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捕鯨をやめた場合、鯨は増えますか?

こんばんは。大学の授業で少し捕鯨問題について学びました。
知りたいことがあります。
みなさまに質問です。どうぞ、宜しくお願い致します。

もし、捕鯨をやめた場合、鯨の数はどのように増えるのでしょうか。
ネットで調べたのですが、捕鯨をやめるように求めていても、捕鯨をやめたらどのように鯨が増えるのかという情報がなく、わかりませんでした。増える頭数の予測などの情報もあれば知りたいです。

また、どれぐらいの生態系の回復が望めるのでしょうか。

A 回答 (15件中1~10件)

科学的にわからない、という意見もありますが、



ナガスクジラなどは年に15%程度増えていると、テレビで元国際捕鯨委員会日本代表代理の小松正之氏が言っていました。
ミンククジラなどもかなり増えているとのことで、調査捕鯨によるデータと思われます。

海洋資源は将来枯渇していくことが確実視されていますが、クジラは増えているわけです。

多くのクジラのエサは生態系の底辺をささえるオキアミであるため、オキアミが減れば、それをエサにするイワシなどの魚、イワシをエサにするマグロなども当然減ります。
結果的に、人間が漁獲する魚種も減り、サーモンなど養殖魚のエサも減るでしょう。
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>捕鯨をやめた場合、鯨は増えますか?



科学的には「わからない」が正解でしょうね。
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No.12 下あたりの部分を訂正します。



>「殺すか殺さないかの基準」は「人間がそうでないか」だけです。

「人間がそうでないか」→「人類かそうでないか」
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(続き)



さて、「鯨を殺すな」「食べるのは家畜だけにしよう」という論は人類普遍ではない一部の宗教からスタートしましたが、現在それを人類普遍の共通理念に押し上げようという動きがあります。
人類の共通理念にするためには人類すべてが共有できる「普遍的妥当性のある、殺す殺さないの基準」が必要なのですが、現在議題にあげられているのは主に2つ「知能の高さ」と「苦痛を制御できるかどうか」です。
しかし、この二つの基準の普遍的妥当性はすでに否定されています。

>知能

「生物は進化して知性を高めていく、だから一定以上の知性をもつ生物を殺さないようにしよう」という意見があります。
しかし、知性の進化は一本道ではなく、方向性は無数にあります。
方向性の異なる知性どちらが優れているかを決める基準は複数であり、基準ごとに優劣が異なり、一つにまとめることはできません。
それにそもそもの問題として知性は生物が獲得した「機能」の一つにすぎません。
「知性があるかどうか」は「えら呼吸できるかどうか」と同レベルなのです。
他の機能に先んじて、知性を特別視すること、殺生基準にすることに普遍的妥当性はありません。

>苦痛のコントロール

「殺すならせめて苦痛を最小限にしよう。そうだ苦痛を管理できる家畜だけを殺すことにしよう」という論理です。
これを極端に進めて「人類は、痛みを感じない植物だけを食べるベジタリアンになるべき」と主張するイギリス人の教授もいます。
しかし、苦痛を理由に殺す生物を選ぶという論理には大きな穴があります。
「そもそも苦痛は何のために存在するのか」を考えればすぐ分かるはずです。
苦痛とは本来「生命の危険を避けるためのシステム」なのです。
生き物は苦痛から逃げようとしている前に、死から逃げようとしています。
人間個々人の判断基準はともかくとしても、生き物にとって普遍的な重要度は「生命>>苦痛」なのです。
苦痛を理由に殺すかどうかを決めるのは「苦痛>>生命」で、本末転倒なことになります。

苦痛を減らすことは実に結構なことですが、殺すかどうかに比べると低次元な問題です。
この次元の違いは普遍的なので、それを逆転させることの方が間違っています。
まず殺すかどうかを決め、それから苦痛をどう減らすかを決めるべきなのです。

※家畜について

>家畜ならば殺しても良いというのは、妥協案(折衷案

残念ながら、「殺すのを野生動物から家畜に変えれば犠牲になる命が減る」というのは錯覚です。
野生動物を殺さない分、その分多くの家畜を殺しているだけです。
ベターな解答でもなんでもありません。

