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 良心とか、好ましい心、といった表現について。

 以前、何処かで“良心”という言葉を使って思いを述べた時、良心って何ですか、と言ったような意見を貰った事があります。

 そのとき私は“えっ”て驚きました。
 「良心って何」って問うような事柄なのだろうかと。

 でもだんだん分かるようになってきました。
 そのように問う人の“良心”に就いての捉え方は、人間社会に於ける“理性的良心”について、だと言う事を。
 言い換えれば、理性で考えられるところの“良心”とは、と言うものでした。 

 こうした観点からの“良心”について考える事は人間社会をより良くするために、必要なことであろうと思います。

 とは言っても、理性で考える“良心”は感情に於ける“良心”を拠り所にするしかないのでは、と思うのです。
 感情に於ける良心をないがしろにして、「良心」なるものを考えようとしても、言葉の世界の域を出ないのではないでしょうか。

 私が意識して使う“良心”は、小学生でも分かる「やさしさ、思いやりの心」と言った気持ちのことです。
 

 
 

A 回答 (16件中1~10件)

的外れな意見かも知れませんが…



良心の反対は平たく考えて『悪心』だと思います。
この悪心を考えた時、殆ど『欲望』が絡んで来るモノだと思います。
と言う事は『良心』とは欲望から切り離されたモノに近いと思います。
利己的な欲望から隔絶した心こそが良心として捉えられても問題ないのでは無いでしょうか?

因みに「良心って何?」と問う人についてですが
こう言う人は何か『基準』を求めているのだと思いますよ。
>感情に於ける良心をないがしろにして、「良心」なるものを考えようとしても、言葉の世界の域を出ないのではないでしょうか。
確かに感情的な部分で「良心」の発露は多分にありえるでしょう。
しかし我々ホモサピエンスは「言葉」に意思の疎通に大部分を必要としてしまいます。
良心と言う心理の概念をどうにかして他に伝えなければならない。
または、他から教えを授かりたい。と言った場合『言葉』にしなければならない場合も多々ある訳で…
> 言い換えれば、理性で考えられるところの“良心”とは、と言うものでした。
と言う事も已む無し。
更に言うと「人の心」に基準なんて千差万別。
つまりは「良心」をどう捉えるか?なんて事も千差万別で然るべし。です。

この回答への補足

 私がよく使う「良心=好ましい心=やさしさとか」についての批判に、
 情緒的レベルの二元論で善、悪を考えても、思考とは云えないのではないかと言われたことがありました。

 結構ハイレベルでの「哲学」をされている方のような意見でしたが、結局結論めいた答えはいただけず、私の頭は混乱するばかり。

 難しい。

 ありがとうございました。

補足日時:2010/08/20 06:30
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この回答へのお礼

 善悪の基準は人によりけり、と言う指摘は納得できました。
 そしてこの基準と云うものには、人それぞれの“幅”と言うものがあり、その区域の中で右に寄ったり左に寄ったりと、揺れながら生きているのだと思います。

 基準は人によりけり、とは・・・・・
 ある人にとって“好ましくない状態”と思える状況が、別の人には「今の貴方のその状態は私にとってはとても“好ましい状態”である」と言える、と云うようなことですね。

 回答ありがとうございました。(27/09:30)

お礼日時:2010/08/27 09:32

人の生きる目的が物質的な繁栄や即物的な利益の追求ではなく、


精神的充足感の追求であれば、「良心」や「善悪」といった
社会的価値は二次的なもので、自己の充足量の最大化において
+になるか-になるかだけが価値基準です。
「善悪」のように、自己の衝動の展開とは独立した、他律的価値
によって強制される社会行動は、原理的認識が伴わないため、
「充足量の最大化」において次善の策となる。
(「悪」についての過去の回答を下に付けます)


悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。


その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。


そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。


その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。


それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。

この回答への補足

 「良心」という言葉についての「概念」を抽象的に表現した“回答”と受け止めました。内容は分かってないので自身ありませんが。

 この視点で、人が持つ感情、「他を思いやる心=やさしさ」について、語ってみていただけないでしょうか。

 よろしくお願いいたします。
 

 

補足日時:2010/08/20 23:46
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この回答へのお礼

 よく使われる「真実の自己」と言う表現。
 これに相当する“自身”を成長させる事柄を「善」と言い、妨げる事柄は「悪」とする。

 このように受けとめてみました。

 回答ありがとうございました。(27/9:43)

お礼日時:2010/08/27 09:42

>が意識して使う“良心”は、小学生でも分かる「やさしさ、思いやりの心」と言った気持ちのことです。



yy8yy8azさんにとって、こうあるべきである自分の姿が「やさしさ、思いやりの心」を持った人間ということではないでしょうか。
簡単に言うと現実の自分と理想の自分の落差が良心という意識を生み出すのだと思います。

