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人が人に優しくできない人が多すぎて疲れました。

自分は人に優しくされたいから優しくするのでなく、
なにげなく人が人に優しくできたら、
なんて素晴らしい世界になるだろうと思い、
優しい気持ちを忘れずに日々を過ごしています。

だけどそれも疲れてきました。

つまらない事で人に文句を言ったり、
悪気のない出来事で人を怒鳴り散らしたり。。。

そういう場面を見すぎてとても寂しくなりました。

ミスをして怒られる。これは理解できます。
それも成長してほしいという願いからの人の優しさだと思っています。

無意味に怒ったり、優しくできない人を目にした時みなさんはどう思いますか?

言葉は悪いですが、自分はこう思ってしまします。「お前はなぜそんなに偉そうなの?」と。

とりとめのない文章ですが、こう考えた方が人生もっと楽に生きる事ができるよ!
その他色んな観点からのアドバイスやそれぞれの考え、思い、を回答いただけると嬉しいです。

どうかよろしくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

私もあなたの仲間だと勝手に思わせてください。


なぜなら言いたいことがとてもよくわかるから。
今度、一緒に呑みにいきたいほどです。

それはさておいて本題。少し質問させていただきます。
「あなたは何かに真剣になって、一生懸命になってい
るものがありますか」


>無意味に怒ったり、優しくできない人を目にした時
みなさんはどう思いますか?

こういった人の人間性を疑ったり、なんでこんな優し
くない連中がいるんだ…と悲観する前に、
まず、自分に目を向けてください。

人間は鏡だとよく言います。
なるほど、経験的にこれは的を得た言葉で、確かに、
人の嫌な部分を見たとき、決まった自分の悪い部分や
弱いところが浮かび上がるようになっています。

だからこそ自分に目を向けてほしいのです。
そして、先ほどの質問の答えはなんでしたか?

ひょっとしたら、「偉そうな人」はあなたの知らない
ところで大変な思いをしていませんか?
ものすごい重責に苦しんでいませんか?
人に厳しいのと同じくらい自分にもストイックでは
ありませんか?

自分が大変だからこそ、人にあたってしまう。
「なんで俺は大変なのに、
       オメーはそんなちんたらしてんだよ!!」

質問者様も人間。恐らく自分が大変なら周りを顧みみれ
なくなってしますでしょう。
もしそうでないなら聖人君子。私の意見など無視してく
ださって結構です。

あまり苦労をしていないからこそ、人にやさしくできる。
いまはそんな状態なのかもしれないですね。推測です。
もっと、なにかに打ち込んで、周りが見れなくなった時、
それでも、人に優しくできたなら、本物です。
晩年のガンジー並です。

とはいえ、人に優しくできている現状のあなたは、
人類にとってかけがえのない存在であることはいうまでも
ありません。

ストレスがたまって健全な精神が害されると可哀相です。
どうか、日ごろの疲れを癒されてください。
私はあなたをリスペクトしております。
長くなりましたが、共にがんばっていきましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人は鏡。この言葉には深く考えさせられました。

そして私が目にしたその人も、きっと過去に大変な
思いや苦労をしてきたのだろうと想像できました。

今想像もしないほどの沢山の意見やアドバイスをいただいて
心の中で整理していてもうまく言葉に表せませんが、
今の自分にとって素晴らしい言葉と、同じ思いを持った仲間に出逢えた事に
感謝したいと思います。ありがとうございます。

また、お互いが笑いあえる鏡として生きていけるよう
これからも共に頑張っていきましょう。

お礼日時:2010/07/09 20:21

自分が優しくされたいからではなく、分け隔てなく人に人に優しく出来る人の回りには、自然と優しい人達が集まるんじゃないかな~と思っています。


私自身は、自分に噛み付いてくるような敵には優しくなれません。まだまだなんだと思います。
しかし、人生に何度もないような大ピンチの時に、いつも回りにいる人達だけではなく、通りすがりのような見ず知らずの方々に優しくして頂き、自分もこうでありたいな…と思うようになりました。
ホントに困った経験があると、その時の自分に置き換えて、人に優しく出来るのかも知れません。
また、ホントに困った経験といっても、その人なりなので、年齢とは無関係だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご回答をよんで、ほんと自分の事のように思いました。

