉家等とは同盟を
結んでいますが、北方の上杉謙信とは敵対したままです。強大な上杉家と敵対したまま
織田家、徳川家との決戦を迎えるというのは厳しい気がするのです。

越中の一向宗徒を扇動して、上杉を越後から容易に動けなくしたと聞いたこともあるのですが、
信玄ほどの戦略家なら、後方の憂いを絶ってから西上しそうな気がするのですが。

信玄は、上杉家と敵対したままでも織田家、徳川家を破る自信があったのでしょうか?

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A 回答 (9件)

スタンス的には信玄の行動の最終目的が、上洛だったのかどうかというのは


個人的に中立的な立場なんです。(後述)

だからこそ前回投稿した分に関しても、西上作戦という言葉は敢えて使わず
(三河・遠江侵攻作戦)という造語で凌いだ訳です。
何故その旨に触れなかったのというは、質問の意図から若干逸れた内容
になってしまうのではという思いと、スペースの都合上。

まず元亀3年の出兵は、一度の遠征で動員可能な最大兵力で挑んだ且つ北条側からの
援軍2千を加えた2万5千人。これは総力戦だと考えて間違いないでしょう。

それから版図拡大の攻略方面が北か南かといえば(上洛云々を抜きとして考えて下さい)
南の徳川版図(三河・遠江)だという事に関してはこれは必然ですよね。
今川家弱体に伴い徳川は遠江、武田は駿河と領土拡大して、まだそれ程年月が経っていない段階。
在地の豪族勢力にとって政情がまだまだ不安定な状態ですから、状況次第でどちらにでも靡く可能性は十分あります。

織田軍に対しても直接対決する予定だったのかといえば、軍を3隊に分散してその一つ
秋山軍が完全に織田版図であった美濃岩村城を攻略して落城、これが今作戦の口火を切った初っ端の戦です。
故に、これは確実に当初からの予定通りの行動だったと考えられますから、その意思は十分あったでしょう。

最後に上洛に付いての考えですが他の方も書かれていますが、軍勢の多くは農民であり
夏前には帰還しないと、自国の農作業労働力が不足する事態に陥ります。
ですから翌年の春帰還に付いては信玄が亡くなる亡くならない関係無しに決められていた
当初からの規定路線であり、タイムスケジュール通りだったと思います。

中立的な立場というのは、同盟関係を結んだ遠国の大名・将軍家・一向宗・仏教勢力の諸々の反信長勢力の
行動が100%巧く機能したら、状況次第で京都まで行こうとの戦略が、実際に出兵前ににあったかどうかが
今現在わたしの頭の中で明確に結論付けられないという事です。
半年で京都まで行き、また引き返すのは無謀な事だとは簡単に言えますが、当時の情勢全てが武田側の望む
方向に転んでいたら、決して不可能な事ではなかったのではと思う訳です。
兵站については、それは上洛という大儀名分がありさえすれば、いざとなれば現地調達(略奪)でも何でもするでしょう。
後々の自分達に及ぶであろう損得で指し図ったら、千載一遇の機会に置いて地元領民の感情などは
二の次になる筈です。

わたし達が語る歴史というのは、あくまで事象が起こり変遷した結果論であり
その結果(事実)に残された史料・遺構・遺物を加味して想像する範囲内のものでしかありません。
その時その場の評定で、何が語られていたのかは本当の所分からない部分が多々あるでしょうし
その時代でしか感じる事の出来ない空気感・勢いといったものは、後の結果を知っている者の後付けで
いくらでも想像や歪曲出来るものだと思います。事実は真実とは大いに異なります。

当初の出兵の戦果最低ラインは、徳川版図の遠江三河両国を完全に武田勢力化に置く事であり
実際の歴史(事実)としましては、徳川圏各支城の予想以上の抵抗(篭城等)で、月日を多く割いてしまった
三河国止まりの時間切れの帰還であったので、信玄の死という想定外の事を差し引いたとしても
どちらかと言えば失敗だったのではとの個人的感があります。
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この回答へのお礼

