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精神に個別性はあるか
昨日の自分と今日の自分が同一人物である証拠は何かと聞かれれば、どんな回答であれ自分の記憶をもとにアイデンティティを証明するしかないと思われます。
逆に、記憶がなければアイデンティティーの証明は無理であるという事になりますが、すると記憶を参照している本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ないのではないでしょうか。
もっと言えば精神に「私」という個別性はないといえないでしょうか。

A 回答 (35件中11~20件)

 ANo.3, 4, 10, 11&18


 shift-2007さん、未だご質問でご回答をお待ちなんですね。いろいろ思考をされているのですが、一応古人の認識実現( Self-Realization Fellowship )をそのままここに書きます。
 私たちは、経験して意識した結果。つまりその内容。つまり客体存在が私たちであり、客体存在を経験し意識している主格たるものは、客体存在でしかない私たちという意識内容、つまり荘子の夢の中の客体存在でしかない胡蝶には荘子のことを知るすべもない。
 つまり私たちを紡いでいる主格を紡がれた私たちは知る事はできない。
 この私たちに流れてきている意識がこの紡がれた存在を出たときに、主格たる意識を知ることができる。(sheep67さん、老人の要らざる口出しをお許しください。自分もこのごろ語を忘れて難渋しております。失礼しました)。
 通常感じ、思考し、行動している自分はこの主格意識が光のように射して、一定の場(主格意識の根源が発しておいた場)に反射して、光として経験・意識している(創造界や宇宙の相似原則です)。というものである。
 その主格意識が意識を発動したプロセスの末端が私たちという事に為ります。
 それは唯一者(唯一存在者)というわけです。その光(意識)も当然、唯一です。
 意識も光も宇宙の光線のように、何も反射体がなければ可視や意識内容、経験にならないが、唯一者は最初に対象体の場を発しております。母なる場です。其処には唯一なる子が生じます。これが創造界です。
 創造界も一(いつ)です。創造界と創造の原理は単純そのもの。反射があり、また反射があ、・・・・といき、全く同じものが区分・分別・認識・個別・演繹されていきます。
 そして一なるものが多であるかの様相となります。
【もし精神面に個別性がないなら、全く同一の人間が存在することになり、たとえ精神という目に見えない領域でのことにせよ、気持ち悪い話しです。】は事実です。
 個別化する原理で個別化して自己認識をしているかのように差し向けられていますから。
 個別化した自己認識がないと存在を確証できず、不安を覚えるのが対象客体(胡蝶という夢内容)です。
 しかしそういう胡蝶のことを意識しているのは唯一者です。
 胡蝶たる私たちも、この客体経験対象物の一つである世界は単一でみな同じであり、個たるものは、明確にいえば、存在しないいわゆる【気持ちのおかしくなってしまう、みな同じ】であるが、これを多様に認識経験するようにさせられている。しかも胡蝶とその世界のように。
 つまりshift-2007さんも、このkrya1998も、そしてsheep67さんも唯一者の意識内の胡蝶でしかないのですが、これも実は別個の個体存在でもない、というのが古人の実現認識です。
 まぁこれは古人と同じように、あぁそうかとならなければ、いくら思索しても結論は出ては来ないということなのです。
 これが私たちの先生のパラマハンサ・ヨガナンダと私たちの明確な認識です。

(一なる対象内に一端、分化がおこると、止め処なく多になっていく。
 一にして多。そういうことに関連して、私も質問を起していますのでご参照ください。
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5964899.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は神になることにします。
数年、遅くても数十年後には・・・いや早ければ明日、もしかすると数分後かもしれません。
神になったのち、それでもまだ世界の秘密を知りたければその時私は知るでしょうね。

待っていても川は清流にはならないでしょう。
なぜなら、川を汚しているのは私たちです。
汚れた川を望んでいるのは私たちだからです。
自分を変えようとせず、川の流れがきれいになればいいと思うのは自我のいつものパターンです。
理想を求めながら腐敗していくこの人類の歴史に終止符を打ちます。