この回答への補足

 「現実の自分と理想の自分との落差が良心という意識を生み出す」・・・・・ここがよく分かりません。

 “向上心”のようなことを言おうとしているのでしょうか。(21/23:35)

補足日時:2010/08/21 23:34
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この回答へのお礼

 何度も読み返してみましたが、やはり読み取れませんでした。申し訳ありません。

 回答ありがとうございました。(27/09:55)

お礼日時:2010/08/27 09:56

>“良心”は、小学生でも分かる「やさしさ、思いやりの心」



 つまり、やさしさや思いやりの心 は「自分にとって」好ましいということですか。

 では、悪心とは何ですか。

この回答への補足

 回答を得て考えました。

 自分にとって、というよりも・・・・・
 自分の心にとって、人間の心にとって好ましい、と言ったニュアンスでしょうか。

 いや、やさしさとか、他を思いやる心、そうした心を“好ましい心”と言っているんです。
 正直言って、この表現はとても照れくさいんです。

 でも、人の心を善悪に二分割してしまうと、混沌とした中間部分を無視してしまうように思えて、こんな表現を思いつき、使い始めました。

 

 

補足日時:2010/08/22 23:55
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この回答へのお礼

 だから“悪心”とは、
 自分にとって、と言うよりも自分の心「精神」にとって好ましくない心、と受けとめています。

 回答ありがとうございました。(27/10:02)

お礼日時:2010/08/27 10:01

#2の者です。


「やさしさ」というと、無条件で良いもののように考えられがちですが、
それが必ずしも、相手のためや社会のためにならない、その場の逃避や
自己満足である場合も多いので、「やさしさ」自体が固有の価値を持つ
ことはありません。
もちろん、「相手への厳しい対応も真のやさしさだ」というような拡張
もなされることがありますが、そうなると「小学生にもわかるやさしさ」
ではなくなります。


それではなぜ、一般的には無条件で「やさしさ」が良いもののように錯覚
されているかというと、その対極に「社会のためになろうとなるまいと
自分の感情を優先する=自己チュー化」が進行しているので、それを補完
する“割れ鍋に綴じ蓋”として、「やさしさ」が価値を持つのです。
(短絡的毒には、また短絡的な毒消しを<しかしその多様は体に悪い
(精神的充足量の最大化に反する)ていう)

この回答への補足

 「やさしさ」という“心”の“働き”は無条件で善いもの、と受け止めています。

 ただ、そこから派生するさまざまな行為、行動に、無条件で「善い」と割り切れない事柄が生じるのだと思います。

 理性の判断いかんによると。
 
 「やさしさ」という心そのものは、重なりますが無条件で「善い」と言っていいのではないでしょうか。

補足日時:2010/08/23 22:48
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この回答へのお礼

 やはり、やさしさ(思いやりの気持ちとか)から派生する“事々”を善悪で捉えようとすると、人それぞれの立場や、価値観や、認識の違いによって、様々な意見が出てくるように思います。

 やさしさと言う心情そのものは「固有の価値を持つ」と思えるのですが。

 回答ありがとうございました。(27/10:13)

お礼日時:2010/08/27 10:13

良心とは本来の人間の心です。


通常はなかなか現れない良い心なんです。
誰かが困っていたら、何も考えずに助けてあげる心です。

理性と言うのは通常使っている心でもあり、その時代、その日の正しい判断をしてくれます。
従って、理性は成長します、時代、年月と共に。
戦争中、玉砕が褒め称えられましたが、今はそんな馬鹿なと理性は考えています。

好ましい心が理性かもしれませんね。

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概要を知りたければ私のプロフィールをみて「出前講座」

この回答への補足

 理性に善し悪しは無いように思っています。

 自分に得になることばかり考える“こころ”も「理」を持って判断しているのではないでしょうか。

補足日時:2010/08/23 22:54
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この回答へのお礼

 「理性」と言う言葉は、人間の持つ勝れた心の働きなので、よい意味で使われる(表現される)ことが多いですが、悪いことを考えるのも「理性」の働きに依る、のではないでしょうか。

 回答ありがとうございました。(27/10:25)

お礼日時:2010/08/27 10:24

広辞苑引くと良心ってのは、何が自分にとって善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪を退ける個人の道徳意識。


とあります。

また
良心の自由ってことも付録で付いていて
自分の良心に反する信念や行動を強制されないことってあります。

”知らせ”ってところに貴女の言う思いやりとかが関わってくるのでしょうかね。
それは
何が知らせるの?
それは
貴方を想う心

なんちゃって。。。

袖はつかまないでね

この回答への補足

 後ほど、まとめて・・・・・、

補足日時:2010/08/23 22:58
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この回答へのお礼

 「良心」と言う言葉は、道徳心の世界の“ことば”として受けとめなければならない、のだと気づきました。

 回答ありがとうございました。(27/10:30)