自分もこうでありたいな…と思われるように誰かの優しい気持ちに
少しでも触れられたらなと思いました。

今後、嬉しい事、悲しい事、つらい事、楽しい事、もっといろんな経験していきたいと感じました。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/10 00:38

そうですねー(笑)。



いいじゃないですか!怒鳴り散らしましょうよ!。
「てめえ何様だ!」って、怒鳴ればいいんですよ。
そのほうがスッキリするじゃない…一時だけだけどさ。

世界は自分を中心に動いてるわけじゃない。
いろいろな人がいて、そのなかには「自分が生きてる意味」なんて、一年間のうちに全く考えないで生きてるやつだっているさ。
同じだと思うからこそ、苦しいんですよ。
私は誤解を恐れず言えば「だめなやつ」ってやっぱりいると思うんです。
曲がりっぱなしで、しかも他人の言うことを聞かず、自己中心的で…そういう人はやっぱりいるんですよ。
彼らにしてみれば、親切も善意も「大きなお世話」でしかない。
社会の決まりごとも「うるさい理屈」でしかない。
同列に語れないくらいに、人間は違う。
でも、そんなやつでもちゃんと「地球を回す一員」なんです。

いろいろな人間がいて、その中で生きたり死んだりしていってるわけじゃない?人間も。
他人に干渉するのは、人の生き方として間違っていないけれど、そこにとらわれては、自分の「哲学」が瓦解する。
どうせなら、個々のケースに対して文句を言うんじゃなく「どうして?」という理由を探っていこうよ。
そのほうがきっと、面白いはずだからさ。

だから一言ぐらい文句言うのもいいさ。
頭がスッキリしなきゃ、次の模索に移行できないもんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>どうせなら、個々のケースに対して文句を言うんじゃなく「どうして?」という理由を探っていこうよ。
そのほうがきっと、面白いはずだからさ。

人ととの繋がりを楽しむコツのとてもいいヒントになりました!
まずは「どうして?」と相手を拒否しつつも受け入れる。
感情的になりやすい部分ですが、そう考える事が大切な第一歩だと思いました。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/10 00:21

優しさ、そりゃあ、誰もが平均以上の量で持っていてくれたら、どんなにかいろいろと平穏だろうと思います。


さて、ほんとの優しさ、は「寛容」ということばに置き換えられるのではないかと近年は考えています。

寛容な人だったら、
・優しさに対して優しさが返ってこなくても、そんなもんかと結構平静に思える
・周囲で怒鳴り散らす人に、心を痛めることもあろうが、悪しざまに思ったりすることはあまりない
とおもうのです。

寛容とは、色々な人や思いが存在することを許容できることです。
自分に対して明確な悪意が向けられるようなことがあれば、寛容な人でも勿論反撃するでしょう。
でも、悪意は日々いたるところに、ものすごい数で転がっています。
そのことは、誰もが知っています。
そのことに対して、「べき」論を振りかざさないで済む、現状を受け入れさせる力が、「寛容」にはあります。

私見ですみません。ご参考になりますかどうか。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「優しさ」と「寛容」って言葉の意味は違うけど、その言葉の持つ力ってホント=の様な関係ですね!

なるほどと思いました。

まずはすべての現実を受け止める努力をしたいと思いました。
そこから、また色々自分の考えも交えてこれからは努力していきたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/10 00:12

具体的には、どのようなことですか?


(或いは、どのようなことが多いですか?)

Aさんにとっての「優しさ・思いやり」は、Bさんにとっては「おせっかい・余計なお世話」という場合も多々あります。
質問者様にとっての「優しさ」の定義は、どのようなことでしょう?