お礼日時:2010/06/21 22:45

No16です。

訂正なんですが・・

No18の方の文を見てですが、
胡蝶の夢は、故事でした。と言うか正直、故事って言葉あったなーと思い出した次第で・日本語能力が問われる・・
雑な文を書いてしまいます。

kryaさん、もしご指摘でしたらありがとうございましたm(__)m
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私も改めて故事という言葉を辞書で引きましたので勉強になりました。

お礼日時:2010/06/21 18:20

すみません、あなたの質問のタイトルだけを見て、返事してたもので・・・


文を読んだ上で、再度お答えします。
質問に対しての質問というか疑問が、読んでいてまず起こりました。
「同一人物である証拠は何か?→自分の記憶(をもとに)証明するしかない。」
のところですが、ここのところが解せません。
そもそも、昨日と今日という比較的短い時間の中で、人が馬になったり、人物Aから人物Bになったり、心が入れ替わったりするなど、急激な変化をする例があるのでしょうか?過去の長き歴史においてたった一例すらなかったことでしょう。
しかるに、自分の内面の記憶によらなくとも、他人が外側から見て客観的に証明してくれるでしょう。
さらに、もう一つの疑問は、自己同一性を保たない例はどこにあるのでしょうか?
基本的に人間に限らず、全ての事物は変化、発展しながらも自己同一性、即ち不変なる特性を維持していると思われるからです。
一般的に、記憶は、経験的認識や映像が記憶中枢に保管されているものであって、生理学者の表現を借りれば、「獲得した記憶」と言われるものです。
しかし、記憶にはもう一つの経験によらない記憶があるのです。それは、予め先天的にもっている「遺伝的記憶」と呼ばれるものです。これは、根源的には、DNAの分子配列と関連があると見られています。
さらに、一個一個の細胞を見ても、その内部にサイバネティックスの現象が見られることから、脳からの命令によらない細胞自体の自律性を見出せるのです。
生物が継代によって、その永遠性を維持しうるように、即ち種族を保存すべく、その個体の情報が物質的形態の記録として細胞の中に組み込まれたというわけです。つまりそれがDNAの情報なのです。
何故こんな話をしたかと言えば、記憶中枢を司る脳が死んでも、細胞(DNA)を調べればアイデンティティーが証明できるからです。

この回答への補足

塩基配列というデータも記憶に含めます

補足日時:2010/06/21 18:23
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

内部記憶が外部記憶にすり変わっても同じことで、例え外部であっても記憶を参照せずにアイデンティティーを証明する方法はあるのかという問いです。
(年金問題などを見ると外部記憶もあてになりませんし)
記憶喪失の人がいるというのをテレビでよく見ますので、入れ替わることは無くてもアイデンティティーが失われることはあるのではないでしょうか。

お礼日時:2010/06/21 18:17

「記憶」は脳の中の「記録」ではない。

すなわち、様々な物質的体験の集積ではない。
「記憶」は「精神」が生み出すものであり、様々な精神的体験の集積です。
従って、「記憶」をいくら消しても、個々の「精神」の特異性を消すことはできないと思います。

ただし,もう一段抽象度を上げれば、個々の精神はそれぞれ異なると言う意味において、
「共通性」がある、あるいは、「記憶」は個々の異なる精神体験から生み出されると言う
「共通性」があるのだから、「個別性」はないと言うことはできます。抽象度をどのレベルに
設定するかによって、物事は如何様にも言えると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「記憶」をいくら消しても、個々の「精神」の特異性を消すことはできないと思います。

精神に特異性があったとしてもそれがアイデンティティーと言えるでしょうか?
もし精神が変化した場合、今日の精神と機能の精神が同一であることをどうやって示したらいいでしょう。

