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精神に個別性はあるか
昨日の自分と今日の自分が同一人物である証拠は何かと聞かれれば、どんな回答であれ自分の記憶をもとにアイデンティティを証明するしかないと思われます。
逆に、記憶がなければアイデンティティーの証明は無理であるという事になりますが、すると記憶を参照している本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ないのではないでしょうか。
もっと言えば精神に「私」という個別性はないといえないでしょうか。

A 回答 (35件中31~35件)

#2です。



>アイデンティティーという言葉を操っているのは私という自我ですが、この自我と精神は果たして同じものでしょうか。
:自我を単純に「我」と広義に解釈したので「同じ」と捉えました。
自我を狭義に捉える必要があるとすれば、その定義というか解釈の明示が必要になるでしょうね。

>例えば脳を持たない植物という生物にはアイデンティティーはあるでしょうか?
:無いと思います。

>もしアイデンティティーがないとするとその統制内にある精神もないことになりますがどうでしょう。
:精神はアイデンティティの統制内にある、というのは、精神とアイデンティテイという概念をどちらも適用できる対象(今回の場合は人間)に関して述べたまでです。
アイデンティティと精神が常にセットとして存在しているわけではない(と思う)ので、アイデンティテイが無いからといって精神も無い、ということを言ったわけではありません。
無論、植物に精神があるか否かは別問題ですが。

因みに、精神に相当するものはあるとすれば、それは生きる意志みたいなことになるはずで、しかし、それはあくまで比喩としての表現になろうか、つまり、精神があるという表現は妥当ではない、というのが私見です。
  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「自我の終焉」これがどうしても必要なのです。
それが分かるまで20年もかかりました。
そのための哲学でしたが、哲学では越えられない壁があると知りましたのでここでの質問も減るだろうと思います。おかげで哲学カテの変人呼ばわりされることも減りますが。それはそれでさみしいですね。
しかし私はついています。なぜなら平均余命まで何十年とありますから、この体が終わりを迎えるまでには何とかなるでしょう。

お礼日時:2010/06/16 23:16

 ANo.3


 アイデンティといおうがなんといおうが、自己というのは普通個別の意識主格として登場していることになっています。
 個別はその存立基盤を持つ事によって、現象、確認するすることができているのだということも考えられるかとも存じます。
 これは無論、社会学や社会科学などの関係性のなかで展開している事象であるという側面も指摘できましょうが、その哲理的基盤性の考察も是非あっていいかと存じます。
 歴史的、社会学的、そして社会科学的関係性、相対性についてのインド哲学的考察はされてきてはおりますが、論理演繹的に追究・考察する事も哲学としては看過しないでもらいたいと存じます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

哲学はすごく非効率な事をしているように思います。
地球が丸いかどうかを地球の上から考えるから難しいのであって、宇宙から見れば子供でも簡単に理解ができます。
自己から普遍を見るのではなく、普遍から自己を見れば一目瞭然ではないでしょうか。

お礼日時:2010/06/16 18:10

 shift-2007さん、久方です。


 日常的に経験する表面の意識現象の経験としては、【「精神」が「記憶」を別のものとして、前者が後者を参照している経験ことはは自覚していない】という見かたはできないものでしょうか。
 
 この日常的に経験する表面の意識現象の経験をどう自覚し、自己性というものの性格を認知するかがご質問の出発かと存じます。
 一見、唐突にして奇抜ではあってもこのあたりのこを自己の個別(時間的、他者関係的)性の考察の中で思索することは、手法は違ってもインドの古哲理なども行っており、現代の知性として認知する事は大事なことであると存じます。
 現代語でいうなら、普遍自己と個別自己のことと存じます。自己を意識といってもいいのですが。
 ここでのことですが、個別自己しか日常・現象的にしか経験認知できないのが普通であると存じます。
 個別自己から普遍自己の認知と知覚ができないからだと存じます。
 反対に普遍自己は個別自己を認知・知覚し、その結果、つまりその知覚認知の内容として個別自己が認知知覚に昇ってきて、それしかないように思っているのが、私達であると存じます。
 常に普遍自己が個別自己という経験内容、客体結果を参照していることを人は意識できていないのではないでしょうか。
 普遍自己がどのような存在形式、存在性であるか、存在形式と存在性を持っているかが一定のインド哲学の主たる課題でもあると存じます。

 ご質問を上記のような側面で理解することができるでしょうか?
 それとも誤読でしょうか?
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この回答へのお礼

krya1998さん、ご無沙汰しております。

もし個別自己がなかったらそこには普遍自己があるのではないでしょうか。
それとも第三、第四の自己が存在するでしょうか?

洋の東西を問わず、哲学は個別自己から普遍自己(神といってもいいですが)を探求してきました。
探求者とは観察者です。観察者は我こそは神の発見者なりと言っています。
しかし実際には個別自己に執着してきました。その自覚もないままに。
個別自己の作り手は恐らく私たち自身です。故にその解体(終焉、死、呼び名はなんでもいいですが)が出来るのも私たちではないかと思います。

神の設計図を見たがるくせに、神になろうとはしないのが「私」というものの性癖ですね。
あるいは神による「私」という概念を使った一人芝居でしょうか。

お礼日時:2010/06/16 18:06

>記憶がなければアイデンティティーの証明は無理である


:というのもわかるのですが、
精神自体が常にアイデンティテイに則って活動しているはず(でなければアイデンティティの意味をなさない)なので、記憶を参照するという(精神の)行為も、アイデンティティに則って行なわれていることになるでしょう。
「これは客観的な考えだ」と言う考え自体が、すでに主観的であるのと、多少似ているかもですね。

精神の定義をどうするか、という問題もありそうですが、脳科学的な部位のひとつとして精神を捉えることが可能であれば、おっしゃるような(個別性はない)ということはあるのかもしれません。
しかし、今のところ、「精神」という概念については、アイデンティティの統制内にあると私は捉えています。
あまりお役に立てそうもありませんが、こんなところです。
     
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

アイデンティティーという言葉を操っているのは私という自我ですが、この自我と精神は果たして同じものでしょうか。
例えば脳を持たない植物という生物にはアイデンティティーはあるでしょうか?
もしアイデンティティーがないとするとその統制内にある精神もないことになりますがどうでしょう。

お礼日時:2010/06/16 16:41

お答えになっていないかもしれませんが、論証を不明確にするものが前提部分に潜んでいそうです。



思考の図式の中に「精神」と「記憶」が別のものとして登場している箇所がポイントじゃないかと思います。この二つを別の存在として切り離して「一方が一方を参照する」ということは、実際には起こっていないのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かにご指摘の部分は確たる説明が出来ない部分ではあります。
逆にお聞きしたいのですが「起こっていない」と言える理由はなんでしょうか。

お礼日時:2010/06/16 16:28
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