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昭和20年5月25日の山の手空襲について

 いわゆる「東京大空襲」は、3月10日の空襲をいいますが、5月25日の山の手空襲はさらに規模がおおきなものだったといいます。(被害は3月10日より少なかったのですが)

 3月10日は、当時の「陸軍記念日」を狙って行われた、となにかで読んだ記憶があります。
では5月の方は27日の「海軍記念日」とやはり関係があるのでしょうか? 
また、そうだとすればなぜ27日でなく2日ずれたのでしょう。

 ご教示お願いいたします。

A 回答 (3件)

私も同じ疑問を抱いて7月に質問しました。


戦意を喪失させるという目的で大規模な空爆をする日は、陸軍・海軍それぞれの記念日に実行するという作戦ではなかったのか、という考えで質問したのですが、
「陸軍記念日」の空襲は、意図的にその日を狙ったものではない、という回答を頂いております。
そのことから推測しますと、5月25日の空襲も「海軍記念日」を狙ったものではない、と言えそうです。

私の質問です。参考になさってください。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6067323.html
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 これまでに日本本土へのアメリカの戦略爆撃に関して、日米双方から多くの資料が出版されていますが、そのどれを見ても(といっても全てに目を通したわけではありませんが)日本への戦略爆撃に関して、そのスケジュール決定過程に日本の陸海軍部に関係した記念日に、ターゲットを絞って実行日を当てはめたという記述は見たことがありません。



 たしかに話としては何となくありそうな話ですが、そのような意図的な(ある意味幼稚なとでもいえますが)意思表示を日本軍部あるいは政治中枢に見せ付けてその継戦意欲を挫くなどという、回りくどい手法を取る必要などまったくないほど戦局は圧倒的に日本に不利だったことをまず考えるべきです。

 ただし記録に残っているものに、関連付けられそうな記述が一つだけあります。それは1944年の11月頃、真珠湾奇襲の意趣返しとして12月のその日に、皇居を爆撃してはどうだろうかという提案がなされたというものです。結果的にこの案は、ターゲットがあまりに微妙すぎるということで上層部に却下されています。

 ルメイが実行した夜間低空焼夷弾爆撃は徹底したB29の軽量化が不可欠でした。そのためB29の防御武器であった50口径機関銃を全て取り外す必要がありました。さらに低空夜間の爆撃行によって考えられる搭乗員たちのストレス(相当に危険な作戦だということで、搭乗員たちの間にはかなり動揺する者が多かったそうです)を和らげるために、十分な休暇(5日程度だったようです)を与える必要もありました。

 これらの諸々の準備期間をAAFが作戦実行を決定した期日に加えた結果、3月10日になったというところではないでしょうか。もっともその日もサイパン・テニアン・グアム各基地の気象状況次第では延期もありえたのですから(実際に最大で1週間も作戦が延期されたこともありました)、その点からいっても意図的な作戦実行日を決めて強行するということは、現実的ではなかったと考えます。

 最後にちょっと長くなりますが、当日部隊の最後の機の発進を見送ったルメイと第21爆撃軍報道検閲官セイント・クレア・マケルウェイが、現地に取材で訪れていたニューヨーカー誌記者に談話を引用します。

 この文章を読めば、当時アメリカ側にそのような意図がなかったということが分かるのではないでしょうか。

「ルメイと部下たちは、戦争を短縮しようとしています。ルメイとその全ての部下たち、すなわち、頭脳と善性と人間の努力に対する信念とに基ずく指導力を持ち、共通の高尚な目的のために行動するグアム・テニアン・サイパンの島々にいる男たちの集団がもたらす努力は、ほとんど融和できるもの、緊張の日々の中で数時間の睡眠から目覚めたときに、あなたの周りや内側に満ちているのが感じられるほどのものなのです」

 まあこの辺のアメリカ人の独善性は今も昔も変わっていませんね。いい気なものです。ただ、あの東京大空襲の当日、多くの罪もない老若男女の犠牲者や焼け出された人びとを横目に、日本陸軍が記念パレードを軍楽隊を先頭に被災地付近で強行した事実にも唖然とするばかりですが。

 かなり脱線しました。お許しを。
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この回答へのお礼

ここでまとめてお礼を申し上げます。
みなさま、詳細なご回答をありがとうございました。

 要するに、3月10日の空襲は陸軍記念日を狙ったものではないようですね。

お礼日時:2010/09/21 07:41

 アメリカ軍による本土空襲(爆撃)は、初め高高度からの精密爆撃によっていましたが、戦果が挙がらなかったために、爆撃集団司令官に新たに着任したルメイ少将は、夜間低高度焼夷弾爆撃に切り替え、その先駆けが1945年(昭和20)3月9日の東京夜間空襲で、離陸機334機(内投弾機298機)となっています。

次いで11日名古屋(離陸313機)、13日大阪(離陸301機)、16日神戸(離陸330機)、18日再び名古屋(離陸313機)、その後太刀洗、大村、下関とこの月だけでも空襲が本土全体に及んでいます。

 つまり、東京市民からみれば9日夜は特別だったかもしれませんが、アメリカ軍にとれば単なる一攻撃目標に過ぎなかった、といえるでしょう。

 これ以後さらに攻撃回数は増し、同年4月には19日延べ29回。さらに5月も20日延べ29回も来襲しております。これら以外に海上機動部隊からの艦載機の来襲を含めると、殆ど毎日どこかの都市や基地が銃爆撃を蒙っていたことになります。これが本土空襲の実態であって、或る都市が空襲を受けた日に特別な意味づけをするのは当時の状勢を知らないからではないでしょうか。

 さて、山の手空襲の場合、5月25日夜間には実に502機が来襲し、うち470機が投弾しましたが、その二日前(23日)にも東京市街地一帯に562機が来襲していますし、26、27日には下関に機雷投下、29日の横浜に517機による空襲が行なわれています。二日ずれということであれば横浜空襲も該当することになります。

 
 
 「歴史群像」太平洋戦史シリーズvol.60『本土決戦』(学習研究社)所収の「アメリカ軍の航空作戦一覧」にアメリカ第20空軍による本土空襲の詳細な記録があります。

 
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