興味深い回答を再びありがとうございます。

「>兵站については、それは上洛という大儀名分がありさえすれば、いざとなれば現地調達(略奪)でも何でもするでしょう」

↑ここなんですけど、信長は地元民を敵に回すようなことはあまりせずに、勢力を広げていってるのは
信玄も知っていたのではないかと。とすると、兵站を考えても、今の自分に京まで攻め上る力はない、と
結論付けてたのかなあと思いました。

「>半年で京都まで行き、また引き返すのは無謀な事だとは簡単に言えますが、当時の情勢全てが武田側の望む方向に転んでいたら、決して不可能な事ではなかったのではと思う訳です。」

しかし、↑のような状況も可能性はあったと思います。でもそうなったら、結局、京にとどまり続ける力を持たない武田家は自滅したのかなあという気もしますね~。

皆さんの回答を拝見していたら、やはり信玄はまずは三河、または遠江までを
自己の勢力化におけることができれば充分だったのかなと思いました。

そのためには、謙信を短期間だけでも動けなくしておけばよく、それを可能とするだけの外交力は信玄には充分あったと。とすれば、信玄から頭を下げて謙信に同盟を結ぼうとして、北信濃を豪族達に返還せよなどという要求を突きつけられることも考えられる状況であれば、北条や本願寺を動かす方を選びますよね。

皆さんの深い考察には感服しました。自分も戦国時代好きですので、島津家や北条家、浅井家などの
疑問がまだたくさんあり、煮詰まったらまたこちらで質問させていただこうと思います。
皆さん、どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/03 00:19

まず、単純に考えても 缶詰もないしね 


何百Kmもね(西上)、時期(季節)を考えたって
大勢で行くはずも行けるはずもない。
熊本の八連隊(これ昭和、負け知らずのまま南方で武装解除を受けた)
じゃあるまいし、兵站が伸びきって
おちおち、前を歩いてられないでしょう。

駿河、遠江の制圧が第一の目標、この完遂こそが
織田を袋のネズミにする戦略でしょう。
美濃口は後日のたれ歩ですよ。

連携国との段取りが蜜なはずはないし、大きな期待はお互いしてないでしょう。
遠巻きのけん制が確認事項だったとおもいます。

又、対越後策として、南の越中は本願寺と連携して上杉を刺激させ、
信濃口の海津城には春日山を睨ませ、
氏康の死後の息子には関東上野より越後侵入を臭わせる。
兵の数ではなく、三方向のいやらしさで、上杉にはったりを かます。
他国への出兵は360度、24時間議論の末のことでしょう。
謙信の動き、逐一の体制は想定内。
長期戦では極力直接対決を避け、死ぬ待つ つもりだったはず。

又、対徳川には  
どんな大名でも、いきなり いきますよなんてできないものですから、
事前に敵国の諜略は当たり前のシステム。
諜略は仕掛ける方も仕掛けられるほうも自明のことですが
時の勢い、力の強弱できまるもの

何年も前から、圧力をかけて屈服してくるものを増やして
実が頃合となって、仕掛ける。もっとも出血のすくない方法の採用が
戦国の常套ですよね

ですから、家康は岡崎には 下がれなかった 浜松でがんばることで
しか方法がなかった、下がったら味方の離反は大きく、完全に徳川は
消滅したのではないですかね


桶狭間の義元が、行ける筈も行くはずもない
(西三河尾張国境紛争戦)第一目標は西三河の制圧。
京に進攻、旗を立てるなんて考えもなかったのと同じ


切れば血が出ることは、今も昔も変わらない
ひとつの国はそうは簡単に侵略できないもの
上杉があろうがなろうが、
それに、越後は南北に長く東西に短い、守るのは大変。
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この回答へのお礼

>越後は南北に長く東西に短い、守るのは大変。

確かに。後に景勝も織田軍に複数の方向から攻めらそうに
なってましたね。越後は北が海だから攻められることがないので
有利と思い込んでましたが、そうでもないようですね。
とすると、謙信の動きを封じるのは、信玄の外交力で本願寺家や
北条家を動かせば意外にたやすいことだったのかもしれませんね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/03 00:04