質問者様が、ある人の言動について「なんでそんなにエラそうなんだ!?」と思ったとしても、別の人は「適切な注意の仕方だ」と思うかもしれません。
現実社会では、そういうことはよくあります。

優しく、思いやりに溢れた人が好ましいのは当然です。
ですが、その「優しさ・思いやり」は、非常に曖昧な観念なんですね。
ですから、どうにでも動きます。
ある人にとっては、殺人さえ「思いやり」に含まれたりします。
(死病の激痛に喘ぐ肉親から懇願されて、泣く泣く手にかける等)

立地点が違えば、観点が違います。
観点が違えば、結果も違いますね。

つまり、「人の感情をコントロールすることは出来ない。他人が、自分の感性に合わないことをしていても、それはどうすることも出来ない。そんな中、唯一出来るのは、『人の振り見てわが振り直せ』(他人の言動を見て不快に思ったら、自分はそれをしないように気をつける)だけだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>Aさんにとっての「優しさ・思いやり」は、Bさんにとっては「おせっかい・余計なお世話」という場合も多々あります。
質問者様にとっての「優しさ」の定義は、どのようなことでしょう?

まさにこの事を考えるにふさわしい事例が先の回答者roro500様のリンク先に素敵なお話がありました。
時には相手側に立って、必要・不必要を考えてみることが大切なことだと知りました。
「おせっかい・余計なお世話」とは紙一重ですが、とても大切な事だと思いました。

人それぞれの考え方や想いを尊重しつつ、『人の振り見てわが振り直せ』のお言葉通り
これからも気をつけていきたいと思います。

お礼日時:2010/07/10 00:01

あなたは、優しさの基準を持っていますか?


他者に基準を置くか、自分に基準を置くかで優しさのレベルは違います。
また、自分と他人とでは、そもそも基準が違います。

自分勝手の人が確かに多い世の中ですが、一方「優しさ」と言う正義でもって他人に対し、憤りを感じ悲しくなるのは、「優しくない」ですよね。

私もあなたと同様に、他人の人が己の為に、或いは自分基準であるが為に、どうでも良い、流せば良い事を他者に対し文句・クレーム・怒鳴る人を否定します。

がしかし、同じ様にその人の立場・考え方も尊重します。

何故、文句を言ったのか?何故、悪気のない事を怒鳴ったのか?深く考えた事はありますか?
自己中でレベルが低いのであれば、諭せばよいだろうし、もし、諭せないならば、優しくないと思います。
何か考えが有って(或いは考え方が違って)言ったのならば、自分とはちがう基準が他人に有る事を自覚すればよい。

「優しさ」は、時に無責任でもあります。
人を思いやる優しさと、なし崩しに、ただ他人に迎合し受け入れる事とは違うと理解してると思います。

他人の事はどうあれ、他人に振り回される事なく、自分が(自分の基準でもって)他者に対し常に「優しく」(時に厳しい優しさも)出来るのであれば、よしとお考え下さい。

他人は決して自分ではない。
自分では「絶対正義」みたいな考え方は、他者に対する冒涜になります。
どこぞの原理主義者みたいに他者を排除する事になりかねません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

今まで優しさの基準なんて考えもしませんでした。

そして今考えると、良くも悪くもまずその人を思いやる事が大事なのかなと思います。

ほんと「優しさ」ってなんだろうって考えると難しいものですが、
「人を尊重する」という事ってよく聞く言葉ですが
この言葉の意味って真剣に考えれば考えるほど深いですね。

人との繋がりで決して忘れてはいけない言葉と思いました。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/09 23:41

世の中には人に優しくしたいのにできない人もいます、その人が


この質問を見たら悲しむかもしれません。
そしたらこの質問は明らかに優しくないですよ。

<なにげなく人が人に優しくできたら、
なんて素晴らしい世界になるだろうと思い、
優しい気持ちを忘れずに日々を過ごしています。

ただ、世界には、70億人のひとが住んでるんですよ。
あなたの体で考えたら指の先の皮膚です。
皮膚だったら血が循環して優しさが流れるかもしれません
ですが、もしあなたが髪の毛だったら循環しませんよね、
血液が流れてませんから。
あなたが人に優しさを期待し、そのことにとらわれたら、肝心な機能も果たせなく
なります。喜ぶだとか楽しむだとかの。

