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クオリア問題って結局はこうでしょうか

視覚(赤いリンゴ)を例にすると、
リンゴに反射した光は網膜で電気信号に変換され、その信号は後頭葉で処理されます。
しかし、電気信号はどこまでいっても電気信号なのに、なぜこうして「赤いリンゴ」
として頭の中に表示されるのか?

クオリア問題ってそういう問題ですよね?
だとしたら、コンピュータを例にするとカメラのレンズから入ってきた光を
ハードディスクに電気信号として記録し、もう一度表示したいときはディスプレイに表示します
ディスプレイには我々が脳内で思い起こしたのと同じ赤いリンゴが表示されます
そこへ更にディスプレイ向きにカメラを配置し、コンピュータの中にフィードバックさせたら
内部では赤いリンゴを見た!とあたかも以前見た記憶を人間が思い起こしたように認識してると思います

うまく表現できませんが、ニュアンスを掴んで頂けたら幸いです。
つまり、人間の脳も機械と同じではないですか?
やはり人間は機械に還元されてしまうのでしょうか

以前もここや知恵袋で皆様に助けてもらいましたが
またこうして還元主義?唯物論?に堪え難い恐怖を感じています。
若干パニックになってるのでそれが原因かもしれませんが
どなたか、僕のクオリアに対する見解が間違っているかどうか
それと、仮に正しかったとして、万物に希望が持てる考え方を教えて頂けないでしょうか

A 回答 (34件中11~20件)

不確定性原理により、還元主義&決定論的な考えによる、


存在=性質の集合の、1つの性質“絶対確定化”は、それを
存在として有効にする他の性質を、無限不確定化します。

全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、
無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を
想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、
自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識します。

量子論的世界像において、有限的存在性は観察において派生する=
「全ては、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完」
だと言うなら、宇宙は自己の必要であり、完全に自由であるはずです。
しかし物にぶつかり、人と争うのはなぜかというと、その場合の自己は
「物理的根源にまで遡った」ものではなく、現象表面的&刹那的な
「自己チュー」なものだからです。

いわば「存在」とは自己矛盾なのです。
そうした短絡的自己から、認識の深まりによって“環境”を自己として
自覚化し、社会に対しては他我(愛=社会生命的自覚=自律的社会行動)
において生きるなら、その意志は永遠の未来においても、宇宙の果てに
おいても、予め達成されるものとなり、完全なる自由と無限の幸福が
約束されるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
僕には難しすぎて理解できません。ごめんなさい
分かるときがくるのでしょうか

とりあえず、今はデジカメを例にすると視覚のクオリアなど存在しないのでないかという恐怖を感じています。
クオリアのひとつである視覚がないのであれば他のクオリアも存在しないという結論に至りそうで怖いです。

お礼日時:2010/10/01 17:02

#11の者です。


存在としての感受について、疑問がおありのようですので追記します。

基本的に、「外の存在を認識する」というのは、光や音といった先行感覚
に対する、他の生理的作用の大きな感覚の予測(=「そこ」に行った時に
起きる事)の結果です。
それは、五感の相関した経験の蓄積によって、先行感覚の刺激に対して、
他の感覚の部分が励起される事に起因します(さらに「起因」するのは、
“空間”の本質である遅延作用(=遠くの姿は昔の姿)によります)。

「五感」は、実はどれも、感覚器官表面での、量子相互作用に過ぎません。
(あらゆる“感受”は神経繊維のインパルス=一次元に還元されます)
視覚=光は当然ですが、聴覚の空気の振動も気体分子の最外殻電子との
電気的反発=光子の交換だし(触覚も同様)、味覚や嗅覚もそれぞれの
感覚細胞表面のカギ分子にはまる分子による電離=光子の移動です。
いずれも、感受表面での量子相互作用パターンの違いに過ぎないのです。

次に遅延作用についてですが、我々は「過去は既に終わっている」
「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、
真の『現在』は、感受表面での量子相互作用(光速)のみです。
相対性理論の四次元時空の方程式では、時間項は虚数になっており、
そのため(四次元ベクトルでは二乗になるので)空間軸と時間軸の
等距離点に、“ゼロの面”ができます。
それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下の
領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。
そして超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用=二乗に
おいて負=過去(時間的反転)と等価になり、即ち、現在から
過去と未来が対発生していると言えるのです。

