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三国志についての質問です。現在、北方謙三三国志7巻目です。
魏・蜀・呉の3国といいますが、物語の中では徐州とか揚州とか益州とか、孫権が揚州を取ったとか平定したとか「州」単位で語られますね。州の下に群があるのも分かります。 そして、皇帝は洛陽から長安とか許都へ引っ張りまわされる「漢王朝」でしょう。漢が「国」じゃないのですか。

魏・蜀・呉の国という「国」の単位と言うか、言葉がどこにも出てこないのですが、これはどういうことなのでしょうか?

A 回答 (2件)

北方謙三の三国志は全十三巻です。


第七巻ではまだでてきません。
魏、呉、蜀はもっと後の巻で出てきます。

ネタばれで書きますが・・・

第七巻ではまだ形の上では漢の内乱状態です。その後、天下は大きく三分に形勢され、魏、呉、蜀の国が成立していきます。

第八巻にて劉備が益州を取り、第九巻で劉備が「まこと、天下三分の形勢になった」と言っています。
そして、その同じ第九巻の118ページ(文庫版)で次のように書かれています。

「曹操が魏王に昇ったころから、曹操の支配地を魏と呼ぶようになっていた。それに対し、劉備は蜀であり、孫権は呉と呼ばれている。魏、呉、蜀に天下は三分されている、というかたちだった。」

そして第十巻にて、曹ひが漢の皇帝よりその位を禅譲されて、魏の皇帝になります。劉備も同じ第十巻で蜀の皇帝を名乗ります。孫権は第十二巻で呉の皇帝を名乗ります。
魏、蜀、呉のそれぞれの国に皇帝がいる情況になります。

つまり、北方謙三の三国志では魏、呉、蜀という言葉が頻繁に使われ出てくるのは第九巻以降です。
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この回答へのお礼

なるほど、まだストーリーがその段階に至っていなかったんですね。
ごめんなさい、ネタばれ・・・・以降の文章が
「読んじゃいかん!」って思って、見て見ぬふりをしています。
もう少し話が進んだらよーく読みますのでご勘弁を。

お礼日時:2010/10/18 18:46

魏・蜀・呉の三国並立となったのは、ほとんど、終盤です。



曹操・劉備・孫権三人とも、元来は漢王朝の覇権を得ようとしてました。

魏・・220年、曹操が死ぬとともに、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。
同年のうちに、曹丕は後漢最後の皇帝となった献帝から禅譲を受け、
皇帝となり、漢王朝を魏と改めた。

蜀・・・献帝禅譲を、曹丕が献帝を殺し帝位を奪ったと蜀の地で聴いた劉備は、
221年、漢王朝の末裔の一人である自分こそ、皇帝の資格ありと
漢の皇帝を自称、これを蜀漢と通称する、自称する正式の国名は漢である。

呉・・・孫権は、一時 魏の曹丕に臣従し、呉王の地位を安堵されていたが、
やがて、再び独立を志し、229年、孫権は呉の皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都し、
呉の独立を宣言した。

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この回答へのお礼

まだストーリーがその段階に至っていなかったんですね。
ごめんなさい、せっかくのご説明を「読んじゃいかん!」って思って、見て見ぬふりをしています。
もう少し話が進んだらよーく読みますのでご勘弁を。

お礼日時:2010/10/18 18:47

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