お礼日時:2010/08/27 10:29

 こんにちは。



 ★ 感情に於ける良心をないがしろにして、「良心」なるものを考えようとしても、言葉の世界の域を出ないのではないでしょうか。
 ☆ に賛成します。
 けっきょくのところ へそを曲げるかどうかなのだとわたしも考えます。

 わたしたちが――いろいろ考えて最終的に――判断をくだすときに もし心に逆らうような内容であれば やましさを感じるわけです。あるいは胸騒ぎもするでしょうし 顔をあからめたりもします。さらにまたこれらにあらがおうともします。 
 あきらかに良心は 《感情において》現われるものです。

 そのように気持ちにおいて現われたおのれの良心をたしかに理性は(もしくは精神の記憶能力は) 覚えていてそこに秩序を見出します。おのれの良心体験を整理して みづから秩序立てたりしつつ いわば自然本性としての秩序を見出します。(心が 外からみづからに取り込んだ余分なものを棄てたとも言えるかも知れません)。
 この記憶の倉庫に整理された秩序は 知解能力をとおして 言葉にして表現されます。たとえば《おのれの持てる力を無理に超えて何かをむさぼるということは その秩序においてわたしはしない》であるとか。あるいは 《その秩序においてわたしは みづからを そして 他人を 傷つけたり殺したりはしない》。
 これが精神および身体の――自然本性にのっとった――秩序であり わがこころである。

 すでに《理性的良心》が出来上がっていますが これを守るのは 倫理としてのふるまいになるのでしょう。またこれらを《ころすなかれ》や《むさぼるなかれ》というふうに戒めとして説くようになるのは 道徳です。(宗教もそうであるかも知れません)。

 ★ とは言っても、理性で考える“良心”は感情に於ける“良心”を拠り所にするしかないのでは、と思うのです。
 ☆ その心は こうなのではないでしょうか。つまり 《道徳規範は愚の骨頂である》ということ。
 社会において道徳なり倫理学が規範を説くから その理性的良心がとうといのではなく また守らなければならないのではなく そうではなく もともとわが自然本性にそのように備わっていると見出したゆえに そうしようと努めつつ生活しているということ。
 これが
 ★ 好ましい心
 ☆ であるのではないでしょうか。

この回答への補足

 もう少し後で(27/10:33)

補足日時:2010/08/27 10:32
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この回答へのお礼

 ここ哲学カテを利用するようになった当初、ブラジュロンヌさんとの意見交換では、結構考え方が近いような印象を持ちましたが、今回も認識に共通したものがあるように感じます。
 ただ、うまいことそこを表現できないのが残念です。

 でも《道徳規範は愚の骨頂である》と言うほどには過激ではありません。

 感情としての“良心”を源として発生する社会的良心「道徳心」は、理性が大きく拘わってきます。
 その理性が考え出す道徳は、人のこれまで生きてきた体験や、その人の性格や能力などに影響を受けるわけですから、様々な意見が存在する、ということになるのではないでしょうか。

 うまくいえません。

 回答ありがとうございました。(27/11:56)

お礼日時:2010/08/27 11:57

 yy8yy8az さん うっかり投稿してしまって すみませんでした。



 同じような名前でもう一人おられると思ったのと 直前のご投稿から女性だと捉えたので むかしの yy8yy8az さんだとは思わなかった。うっかりしてしまいました。
 なかったことにしてください。

この回答への補足

 時効成立のメッセージは当の昔に目にしています。

 bragelonneさんの質問はよく見ているのですがレベルが高すぎて参加できないだけ。
 “こだわり”は全くありません。

 気づかずに寄せた「回答内容」をそのまま受け止めてもよいでしょうか。

 

補足日時:2010/08/21 23:20
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 No.8&9のブラジュロンヌです。



 ★ 時効成立のメッセージは当の昔に目にしています。
 ☆ あぁ そうでしたか。そうでしたね。超党派で考えるということが必要であり大事だと思ったので 一方的に自分から時効成立といたしました。そうでしたね。

 ★ bragelonneさんの質問はよく見ているのですがレベルが高すぎて参加できないだけ。
 ☆ そうでしたか。たしかに過去は水に流したのですが たとえば投稿を寄せてもらってないと思えば こちらから寄せてしまって あぁ うっかりだったと思ったのでした。

 ★ “こだわり”は全くありません。
 ☆ そうですか。一本取られてしまいました。

 ★ 気づかずに寄せた「回答内容」をそのまま受け止めてもよいでしょうか。 
 ☆ そこまで言っていただくのなら よろしくお願い致します。どうぞ。

この回答への補足

 いただいた回答は丁寧に読み込んで見ます。

 何しろ相変わらずの難文だから。(23/11:10)

補足日時:2010/08/23 23:08
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