現在から過去と未来が発生するならば、“第一原因”の問題は解決します。
自我仮説の相補として対発生する時空仮説において、自己(=認識可能性)
こそが第一原因ですが、認識体自身がその仮説的空間に有限な大きさを
占めていることで、先入的根拠の完全否定となっています。
(ただし物理的原理まで遡った「相補」なので現象的には任意にはならない)
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この回答へのお礼

追記ありがとうございます
少し分かってきた・・・つもりです
クオリア(=「外の存在を認識する」?)は刺激に対する肉体の生理的作用の連続ということでしょうか
つまり、クオリア、ありありと感じられている感覚、質感は存在しないと。

後半は未だよくわかりません
物理的知識がないからでしょうか
お時間あれば喋り言葉ぐらいの平たい文章でお願いできないでしょうか
もちろんこのような具体的な文章の方が確実なのは分かっていますが
まだ僕には読解力不足です
すみません

お礼日時:2010/10/01 17:16

なんかまた続きを書いてみて・・・





前の投稿をまとめると

色が有限の色の一色を持つのは、その背景に無限のグラデーションを持つからだと思う。
その無限の可能性から、どうしてただ一つの目の前の青色が定まるのか、そのクオリアの不思議は、量子力学の観測問題に似ています。

観測者問題とは、波動関数の収束と言われるような、波と粒子の相補性から来る問題です。

なんて言うんですか、「観測による波動関数の収縮」と言われる概念と、クオリアを感じるときの実感は、とても良く似てる、と言うことです。



というより、この観測問題を目の当たりにして肌身で実感して驚き感動している、というのがクオリアの本質じゃないでしょうか?
共通項もすごく多いけど、断定するには違う点も多すぎるのですが、
クオリア問題と観測者問題は同じ問題じゃないか、と想像します。


概念的には、この2つの問題は、共通項が多すぎます。違うところも多々ありますが。
またこれだけのことで、なんの数式的証明もなしにこんなことを言うのは、科学ではありませんので、
あくまで僕の憶測ですが、でもビジョンが似すぎでます。
2つの問題のルーツは一緒かも、と思います。



これが本当なら、僕らは24時間いつでもどこでも、観測者問題を実感し続けていることになります。そうまとめていいのかも、とちょっと思いました。うそかほんとかわかりませんが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに、ただひとつに決まるというのは不思議ですね。
聞きかじった程度ですが、そういわれてみると観測問題ともにていますね。

こんなにたくさん回答して貰って図々しいですが、お時間があれば、前の回答お礼欄で僕が書いたデジカメを例にしたクオリアの存在否定について、ご教授ください。

お礼日時:2010/10/01 17:20

 私の回答は不正解、でしたね。



 何となく感じてはいたんですが、sisi91さんのご指摘のとおり、記憶から導かれたのでしょう。

 もう一度考えてみます。
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この回答へのお礼

いえ、分からなくなってきました
その金属を未だかつて触れたことのない赤ちゃんが初めて金属を触れる感触がクオリアかもしれないです
でも、それってデジカメに例えた視覚クオリアの存在否定のように、その金属のクオリアも存在しないのでは?と思います
何か思いつきましたら投稿して貰いたいです。
回答ありがとうございました

お礼日時:2010/10/01 17:23

認識論の歴史は精神(こころ)の後退の歴史ですね



まず、人々は素朴に目・鼻・耳・口などの器官で外界を認識してると
思っていた。仏教とかそんな感じです。般若心経にも無眼耳鼻舌身意なんて
フレーズがあります。

次に科学の進展で脳が認識してると分かってきた。
これがカントくらいですかね。

現代はさらに脳科学が進展して、脳内の電気信号や化学物質などの仕組みが
わかってきた。ここらへんでクオリアと言われてるわけです。

そのうち脳科学者たちがさらに研究を進め、クオリア問題も
じきに霧消してしまうように思います。
哲学のほうは、クオリアがああだこうだと言葉を重ねるだけで
問題解決には何も寄与しないでしょうね。(某茂木さんなど)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
歴史的にみるのも興味深いですね
茂木さんの著作は読んだことありませんが、テレビばっかりでて何がしたいのか分かりませんね