家畜や栽培植物の馴化(domestication:人間の都合のよいように改良すること)は人間への依存を深めることですが、特定種への依存を深める「共進化」と同じく、通常の「適応」で説明できる事柄です。
野生動物と家畜の命に優劣をつけることに普遍的妥当性はありません。
「野生動物の代わりに家畜を食べるべき」と「家畜の代わりに野生動物を食べるべき」は倫理的には同等の論理です。
(馴化は不可逆変化でもないですからね…)

~~
結局、現時点において、人類すべてが共有できる「殺すか殺さないかの基準」は「人間がそうでないか」だけです。
それ以外の基準に普遍的妥当性はありません。
そういった普遍的でない基準を個々人の基準とすることは各人の自由ですが、それを他人に押し付けることはできません。
他人にも強制したいのであれば普遍的妥当性とやらを用意しなければなりません。

…あと個人的な感想をいくつか。

自分は今生態学を学んでいます。特に今現在の興味は生態化学量論という、生態系での元素移動の挙動を考える学問です。
生物から生物へと元素が移動することは、すなわち食べたり食べられたりすることあり、食べることが相互作用の本質であり、生体系のダイナミズムの原動力であるというのがこの学問の基本理念です。
生き物が生き物を殺して食べるのは、従属栄養生物が生まれてからの自然の摂理です。
現在の生態系は殺すことを前提として発展し成り立ってきました。
「生き物を殺すことは悪いことだ」と言うのは、「細胞が死ぬから新陳代謝を止めよう」と言うようなもので、生態系に対して「死ね」というようなものです。
確かに同種の生き物を殺すことは、その生物にとっての問題ですが、「別の種殺さないことがベストの解答」こういった考え方は人間の論理を自然に押し付けるようでいやな気がします。
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どのように増えるかは予測困難です。


制限要因が「人間による捕殺」から「周囲の餌資源量」に変わることは明白ですが、その肝心の餌資源量の動態を予測することが困難だからです。
大型哺乳類であるクジラはともかくとしても、大部分の海洋生物は、海水温などのわずかな変化で指数関数的に増減します。
捕鯨をやめたら増えることは増えるでしょうが、「どこまで」「どのように」増えるかはまだ分かりません。

>どれぐらいの生態系の回復が望めるのでしょうか

ほとんど未知数ですし、「どの時点の生態系」を基準とするかで答えは変わります。
また、鯨は食物連鎖の頂点にいる大食いの生き物であるので、生態系を安定化させる要素以上に、不安定化させる要素を持っています。
とりあえず、日本沿岸の小型鯨類の捕鯨をやめたら、いくつかの地域生態系は悪化することが予測されます。
捕鯨の歴史は長く、すでに「人間による捕鯨」が圧として生態系維持に不可欠な地域もあります。

※まだ未知の部分が多いですが、深海生態系にとっては鯨の死骸が重要なファクターを占めていることが示唆されています。
※(鯨骨生物群集やステッピングストーン説などを参照のこと)

あと質問からやや外れていますが、↓の回答欄が妙な流れになっているのでそのことについても言及しておきます。


>捕鯨反対国

反対しているのは影響力の大きい少数国。キリスト教圏内にあると言うところがポイントです。
反対している理由を人種差別に求める人もいますが、まあそれは言い過ぎにしても、根っこのところは同じです。
すなわち「この世界には神様に選ばれたモノがある」です。

キリスト教信者にとってみれば口に入れるものは「選ばれた人間が神様から与えられたもの」であり「神様が食べていいと許可したもの」です。
逆にいえば、神様が許可したもの以外は食べてはいけないという感覚が身にしみついているので、議論も反対ありきで進む傾向があります。
もちろん、鯨は「許可されたいきもの」ではなく、家畜は「許可されたいきもの」です。

>日本人が捕鯨それ自体の是非を問題としないことはおかしいのか?

