No.35ベストアンサー
- 回答日時:
#32です。
>人間の心理的な部分と哲学的部分或いは生物学的部分が混ざってしまっているように感じるのですがどうでしょう。
:私としてはまさにそれを目指しているのですが、だめでしょうか。^^;
模索途上なのでなんとも確信はありませんが、一応期待をしているところです。
心理的な(自我による)攻撃性というのは、おっしゃるようにまさしく自己防衛の裏返しなのですが、なぜ防衛の必要性があるかと言うと、その根源に怖れがあるからではないでしょうか。
根源に怖れがあるために他者(自分自身の場合もありますが)への攻撃として現れるということですが、その怖れというのは本人しかわからないものでしょうが、本質的には自己保存に関する怖れ、あるいはアイデンティティ喪失の不安と捉えることができるでしょう。
前者は生物学的怖れでしょうし、後者は哲学的怖れと言えるわけで、それが心理と連動していたことになります。
心理面で攻撃として現れるものは、生物の基本である本能(エス)的には「破壊」、動物から人間への移行条件として付与された超自我的には「知力」、そして原理的(物理的)には「安定」という分類が可能です。
心理・哲学・生物(脳科学)の要素は必然的に私たちが包含しているもので、あるひとつの面に現出してくるものは必ず他の側面と連動的に作用している、と考えるのが合理的であろう、と思います。
因みに、これらは、それぞれ友愛、愛情、慈愛、保存という性向に対応しており、そのときの生命力次第で様々な現れ方をするにすぎません。
知力ー超自我ー慈愛
攻撃ー自 我ー友愛
破壊ーエ スー愛情
安定ー物 理ー保存
このように図にしてみるとわかりやすいのですが、攻撃的な自我状態は、知力としての超自我を発揮し、エス的には破壊を希求している傾向があります。
その心は、「安定」です。
心身は全て拮抗(バランス)することによって保たれているわけですが、一例として、攻撃的な人というのは、その拮抗を保つだけの生命力が弱っているために、「保存」するエネルギーが枯渇に近い様相を示していることが伺えるわけです。
成型された茶碗が粉々になることによって安定した元素の状態になりたいと望んでいるような状態です。
いわゆるタナトス(死の欲望)に自我が乗っ取られている状態ですが、こういったことが分析により明らかになることによって、そういった攻撃的な人間を新たな視点で見ることができるでしょう。
こういった視点の転換が納得につながる場合は多いのではないか、と考えます。
ただ、この納得には普遍性を持たせなければ意味がありません。
そのためには事実を事実として認識していく以外にないわけで、総合的なアプローチが必要かな・・・、と思っているところです。
シフトさんの斬新な提議に釣られて色々述べてきましたが、今回のご質問に対して自分の感想を端的にまとめるとすれば、
自我による拮抗作業の放棄は、拮抗させられるべき本能と超自我もまとめて放棄することになるのではないだろうか、ということになりそうです。
その状態に耐えられるのであれば普遍的納得を得ることになるでしょうが、それが可能なようには思われません。
むろん、可能であるならば、それを否定する必要性は全くないわけですが。
後もうひとつ、「排他(否定)の本質」が厳然として人間(というか生命あるもの)には備わっている、という現実を無視するのは仮象としての納得しか得られないのではないだろうか、という懸念ですかね。
そういった事実は事実として認めた上で、それをいかに昇華させて(=別のエネルギーに転換して)いくのか、ということを課題としていきたいわけです。
言ったわりに端的にはまとまっていないようですが、こんなところでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
まあ私もその事に気付いた(気付かされたというのが本当)のはほんの数週間前ですからそれが人の生に対してどのような作用を及ぼすのかは自分自身を使って確かめてみたいと思います。
私的には哲学から卒業となりましたので、今後あまりここで投稿する機会もないとは思いますが、また機会がありましたらよろしくお願いいたします。