お礼日時:2010/06/21 18:09

#20です。



>私にとって哲学はツールであって目的ではなかったので
:これは私も全く同様です。
知ったかぶりをしてカントなどを持ち出してしまいましたが、哲学書なるものを読むのはこの歳(シフトさんより無駄飯を食っている期間が長いようです。あ、無駄飯は私だけに適用される表現ということで^^;)になって初めてで、カントの本を4分の1ほど(しかも、わけのわからないまま)読み進めている段階にすぎないのに、引用してしまい却ってお恥ずかしい次第です。

>「自己分析しても不安や恐怖からは解放されませんよ」ということです。
>分析者と分析対象という2つの対立をやめない限り無理だということ。
:たしかに、「解放される」ということが自己分析の「直接(即効)的な目的」だと考えてしまうと落胆や混乱が先立つでしょうしね。
事実を見極めること、事実を事実として認める、場合によっては苦しい作業であることが理解されると良いはずです。
「他者とは何か」といったような検討課題も付随してくることが多いでしょう。
「自己のための事実」「自己に寄り添った事実」ではない点がミソですが、対立的に考えてしまうと、解放するための分析者という立場が目の前を曇らせることになりそうです。

しかし、分析者を消したり(自我を終焉させたり)しなくとも、分析によって明らかになった事実を、どのようにして自我構築、いや、むしろ自我補修と言うべきでしょうか、そしてアイデンティティ構築の材料としていくのか、その認識の仕方次第で、果は得られるように思うのですけどね。
そのように補修されたり、構築されたりした自我、アイデンティティにより、おそらく「納得」が得られるのではないでしょうか。
「納得=幸福」が持論なのですが、自己分析によって得られた「視点の転換」がこれを可能にできるはずで、それはつまり、恐怖は恐怖でなくなり、不安が不安でなくなる可能性も大いに秘めているように思います。

(シフトさんと同様に、と言っていいと思いますが)「恐怖と不安」は、人間を考えていく場合、根源的な課題になると以前より考えています。
最終的にはすべて、ここに収束してくるはずです。
心理学的見地からだけでは限界があり、今頃になって哲学の助けを借りることを思い立ったわけですが、「恐怖と不安」は必要悪という側面もありそうで、なかなか手こずっていますが、私としては自我の肩を持つことをやめようとは思っていません。
気楽にいくしかありませんが、そのうちお知恵をお借りすることにおそらくなることでしょう。

>そのためには分析者を消すこと。この分析者を自我と呼び、消すことを終焉と呼んでいます。
ただし、分析者が自分自身を消すことは出来ないという意味で「方法は無い」となり、分析者と分析対象が実は同じものであるというある種の悟りによってそれは「出来る」となります。
:いつもながら明快な論理ですが、その悟りが、「我思うゆえに我あり」という「自我の本来的自己主張」を説得(納得)させられるか、さらに説得させるべきだろうか、という点について若干の疑問を感じます。
    
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

分析によって人は恐怖から自由になれるでしょうか。
恐怖の対象は次から次へと産まれてはいないでしょうか。
恐怖は人を縛りますが、個々の恐怖(死、病気、失業、孤独、などなど)を潰していけばいつか人は自由になれるでしょうか。
分析によって人は自由になれると思いますか?


「われ思う故に我あり」例えばこんな説得はどうでしょう。

「お前は自意識という私が作ったイメージである。お前が存在するかは私しだいである」
「観察者としてのお前は経験や知識をもって死を見るが、見ているそれは本当に死か、それとも過去の記憶か」
「私は死を恐れているのか、それとも死に対する経験や知識を恐れているのか」
「もし、私がお前を通さずに死を見るなら何が起こるのか」
「その時恐怖はそんざいするのか」

