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もし学校で心の教育をより進めたら・・?

もし今の学校での国語や道徳などよりも
もっと踏み込んで、

・人は自分が受けた苦しみを他人にぶつけ吐き出す事
 またその例やその背後事情。
・嫉妬などの負の感情との向き合い方。
 いじめに発展したり躁鬱などになり悪化させない事

などと言った教育を年に1~2回ずつだけじっくりと。
義務教育期間9年、できれば高校3年までの間
段階的に教育した場合、

いじめ等は軽減されると思われますか?
それとも逆に心の闇を利用し悪質化すると思われますか?
(内容の質、または数として。)

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以下、私の推察になります。
これに対しても別途ご意見を頂けますと幸いです。

私は何となく気に食わない程度でいじめに加担している人間は
同情(単なる軽い理解)や罪悪感を微かに覚え、
しかし気に入らない性格は気に入らないと嫌い、
いじめを止めもしないが加担もしないスタンスになると
思えています。

いじめを率先して行おうとする中心人物も
周囲の肯定的意見が無ければ、自分が孤立するリスクを抱える為
若干いじめが起きる件数を減らせるのではと思えます。

集団でいじめる周囲全てが敵という居場所の無さという
重度の苦痛の件数も全体的に下がるのではと。


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以上の2点
・心の教育をすればいじめは軽減されるか?悪質化するか?
・それに対する私の推測

について、否定、肯定、ご意見など
様々なご意見を頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

いまいち書ききれなかったし伝えきれてないようなので追記させていただきます。



この手の話になると、被害者は弱者で救われなければいけない対象として語られますが、
被害者の方にも自尊心というものがあります。

心の救済とか言い出すと、いじめを受けているのに傷つく人間もいるでしょう。
助けたつもりなのに被害者の目に喜びの光は宿りません。
そういうことがままあるのです。

それでいじめ撲滅とやらが罪深い有害なものと断じているわけです。
心の教育をしたければしてみたらいいのです。
そして失敗して、次は心の教育反対派になって欲しいものです。
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この回答へのお礼

うーん・・強い思いがあるのが伝わって来る文ですね。

助けられる事で余計惨めになるなど気持ちは
私も一応解るつもりではいますが、

こんな事を言うと誤解されるかもしれませんが、
私が一番救いたいのは被害者ではありませんのでご安心を。
かといって加害者かと言われればそれもYesではありません。

社会に延々と深く長い時を掛けて絡まり合うストレスからの連鎖を、
個人個人が僅かずつでも内面的に
自力で消化する手助けのみをし、
ストレスが他人に連鎖するのを抑制するのが一番の目的です。

その答えを探しているのがこの質問なので、
頭のゆるい浅はかな同情で他者を余計に傷付ける真似をする気は
毛頭ありません。ご安心下さい。
最後の一文には私は一生お応えできないでしょうけれども。

お礼日時:2010/07/29 22:40

心と精神的な学問は、すぐにでも導入するべきです。


この学問が忘れさられていると、すでに古代の哲学者はいっています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私もその点がずっと疑問でした。 何か理由が有るのだろうか?と。
現代の偉い方々はどういうスタンスなのでしょうね。

ただ1つ言える事は、教師とは全く別の狭い適正が無ければ
他の回答者さんの言うような「逆効果」しか生まない教育者が
量産され、ろくでもない結果になるのは目に見えているでしょう。

難しいものですね。

お礼日時:2010/07/29 22:45

「時計仕掛けのオレンジ」という映画をご存じでしょうか?