「お前はなぜそんなに偉そうなの?」と考えることは、明らかに敵意ですよね?
きっと、あなたは優しさを持った敵意だと反論されるかと思いますがね
私からしたら「ふざけんな」ですね。はい、これで今この時、世の中から
優しさが一個消えました。

己を見ることです。自分自身と対話してみて下さい。

なにか執着し過ぎてるように感じます。自分の考えですべて物事を捉えています。
これはこうだ!と決め付けてしまってると思います。

例えば、私が駅で重い荷物を持って一度で運べなく困っていたとします、
そこであなたが暗く泣いた顔で、荷物運ぶの手伝いましょうか?と来るのと
違う人が明るく元気な顔でがんばってと一言いってくれたなら私はあなたでは
なく違う人に優しさを感じると思います。

人に優しくできるときに優しくするでいいのではないでしょうか。

きっとバランスだと思います。

参考になるかどうかですが、一度、仏の教えを学んでみたらいかがでしょうか?
小林正観さんの本を今日、少し読んだのですがお勧めできます。
あとわかりやすい話で下のリンクがおすすめです。
http://wp1.fuchu.jp/~zenshoji/houwa2-1.html



でもあなたみたいな人、好きですよ、うっとうしいなと思っても
なんか力になりたいと思っちゃいます。言葉が汚かったり、
ひどい表現もありますが許してくださいね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

今roro500様をはじめ皆さまからアドバイスをいただき
自分の質問を読み返すと、確かに優しくない質問ですね。

その人の環境、価値観、その他すべての事が人それぞれ違うのに
自分の考え一つで物事を決めてしまっていた自分がいた事に気が付きました。


何事にもバランスですね。

リンク先の文章も読ませていただきました。
とても素敵なお話ですね。
2500年の時を超えて私の心にも響きました。

私もこの話を周りに伝えたいと思います。

とてもパワーをいただきました。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/09 23:23

そうですね。


みんなお互いが相手を思いやる優しい気持ちをもつことが出来たら、本当にすばらしいですよね。

私もそういうことを日々心がけ、いつでも実践できるような人になりたい!とは思っています。
しかし実際心がけていても、イライラしたり疲れていたり自分の心に余裕がなくなってしまった時には、なかなか人に対しての優しさを持てず自分のことでいっぱいになってしまいます。
頭の中では、これではいけないっと思っても心が付いていかず、後々反省するという繰り返しです。

自分の理想や目標をたてても、いざそれを実践するというのはなかなか難しいことだと痛感しています。

もしかしたら、skybluetyさんが仰っておられる方も、心の中では相手を思いやる気持ちを持っておられるかも知れません。本当は優しくしたいと思っておられるかも知れません。
しかし、心に余裕がなくてついつい怒鳴ってしまったり文句を言ってしまうのかも知れません。

そんな時に、こんな人は理不尽だ!偉そうに言うな!と周りの者が思ってしまえばそこまでですが、そうではなくそんな時こそ相手を思いやる優しい気持ちを持てたらすばらしいんじゃないかと思います。

『人が人に優しくする』

嫌だなっと思う人でも『人』です。
どんな人に対してでも優しい気持ちをもてることが本当の優しさなのかなっと思います。

長々とすみません(>_<)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

心がけていても、つい弱さが出てしまう事ってありますよね。
これは人間の性とでもいいましょうか。
きっと人はこの繰り返しで成長していくんでしょうね。


嫌だと思う人も「人」ですね。
今回私が目にしたその「人」にも、今思えば思いやる事ができなかった事を悔やんでします。

本当の優しさというモノが少し分かってきたような気がします。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/09 22:27