No.34
- 回答日時:
ANo.33ありがとう、shift-2007 さん。
仰せの事は正に素晴らしい、高いものです。利己の解消というか編みなおしはどんな鋭敏な方でも一気呵成は無理ではないでしょうか。長い道程の辿り道行は仕方ないですね。でも私たちやそういう気持ちの生き方や、いわゆる仰せの神の設計図に関する聖なる先達さんたちの成果を勉強するほか、一定の手法、技法、行法(真言密教では日本語でぎょうぼうと読む)が伝わっています。
私みたいな虚弱な意志薄弱者も、このお陰で助かっています。つまり心がけと生き方だけではない楽でやさしく、しかも早く進むことができています。もともと低い段階からの私ですが。
ご質問仰せの記憶参照ですが、私たちは経験世界の記憶参照と自己の由って来たところの根源界の記憶参照と両方あります。
後者は所謂る五感や知覚、判断や行為の結果や内容ではないので、あくまで自己同一観という経験の積み重ねとなります。
でもこれが知覚世界の経験結果・内容の記憶参照の根底、主格性となっていると痛感します。
知覚世界、創造されている人間の意識界は何処まで無限に広がろうと、歩もうと、それは有限界ですよね。
無限界はその根底にあって、人間の意識、人間存在以前の界ですね。無限界のほんの表面の針の先の面積しかないですね。
ここに記憶参照していくことは、時として取り留めなくなり、自己性を失っていく契機ともなりますね。
そしてここに重点を置くのが多くの人のあり方ですが、aggressive(上善ではない、hhmble、そしてunassuming出なく為りますね。帝尭陶唐氏の鼓腹撃壌は期待できませんね。湖人の白鳥入蘆花や禅の白馬でもなく為りますね)となり、野心と征服欲の活動に繋がりますね。取り留めなく限りなく(無限ではなく、Infinite (原初不飾者)ではなく)いつまでも求め、小さな孤島をぐるぐる廻る亀さんってことになります。(何か無限の質問であがっていて、どなたかのご回答の亀さんです)
こういうのを無限と区別してfractalとかDrosteとか私は呼称していますが。
ここの界は自己性喪失でしょうね。記憶参照はあまりいいことでもありません。水簾洞の孫悟空が手下と、成果を前に得意に充足している状況と地続きです。
やはり人たれば、価値性を追究するものだと存じます。それはこの世界へ迷い込んだ途を逆昇るという生き方になる。というのが私たち、Self-Realization Fellowshipです。
キリスト教文化圏用のヨガ思想ですが、私は仏教と老荘、儒教をかじった後、このラージャのヨガの価値を見ることができたかのかなぁと存じます。
一応、西洋のではマルクスやエンゲルスは中学の先生に純粋培養されました。法学専攻でカントとラートブルッフに原文と訳文で過ごしました。
西洋の方の中では後者のお二人は、今も何かと勉強参照をしております。
仏教のことは禅宗の行以外は、インドの哲学に全部ありました。浄土宗も真言宗も。
やはりインドはよく言われますが、地球界の根っこか幹のような感じです。はい哲理のことでは。
地上の知覚世界はやはり、重要視しません。記憶参照は、孫悟空の酒盛りに為りそうです。
むしろ其処に生きながら、価値性の追求が必要だと痛感しております。
お相手くださりありがとう御座いました。ともに歩めれがこれに過ぎた喜びはありません。
ご回答ありがとうございます。
まあそんなわけで哲学を無事卒業となりました。
私のここでの投稿も減るだろうと思いますがまた機会がありましたらよろしくお願いします。
No.33
- 回答日時:
みなさんの精緻なる演繹哲学からは、それは学でも論でもないといわれると存じますが、一応ご参考に供したいと思い、私たちの考えるところを書き記します。
多重人格や自己人格の記憶喪失とは(そして輪廻転生も)、自己意識継続の要素要件としての人格経験記憶の断絶か、想起の回避だと定義すると、shift-2007さんの質問文の記憶参照の障害に過ぎませんね。
