No.6ベストアンサー
- 回答日時:
疎開と言っても、いろいろな種類があり、空襲による被害を受けないようにするため、工場を地方に疎開したり、官庁を地方に疎開することなどもありました。
また、空襲による建物密集地の延焼を防ぐため、建物疎開(官庁が指定した建物を強制撤去して空襲時に延焼が起こりにくくする)というものまでありました。質問文からすると一般住民の疎開に限定されているようなので、以下に説明します住民の疎開は基本的に二種類ありました。縁故疎開と集団疎開です。
縁故疎開は、田舎に知人や親戚などの縁故者がいる個人や世帯が自主的に自費で疎開を行うもので、完全に自己責任の疎開になります。政府は無関係です。国内のどこへ疎開するのも自由ですが、すべて自費なので、経済的に余裕がある家庭や親戚との関係が良い家庭に限られました。知識層の多くがこの方法で疎開をしています。
一方、集団疎開は政府が主導するもので、小学生の学童のみを田舎に疎開させる学童疎開が行われました。ですから学童疎開と呼ばれます。戦争に役に立たない年齢の低い子供だけが田舎に疎開させられたのです。12歳~17歳の学生たちは大人の戦争労働と国防を手助けするために都市部に残されました。
集団疎開は学校ごとに疎開を行うもので、疎開先も政府によって受入先の県が指定され、各県に受入割当数を決定しています。東京の学童は東北、関東、甲信越の各県が受入県になりました。疎開にかかる費用は国が8割を出しました。昭和19年には疎開のための国庫補助金として1億100万円の予算が組まれています。
保護者は疎開地での学童の生活費負担として月10円を支払っていました。昭和19年の巡査の初任給が45円でしたので、この当時の10円は現代のおよそ3万円前後に相当するでしょう。また、必要な身の回り品、寝具や衣類、靴、食器、その他日用品も各家庭負担でした。
10円が払えない貧乏な家庭の子は疎開できませんでした。そもそも、そういう貧乏な家庭は子供を労働力として使っていることが多かったので、疎開させる気が元々ない家庭も多かったようです。身体検査で病気にかかっていることがわかったり、虚弱な子も参加できませんでした。
集団疎開は受入先家庭による生活格差があり、東京の名門家庭の子供たちは校長のコネなどを使って地方の資産家の家庭に預けられることが多く、一般家庭に預けられた子供たちよりは快適な環境で過ごすことができました。学童受入家庭は宿泊手当を政府から支給されていたものの、当時は地方でも食糧が不足していたので、受入家庭にとって疎開児童は余計な負担になる迷惑な存在と見られて、虐待されたり、いじめられたりすることも多かったようです。疎開の経験をした都会の人たちの中には、田舎の人間が嫌いになった人も多かったです。
No.7
- 回答日時:
No.6の回答が参考になります。
> 2次大戦時の疎開って、都市部の自治体から、居住者に
とは限らないで、居住者ではなく、工場などの疎開が盛んに行われました。
https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00602.html
学童疎開のような強制疎開もありました。
http://honkawa2.sakura.ne.jp/5226c.html
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrd …
1. 国全体の経費について
『学制百年史』(文部省/編 帝国地方行政学会,1972)p568によると、「集団疎開に要する経費は、保護者の負担を除いた純負担額に対し八割、受入諸費に対し全額を国庫が負担した。昭和十九年度の国庫補助予算は約1億100万円、昭和二十年度は約1億4,000万円であった。」と記述がありました。
2. 保護者負担額について
『新修大阪市史 第7巻近代3』(新修大阪市史編纂委員会/編集、大阪市 1994.3)p1032に「集団疎開にかかる費用は保護者が月10円を負担するほかすべて市が負担することになっていた(府実施要綱)」との記述があります。
『学童集団疎開史研究 4 』 ( 大阪市教育センター/[編] 大阪市教育センター,1992.3)p10-11に『北国毎日新聞』昭和19年8月20日記事として大阪から来る集団学童の父兄負担額は月10円、諸手当決る」と記載があります。
『学制百年史』(文部省/編 帝国地方行政学会,1972)p567に疎開地における児童の生活として、食費・土地建物借受料月額の記述とともに、「保護者は生活費の一部として月10円を負担した。」とあります。