こんなやり取りが私の頭の中で進行中なのです。

お礼日時:2010/06/21 18:00

低秩序な鉱物体ですら、その性質(=物理化学的作用性)に個別的な差異があるのですから、ましてはるかに高秩序な人間の精神に個別性がないわけがありません。


もし精神面に個別性がないなら、全く同一の人間が存在することになり、たとえ精神という目に見えない領域でのことにせよ、気持ち悪い話しです。
よってありえないと思います。
私が思うに精神は肉眼で見えないだけの話で、具体的な映像を持っているはずです。
霊という存在も精神とは別に存在し、血管もあるため、血液も流れ、したがって心臓や五臓六腑、感覚器官、四肢五体、生殖器、細胞体なども全部兼ね備えていると考えるのが自然です。
その霊よりももっと見えない世界が精神だと思いますが、The 精神 あるいは、The 心 といった具体的且つ個別的形状を持った存在だと推察できます。
従って、精神にも生殖器がついているはずです。
生殖器の形状が同じ形の人が未来永劫に渡って存在しないように、精神も唯一無二の個別性または個別相だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

単純な質問をさせていただきますと、記憶を使用しない(参照しないで)自己統一性を他人(ココでは私Shift-2007)に証明してください。

できますか?

お礼日時:2010/06/20 11:01

#8です。



>簡単に言うと不安や恐怖といった私にとって都合の悪い感情、感覚をきれいさっぱりなくすためです。
:わかりました。
>私という自我がなければ不安や恐怖は無いという事が最近分かりました。
:たしかにそうかもしれませんね。
シフトさんはメンヘルカテでもよく回答されていましたから、その当たりから抜本的な解決策を模索してこられたのかな、とも感じています。
日課のヨガとウオーキングを合わせて一時間ほどこなしながら以下のようなことを考えていました。(休むに似たり、という突っ込みはなしでお願いします)

>記憶を参照している本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ない
:という点は、一応わかります。
しかし、これはあくまで初期段階の態様ではないでしょうか。
生まれたばかりの赤ん坊にはアイデンティティという概念を【明確には】適用することはできないでしょうしね。
ただ、経験を積むと共に、記憶と同時にそれを参照する精神もフィードバック的に変化していくわけで、その過程として、あるいは結果として、【同時進行的に】アイデンティティも形成されていくはずですから、
「本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ない」というのはやはり無理があるような気がします。
精神に「私」という個別性はないとは言えないか、に対する回答としては、やや余談混じりになってしまうかもしれませんが、以下に書きます。

アイデンティティは、自己の拠って立つ根拠、のように理解しています。
これが確立されていないと、それこそ自我が不安定になるようなもの、というわけです。
そもそも人間がアイデンティティを必要とするようになったのは、本能以外の要素を持たされることと引き換えに動物から人間へと(あえて言えば)進化したからなのでしょう。
「我によって我を認識する」ような(そう言ってよければ)能力に付随してきたものとでも言えるでしょうか。

アイデンティティを「認識者としての自我」と「実体としての我」の同一性、と捉える(これを人は「自己の拠って立つ根拠」と感じる、という意味ですが)として、「認識者としての自我」は実体としては存在しない、という見方も一理あるとは思います。
または、「認識者としての自我」は「実体としての我」の投影にすぎない、ということにもなるでしょうか。
そういう意味でおっしゃっているのであれば、自我を終焉に追いやって「実体としての我」に着目するというのは、視点の転換ということで、面白いと思います。
「>(自我を消す)方法はないがそれは出来る」というのは、このような意味かと勝手に解釈しました。

ただ、何事であれ実体を把握することは人間には不可能で、これ(実体)をカントなどは「物自体」と呼ぶようですが、「アイデンティティを操る自我」にしろ、「記憶を参照している本体である精神」にしろ、【実体(物自体)としての把握】が不可能であることでは共通しているように思われます。
つまり、自我に終焉を迎えさせて、普遍的な実体を認識したと思った段階で、すでにそれは(人間流の認識の仕方で認識せざるを得ない以上)実体とは言えない、ことになるでしょう。
殊更に持ち出すようで恐縮ですが、カントの言う「仮象」がこれに当たると思われます。
この仮象に対して、人間の認識できる限界を前提にした認識の仕方によって「認識された対象」を「現象」と呼んでいるようです。
この場合、「実体」を認識できるのは神だけであり、人間の為す範疇外みたいなことをカントは言っていたように思います。
別にカントの言いなりになる必要は全くないのですが、今回のシフトさんのご質問に即して言えば、「精神=実体」という表現に変えると、
『私を形成する実体に「私」という個別性はない=(たとえ「私の実体」であっても)私を形成する実体は普遍性を持つ』かどうかは認識不可能、というか判断の埒外におくべきである、ということになります。(と思います)