記憶参照をする正体存在者は何者か、ということを私のこのフレーズに持ち込むことが許されれば、記憶参照を拒否し、の障害を起しての所在場所は一なる意識の、個々的存在たる意識の惑いに誘い込まれた末端的経験意識だということも可能なのでしょうね。
しかし記憶参照を拒否し、回避する末端の迷妄的経験意識の存在基盤となっている意識には、その迷妄意識経験意識の同一性、根拠性は存在している。他者による認識もさることながら、だからこそ多重人格とか記憶喪失などという概念当て嵌めが存立しうる。
その場合、かの迷妄意識の経験記憶は、自己想起や自己確認の補強になるが、同一性と根拠性の必須的要件、要素、或いは基盤だとすることは、末端意識の範囲内でうろちょろしている存在の憶測的思い過ごしであろうかと存じます。
つまり、末端として出てきているこの意識が、出てきている基盤意識にこそ、その同一性の認識と根拠性はあるということです。
このような論は、多分皆様のあまり相手になさらない事柄と考えてはおりますが、皆様のご回答や質問者のやりとりを拝読すると、こういう次元に立ち入ることなくして、つまり思いを差し向けることなくして、何らかの結論を得る事はないと存じます。
皆さんから観れば、私たちのこの普遍者や輪廻転生というなんら証明のつかないことを前提とする話は問題外でしょうが、皆様のやりとりは私たちから見ると、いろんな卓見が含まれて居ますが、論理での手探りのように感じてきます。
記憶の検証は経験の検証や参照ではなく、根底への逆昇りによって為されているのであり、その拒否と回避が自己の同一性の欠如ともなるのであるという、のが私たちの態度です。構えです。
遡りといってもいいのですが、私たちの同一性の確認とはそういう作業が滞りなく行われている状態であると存じます。
私たちとはその遡りの起点に、基点にある意識をいうのだと存じます。
その基点や起点への自己参照をしないのが多くの人であり、shift-2007 さんのいう経験記憶の参照の拒否が二重人格や記憶回避の記憶喪失だと存じます。
それを起点や基点を意識できないままに(拒否したままに)経験を重ねているのが、殆どの私たちではなかろうかと申し上げたら、ここにご登場の皆様はこれを宗教だとか、独断だとか仰せになることは予想ができます。
同一性根拠性は見た目は経験記憶の参照ですが、作業の本質は起点と基点の参照であり、それを補強しているのが(物的証拠を見せ付けているのが)、経験の想起と参照である。というのが私たちの思いです。
単に脳みその機能としての、科学的物理的反応の経過や結果であるにすぎないことが自己の個別性や同一性ではない、ということになります。
そんなものがなくても、自己は自己。個別は個別。個別為るが故に普遍、普遍であるが故に個別に存在しているというということです。
なお、植物も音楽や人の感情を受けています。そして自然界も自然界の何物も何でもが。
ないものが突然に人間に出る事はありえない。これは論証や物証は私にはできません。
私の経験であり、見聞でしかありません。
無論、形状や内容の伝達メディアはもとより私たちの、この言葉の意味概念ではないのですが。
擬人観念やアニミズムとも違います。これは私は経験の陳述しかできません。
キリスト教やバイブルは抵抗があるのですが、自然界はエデンだと存じます。
存在者が直接に経験し、観念し、思考しており思索している。
私たちが生物的、諸々の機構的仕組みを持っていますが、自然界とその存在たちは存在者がそのことを直接にしています。
かれらはエデンの存在です。主格は存在者とその彼ら達です。という経験・見聞です。
shift-2007 さんやご登場の皆様は、議論にもならない、神話だと仰せかもしれません。ご批判は覚悟しております。弁解できる事があれば、弁解します。
shift-2007 さんは、私みたいな遺物、異物をやさしくご対応してくれました。しかし世間様はそうはいかないでしょうね。
以上、最初にお断りしたように真摯なお話を展開されている皆様へのご参考であり、皆様の論理展開の基盤や前提していることと対照されるならば嬉しいと存じます。
そういう意味からの稿です。ありがとう御座いました
ご回答ありがとうございます。
私は自分を救いたいという気持ちが非常に強いのです。私はそういう意味で非常に利己的です。