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regiona …
学童疎開と分散授業
昭和一九年の中ごろから米機の本土空襲が激化した。このため、一般疎開のほかに学童の疎開を強行することが緊急事となり、六月三〇日に国民学校初等科児童の疎開を促進する要綱・要領が定められた。学童の疎開は縁故疎開を原則とするが、縁故疎開が困難な場合は集団疎開を実施することにしており、集団疎開させる学童の範囲は国民学校初等科三年以上六年までとされた。これに基づき、同年八月の東京都板橋区児童を最初に、九月にかけて東京都区・横浜市・川崎市・横須賀市・名古屋市・大阪市・神戸市・尼崎市の児童約三五万人が、三四都府県の旅館・寺院・集会所など七、〇〇〇余か所へ集団疎開した。
愛媛県には、大阪市此花区内の国民学校児童が集団疎開した。九月一五日、同区内の朝日・連法・高見・島屋・春日出・桜島・田貫島など一二の国民学校児童四、五、六年生二、六〇〇人は臨時列車で本県入りし、それぞれ割り当てられた宿舎・国民学校の所在駅に降り立ち、受け入れ国民学校児童や婦人会の出迎えを受けた(『愛媛県教育史』第二巻八八五~八八七参照)。田貫島国民学校四、五年生は温泉郡河野公民館に収容され、河野国民学校を借りて勉学した。河野村に来てから一三日目の九月二七日、同校児童四二名は綴方の時間に疎開生活を綴った。作文では、地元の児童やお母さんたちが盛大に迎えてくれてうれしかったこと、重い荷物を運んでくれたこと、既に大阪では口に入りにくくなった甘藷を馳走されたことなど、地元民の親切に感謝の気持を表している。美しい風景と新鮮な空気の中で勉学と体錬に励んでいることや、海山で遊び、芋掘り・運動会の催しには率直な喜びを示し、「このやうに心配して下さる人々の心に感謝し、米英に勝つまではさびしくとも帰らないつもりです」「體を強くして、お父さんお母さんを安心させたいと思います。この大東亜戦争の勝つまではがんばります」とけなげに誓っている(疎開児童文集「河野村へ来てから」)。
伊予郡郡中に配置された島屋国民学校四~六年生と桜島国民学校六年生は、彩浜館・米湊集会所・栄養寺・常願寺などに分宿し、郡中旭・東国民学校などの教室を借りて勉強したが、到着当日はのぼりや旗で出迎えられ、一人ずつの食膳と花型ようかんでもてなされた。その後も婦人会から魚・野菜・もちなどの差し入れを受け、道後温泉・城山に遠足するなど比較的恵まれた日々を送っている。しかし一〇歳前後の児童が、親元を離れて暮らすことの苦痛は大きく、夕闇せまるころ、走り去る上り列車をじっと見送る姿に淋しさがあふれ、夜ともなれば親を慕うて泣き出す子も少なくなかった(大阪島屋小学校「集団疎開のようす」)。
https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec …
宇久田国民学校疎開学童団と屋良国民学校疎開学童団の場合、村の疎開係と野尻国民学校長が旅館に先着し、いろいろ段取りをつけてくれていた。入港の翌日、鹿児島駅を列車で出発、加久藤駅から四つ程駅を乗り越して、小林駅に到着、更に一日一便の木炭乗合バスに乗り換えて、一五キロ奥の野尻村に向かった。宇久田班は野尻国民学校前で下車したが、屋良班は、更に一〇キロ東方の紙屋国民学校に向かった。そこにいったん落ち着いた屋良班だったが、「学校の収容施設が狭い・女子教員による学童管理の困難さ・引率教師が三か月の乳児を養育中」等が先方に指摘され前途多難を思わせた。しかし、長嶺野尻村長の温情と関係者の努力で、屋良国民学校疎開学童団は一週間ばかり紙屋校で過ごした後、野尻国民学校に移され、宇久田校と合流した。両校の宿舎は、裁縫室が割り当てられた。三〇畳程の部屋が二つあり、炊飯室も同屋の一端に付設されていた。
疎開学童には、一日一人五〇銭の副食物代金と米一合五勺の現物支給がなされた。しかし、食べ盛りの学童たちにとって、一合五勺は一食半だった。幸い、加久藤村や野尻村はさつま芋の産地であった。買い出しに出かけると、農家では、疎開学童には「公定値」で売ってくれた。唐芋ご飯は米半分芋半分だったが、とにかく学童たちの腹は何とか満ちた。味噌は自給自足が建て前だったが大豆が不足し塩味だけという日もあった。牛豚の肉は殆んど手に入らない。加久藤、野尻とも内陸部なので生の魚介類がない。干し魚や煮干しなども配給制だったが、常に品不足で大勢の学童には行き渡らない。慢性の蛋白質欠乏症気味で腹がふくれて手足の細いのが学童の平均的体型だった。援農にも出かけた。これは奉仕でもあったが、栄養補給の大儀もあった。農家は働き手を兵隊や軍需工場に奪われ恒常的に人手不足であった。従って幼い学童でも集団での手伝いは歓迎された。秋の稲刈り、冬の麦踏み、それから初夏の田植えなど、大勢で出かけて作業を手伝った。