貴方の抱いている理想や、考えた上での行動は本当に素晴らしいものだと思います。


私もフィランソロピストの一人として貴方を尊敬します。
しかし、貴方が楽に生きることを望まれているのであれば、
その理想は貴方にとって障害となる場面も多いかと思います。
他の回答者の方も記載されていますが、
本当に人間は十人十色なのだと思います。
理想は現実とは異なるものであるから理想というのです。
貴方という存在を高めることに寄与するべきものが貴方の理想ですので、
理想自体を柔軟に考えることも必要ではないかと思います。
具体的には、嫌な人に対して、このような人もいるのだと知った上で認めることです。
確かにその人は悲しい存在ですが、貴方が過度に悲しむ必要はありません。
貴方の出来る範囲で出来ることをしていけば、何の問題もないと思います。
応援しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

おっしゃる通り、理想を柔軟に考える事こそが今の自分に足りないモノだと実感しました。

私はいつも理想を高く持ちすぎて現実とのギャップに多々苦しむ事があります。

そして今「柔軟」という言葉の意味をもう一度考え直してみれば、
それは理想はこうだからこうだという自分の硬い考えにまさに必要だった言葉です。

過度に悲しむ必要もなく「柔軟」に対応すればいいんですね!

私の新しい人生のキーワードの一つになりました。ありがとうございます。

お礼日時:2010/07/09 22:12

今大学の3年生で、あるサークルの長を務めている者です。


まさにあなたがおっしゃっているような人間が、うちの集団にもいます。


なんでそんなことで人を責める?だとか、そんなことで不満を覚える?という思いを何度もしましたが・・・。


自分は完全に精神論で考える人間なので、他人に冷たい言動には非常に憤りを覚えます。ただ集団の長という立場上の都合もあり、いろんな考えを持つようにし、本当に自分の言いたいことは言わないようにしています。


ミスして怒られるのは当然ですが、人によってはその大小に関わらず攻めまくる人間もいます。
その人からしてみれば、『ミスした』という事実が問題なのであって、その因果か間違っていない以上どんな怒り方になっても、合理的にはなんら間違ってはいない、という考えです。

他人の行いのせいで自分が害を被った。怒るか許すかは、その人が合理主義か感情主義かで大きく変わるものと考えます。
そこで怒っても、合理的になんら間違いはなく、それを否定することは合理主義的には『悪』なのです。
『ちょっと非情じゃないのか?』と反論しても、『ミスはミスだ』と返されてしまえば、何も言えなくなります。相手が感情を考える人間ならば、『ちょっと言い過ぎた』とかで収拾がつくことも期待できますが、極論として超合理主義者相手だと、最終的にはあまりの非情さに腹が立ち、実力行使に走る可能性がありますね。しかしその相手からすれば、『なんで殴られなければならないのか?』となるでしょう。



筋は通っているのになぜ否定される?と考えるのがうちの集団に一人いて、今まで何度も集団内で衝突がありました。
たいてい、その一人対その他大勢という対立になるんですが、集団のほぼ全員が感情主義者であるから当然なわけです。感情主義的な考えが当然という前提が入ってしまい、合理主義は排除してしまおうという姿勢に出てしまうんですね。
合理主義のその一人からすればそういう状況は納得いくわけありません。そうして同じ議論の繰り返しとなり、やがてきちんとした結論が出ないまま棚上げとなり、また対立が起きる・・・と。
今まで何度も対立が起きたのは、両者が相手の考えがどういった価値観に基づくものなのかということに気付かなかったためだと考えます(自分も大学の講義でいろんな価値観について知るまでは気付かなかった)。


ここまで主義主義言いまくってますが、あくまで良く言えばそうです。悪く言えば、ただのわがままとか人間として小さいだけ、などという言い方になります。
偉そうに見えてしまうのも、『合理的に正しい』ということがある意味自信になっているからです。


長くなったのでここで切りますね。こういった感じで良かったのか分かりませんが・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

文章を読ませていただいて、人の価値観について深く考えさせられました。

そしてこれからもnayamimuyo様のおかげで人の価値観について
いつも心のどこかにおいて考えていけそうです。

貴重な体験談ありがとうございます。

nayamimuyo様もこれからも色々な出来事があるとおもいますが
お互い人に優しくする気持ちを忘れずに頑張っていきましょう!

お礼日時:2010/07/09 21:59

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