「それを問題にしないことがおかしい」この論理に違和感を覚える人も多いはずです。
「では問題としてることはおかしくないのか?」と。
人類共通の問題点は確かに存在するので、確かに「それを問題にしないことはおかしい」と全員が言える事柄はあります。
しかし、一部の人にとってみれば問題となることでも、他の大多数とってみれば問題ではないという事柄の方が多いのです。
そして捕鯨それ自体の是非は後者なので、問題にしない人がいても何ら問題はないのです(捕鯨それ自体の是非については後述)。
日本を含めて多くの文化では「生き物を生き物が食べること」は当たり前のことだと既に答えを出しています。
つまりその社会にとってみればその議論は「終わったこと」なのです。
それが問題にならない社会が、改めてそれを問題にしなければならない理由はありません。
「人間は他のいきものとは違う」という論理を持っている人にとっては現在進行形の問題でしょうが、その問題に答えを出した人に無理やり考えさせるのは単なるエゴです。
鯨の個体数の増減は共通問題たりえますが、鯨を食べることそれ自体の議論は最初から共通問題ではありません。
あくまで「鯨は食べてはいけない」と考える人だけの問題なのです。

結局「日本人が個体数だけを論じるのはおかしい」と言うのは、外国の人が「日本人は家の中で靴を脱ぐことを問題にしないのはおかしい」と言ってるようなものです。

(字数オーバーにつき分割)
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No.6です。



「家畜」について書くのを忘れていました。
神様は人間にとって常に「ベストな解答」を用意してくれているとは限りません。
ですから、人間は時に「より良い解答」を模索しながら選択する必要が生じました。

そして「家畜」も、家畜自身だけでは自然に帰してもその大量の生命を維持できないので、ある意味「人工物」とも考えられます。
(あくまでも例えですので、人工物かどうかでの議論をするつもりはありません)

つまり、家畜ならば殺しても良いというのは、妥協案(折衷案)と言うものです。
将来「ジャングル大帝レオ」のような理想郷ができるかも知れませんが、それまでは現状の妥協案で我慢するしかないでしょう。

日本のように「ベスト(完璧)な解答が用意されていないから、どうでも良い」と言う国は希で、ほとんどは「より良い解答を模索し、改善しながら生きている」と言うのが世界のすう勢です。

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ちなみに、日本人には「あなたの意見は間違っている、だから私の意見は正しい」との論法や、あるいは(他の意見を暴論と定義した上で)「あなたが暴論を言っても良いなら、私も言っても良いはず」と、安易な方法で自分の意見を正当化する人がいます。
(ちなみに、ここの質問/回答にはないと思いますが)

このような「詭弁」に引っかからないようにするには、相手を批判している箇所を無視し、自分の意見を説明している箇所だけを抜粋することです。
そして、抜粋した文章が希薄であったり、つじつまが合ってなかったりするほど、詭弁の可能性が高くなります。

そうして読んでみることで、人それぞれ無数にある考えの中の「自己主張」を理解することができます。
(日本には、批判ばかりで自己主張できない人が数多くいますからね)

ちなみに私は「カンガルーなら殺しても良い」とは、1度も言っていませんので、該当記事と私は無関係です。(無関係と言っているだけで、批判しているのではありません。(笑))
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クジラの生息数を正確に知るためにも調査捕鯨は必要です。


しかし、現状ではアメリカはその調査捕鯨にも反対しているとか。

なにかアメリカには不都合な数字が出てくるのかもしれませんね。
-クジラは増えてるとか。

適切に数を管理して、個体数の調整をするのであれば、クジラでも牛でもなんの問題もないと思うのですけれど。

少なくとも、いままで散々乱獲して種を根絶やしにしてきたアメリカが、日本の捕鯨に反対なんて、ちゃんちゃらおかしいです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。
ご意見ありがとうございました。
沢山の方のお話が聞けて嬉しく思っています。

お礼日時:2010/11/18 14:12

No.6です。


お礼ありがとうございました。

>同じ命なのに。その考え方についても詳しく知りたいです!
質問の趣旨がハッキリとしませんが、「命の優劣」と捉えましたので、そのことについて述べたいと思います。

地球上にはいろいろな生き物がいて、そもそも、どこからが生物でどこからが命と呼べるのか難しいところがありますが、とりあえずそこは置いておきます。

たとえば「人が人を殺した場合」と「人が動物を殺した場合」とでは、当然罪の重さが違います。
すなわちこれも命の優劣に該当します。
そして、同じ生き物でも、猫を殺すのと蚊を殺すのとでは、これも罪の重さが違います。
(なんか、むやみに猫を殺すと罰せられたはず)
もし、蚊が人間に危害を及ぼすからと言う理由ならば、(便宜上「害虫」とします)害虫ならば殺しても良いという優劣を付けていることになります。