シフトさんもご存知と思いますが、たとえば、私にとってのリンゴと目の前にいる蟻にとってのリンゴは「同じリンゴ(世界)である」とは言えないわけで、「リンゴ(世界)の実体」を人間が把握することはできないでしょう。
同様に「(実体としての)普遍的な我」も仮定(想像)することは可能(それゆえの「仮象」という呼称だろうと推測します)ですが、認識することはできないと思います。
認識や判断という領域においては、あくまで「認識できる我=現象としての我=個別的な我」としての自我の側面から辿るのが科学的ではないでしょうか。
観念論や宗教的視点としてであれば面白いかもしれません。
どうも、そのうち神が出てきそうな気もしますが、そんなことはないですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

哲学でいう所の精神や自我と、私が思っているそれとは違うかもしれませんね。
私にとって哲学はツールであって目的ではなかったのですから曖昧(適当)な部分はご勘弁下さい。

少しだけ自我の終焉について説明すると、メンタルヘルスのカテ風に言えば「自己分析しても不安や恐怖からは開放されませんよ」ということです。分析者と分析対象という2つの対立をやめない限り無理だということ。そのためには分析者を消すこと。この分析者を自我と呼び、消すことを終焉と呼んでいます。
ただし、分析者が自分自身を消すことは出来ないという意味で「方法は無い」となり、分析者と分析対象が実は同じものであるというある種の悟りによってそれは「出来る」となります。

お礼日時:2010/06/20 10:57

 ANo.11


 ご思索を妨げないように、そして議論にならないように発言を控えております。
 夢では自己同一性は継続ではありませんが存しているという理解に与みします。
 但し、夢のなかに出演している主観さんもそし対象客体となっている内容も夢の外の意識の内容であるという判断に与みします。
 そしてなお、夢の中の自己という仮面の主観さんや自分が夢の内容であるという意識を持つ事は原則としてあり得ないという言説に与みします。
 したがって同じように私のいう普遍自己(意識)は継続しており、且つ、この個体自己(意識)に自己投入して眺めているのですが、この現象しているこの個体自己(意識)自体は一種の夢創造界の一内容に過ぎないので、この現象しているこの個体自己(意識)自体から、普遍自己(意識)を確認、意識、検証することは困難であるという、経験の表明に与みします。
 普通はこの現象しているこの個体自己(意識)が普遍自己(意識)を気付けません。その現象界を出ないと分らないのです。
 荘子が見た胡蝶の夢の故事(諺ではありません)で荘子は胡蝶を自分として確認しました。
 しかし、夢の最中の胡蝶は荘子を知りません。
 その胡蝶が一定の仕方で夢を出れば、おうなんと儂は荘子であったかと気付く、というものです。
 単なる夢でいかない胡蝶が何で、荘子を知ることができましょう。
 なおこれは多重人格ではなく、荘子という意識が夢で紡いでいるということに過ぎない。
 普遍自己(意識)は多くの方に気付けないが、それは自分の本体であり人格は一つ。
 その人格の存在形式を私はここで表明はしません。ご自身で気付くと本源と所在場所が分ります。
 shift-2007 さんに説明する内容でして、議論ではありません。どうかご了承ください。
 お会いできればまた説明もできることも在りますが、ここではお許しください。諺と故事は言い違いでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