そのための哲学だったわけですが、哲学的なアプローチでは私を救えないことが分かりました。
神の設計図を見たところで、私の苦悩がやむことは無いという事を悟ったわけです。
これは別にkrya1998さんを含め他の人の意志や行為を否定しているわけではありません。
目的と手段がほかの人とは違うというだけの事です。
あらゆる哲学や宗教は方便という意味では間違ってはいないと思います。
無限にある視点の一つであろうと思います。
しかし、私自身が真理となったのならもう方便は必要ないですね。
No.32
- 回答日時:
#29,#30です。
>同じように死についても死についてのイメージ、知識、経験を通して死を見てしまうのです。
:この点に関しては同意できます。
ただ、リンゴにしても死にしても、実体を認識できないからといって、そのもの自体が存在しない、というわけではないのが悩ましいところです。
>(自我を通さずに死を見る場合)そこには恐怖がなくただ事実と直面しているだけなのです。
これは特別なことではありません。我を忘れる瞬間は誰にでもあるはずです。その時恐怖が存在しないということはご理解できるのではないでしょうか。
:「恐怖がなくただ事実と直面しているだけ」という感覚は理解できると思います。
この場合、おっしゃるとおり、アイデンティティの出番は全くありませんね。
しかし、自我を通さずに見るという作業が(死などの)恐怖に対する場合だけ適用されるわけではないはずで、それが果たして可能なのか、というより、そもそも、そうすべきなのでしょうか。
「>不安や恐怖が無いという事は世界の本当の姿を見ることが出来る」という点に異議はありませんが、自我を通さずに見ることによってそれが果たされるだろうか、ということです。
>これは鍛えられた自我には無理です。年をとるにつれて人が頑なになっていくのをこの超高齢化社会では良く見るじゃありませんか。
:「我を張る」などとよく言いますが、これは自我が強いことにはならないと思われます。
自我が硬いとでも表現しましょうか。中身の脆さ、不安定さを覆い隠すために外側が硬くなければならないのでしょう。
自我というのはバランス機能、あるいはバランスをとった結果として現れてくる個人の顔で、鍛えられた強靭な自我の本来意味するところは、適応性でしょうか。
免震機能と考えることもできるでしょう。
「>本当の世界を見ているのは知識や経験に汚染されていない子供たちのほう」
とおっしゃるのには全く同感ですが、かといって知識や経験が不要ということにはできないのが悩ましさです。
>結局、私を否定しているのは私ではないでしょうか。
:全くおっしゃるとおりで、認識の問題です。
たとえ(他者が)否定したつもりでも、「私は否定されているわけではない」と思えるような納得を分析から導きだせるのではないか、という期待です。
「>他人が私を否定したところで利害関係が無ければ気にもしません」とのことですが、このサイトなどを見れば明らかなように、そうとばかりは言えず、むしろそこに大きな要因があるように私は考えるわけです。
利害関係が無くとも、他者からの否定が自己の否定につながってしまう(と思い込んでいる)ため悩んでいる方は多いのではないでしょうか。
つまり、他者の世界を自分の世界とする必要がなぜあるのだろうか、という問題提起のしかたになるわけですが、この場合の否定とはアイデンティティの否定ということになるでしょう。
だからアイデンティティなど無いと思えばよいのだ、という発想ではなく、否定(排他)のメカニズムを分析することによって、納得が得られるのではないか、ということです。
>幸、不幸という観念から自由になればこのような回答をすることも可能ではないでしょうか。
:「私は自分が幸福かどうか考えたことがありません」というのも悪くはありませんが、
「他の方にはどう見えるかわかりませんが、私なりに幸福だと感じています」と回答できるほうがベターではないでしょうかね。
>結局、自我は自分の作り出した世界を恐れているのではないでしょうか。
:結果論としてはそうでしょうね。