私の言っているのは、その命の優劣の判断基準であって「すべて同じ命の重さ」ではないと言うことを言いたかっただけです。

命の話ですから、当然個々の倫理観によっても違ってきます。
中にはそれを拡大解釈して「ならば、知能の高い人間と知能の低い人間でも優劣を付けるべきだ」と言う人も出てくると思いますが、それはその人の意見ですので、あえて否定するつもりはありません。

でも、日本人の場合は、ここまで考えている人は希で、大抵の人は「どうせ完全に優劣を決めることはできないから、何をやってもいい」程度にしか考えていないでしょう。
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この回答へのお礼

再びご回答いただきありがとうございました。
命の優劣とても興味深いです。
捕鯨問題からいろいろな問題にお話を聞けて大変勉強になります。

お礼日時:2010/11/18 14:09

あら、勝手に世界のすう勢をねつ造している方が居る。


IWCの捕鯨に賛成する国と捕鯨に反対する国とは拮抗しているし、
ノルウェーのように、反捕鯨国による非科学的な議論がまかり通るIWCに業を煮やして脱退、
商業捕鯨を再開しているところもあるというのに。

特に外国人の反捕鯨の方の意見というのは人種差別、日本差別が背景にあるのです。
「知能が高い動物」は殺してはいけない、というのは知能の高い人間と知能の低い人間の差別を認めると言うことにもつながります。
知能が高いというのは誰がどう決めるのでしょうか。その差別主義に薄ら寒ささえ感じます。
しかもオーストラリアではカンガルー殺しを行っているというのにいったいどの国が声を上げているというのでしょう。
日本人の行為は許さないがオーストラリアの行為は良いというのは人種差別・民族差別・国民差別以外の何者でもありません。
反捕鯨は結局、俺たちはクジラを守ってやってるヒーローなんだという独りよがりなのです。
日本ではクジラは食料であり皮やヒゲも伝統工芸に使います。
欧米では鯨油を撮りさえすれば後はいらないというものではありません。
(よく話題にのぼるイルカなどは害獣でもあります)

http://www.news-digest.co.uk/news/content/view/2 …
反捕鯨派のこちらの意見を読んでいただいたら分かりますが、
・絶滅に追いやる
 →個体数把握からして心配なし。
  欧米がやったような油だけとって捨ててポイをすれば別。
・クジラを食べたい日本人はいない
 →反捕鯨の活動のおかげでクジラは滅多に流通しません。
 (この意見の背景には、米国産・豪州産牛肉を日本に売りたいという思惑があります)
・国際法に違反している
 →条約の取り決めにより許可されている調査捕鯨すらも国際法違反だという矛盾したご意見です
・殺し方が残酷
 →それはそのシーンを見る人がどう感じるかですね。クジラのことを思っている訳じゃなくて、
  かわいそうと思っている自分を思っているだけです。
  ちなみに死に至るまでの時間はだいたい2分弱。そんなに長く苦しむわけではないようです。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなってすみません。
教えていただき、ありがとうございました。

お礼日時:2010/11/18 14:04

鯨だけを食べて生命を維持している他の生物はいません。


ですから、鯨に天敵がいたとしても、鯨の増減によりその天敵の個体数には基本的に影響はありません。
(つまり、ハイエナのように殺した鯨に群がる生物は(微生物を除き)いないと言うことです)

また当然のこととして、鯨にも種類がありその個体数が少ない種ほど、増えるのにも時間がかかります。

と、質問に素直に答えればここまでですが、もし捕鯨問題に関して言うならば、捕鯨と鯨の個体数だけで論じているのは(たぶん)日本だけです。
つまり、日本は鯨が絶滅の危機がない範囲での捕鯨ならば殺すのは勝手でしょ、と言う立場です。

しかし、世界は単にそれだけではなく、なるべく生き物を殺すのは家畜だけにしようと言う流れです。
特にほ乳類は、他の生命体と比べても知能が高いため、殺さなくても人間が生きていけるのならば、なるべく殺さないようにしようと言うのが世界のすう勢です。

この考え方の隔たりが、日本では報じられることもなく、ただただ個体数の問題で論じられるため、いつまでも平行線のまま、そして日本は知能レベルの低い人種だと思われている証拠なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!
家畜は殺して良く、鯨は知能が高いから駄目という考えですか。
なぜ知能の高い哺乳類であるから駄目なのでしょうか。
同じ命なのに。その考え方についても詳しく知りたいです!

お礼日時:2010/11/05 00:50

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