クオリアも直に解決されてしまうんでしょうかね・・・悲しいです

お礼日時:2010/10/02 00:57

 こんにちは、たしかにクオリアって還元主義、唯物論ですよね。

客観的事実を積み重ねていったら主観性を持っていた、じゃあいつの時点で主観性に変わったんだってなります。その境界を探るのがクオリア問題だと僕は理解しています。主体性>自由意思>意識>感覚質=クオリア。人間的な性質の最小単位のものとしてクオリアをターゲットに設定したのでしょう。それを科学的な立場から解明する時の呼び名で、昔からの哲学のような文学的な表現を避ける意味でこの新しい言葉を使うのでしょう。
 
 >還元主義?唯物論?に堪え難い恐怖を感じています
ほんとに?まあね『実は、君は精巧にできたアンドロイドなんだよ』って言われりゃぁ怖いけど。本当なら、どうして怖くなるかの方に興味があります。人間の神秘性が剥がされていくような、漠然とした不安ならわかります。だけど、主体性って元々幻じゃないですか。自分の自由意思で考え付いたつもりになってるだけで、たいして独創的じゃないってこと多いですよ。別に恐怖なんて僕は感じませんけど。
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この回答へのお礼

あぁ元々唯物論なんですか
なんか還元主義に対抗した最後のロマンみたいな認識でした

いえ、僕が感じているのは人間の神秘性が剥がされていく、漠然とした恐怖です

自分も主体性は幻のようなものだと思います。
ただそれを形成してるひとつひとつのクオリアは特別なものであってほしいです

お礼日時:2010/10/02 01:10

こんばんは。



デジタルカメラのクオリアですか・・・ ??
カメラが、僕は今クオリア感じた、とは言わないだろうし・・ん?
デジタルカメラがクオリアを感じることは、人間じゃないし、ないと思います。

以下のような話で、質問者さんの疑問の的を得ているのかはなはだ疑問だけど・・




クオリアをどうして感じられるか? と言うことになると、・・

例えば、色のクオリアを感じるときと感じないときがあります。
感じないときは「たかが青色やん?」と固定観念で見てしまうときです。
クオリアを感じるときは、ありのままに色を見る時です。社会常識のフィルターを通さずに。



この2つの違いを見るとき、
クオリアを感じないときは自分が色を見てますが、
クオリアを感じるときは、なんといいますか、純粋意識、無限小の自分が居て初めてクオリアを感じ取れる、という風に経験上思います。自我の肥大がない状態です。
深い感動があるのは、「たかが~~」という先入観なしの時ですから。心を開いてるとき、我がないときです。





で、デジタルカメラに純粋意識たる、クオリアを認識する主体があるかというともちろん無いので、カメラにはないと思います。



つまり質問者さんは、クオリアを何か、物質のように考えておられる気がしますが、そういうもの、存在、要素があるひとつの概念だと思っておられますが、
上に書いたみたいに、こちらの気持ちの持ちようで大きく変化するというクオリアの性質は、そこに石ころがある、と言うのとは違い、
クオリアを見る主体であるこちらの状況に左右されます。
別の言い方だと、自分と、色を持つ物体との関係性、あるいは状態の組み合わせが、クオリア存在の条件で、性質です。
そうでなければ、誰が見ても同じクオリアを感じないといけませんし。
また別の言い方だと、クオリアとは、主観の一種だと思います。

難しい話になりますが、客観とは、乖離意識ー上に書いた純粋意識によって発生する感覚なのですが、
それと組み合わさる物が、主観といえます。(乖離精神、と呼んでます)




クオリアをもっとも最大に感じ取る状態における意識は、「無限小」の大きさです。自我肥大が無くなってるので。(おれがおれが!と思ってるときにクオリアはほんと全く感じません。花だって踏んじゃいます。)
そしてその時に発生するクオリアは、「無限大」です。ある種の極限です(僕の経験上)