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88% …

これは暴力に対して嫌悪感を持つように処置をされた若者が
ただ単に暴力に無防備な人になってしまうという筋です。

現在の臨床心理学で「いじめ」や「嫉妬」とは何かを9年間問いつめれば善人ができあがるなんて理屈はありません。
どちらかといえば「うざったくなって道徳的な話を拒否する人間」と「世間や他人に触れられない人間」を作り出すだけでしょう。
後者は上記の映画の主人公でしょう。

これが質問者さんの質問への返答で、次は私個人の考えですが
「適切な」人間関係の構築を主眼に置くべきでしょう。
合わない人には距離を置く、その子の気質にあった社会的に望ましいキャラを演ずることを望む。
理想的な子どもとして「全ての人間と仲良くする・活発で嘘をつかずはきはきとして善良な」子どもを作ろうとしますが、
合わない人とは無理に合わさない・気質がおとなしければおとなしいで、嘘吐きも、どもっていても、悪質でも社会的に望ましいように動くことを期待しましょう。
嘘吐きなら善良である振りをしなさい、というように。
どもっていても、目と手は動くように。
悪質でも敵は作らないようにと。

自分の邪心さえ社会と結合できるとき
いじめというか人間関係の衝突は人生の糧になるでしょう。
逆に自分の心が社会に望まれないときいじめは本人にとって世界は終わったと感じることでしょう。
いじめが深刻なのはいじめられる人間が社会的に逃げ場がないからというのが私の立場です。
逃げ場というか他に活躍できる場があればいじめは単なる合わない人で処理できるのですから。

加害者をなくす方向でいじめを撲滅しないのかって?
私はする気はありませんよ。
やりたい人がやってくれればいいです。
そういう人はどうせ説法しか思いつかないでしょうし。
そういういじめ廃絶というのが罪深い無意味で有害なことであったと気づいてくれればいいなと思っています。
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この回答へのお礼

Wikiに書かれていた全文を読ませて頂きました。

んー・・私は問い詰めて善人を作る気も無いですし、
痛みを知らない人間が社会で受ける危険性と
無意識に他人を傷付ける危険性も思慮してはおりますが。

>逆に自分の心が社会に望まれないときいじめは
>本人にとって世界は終わったと感じることでしょう。
>いじめが深刻なのはいじめられる人間が社会的に
>逃げ場がないからというのが私の立場です。
そうですね。

そして、私はいじめを撲滅する気は無いですね。
それは不可能でありおっしゃるように逆に無防備になり危険ですから。
私はどちらが加害者でどちらが被害者という価値観とは
ちょっと違う考えで動いているのでしょう。

少々考えさせられました。
1つ違った方向性でのご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/27 22:18

>・心の教育をすればいじめは軽減されるか?悪質化するか?




殆ど変化なし、と思います。
(個々のケースで軽減されることもあるだろうが、全体としては数値上でハッキリ判るほどは変わらない)

教育は非常に大切なことですので、道徳教育を強化するのは大変良いと思います。
ただし、それを「学校で」やるだけでは無意味だと思うのです。

私はもう半世紀を過ぎて生きてきましたが、「意地悪をしてはいけない」「友達をいじめてはいけない」というような基本的なことは、すべて家庭で習いました。
親の態度、親の言動、そして親の直接的な教育…そういったもので、倫理観念を学びました。
私の世代ですと、大体同じだと思います。

今、その「家庭での教育」が、全くお留守になっているケースが多いように見受けられます。
つまり、親自体に、倫理観念が薄いのです。
それは私たちの責任ですね。
その親たちを育てたのは、私たちの世代ですから。

それから、教育現場…学校の教員などにも、今は全くといっていいほど権限がありません。
当然のことながら、子供たちにナメられっぱなし。
ちょっとでも手を上げようものなら、体罰だ体罰だと大騒ぎされ、左遷やクビです。
こういう状況で、子供に倫理観念を教えるのは難しいと思います。

私たちの頃は、いじめられても、先生は必ず味方になっていじめっ子を叱ってくれました。
そして、いじめっ子も、そのいうことをききました。
何故か。
大人(この場合は先生)の権威があったからです。

