今川義元の刀、宗左文字にはなぜ傷がないのでしょうか?
今川義元は桶狭間で討たれ、愛刀の宗左文字は織田信長のものになりましたが、今のこる、宗左文字には傷がありません。
桶狭間で今川義元は打たれる際に、かなりの抵抗をしたと(毛利新助、服部小平太、小指を食いちぎり・・)歴史小説には大体出てきます。でも、それなら、愛刀に傷がないのは不思議な気がしませんか?
桶狭間は奇襲戦ではないことは、現代ではほぼ間違いないと証明されていると思います。ただ、愛刀に傷がつく前に討たれてしまった、という状況からして、おそらく、今川義元は抵抗をしたり、個人的な奮戦をするようなこともなく、その最後は非常にあっけなく、あっという間に討たれてしまったのではないかという気がするのですが、みなさんどう思われますか?
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
「信長記」(信長公記)には織田勢の攻撃の後、今川勢は義元の塗輿も捨てて逃げ崩れたが、旗本三百騎ほどが義元を円陣に囲んで後退しながら、織田勢と激戦を繰り広げた描写があります。
また、義元に攻めかかった服部小平太が膝の口を斬られた描写もあります。義元が小平太を斬ったと明言されているわけではありませんが、素直に読めば義元自身が小平太を斬ったのでしょう。
織田勢の攻撃から義元の死まではある程度の時間が経過しているようです。
贈答品という宗三左文字の来歴を考えると、傷がないのは、義元が大切に扱っていたため実戦で使うような位置になかったと考えられないでしょうか。
つまり、義元自身が腰に佩いていたわけではなく、小姓などが持っていた可能性がないかということです。
次々と護衛が討たれていく中で義元が無抵抗で討たれるとは思えません。
この回答への補足
ご回答ありがとうございます。
このようなご回答をいただくと、うれしいですね。
信長公記は御存知の通り、首巻は一番最後に太田牛一が、記憶を頼りに
記載したもので、当然、桶狭間の戦いも後から書かれたものです。
リアルタイムで書かれたのは、足利義昭を奉じて上洛した時からです。
考えてみますと、20年程度(とは言えなくてもかなり経過した昔の事象)
後に、合戦の現場の状況を書くというのは困難でしょう。
現場の状況を本当に分かっているのは、当事者しかいませんが
服部小平太にしろ毛利新助にしろ、本当のことを報告しているかどうか
非常にあいまいです。今川義元に斬られた・・と報告したほうが
本当じゃなくても、すごい話になるように思います。
つまり、正確な記述で有名な信長公記でも、この部分は書かれた時期が
かなり後でもあり、現場からきちんとした報告があがっているか非常に
疑問が残るところです。(そう言ってしまえば、何でも怪しいと
なってしまいますけれども)
もし、今川義元が本当にこの刀を使って、抵抗したならそれなりの
ダメージを刀は受けるはずです。ただ、信長公記を読む限りは
確かに、今川義元はそれなりの抵抗をしたようです。
とすると、やはり『今川義元』は別の刀で抵抗した、というのが
正解なのかもしれません。
もし、今川義元が宗左文字を佩いていながら、刀にダメージが無いというのは
『使う暇もなく』あっけなく討ち取られたから、つまり桶狭間の戦いは
あっけなく決着がついたものではないか・・・と空想にふけりました。
空想にお付き合いいただき、ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
義元が佩びていた当時は2尺6寸の太刀でしたが、
それを分捕った信長はそれを2尺2寸1分まで磨き上げました。
その後その刀は豊臣秀吉、秀頼、徳川家康と持ち主を代え
明暦の大火で江戸城が焼け落ちた時、瓦礫の下に埋まりました。
そこで瓦礫の中から掘り起こし、打ち直したのです。
つまり研磨されたり打ち直されたりしたために傷は無いのでしょう。
宗左文字は義元の所有してた当事のままではありません。
この回答への補足
御回答有難うございます。
織田信長が磨上したこと、明暦の大火にあったことは知っております。
今川義元の所有していたころとは変わっているとおもいます。
また信長は磨上げが好きだったようで、太刀を何本か磨上げいますね。
実際に、太刀は磨上げて打刀になることが多いようです。
磨上げは茎の部分を詰めますので、切っ先側は短くなりません。
普通に、刀はどこで切るか、どこを使うか、と言えば切っ先側です。
茎に近い部分で切ることは、ほとんどないと思います。
一方で、明暦の大火では、打ち直しという文言もあれば、『再刃』という
言い方もあります。普通に考えると、火事にあった場合は『焼き入れ』が
戻っしまい、再度、焼き入れをした、と考えるのが普通です。
火事で、溶けてしまった部分があったので、打ち直しをしたのだ・・
と言うことはおそらくないと思います。なぜなら、信長が刀に刻んだ
『禄三年五月十九日義元討・・・』の文字がそのまま残っているからです。
また、日本刀の構造上、打ち直しは困難で、修復は、磨くか、曲がりを
とるかで、刃こぼれ部分を治すには磨くしかありません。
通常、激しく戦えば、刃先に重大なダメージが残ります。切っ先側ですから
磨上げても、傷は残るはずです。そこに大きな傷がない。
大火にあったと言っても、刻んだ文字が残っているなら『溶けた』というより
『焼き』が戻ったと考えるべきでしょう。
とすると、義元の所持してころと形は変わっていますが、切っ先側、
打ち物部分に傷がないということは、『使われなかったから』というのが
もっとも正しい気がします。
戦場で、刀を使わなかった・・ということは、使う間もなく討たれてしまった。
桶狭間では、輿に乗って後退していたが、まさか討たれると思う間もなく
討たれてしまい、歴史小説にあるような今川義元の奮戦は、全くなかったのでは
と思う次第です。
今となっては、今川義元の最後などと言うのは想像でしかわかりませんが
刀に傷がないことは、大きな抵抗もせずあっさり撃たれてしまった、
桶狭間の戦いの実像とはそんな状況だったのではないか、と推測して
いる次第です。
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