有限の大きさに肥大した自我は有限しか認識できません、と言うのは分かってもらえるでしょうか?
人が無限を感じるときは、どんなときでしょうか?  と考えると、自分が無限小の時、と経験上分かります。
無限の宇宙でも、無限の時でも、無限のクオリアでも、それらを感じることに全力になってるとき、自我はほとんどありません。主体的な意識はありますが。
逆に自我が肥大してるときは、宇宙すら手の内に納めたい、という風な独裁者気分の時は、でっかい無限などかき消えます。感性が鈍るからです。


んーー、論理的証明とはいいがいたいですが(多分に経験則だらけで)
なにぶんクオリアの話なので・・




ということで、クオリアを感じるときは、肥大した自我のない、純粋意識の時にもっともよく感じるだろう、と思っています。
言換えると、デジタルカメラには、無限大のクオリアと組み合わさるべき、無限小意識主体がありません。
なので、カメラさんはクオリアを感じ取りようがありません。
クオリアは物ではないし、無限小意識との組み合わせで初めて成立するものだからです。
この組み合わせこそ、クオリア成立に必須条件だと思います。(言換えると観測者問題的です)


受動的精神で感受性そのもの=無限大クオリア。
能動的意識で認識力そのもの=無限小の自分。
この2つの無限が組み合わさります。(とこういうとまたちょっとちゃいますねー、クオリアは無限大と無限小の、接点そのものですが、細かいとこ飛ばします)



という以上は、僕の勝手な持論なので、まあ、そういうもんだと思って読んでもらえれば。




ーーー

先の投稿で書いたのをまとめたいんですがいいでしょうか?
まとめちゃうと、

自然界のとある本質的現象の、
1,客観的側面=観測者問題。
2.主観的側面=クオリア問題。

だと想像します。
もしそうなら、解決は難しい、というか、全然、少なくとも科学のフィールドでは無理になります。
仮の話ですが・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

固定観念ですか・・・なんかそんな気もします
でもなんかやっぱりカメラもレンズに映った被写体を認識し、それとは別の部分に記録を溜め込む装置を組み込めば感じているといえるんではないでしょうか
なんか人間もそんな感じで脳の視覚野で処理しつつ、大脳の他の場所で過去の記憶から情報を呼び出してきて補完するみたいな・・・
で、やっぱ一切の記憶がない赤ちゃんはその呼び出す記憶そのものがないので
「青」を見たときのあの感じが脳内に広がらないのでは?と思います
下のほうの回答者さんとも話ましたが、木を見たとき感じる、金属とは違う暖かみのある感覚は、以前金属を実際に触ったときに感じた冷たいくて堅いというような記憶に由来するものではないかと思うのです。

>クオリアを見る主体であるこちらの状況に左右されます。
それもやっぱり、レンズの絞り(眼でいう瞳孔?)の空き具合でないですか?

無限大、無現小についてはだんだん分かってきたつもりです・・・

まだなんか僕の考えずれてる気がします・・・
青を感じる・・・うーんなんかよくわからなくなってきました
やっぱ自我ってレンズの絞りではないでしょうか?

(かなり堅い頭なので理解できてないかもしれません)

お礼日時:2010/10/02 10:16

日に日に、


朝の光を待ちこがれる
清々しい気配となりましたが
みなさま、如何おすごしでしょうか。

木立の向こうから、風に乗って、小鳥のさえずりが聞こえてきます。

なんちゃって、実は、朝から、パトカーやトラックの騒音が、読書のBGM。

さて、クオリアの難問ですか、これは難しいですね。
ただ、
>なぜこうして「赤いリンゴ」として頭の中に表示されるのか?
ここに問題はありませんか。
つまり、頭の中に表示されるという、余計な言葉で、別途にカメラを持ってきたり、「脳の中の小人」を誕生させたり、無用な仮説を引き出したり、また厳密なクオリア問題と視覚の問題が混同しやすくなってしまいます。

