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新聞で次のような記事にぶつかりました。戦時中の学童疎開の疎開船の話です。
<「運賃が払えずに乗り損ねた」>
その船は途中で撃沈され、語り手は生き延びた、そうです。
この話から、下記のように考えますが、正しいでしょうか?
1.疎開のための運賃が、国持ちでなく個人持ちだったので、学童疎開そのものは、強制的ではなく、お勧め位だったのですね。
2.疎開先での食費などの滞在費も、国費でなく個人支払いだったのですね。

A 回答 (1件)

疎開船が登場するので、沖縄・南西諸島のお話ですね?


東京などの都市部の疎開と沖縄の疎開は少々違っていたようです。

都市部の場合は、下記の閣議決定の内容の通りですね。
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00563. …


沖縄の場合ですが、「学童疎開」と「一般疎開」に分けられます。

学童疎開の根拠になるのが上記とは別の閣議決定で、それを受けて沖縄県が準備した「沖縄県学童集団疎開準備要項」なるものです。全文はオンラインでは見当たらないのですが、那覇市教育委員会が編纂した「那覇市教育史」に収められています。大きな図書館には置いてあると思います。

掻い摘んで記すと、対象者が今の3年生~6年生という点は都市部と変らないのですが、健康で優秀な男児に限っている点(選抜ですね)や、引率の教師も選抜されている等が大きく異なります。
さらに負担は県が行うことになっています。不可解な条件はついていますが、強制命令です。
大分、熊本、宮崎が行き先だったそうです。

しかし証言者によると上記の条件は建て前だったようです。
女子も混じっていましたし、滞在費用負担は本土並みの10円に引き上げられたそうで、何よりも強制命令でありながら保護者の説得に教師が奔走するのが現実だったとか。
(運賃は引き上げに含まれたかはちょっとわかりません)

保護者へのお願いというのが、微妙なところで、当初県民が乗り気でなかったのが理由のようです。
特に対馬丸の事件が広まると、さらに乗り気でなくなるんですが、1944.10.10の那覇空襲で風向きは変ったそうです。でも、海はもっと危険になっていましたので教師も保護者も難しい判断を委ねられた形になると思います。


一般疎開は、保護者や市民、低学年児童を含めた疎開で九州、台湾に国費で行われたことになっていますが、今尚、実態は不明だそうです。

なのであらためて纏めると

1)について
・学童疎開は強制だが、実際は説得して周るものだった(お勧めとはニュアンスが違う)
・船賃はごめんなさい、わかりません

2)について
・全額国庫負担ですが、月10円に引き上げられました。所得の低い沖縄県には、大変だったので理由にはなったと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。
綿密に調べていただき、恐縮しております。
質問のように、学童疎開を通して、戦時下における政府の指示は、どのくらいの強制力を持っていたか、が気になっていました。
お答のように、おそらく他の指示も同様だと思いますが、政府の指示は一般に強制であるが、施行上は100%の強制ではなかった、ようですね。

お礼日時:2015/08/19 14:21

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