ただ、そういった世界を歩まざるを得ない人間の性として自我という調節機能が必要だった、という捉え方を私はむしろ、しています。
>なので私はこの人類の苦悩の歴史に終止符を打ちたいわけです
:どうも平行線を辿りそうですが、この点だけは一致していそうですね。
他に哲学的思考の意味・意義は存在しないでしょう。
>そんな[正当な自信の担保につながるような]自我は無いのです。これは幻想です。世界中の人間がそれを求めて宗教、仕事、ボランティア、に夢中になっていますが誰もそれを手に入れることは出来ませんでした。
:自我の捉え方、あるいは発揮の仕方に誤解があった(ある)からです。
「>排他的自我などない」のは確かです。そして、局面によっては排他性=攻撃性を否定することはできません。なぜなら、排他=攻撃というのは生命力の本質でもあるからです。
しかし、それだけではない要素を付与されて存在することになったのが人間であるならば、それを無いものとするのではなく、そのバランスを如何にとっていくべきか、を課題にするのが自然であろうと思う次第です。
自我は「>現実逃避」ではなく、自らを「現象させる手段」と言うべき、と考えます。
ご回答ありがとうございます。
ご回答を読んでいて思ったのですが、人間の心理的な部分と哲学的部分或いは生物学的部分が混ざってしまっているように感じるのですがどうでしょう。
確かに恐怖には生物としての反応もありますが、今取り上げている恐怖は死や失業、世間体に対するものなど心理的な部分ですので、生物学的な回答では問題解決にならないと思います。心理的な攻撃性(裏を返せば自己防御)を生命のそれと同等にしてしまっては人が人間である以上永遠に解決できないままになってしまいます。
哲学的な自我もしかりで、哲学はいわゆる真理を求めるがゆえに数学の様な論理性が前面に出てきます。論理性はもちろん必要ですが私たちの心の中で何が起こっているのかという部分を黙殺しがちです。このままでは哲学は人を救えません。数学は家を作るには必要ですが、人を救うツールにはなりません。
No.31
- 回答日時:
#28です。
精神は人間だけに適用されるものであったと思いますが 最近の類人猿の脳部位の研究によると 例えば 帯状回の活性状態が 観察され 人の精神活動の類推から同様の精神活動がある可能性が示唆されています。程度問題ということになると思います。
脳を持たない植物に 人間と同様の精神活動があるとは聞いたことがありません。精神はないとして問題ないと思います。しかし、生物種の繁殖DNAに基づく細胞の外部刺激に対する反応はあるわけで、将来は植物固有の植物精神(仮りにつけた名前)活動の内容が もっと明らかになると思います。例えば クラッシック音楽を聞かすと ここちよく聞き 結果成長が早い とか という知見が得られるかもしれません。
ご回答ありがとうございます
脳と言っても結局は細胞の集まりです。人間にしか精神が無いというなら精神とは脳細胞の中にあるという事になります。脳細胞とはそんなに神秘的な存在なのかしらと思います。
脳科学が進めば新しい発見もあるかもしれませんが、結局精神は脳にはありませんでしたって事になるかもしれませんね。
No.30
- 回答日時:
#29からの続きです。
◇
>「われ思う故に我あり」例えばこんな説得はどうでしょう。
:神の声に対してへそ曲がりの自我はおそらく次のように答えるでしょう。
「お前は自意識という私が作ったイメージである。お前が存在するかは私しだいである」
→「私しだい」の「私」もアイデンティティを必要とすることになるでしょう。それは、「(現象としてであっても)世界を認識してしまえる能力」を持っているものには、必然的に付随しているもののはずです。そうでなければ認識するという作業自体の正当性が全く失われてしまうはずでしょう。
「観察者としてのお前は経験や知識をもって死を見るが、見ているそれは本当に死か、それとも過去の記憶か」
→「想像上の[私の死]」でしょうね。ただ、実体が認識できないからといって、実体が無いということにはなりませんから、死を恐怖することはむしろ自然です。