「なぜ見えるのか」と「なぜ赤く見えるのか」という問題は、実際のところなかなか区別するのが難しいと思います。それに、クオリア問題には、色の問題だけでなく、主観とか心の問題にも、というか、主観の問題こそが「クオリア問題」という見方もあるようです。

個人的には、色の問題でいうと、なぜ赤く見えるのか、と問うより、赤い色は何処にあるのか、脳が赤い色を作り出すのか、と、問い直した方がいいように考えます。

それに対して、私の個人的答えは、
「花が赤く見えるのは、花が赤いからですよ」と答えるでしょう。

こんなことを書いてしまったら、このカテの哲学者様から、批判の嵐、いわく素朴存在論・単細胞の馬鹿等々でしょうね。そして私としては、そうした批判に根拠をもって反論する材料はまったく持ち合わせていないのですから。ただ、哲学者が2000年以上も考え続けても答えが見つからない以上、案外、単純すぎて難しいということがあるのかも、と。

さて、御伽噺はこれくらいにして、
クオリア問題に関して書かれた本を少し紹介いたします。

少し古いですが、ラマチャンドラの『脳の中の幽霊』十二章「火星人は赤を見るか」
クオリア問題に関して、私の知る限りでは、よくできた説明だと思います。
特に、言語による翻訳の問題は、一考に値する指摘だと思いますね。

言語問題に関連して、主観のクオリア問題に関しては、
大森庄蔵『時は流れず』第八章「『意識』からの解放」
この本は著者の本の中では比較的読みやすいですね、但し、面体分岐の理論や広松の四肢?構造の難解な理論が必要なのかどうかは、私には理解できなかったですから、なんだとお思いになるかもしれませんが、言語的な説明だけでも、十分面白いと思います。
ついでに、第七章の「主客対置と意識の廃棄」も併せて読まれるとよいかと。

それと、還元主義に関しては、さほど恐れる必要があるのか判りませんね。
極端な機械論も極端な神秘主義も共にどっかへ廃棄してしまえば、量子力学の世界から宇宙の成り立ちまで、すべてが関わりあっている、といった還元主義的な考え方もできると思いますが。

さてさて、どうなんでしょうか?
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この回答へのお礼

おはようございます。静かな朝をむかえたいですね。

視覚とクオリアの混同ですか・・・してる気もします
でも頭がカチコチになって柔軟な考えができなくて困っています

>個人的には、色の問題でいうと、なぜ赤く見えるのか、と問うより、
>赤い色は何処にあるのか、脳が赤い色を作り出すのか、
>と、問い直した方がいいように考えます。

あぁなんか分かってきた気がします
なぜ可視光線のあの帯域が網膜に入ってくるとあの赤が見えるのかということですね
分かってきました
つまり、僕がデジカメに例えたのは間違いということですよね?
赤いリンゴを撮影したデジカメのディスプレイには、レンズに入ってくる赤色の波長をディスプレイに再表示してるのであって、赤色を表示してるのではないということですよね?
どんな高解像度のモニタも色自体が鮮やかなんじゃなくて波長の再現が優れてるみたいなことですよね?
納得してきました。これでこのカメラの仕組み合ってますでしょうか?
だったら問題は解決してきた気がします

ラマチャンドラのほうの書籍は表紙が読みやすそうですね
でもちょっとそういう本は悩みの種が増えそうなので快方に向かっている現在、すこし距離を置いてしまいます
教えてgooでこのような質問ばかり投稿してますが、実は僕こういうの考えるの嫌いなんです
でもなんか考えてしまって、ノイローゼというか結構苦痛です
また再発したときように本のamazonページをお気に入りに登録させて頂きました


>それと、還元主義に関しては、さほど恐れる必要があるのか判りませんね。
>極端な機械論も極端な神秘主義も共にどっかへ廃棄してしまえば、量子力学の世界から
>宇宙の成り立ちまで、すべてが関わりあっている、といった還元主義的な考え方も
>できると思いますが。
ちょっと今理解できないですが、還元主義についての恐怖は今現在自分は一応クオリアを感じているということで納得させています。

