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1870年に平民に苗字が許されたということですが、それぞれがどのような形で苗字を作ったのか、どなたかご存じの方お教え下さい。
また、それまでは各自の呼び名はどのようになっていたのかも、知りたいのでよろしくお願いします。

A 回答 (2件)

それまでは各自の呼び名はどのようになっていたのかですが、ご参考まで。



私の母の実家は農家でしたが、その村では誰も正式な名字で呼ぶことはなく、ナントカ屋さんというふうに屋号で呼びあう習慣がありました。母が里帰りした時も、母は実家の屋号で「**屋さんの~」と呼ばれていました。明治どころか昭和になっても農村ではそんなものでした。

屋号
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%8F%B7# …
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この回答へのお礼

kishn_anさま

とても分かりやすい説明をありがとうございました。
農家でも屋号」で呼ばれていたというのは、知らなかったので驚きです。

また屋号の解説URも添えて下さったこと感謝します。

お礼日時:2010/10/07 14:27

だいたいが地名に基づいたり、村の名前に基づいたりとかだったそうです。

とはいえ当時は学がない人も多かったので、僧侶に頼んで名字をつけてもらった人も多かったようです。といっても僧侶とてそうもいい名案が思いつくわけでもなく、ゆえに村の真ん中に住んでるから中村とか、田んぼの真ん中に家があるから田中などとつけられたというわけです。

それまでの呼び方は、地名と名前(ファーストネーム)の組合せです。歌舞伎で幡随院長兵衛という人が出てきます。幡随院長兵衛は町人ですから名字がありません。幡随院とは地名で、長兵衛が名前です。ですから幡随院長兵衛は劇中「あたくしはこの近くの幡随院に住まいします長兵衛と申します」と自己紹介しています。
漂流民となりロシアを横断した大黒屋光太夫は大黒屋さんとこの光太夫さんというわけです。当時の人は基本的に隣村以上に遠いところに出掛けるのはまずまれでした。江戸のような大都市の町民となるともちょっと活動範囲は活発なんですが。これは日本に限った話ではなく、鉄道というのがこの世に普及するまでは世界中の庶民は直径20キロ圏より遠くにはまず出ることはなかったのです。だから、名前だけでも別に困らないんですね。同じ村の中でかぶらないようにしておけばいいわけです。

じゃあなぜ明治政府は急に名字を認めたのかというと、要は徴兵のためです。徴兵すると全国規模で兵隊を管理しなきゃなんないので名字がないと困るのです。そうじゃないと留吉ってもどの留吉かわかんなくなるからです。
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この回答へのお礼

eroero1919さま

驚くほどわかりやすい説明に感謝です。
ことにそれぞれ具体的な解説付きで、すっと頭に入ってきました。

確かに田甫の中だから「田中」というふうな苗字の話は聞いたことがあります。
僧侶に名付けて貰った例も多いなど、新しい知識を得られてうれしくなりました。

最後に急に苗字を必要とした経緯、時代背景まで教えて下さり
抱えていた疑問が一気に解決した心地です。

お人柄が偲ばれるお答えもうれしかったと付けくわえさせて下さい。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/07 14:38

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