しかし、死すべきものとして生まれてきたという事実と、自らの死に他者が関与することは一切できない、という事実を納得すれば恐怖は和らぐのではないでしょうか。
そのためには(排他的という意味ではなく)強靭な自我が求められます。
「私は死を恐れているのか、それとも死に対する経験や知識を恐れているのか」
→示唆されているとおり、後者であることに同意します。
「もし、私がお前を通さずに死を見るなら何が起こるのか」
→何も起こらないと思われます。
しかし、唯一の欠点は、死のみならず万象に対する認識もまた同時に「何も起こらない(起こっていない)」と認識されることになるでしょう。
つまり、「私」はあるようでいて、実は無いということになってしまうはずですから。
「その時恐怖はそんざいするのか」
→存在しないでしょうね。
しかし、唯一の欠点は・・・以下同文。
ご回答ありがとうございます。
なるほど、私もうまく説明できるか自信は無いのですが、
>世界を認識してしまえる能力」を持っているものには、必然的に付随しているもののはずです。
そうなんです。故に「認識」では問題解決は出来ないという事になります。
目の前にあるリンゴをリンゴとして認識するためにはリンゴとは何かを知っている必要があります。
同じように死についても死についてのイメージ、知識、経験を通して死を見てしまうのです。
つまり、死という現実を見ずに記憶や経験を見ているのです。その時恐怖が生まれます。
>死を恐怖することはむしろ自然です
生命体として死を避けようとするのは自然でしょう。
だから例として挙げるなら失業に対する恐怖や幽霊などへの恐怖のほうが分かりやすいかもしれません。
>納得すれば恐怖は和らぐのではないでしょうか
いえいえ、完璧に微塵も恐怖を存在させないためにはどうすればいいかという事です。
前のお礼にも書きましたが、恐怖の対象は無限に存在します。死ぬまでそれと戦い続けるつもりですか?
>何も起こらないと思われます。
実際にやってみたので書いているのですが、そこには恐怖がなくただ事実と直面しているだけなのです。
これは特別なことではありません。我を忘れる瞬間は誰にでもあるはずです。その時恐怖が存在しないということはご理解できるのではないでしょうか。
>(排他的という意味ではなく)強靭な自我が求められます。
排他的でない自我などあるでしょうか。
そもそも自我を作った理由は自己防衛であり現実逃避のためです。
自我という自分で作った檻の中を知識と経験、それによるイメージで飾り立てているのが私たちの正体ではないでしょうか。
>「私」はあるようでいて、実は無いということになってしまうはずですから
ほら、また自我が自分が存在しな状態とはどんなだろうと想像を駆り立て、同時に不安も駆り立てていますよ。
生活の不安を抱えている人が、鳥の声や風の音、初夏の新緑の美しさを見ることが出来るでしょうか。
不安や恐怖が無いという事は世界の本当の姿を見ることが出来るという事です。
これは鍛えられた自我には無理です。年をとるにつれて人が頑なになっていくのをこの超高齢化社会では良く見るじゃありませんか。
本当の世界を見ているのは知識や経験に汚染されていない子供たちのほうではないでしょうか。
No.29
- 回答日時:
#21です。
>分析によって人は恐怖から自由になれるでしょうか。
:分析が直接的にそれをもたらすとは限らないかもしれません。
しかし、きっかけとして大いに有用で、且つ大事なのはそれがないと納得できないのではないか、と思われる点です。
いずれにせよ、分析はあくまでツールのひとつという位置づけです。
まだよく整理していないのですが、怖れの本質は、あらゆる意味合いを含みますが「私は否定されている、という認識」ではないか、という気がします。
大事なのは、そのように「認識すること」が怖れを惹起する、ということです。
ですから、当面の方向性として「私は否定されているわけではない」ということを分析の結果として納得できれば、かなりの程度怖れは解消できるように推測しています。
どのように考えれば(分析すれば)良いのか、という点が難しいところですが、止むを得ないこととはいえ、どうも、「相対的視点(価値観)」に人間は頼り過ぎているように思います。