徳川、織田をことごとくせん滅して上洛すると言う『すごく強い信玄物語』が間違いの始まりだと


僕は考えています。

実際はそんな構想ではなかったのだと思いますよ。
あの時期の信長はすでにせん滅できるような規模ではありません。
織田を倒せるなら北条でも上杉でも簡単に倒せます。

徳川を攻める→徳川の豪族を寝返らせる→あわよくば徳川をつぶす又は徳川を吸収する。
無理だったとしても大きく弱体化させる。→甲斐に引き上げる→再び軍を編成→寝返った豪族も行動に移す→徳川は動けない→信濃から美濃に攻め込む。

となってからの織田包囲網だったのではないかと。。。。
信玄の闘い方のほとんどが攻め込んで武威を示してから豪族を寝返らせて、迂闊に決戦はせず
領地を取るやり方です。なので西上作戦の時だけ敵中に切り込みながら進むような事はしないと思います。

上記の様に考えれば、上杉に対しても少数ですが防衛部隊を北信濃に配置しているのと一向宗徒で動けなくしているので、もし上杉が攻め込む格好を見せれば引き返せば対応できます。

でももしかしたら、現代と違い当時の人は正確に日本の大きさが分かりませんし、
俯瞰的なイメージで絶対見れないので金山などの収入があるとはいえ100万石そこそこの領地規模で
勝てる訳が無いと言う事が分かっていなかったのかもしれませんね。
東京のど真ん中に1人立たされ、北海道の真ん中に1人立たされて『どっちが広いですか?』て
聞かれても知識が無ければ見た目で判断できないですから。

信玄は自信があったのかもしれませんが、現代人ほどに信玄を過大評価はしていなかったと
思いますよ。
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この回答へのお礼

>あの時期の信長はすでにせん滅できるような規模ではありません。

↑ここなんですが、いろんな考え方がありますけど、武田家だけでは
信長を倒すのは難しかったと思うのですが、信長包囲網がもう少し
うまく機能すれば(特に朝倉家)信長を倒すことは可能だったのかなあと
思います。その後の日本にとってプラスになったかどうかは別としてですが…。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/02 23:45

<参考>


 徳川家が、のちに長期政権を持つことになるので、徳川家の統治継続に不利となる多くの情報が失われたと思っています。

 その前提で考えると、信玄の西上作戦の不可解さ・侵攻コースや戦いの時間の掛け方などについて、いくつか現在一般に言われている説以外の可能性が見えてきます。

 具体的に言うと・・・
・進軍に際して、信玄から徳川家康に対して、相当多種多様な寝返り勧誘が行われたのではないかということ。この裏切り勧誘の記録が江戸時代に消滅し、織田への忠誠という徳川家康の篤実さ強調するような形になったのではないかと推測しています。
・優勢な武田軍の戦い方が、常に徳川軍の出方を窺うような、微妙な軍の動きを繰り返しており、三方が原の戦いでは、両軍の対峙が続き、軍が動き始めたのは夕方近くになってからであったことなど、徳川軍を殲滅する意思があまり感じられず、武田の強さを誇示するための戦いを繰り返しているように思えるのです。

 西上作戦は、二本立てで
1、徳川家康が寝返った場合、織田軍VS徳川・武田軍でこれは十分な勝機があり、京都までを目標とする。
2、徳川家康が寝返らない場合、徳川の領地を削減し弱体化を図り、次の機会を待つ。

 冷静に見て、武田は織田家以下の兵力で、他の反織田勢力が自分に都合よく織田の軍勢を釘付けにしてくれるなどという甘い考えで、兵站の長い京都への侵攻作戦を行う可能性は極めて低いと思います。
(食料の現地調達は、治安の悪化を招き易く、得策ではありません。)
 徳川家という味方を得れば、織田家の弱体化と兵站確保の両立が可能で、西上作戦の現実味が生まれます。
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この回答へのお礼

西上作戦は徳川家を味方にするか、徳川家の力を削ぐか…。

なるほど、それなら謙信を越中に釘付けにするのは比較的短期間でも
構いませんよね。
信玄がそのまま京を目指すという従来の固定観念にとらわれていては
いけなかったようです。

