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王政ローマと、共和政ローマと、ローマ帝国って違うの?

この3つは全部、違うの?

A 回答 (2件)

古代ローマは王制からスタートしました。

当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王のタルクィニウス・スペルブスの時代になるまでにローマは近隣の中では目だって大きな国に成長していたのですが、内紛が絶えずまた政変が相次いだり王族の横暴などもあり、タルクィニウス・スペルブスを追放し王制を廃して共和制に移行することになりました。

これによりローマは王制から共和制になるのですが、その政治体系は執政官を2人選挙で選出し、毎年交代しながら首相のような役職を勤めました。
ちなみに、ローマには王制時代から民会があり、王であっても市民集会の投票を得ないでは王に選出されることはなく、戦争を行うにも(相手から攻めてきた時は別ですが)市民集会の議決が必要でした。またこれとは別に王制時代に元老院という助言機関があり、これもそのまま共和制ローマに残ります。この二つが共和制ローマの発展と、ローマ帝国への変貌のきっかけになっていきます。

これには少し説明が必要だと思います。
さきにローマの始まりは暴力団みたいなもの、と書きましたが、当時は自分の出身地を追放されたり、土地を借金などで失って食い詰める人々がたくさんいました。初代の王とされるロムルスとレムルスの兄弟は、もともと高貴な出てあったようで、このような者を引き連れてローマを建国しました。
その頃には先進国のギリシャが近隣にあり、民主的な政治体系があったため、かなり初期のころから市民集会の原型はあったようです。これは戦争になれば「死」を覚悟して戦う義務があるゆえに、権利として獲得したものでありました。

これが共和制になっても引き続き有効とされ、市民には市民集会のほかに護民官(按察官)という役職も与えられ、今でも「拒否権」と呼ばれるVETOを持つ強大な権力を有していました。これに対して貴族とか富裕者のサロンでもある元老院は、執政官を排出できる人材が集まる集団として隠然たる権力を保持していました。(執政官は戦争時に指揮官になるため、高度な教育を受けられる貴族などに限定されていたため)

この二つの勢力が、ローマ自体が段々強力になり勢力と国土を広げていく間に何度もぶつかり合います。理由のひとつとして、国土が広がるとその土地に住んでいる部族をローマ市民にするため、平民も増えること、もうひとつは国土が広がると富裕者はさらに富裕になることで、平民格差が広がったからです。富の再分配に対して国内紛争がなんども起きました。

これを最終的に解決する方法を考え出したのが、かの有名なユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)です。彼は地中海全体に広がったローマ共和国の版図を統治するには元老院と市民集会の対立が邪魔になるとして、終身執政官+終身護民官+最高神祇官(これは元々終身)になる役職を考え出します。それも市民集会も元老院もどちらも賛成多数で、カエサルに与えるはずでした・・
と、ここで起こったのが元老院によるカエサル暗殺です。

これによりカエサルが筋道をつけた「皇帝(エンペラー)」にカエサルの養子であったアウグストスが着任することになります。
これにより内政問題がほぼ片付いたため、ローマは帝国としてますます発展するのですが、王とは成り立ちが違っても、所詮は独裁権力であることは同じであるため、代を重ねるごとに皇帝も腐敗し、ローマ帝国の滅亡に至るのです。

最後にエンペラーについて
もともとインペリアルと呼ばれたもので、軍の指揮権を意味します。つまり最高軍司令官です。
こうしてみると、皇帝とは、最高軍司令官・最高行政長官(内閣総理大臣みたいなもの)・護民官(拒否権を持つ平民の長)・元老院第一人者(結果として元老院の議長のようなものになる)・最高神祇官という大国ローマの最高の権力者であり、現在の世界情勢とローマの覇権・周辺国への影響を比較してみれば、アメリカ大統領とローマ法王と安全保障理事会をひとりで行っているようなものでしょう。

このようにして王制ローマからローマ帝国までは一連の流れがあるのです。
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王政ローマ


歴史 伝承では紀元前753年に初代ローマ王ロムルスが建国し、紀元前510年(または紀元前509年)に第7代目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されるまで続いたことになっている。

共和政ローマ
共和政ローマは、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマのことである。この時期のローマは、イタリア中部の一都市国家から、地中海世界の全域を支配 した。


ローマ帝国
西洋古代最大の帝国。前8世紀ごろ、ラテン人がテベレ川下流域に建てた都市国家に始まり、王政、のち共和政(前509~前27)を経て、前27年、内乱を収拾したオクタビアヌスの即位により帝政に移行。最盛期の五賢帝時代(96~180)その版図は最大となり、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はブリテン島に及ぶ大帝国となった。2世紀末から衰退し、395年東西に分裂。東ローマ帝国は1453年まで続くが、西ローマ帝国は476年、オドアケルに滅ぼされた。学術・芸術ではギリシアの模倣の域を出なかったが、法制・軍事・土木面にすぐれ、後世に大きな影響を与えた。

以上は大辞苑より抜粋
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