むろん、「人間」という字の如く基本的には相対的視点というものが、人間には、それこそアプリオリ(先験的)な認識手法として備わっているのでしょうが、これが、自我を終焉に追い込むまではいかなくても、かなり弱らせているように思います。
つまり、「自我の衰退」が元凶である、ということで、この点ではシフトさんとは逆の見方ですね。
自我というと欲得や自己中心の悪役筆頭のように評されることが多いのですが、実際には全く逆で、確固とした自我は自立、自律であり、極めて正当な自信の担保につながります。(むろん、程度問題ではあるわけですが)
「世界は意思の表象である」と言った人もいるように、「私が思えばこそ世界がある」のでしょう。
ここから、「私が思わなければ世界はない」となりますが、これで納得できずに、むしろ怖れにつながるのは、「私が知らないところで世界は存在しつづけている」と考えるからではないでしょうか。
これは、「認識できる私との決別」を意味しますから、怖れにつながるのは理解できそうです。
しかし、「私」を自己分析することによって、ある程度の納得が得られるのではないか、という期待はあります。
さらに、この怖れに含まれる大きな要素として、『「私が知らないところで存在しつづけている世界」の認識者として他者』を想定している、ということがあるでしょう。
「私にとって認識できない世界を他者が認識している(と思う)こと」がなぜ怖れにつながるのか、という課題も提起しているようです。(前回述べた「納得=幸福」という概念とも整合するはずです)
これが、「相対的視点」に頼り過ぎている、と述べた点なのですが、絶対的な、唯一のものとしての自我を人間はおろそかにし勝ちであるように思います。
自我の定義ということもあるでしょう。
自我とは、長い棒の左先に本能を、右先に超自我を乗せ、果てしなく続く千尋の谷に掛けられた綱の上を歩き続けるサーカス芸人みたいなものです。
綱があると考えるからバランスをとらざるを得ないのだから、綱は無いと思えばバランスをとる自我も不要になる。
と考えることも可能ですが、その場合は谷底を歩き続けるほかなくなります。
それはそれで(同じ場所に辿り着くかもしれないわけで)一説ですが、いずれもう一度綱渡りをしたいと思うようになるのはほぼ間違いないでしょう。
このバランスの結果こそがアイデンティティとしての安定を生むわけで、さらに大事だと思うのは、こうした(バランスを取る)作業を宿命づけられていればこその人間という種の出現ではなかったろうか、と推測されることです。
分析は論理的に納得できる(可能性がある)、という意味で有効なわけですが、最も有意義なのは、新たな視点を得ることで本能・自我・超自我のバランスをとるのに一役買うことができるということでしょう。
バランスが良くなると、真理にも気づきやすく(あるいは感得しやすく)なるという気がします。
今回の場合の真理は、「怖れは仮象に過ぎない」ということですが、まだ証明できるだけの論拠を得るには至っていません。
(つづく)
ご回答ありがとうございます。
間違って#30のお礼を先に書いてしまいました。
>「私は否定されているわけではない」ということを分析の結果として納得できれば、かなりの程度怖れは解消できるように推測しています。
私を否定しているのは誰でしょうか?
他人が私を否定したところで利害関係が無ければ気にもしません。
結局、私を否定しているのは私ではないでしょうか。メンタルヘルスにはそんな人がたくさんいます。
私が私を受け入れるというプロセスを否定はしませんが、私の中に観察者としての私を作るのは非常に危険だと思います。この観察者こそが諸悪の根源と言っても過言ではないのです。
>確固とした自我は自立、自律であり、極めて正当な自信の担保につながります。
そんな自我は無いのです。これは幻想です。世界中の人間がそれを求めて宗教、仕事、ボランティア、に夢中になっていますが誰もそれを手に入れることは出来ませんでした。
>「納得=幸福」
こんな人が居るとしたらどうでしょう。
Q あなたは幸福ですか?