勉強になります。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/02 23:35

2です



どの国どの時代にでも言える事でしょうが、総力戦と称し主力大軍を率いた出陣・遠征の場合でも
防衛の押さえとして各拠点に留守居役の守備部隊は、程度の差こそあれ残留させるものです。
ましてや隣国(同盟国でさえ)との国境に配置された支城だったら、尚更の事でしょうね。

信玄の一向衆扇動作戦が巧く機能し、謙信は鎮圧に向け越中出陣。
更には越後領内に武田勢が侵攻するという(おそらく)嘘の情報を流し
謙信の出方を伺い、それでも越後への引き返しがないという事を十分確認してからの行動。

三河・遠江侵攻作戦のタイミング、まさに時は今といった感じではなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>信玄の一向衆扇動作戦が巧く機能し、謙信は鎮圧に向け越中出陣。
更には越後領内に武田勢が侵攻するという(おそらく)嘘の情報を流し
謙信の出方を伺い、それでも越後への引き返しがないという事を十分確認してからの行動。

信玄としては、北方には万全の体制を敷いてからの西上作戦だったのですね。
しかし、逆に考えると、信玄は謙信との同盟を結ぶことは考えなかったということでしょうか。
…信玄もそれが無理だから一向宗で謙信を釘付けにするやり方を選んだのでしょうね。

再びのご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/01 22:08

西上した頃、織田は本願寺の伊勢長島や、浅井・朝倉とも対峙中な上、京都では足利義昭が挙兵する始末だった。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/02 23:29

考えてもみてください。

当時は弱肉強食の戦国時代です。もし信玄が謙信と同盟を結び(そのこと自体が共産党と公明党が連立を組むくらいありえない話ですが)、そして高坂弾正を西上作戦に率いてその隙に謙信が裏切って武田領に攻め込んできたらどうでしょうか?これがゲームなら「同盟している相手には攻められない」とルールができますが、現実社会は何でもありです。
謙信公もバカじゃありません。目の前ががら空きだったら容赦なく切り取ります。そういう時代です。

仮に高坂弾正を連れてきたとしても、その数は千人程度増えるくらいではないでしょうか。さほど大勢に影響を与えるほどでもなかったでしょう。文字通り根こそぎ動員すればもっと大軍になったでしょうが、もしそんなことをしたら謙信どころか北条軍も武田領に攻めてきますよ。

信玄の西上作戦は、戦略家信玄の白眉ともいえるものであったと思います。謙信に対しては越中で一揆を扇動して牽制しています。美濃へは別働隊が侵攻し織田軍に対して中仙道からの逆侵攻を防いでいます。北からは浅井・朝倉軍が琵琶湖北方に展開し、織田軍主力はこれに対するために動けなくなりました。
大阪では三好三人衆と一向一揆が活発化し京都への信長の支配力は不安定になります。大和では松永久秀が裏切りました。これらへの対応で信長は家康に対し有効な救援が全く行えなくなりました。
そのため家康は百戦錬磨の武田信玄にほぼ単独で対応しなければなりませんでした。しかもその侵攻ルートは東西に長い家康領の中央を分断するもので、家康は岡崎に撤退するか浜松に留まるか難しい選択を迫られ、結局浜松に留まり三方ヶ原の合戦で生涯最大の敗北を受けます。三方ヶ原で家康が戦死しなかったのはひとえに彼の野戦指揮能力が信玄や謙信に匹敵する超一流のものであったことと、徳川兵もまた武田兵に匹敵する精強な軍隊であったためです。
あれ以上の作戦は、信玄をもってしてもそう滅多に行えるものではなかったと思います。ただ、かくいう武田軍も半農半兵であったので長期作戦は行えず、適当なところで撤退せざるを得なかったと思います。上洛ができたかどうかは微妙だったでしょうね。仮に上洛できたとしてもそれは極めて一時的なもので、政治的に影響を与えることは不可能であったと思いますよ。
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この回答へのお礼