普遍自己には意識はあるが「私」という観念がないかもしれませんね。この感覚は固体自己にはわからないところです。

お礼日時:2010/06/19 11:50

議論されておられる中には入っていけない難しいところがりますが、私なりに最初のご質問に戻って「アイデンティティと精神」という関係を考えて見ますと、やはりNO1様のおっしゃるとおりに不可分な関係にあるのではないかと私も思います。


アイデンティティそのものは必ずしも自分だけで悩むものではなく客観性のあるクリヤーなものであり、本来は「自分のアイデンティティは何か?」という中身そのものについて悩むのが健全なありかたなので、そこには当然自己の精神もそれに包含されたはきわめて重要なものとしてあるということでしょう。単に「自己同一性の継続の証明」自体が問題となるのは、記憶が長続きしない人などのローカルな問題に尽きると思います。そこでは、精神は移り行くものとして切り離して考えることも必然的に起こってくると思います。
的外れな回答でないことを祈ります。
ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

宗教的?には私たちはどこかで全員がつながっていると言われます。そのつながっている部分が精神と言われているものではないかしらと思うのです。
なにせ私たちの先祖はお猿さんらしいのでアイデンティティーより精神のほうが先じゃろなーと思うのです。

お礼日時:2010/06/18 22:31

夢とアイデンティティーですか・・



厳密なとこ、夢で別人になってもアイデンティティーが壊れないように思います。ことわざで胡蝶の夢、というのもあるように僕はないですがそういう夢を見る人はおられるみたいだし、
それは夢だからこそ整合性が通っており、紙一枚ですが、アイデンティティーは問題ないのではと思います。
もしshiftさんが、起きて目が覚めながらそれが起ったら、提案されてるような問題を考えることができますが、それは多分多重人格障害のような精神の問題になると思います。あるいは分裂症や夢遊病や妄想せん妄などでしょうか。
リアリティーはなぜ生まれるか?というテーマかしら。

夢で、自分と友達が話してた夢を見たことがあります。
夢なので、その友達は間違いなく自分が作り上げた像であるにもかかわらず、そのリアリティーと、その人独特のその人でなければ決して出せない雰囲気、オーラ、そんなものまで夢で正確に表れるのには、目が覚めてから驚いたことがあります。
リアリティーとは作り物、作成物であるいい証拠だと思います。


普通に、こういう夢における、そのリアリティーは、驚きます。
ただ、夢と現実の違いは、よく例えで、ほっぺをつねって「これは夢じゃないんだ!」と言い聞かすのでも分かるとおり、
夢では意識が主導権を取れないので、完全な自己同一、アイデンティティーは成り立たないように思います。
夢では、主導権を取るのは主観だからです。意識は2次的です。
意識によるアイデンティティーのループができないので、夢では、自分が自分であるとは思えません。だから自分で自分のほっぺをつねって確認する、というのは感覚的に僕は納得できます。(金縛りや白昼夢など、境界線的問題はありますが)
夢にそういう特性があるからこそ、夢で何が起ってもアイデンティティーは保たれる気がします。
夢の中でいくらものすごくリアルであっても、それを夢だったと後で思えるというのは夢だからですし、夢とはとても思えない、となると正気を保ててるかどうかの問題になる気もします。
昼間はほっぺをつねることができますし、意識が意識を知ることができますから、それをもって夢と現実の境界線を引けるようにも思います。
ほっぺたをつねる比喩があるということは、普通の人も夢と現実の違いがアイデンティティーのループに依存してると言うことを、実は内心知ってるんだなーと思いました。あんまり関係ないですが・・

話ばらばらになりますが、自我が消えるのは、無限小に消えるのと無限大に消えるのと2通りあると思います。

なんか答えでは全くないですが、ちょっと関係在りそうなことを羅列ですみませんー。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

寝るというの案外不思議な現象で、寝ている間自分というのは何処にいるのかと昔から不思議に思っていました。寝るというのは案外重要なのだそうなので色々考えてみると面白いですね。

お礼日時:2010/06/18 22:23

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