まだ若干感じてない恐怖は拭いきれませんが理屈を武器に頑張っていきたいと思います
回答ありがとうございます

お礼日時:2010/10/02 20:47

 no1ですが機械論に至るのではないかということでしたが全く同意です。


つまりそう見ればそう見えるという話です。
 例えば『パソコンを見た投稿をしたくなった』という経緯を分析してみるとパソコンという外界情報から体が勝手に動いて投稿をしていると見ることもできますしパソコンという外界情報を経て主観が投稿という意思決定をしたという風に見ることもできます。つまり機械論とみても主観的行動と捉えても同じだということです。ただおっしゃるように機械論と捉えるとすべての犯罪者は無罪ということになります。つまり「機械的に動いてるんだらか俺のせいではない」と言っても矛盾はありません。
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この回答へのお礼

再び投稿ありがとうございます

何でも見方次第ということでしょうか
肝に銘じておきます

お礼日時:2010/10/02 20:50

こんにちは。



ちょっと先に補足で、最初の投稿で書いた、能動と受動はプラスマイナス0になるというのは、前回の結論で書いた、観測問題と同レベルの、人の知恵では解決不能な問題に属するので、どうとも言えない、という意味合いかなーと思います。



で、続きなんですが、ずいぶん、僕のと、質問者さんとの間でギャップがあってなかなか埋まりませんねー。

どういうギャップがあるのかうまく整理しないと長くなりそうなので、ちょっとゆっくり考えます。



最初に
>別の部分に記録を溜め込む装置を組み込めば感じているといえるんではないでしょうか
これなんですが、どうやったら在ると確認できるでしょうか? 僕は無理だと思います。
だって、人はデジタルカメラにはなれません。
気付きましたが、言われてる話しは、哲学ゾンビの話とよく似ています。
つまり、外見上、あるいは分析し尽くせば人間と寸分違わないゾンビが居て、ただ一つ人と違うのは、その哲学ゾンビには、クオリアだけがない、というそういう仮想上の存在です。


言われてる不安は、この哲学ゾンビがいるかどうか? と言うことにまとめていいのでしょうか?
と、逆にちょっとご質問したいのですが。


おもにやはり、感性と、認識把握能力は何が違うのか? 主体と客体とはなんぞや?的な。
もしかしてこの世界は客観ばかりで、主観や感性が幻想に過ぎないのではないか? 的な疑問でしょうか? 唯物論的・・・?な。
このあたりを疑問視されてるような気もするので。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

プラマイ0というのはどうとも言えない、という表現だったのですね
なんか難しくて、物理的に式に表すとちょうど相殺されて・・・みたいな数学的な話だと思ってました(汗

下のfishbowl66さんの投稿によりかなり解決に近づいてきたのですが
ここで、一気に気持ちを固めていこうと思います

>言われてる不安は、この哲学ゾンビがいるかどうか? と言うことにまとめていいのでしょうか?
そうです、それです!哲学的ゾンビの話だと思います

>おもにやはり、感性と、認識把握能力は何が違うのか? 
>主体と客体とはなんぞや?的な。
>もしかしてこの世界は客観ばかりで、主観や感性が幻想に過ぎないのではないか? 
>的な疑問でしょうか? 唯物論的・・・?な。
そういうことですm(_ _)m
そのことについても、考えてみた答えを自分に言い聞かせて一応平常心を保ってますが自信がないので一言そえて貰えたら嬉しいです


で、fishbowl66さんの回答のお礼欄にも書いたのですが
デジタルカメラが撮影してるのはある可視光線の波長で、ディスプレイに再表示されるのもある可視光線の波長の集合にすぎないということでしょうか
だったらいくら画像データを認識し記録する装置があっても
それは波長を記録しているだけで、僕たちが感じてるあの、「色」は記憶されてないということですよね?
つまりあの赤いリンゴは記録されず、あの赤いリンゴの波長だけが記録されてる、と。
この考えが正しいのならなんだかクオリアを感じてきました。sheep67さんの以前の回答も分かってきた気がします。

お礼日時:2010/10/02 21:09

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