たしかに…。謙信と仮に同盟を結べて、高坂弾正を西上に連れて行ったとしても、
裏切って攻め込まれたらどうしようもありませんよね。ただ、謙信は一度結んだ同盟を
破らないのではという思いもあるのですが…。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/01 22:02

謙信が一向宗徒勢鎮圧の為、越中に向け春日山を発ったのが元亀三年八月。



信玄が大軍を率い甲府を発ったのが同年十月。

なので謙信の動向を、十分に確認した上でのタイミングを見計らった出陣、
完全に後顧の憂いを絶っていた状態だったと思いますよ。

越後勢南下の押さえとして海津城には高坂昌信が依然駐留していましたし
逆に同年九月には、越中出陣中の謙信の耳に、武田軍が春日山へ侵攻する
という報が飛び込んできて(これも信玄の霍乱作戦でしょう)
春日山城警備強固を厳命していたくらいです。

実際、謙信が一揆勢を鎮圧し春日山城に完全帰還出来たのが翌年四月の事です。
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この回答へのお礼

謙信が越中に出陣したのを確認してから信玄は動いたのですね。

ただ、押さえとして高坂昌信を駐留させていたというのがもったいないなと
思うのです。

信玄ほどの軍略家なら謙信と表面的にでも同盟を結んで、高坂昌信も西上作戦に
同行させられたのではないかと思うのです。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/30 22:40

西上作戦開始時期を見てください。

9月です。

冬の間は上杉家は軍を出すことができず、春先は田植えの時期なのでこれまた軍を出すことが難しい状況です(例えば川中島の戦いも第一次から第五次まで4月から8月に出兵しています)。したがって、上杉家が甲信地方に侵入するまでに、少なく見積もって8か月近い時間があります。

その間で三河(可能であれば尾張まで)に勢力を伸ばし、徳川家を駆逐するというのが基本戦略でしょう。
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この回答へのお礼

なるほど。正常作戦開始時は上杉家は動けない時期だったのですね。
それを見越して信玄は正常を開始したわけですか。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/30 22:36

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もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
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この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
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この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
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だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
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家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
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もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
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この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

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Qもし武田信玄が長生きしたら・・・

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皆殺し、人質を売ったり等…
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皆さんの予想をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しな...続きを読む

Q徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。
5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。
なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか?
血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。
徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

Aベストアンサー

綱吉には徳松と言う子がいました。当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
水戸光圀の反対を押し切り徳松を江戸城に入れたものの、徳松は5歳で死去してしまいます。
順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
当時、綱吉の母(桂昌院)と兄・綱重の母(順性院)は反目していて、綱吉は綱重の子である綱豊が将軍になるのは避けたかったと言うのと、
綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
綱吉の血筋が絶えてしまった事から綱教が将軍世子になる根拠がなくなり、綱豊が綱吉の世子となり家宣と名を改め6代将軍となりました。

Q武田信玄

中2です。
冬休みの宿題で人物調べというものがあります。
僕は武田信玄を調べることになりましたが、
武田信玄のことをそんなに知りません。
教えてください。

Aベストアンサー

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した。
http://blog.livedoor.jp/steere0112/archives/50884237.html

兵庫県姫路市で2001年12月、車上狙いの車を止めようとした大阪府柏原市の会社員、
伊藤裕一さん=当時(26)=がひき逃げされ死亡した事件で、同県警捜査一課と姫路署は29日、
強盗殺人容疑で車を運転していた大阪府八尾市、無職、武田晴信容疑者(31)を逮捕した。

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した...続きを読む

Q越後守護上杉家と長尾為景・影虎と関東管領上杉憲政の関係

 越後守護上杉家は、長尾為景によって国を奪われ、
その後、関東管領である上杉憲政は長尾影虎から関東管領職と上杉姓を引き継いだと認識しています。

 越後守護上杉家と関東管領上杉憲政は、遠い親戚にあるのだと思いますが、
なぜ関東管領上杉憲政は、越後を一族から奪った長尾を頼ったのでしょうか?