冬の「麦踏み」はさすがに応えた。素足に藁草履をはき、寒い北風の吹く中を横歩きに麦の若芽を踏んで進む。鼻水を垂らしながら頑張ったものだった。そして、作業終了後、必ず純白のお米で作った大きな握り飯(銀飯)二個が配られた。更に、野菜もどっさり土産に貰った。
炊飯用の薪は、加久藤校の場合、製材所が近くにあったのでクズ材や廃材を貰って来た。山が遠いので、薪拾いに出掛けたのは数えるくらいしかなかった。
野尻校は、完全に自給自足だった。日曜日になると全員が弁当を持参し、一日がかりの薪拾いのための山行だった。大王橋を渡り狐峠の森を迂回して、やがて村有林に到着する。片道四キロの道程で一種の遠足でもあった。山全体が金、銀、紅色の濃淡で彩られる。風が吹くと、金波銀波の大波小波がうねりだし、やがて足下の落ち葉を含めて山全体が大きく揺れる。学童にとって、紅葉との出会いは、新鮮な、あふれる感動の連続であった。しかし、帰途はつらかった。年長者は、枯立木や倒木を適当な長さに整えて各人肩に乗せて運び、幼い者達は、二人一組になり、担架に肩ヒモをつけて前後で持ち、束にした枯れ枝を運ぶ。途中、何度か休憩をとりながら帰途につくのだが、宿舎に着く頃には足がもつれ、くたびれ果ててしまった。
地元の人達は、遠く故郷を離れ肉親のあたたかさと離れて暮す幼い学童たちを、物心両面から援助し励ましてくれたものだった。どの家庭にも、庭に柿の木が植えてある。秋になりやがて真赤に色づき収穫の時を迎えると、大きなザルに入れて宿舎に運んでくれた。正月には、婦人会が呼びかけ、つきたての餅を集め、大きな盆に高く盛り上げて、全員に行きわたる数を届けてくれたりした。
宮崎県の冬は、沖縄に比べると格段に寒い。南国育ちの学童たちは、衣類の冬仕度が全く足りない。それに布団の持ちあわせがない。何せ、荷物は一人六〇キログラム以内で、梱包して二個という制限があった。身の廻り品や衣類の持参が精一杯で、布団などとうてい手が廻らなかった。衣服は、まあ、夏ものを重ね着して何とか間に合わせたが、冬用の寝具がないのだ。引率教師は役場に日参して窮状を訴えた。人情に厚い土地柄もあって役場では直ちに手を打ってくれた。村への数少ない割当てから毛布を学童に一人一枚ずつ優先して配ってくれた。野尻村では、各家庭から布団綿を持ち寄り手作りで布団に仕上げ、三〇数枚も寄贈してくれた。加久藤村も、座布団を各家庭から供出してもらい布団に打ち直して届けてくれた。物資が極端に欠乏した戦争末期だったが土地の人達は自分たちの生活を切りつめてまで援助の手を差し延べてくれた。
No.5
- 回答日時:
#1さん回答に、一票です。
大日本帝国時代は国民から搾り取る政策をしたのみで、国民に目を向けた
政策はしませんでした。
国民には優しくなかったのです、家族は其の屋の家長が守ったのです。
No.4
- 回答日時:
親戚、知り合いを頼って、自発的に自腹で疎開。
家族ぐるみでの疎開のドタバタは、横溝正史さんがエッセイに残してます。
都市部を無人にするわけにはいかないので、政府としては消極的だったでしょう。
No.3
- 回答日時:
No.1さんの回答にあるように、基本は縁故疎開。
自力解決ですね。でも、田舎に親戚が無いって人もいます。
それで、子供たちを「学童疎開」といって半強制的に学校単位で疎開させることもあったようです。
当然ですが、一般的には縁故疎開のほうが待遇が良かったと思われます。
映画「ガラスのうさぎ」では、疎開した子供が疎開先でこきつかわれる様子が描かれていたと思います。
No.1
- 回答日時:
どこから、そんな妄想が生まれたか謎です。
何もありませんて。戦前は、そんな至れり尽くせりの社会じゃない。後に疎開と評される人口移動があったというだけのこと。沖縄だけは地理的な関係もあって、学童疎開船が手配されましたが魚雷攻撃で沈没しました。1944年8月22日 学童疎開船「対馬丸」が撃沈される – 沖縄県公文書館
https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_d …
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