今はそれが全くありません。
家庭でも学校でも。

ですから、子供たちだけに道徳教育を施しても、目覚ましい効果は期待できないと思います。


残念ながら、どうすれば効果があるのか、私には分かりません。
非常に長い目で見て、家庭教育から変えていく必要があるとしか。

以上、とりとめのない話で申し訳ありません。
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理想はけして悪いものではないですが、教育者が居ません。


それだけです。

これは必ずしも「米国の占領政策」などのためではありません。日本国憲法などは「理想主義」に燃えています。

全てはお金のせいですね。この点で#1のお答えと同じ結論になります。
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この回答へのお礼

なるほど。確かに適切な教育者を作り税金で養う事が
かなり大きな壁となりますね。
あらゆる時間的コストと金額的コストも考慮しなければ。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/07/27 10:55

 私が考える前提として、「子供の行いは、理性的ではない」ということです。



 ルソーの「エミール」という本は、それに関して興味深い考察をしています。

 理性が成長していない以上、精神的な教育を言葉だけでほどこすのは無理があると思います。

 また、逆に、理性が成長していないので、そのような心の教育をしても、平均してみれば、悪質化も軽減も、とくに見られないと思います。

>>私は何となく気に食わない程度でいじめに加担している人間は・・・
 もしあなたが、「こわ~い人」に絡まれている人をみたら、助けようとしますか?
 
>>いじめを率先して行おうとする中心人物も周囲の肯定的意見が無ければ・・・
 むしろ、そのような、ある種の集団的合意があるからこそ、そのような中心的人物がうまれるのでは?

 いじめをなくしたいのであれば、「イジメ」などくだらないことをする暇な時間を与えないことです。

 子供に対して理性を求めるのは、大人に対して金銭欲を捨てさせるようなことだと思います。
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この回答へのお礼

>>>私は何となく気に食わない程度でいじめに加担している人間は・・・
> もしあなたが、「こわ~い人」に絡まれている人をみたら、助けようとしますか?

そういう話ではなくわざわざ加担する意思を示すだろうか?
というお話だったのですが。
 
>>>いじめを率先して行おうとする中心人物も周囲の肯定的意見が無ければ・・・
> むしろ、そのような、ある種の集団的合意があるからこそ、そのような中心的人物がうまれるのでは?

その集団的合意は、個人の意識にわずかな変化をもたらす事で
薄める事、合意による助長や過激化が軽減を望めると思うのですが。

また、いじめをわざわざ行う者は
本来気に食わない事は無視し自分の好きな事をする時間
をわざわざ割いて、わざわざ人をいじめているものです。
その原動力は大抵、それなりの不満やストレスを受け、
そのストレスを自己否定に繋げると苦しい為、躁鬱の鬱から躁へ転換し
他人をいじめる事で鬱から免れようとする行為 であるものです。

内容の程度とその段階にもよりますが
中心的人物になりうる人は基本限られていると思います。



>理性が成長していない以上、精神的な教育を言葉だけでほどこすのは
>無理があると思います。
確かにそうですね。
ただ、どんな幼い子供でも
親に虐待されれば周囲の自分より弱い子供を攻撃しますし、
誰かが何かを見て「かわいそう」と言えば
若干「かわいそうかも」と思う心理は機能していますし、
言葉ではなく年齢に合わせて映像として仮に体験させれば
思慮が1ステップ進む可能性は有りそうにも。
現状何とも言えませんが。


>いじめをなくしたいのであれば、「イジメ」などくだらないことを
>する暇な時間を与えないことです。
奪おうとすれば人の個体は反発し
結果ストレスを増幅させ
対人関係でストレスを増やせば攻撃衝動が増えるだけ
のように私は思えてしまいます。
奪う形ではなく暇を無くす手段が有れば変わるかもしれませんが、
それはそれで社会性を育む事を阻害し
社会に出てから人間関係で苦労する人間になりそうでも有りますが。



ご回答ありがとうございました。
かなり色々と考えさせられました。

お礼日時:2010/07/27 10:50

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