A 分かりません。私は自分が幸福かどうか考えたことがありませんから。
幸、不幸という観念から自由になればこのような回答をすることも可能ではないでしょうか。
>その場合は谷底を歩き続けるほかなくなります。
実際には自我自身、谷底を歩いたことがありません。
死んだことが無い人が死を恐れるのと同じですね。
世界を谷と天に分けてしまったのは自我自身です。
結局、自我は自分の作り出した世界を恐れているのではないでしょうか。
>こうした(バランスを取る)作業を宿命づけられていればこその人間という種の出現ではなかったろうか、と推測されることです。
そうですね、なので私はこの人類の苦悩の歴史に終止符を打ちたいわけです。
古人の苦悩を今生きる私たちが背負い込む必要はありませんでしょう。
No.28
- 回答日時:
脳内の各部位、各部位の組み合わせ、各部位の分子レベルの変化 などにより 多くの思考された概念は説明される のではないか と思っています。
ただ 現実には 生きた脳内の各部位の観察は かなり荒っぽいもので あまり分っていないということだとおもいます。その上で私の理解は以下のようなものです。記憶ということを 脳内の各部位の何かの変化だけでなく、脳内外のDNA、さらにDNAにより誕生以来 再生され続ける各細胞、様々な傷などの経験が細胞に残っているもの を質問者のように広義に定義します。すると一卵性双生児誕生(受精直後)時以外は 個は全て異なっていると理解されます。そこでは 精神が活動している状態とは 何らかの形で記憶しているものを参照していると思います。精神が活動しているとは 思考だけでなく運動、発声など人間が生きている現象全てに関わっていると思います。活動していないとは死の状態です。この精神の活動状態は 個差のある記憶を参照しているわけですから 個差はあると思います。精神とは 精神の活動(生きている人間)で説明できると思ったのです。人間は一切の記憶なしに生きることはどういうことか よく分りません。記憶参照と生きている人間は分離できないと思います。精神は 精神活動で説明でき それは生きている人間であり 記憶は参照していると思います。
アイデンテイテイを広義に定義すれば 個差のある精神活動はアイデンテイテイをしめしている とおもいます。狭義の定義にすれば 思考レベルでアイデンテイテイを意識する ということであり もちろん 記憶を参照していることは言うまでもないと思います。
ご回答ありがとうございます。
精神は人間だけに適用されるものでしょうか。
脳を持たない植物には精神は無いという事になりますがどうでしょう。
No.27
- 回答日時:
ANo.3, 4, 10, 11, 18 & 25
実は存在とは神でしかないので、神だったのだという事以上にはなくて、神という宣言、自覚なんでしょうね。
ガンジスも黄河もそしてこの宇宙の創造界も外見的多様ですが、唯一なる者で澄んだ光の多様への変化(へんげ)的見せ方、そして見かたなんでしょう。
赤、青、黄色とか多様な光は一体化(合流)してくると白色です。いえ透明です。
光を通して赤、青、黄色とか多様な光を見せるものは重なれば重なるほど、黒く暗くなります。
これは宇宙の相似原理の中で神の性質の側面から由来しているものでもありましょう。
黄河の、ガンガの創造界の濁りと暗さは多様なものの外見的現われで、一(いつ)為るものの多様な現れでしょうから、これが清冽に見えてきたり、そうなったりしてくれば、それは創造界の一つのあり方であり、見え方かもしれません。
しかし多様という外見性はそういう清冽な状態でも継続しているのですね。
河清は要するに座して俟っているのではなく、多様な混濁に清冽な光をどうみるか、実現するか。
ということなのだと自分に愚答しておりますが。つまりは本当の実体がどうかということを見透かすことだと存じます。
ご回答ありがとうございます。
確かに世界をどう見るかによってこの世界は一変しますね。
私自身が濁っていれば清冽な光を黄河に見ることは出ないでしょう。
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