Aベストアンサー

北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。

当初、上杉憲政は佐竹氏を頼り、上杉の名と関東管領職を渡し保護を受けようとしました。
かつて佐竹氏の第12代の当主をつとめた佐竹義人は山内上杉家から婿養子に入った人であり、佐竹氏も上杉憲政と血縁関係にありました。
しかし、当時の第17代当主、佐竹義昭は源氏の家名である佐竹の名を自分の代で終わらせるわけにはいかないと断ります。

そこで上杉憲政が次に頼ったのが長尾影虎でした。
長尾影虎も上杉の血をひいています。

上杉家の始祖は上杉重房であり、その息子は上杉頼重と言い、彼には三人の息子がいました。
その頼重の息子の一人、藤明が長尾家に養子に入り、その子孫が長尾為景や長尾影虎となります。
また頼重の息子の一人、憲房の子の憲顕が山内上杉家の始祖となり、その子孫が上杉憲政となります。

つまり、上杉憲政と長尾影虎は血筋を辿っていくと、どちらも上杉家始祖の上杉重房に辿り着く血縁関係にあり、全く無縁な関係というわけではありません。

そもそも戦国時代ですから、血縁関係があっても、その時々の状況によって戦ったり味方になったりするのが当たり前の時代です。
同じ上杉の扇谷上杉家と山内上杉家は時には戦ったり、時には味方になって一緒に北条氏と戦ったりしています。こういう事は別に珍しい事ではありません。
長尾氏が越後の実権を上杉家から奪ったからと言って、味方にできないというものでもありません。
武将は自らが生き残るために、敵、味方を変えていくものです。
この時は上杉憲政の置かれた状況が、たまたま長尾影虎を頼らせたのでしょう。

北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。

当初、上杉憲政は佐竹氏を頼り、上杉の名と関東管領職を渡し保護を受けようとしました。
かつて佐竹氏の第12代の当主をつとめた佐竹義人は山内上杉家から婿養子に入った人であり、佐竹氏も上杉憲政と血縁関係にありました。
しかし、当時の第17代当主、佐竹義昭は源氏の家名である佐竹の名を自分の代で終わらせるわけにはいかないと断ります。

そこで上杉憲政が次に頼ったのが長尾影虎でした。
長尾影虎も上杉の血をひいています。

上杉家の始祖...続きを読む

Q武田信玄の家来 先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました 諏訪と言う名字です 家紋は諏訪神社下社と

武田信玄の家来
先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました
諏訪と言う名字です
家紋は諏訪神社下社と同じで諏訪梶の葉です
本当に武田信玄の家来でしょうか
わかる方教えて下さい

Aベストアンサー

その情報で断定は出来ないんじゃないでしょうか。

せめて家系図無いんでしょうか?
諏訪を名乗れるということは、諏訪氏一族でも本家に近いはずですから、
家系図ぐらいはあるはずです。

それも無いのなら、話半分くらいで聞いておくのが一番良いんだろうと思います(笑)。

Q上杉謙信とか上杉家とかを

なんだか義に生きて義に死んだみたいにすごく美化してますけど、
誰が何のために上杉家を美化し始めたんですか。
実際のところ上杉軍って、攻め込んだ先で百姓とかぶち殺しまくったり、
女を犯しまくったり、すごく恐れられていたと聞きました。
上杉謙信に至っては、ただの戦好き。
今で言うところのブッシュ元大統領みたいなものだと言うことですよ。
いったい誰が何のために、
上杉家を義に生きる集団みたいな情報操作をしたんですかね。

Aベストアンサー

>誰が何のために上杉家を美化し始めたんですか。


根拠はありませんが、
江戸時代のそれも元禄時代あたりからではないでしょうか。

日本人には判官びいきというのがあって、
強者、権力者へのあてこすりや批判に
それに対抗するものを作りたがるからです。

権力が不安定な時代であれば弾圧されますが、
安定してくると、それも一つの読み物、娯楽として
庶民の不平不満のガス抜きとして認められます。

家康がたぬきおやじで、真田幸村や直江兼継が
反権力のヒーローみたいに特徴づけられるわけです。

たぶん、講談や辻講釈の一節として定着していったのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E8%AB%87


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