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「茂木健一郎 クオリア日記」ブログより
kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/

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表現するということは、
つまり、
相手とのコミュニケーション打ち切りの宣言でもあり、
だからこそ、
表現者は言い訳をしてはいけないんだ。

表現者は言い訳をしてはいけない、
ということは、
つまり、
伝えることはディスコミュニケーションと不可分ということなんだよ。
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これの意味が理解できません。
教えてください。

表現することは、コミュニケーション打ち切りの宣言というのは、
「それでも僕はそうなんだ」という感じで、
コミュニケーションが終わるからだと思います。

だけど、そこからなぜ、
「表現者は言い訳をしてはいけない」となるのでしょうか?

下の塊の文章は、
たぶん、
A=B
BはC
だからC=A
ということだと思うので、
「表現者は言い訳をしてはいけない」の意味が分かればわかると思います。

なぜ、
「表現者は言い訳をしてはいけない」
のでしょうか?

A 回答 (5件)

それは訳文だから変な言い回しになっているじゃないでしょうか



(フランス語とか)

#正しいと思うことは、他人に迎合せずはっきり言え、ただし自分の言ったことには責任を持て
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この回答へのお礼

おー。
早速ありがとうございます。

わかった気がします。

言い訳をしてはいけないというのは、
相手にではなくて、
自分に言い訳をするなという感じですね。

ありがとうございます。

お礼日時:2010/11/10 12:17

逆に考えて下さい。



コミュニケーションをとるということは、相手の考え方に対して自らの考え方を変えていくという事に他なりません。一方何かを表現するということは、その表現は最終形態になりますから、それ以上の変更は効かなくなります。

たとえば「誰かと話している」場合と「ブログとしてアップしてしまった」場合とを考えますね。誰かと話している=コミュニケーションをとっている状態なら「あ、それ違う」と訂正を求めることが可能ですが、「ブログにアップした」なら、そのテキストはコピペされてそこら中に広がる可能性があり、広がってしまったものは訂正できないですよね。

ですので、「表現してしまったものは訂正できない」=「表現者は言い訳できない」ということになるんです。
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この回答へのお礼

なるほど。
訂正出来ないので言い訳しないってことですね。

この言い訳は、自分への言い訳って感じですね。

ありがとうございます。
1つわかった気がします。

お礼日時:2010/11/11 10:58

>なぜ、


>「表現者は言い訳をしてはいけない」
>のでしょうか?

単純に見苦しいし、聞き苦しいし、
それ以上に、後から言い訳をすることで、
作品評価が作者自身の解説で変わってしまうからだと思います。

つまり、表現者は初めから言い訳せずとも鑑賞者に伝わるように作品を作るべきという意味ではないかと。



例を挙げると、ミュージシャンがテレビやラジオで自分の新譜を宣伝する際に、
ただ音楽を聴くだけでは分からないような表現者の気持ちを述べることがありますよね。
「この曲のこの部分の歌詞にはこういう意味を込めた」とか。

こういう行為はあまり褒められたことではないと思います。
作品をただ鑑賞するだけでは伝わらない価値を表現者が後付けしてしまっているからです。
後で言い訳するくらいなら、最初から作品内でやっておけ、ということでしょう。



更に別の例を挙げるなら、
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/42366 …
の、最初の三連に書いてある事柄がまさに質問者様への答えです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

たしかにそうですね。
あとで説明するということは、表現出来ていないということだし。

お礼日時:2010/11/17 20:54

元の文を読みました。


文脈から行ってここで言っている表現者とは美術・音楽*ではなくて言論だと思いますね。

言い訳というのは言った内容をあとから世間に迎合して「本当はこういう意味じゃなくて…」とうやむやな形で糊塗するなという意味ではないですか?

ここでは、通常の相互交通型のコミュニケーションではなくて、マスコミとか著述のようなモデルを想定してるんではないですかね。
だから「伝える」というのが一方通行的な流れ、地位や名声や役職をもっている側からそうでないほうへ、になっている。
政治的な交渉とかではなくて対等に面と向かって話しあうようなコミュニケーションだったら、表現が一方的なコミュニケーション打ちきりであるわけがないですよね?そんな事してたらかなりの変人です。

この文章は多分に筆者自身の自負というか、心構えというか、自分を励ますような内容ではないかと思います。つまり「表現者」とは自分自身の形を変えた言い方ではないかと。テレビでコメントをしたり、文章を新聞雑誌著書で発表したりしている人を想定しているのでしょう。

ただ「言い訳しない」ばかりを強調すると何かそれこそディスコミュニケーションというか訂正不能みたいな印象を受けてしまいますね。間違いは間違いだったと認めてどこかでちゃんと論じておけば良い事だと思いますし、それと言い訳は違うのかとかがいまいち言及されてない。
マスコミなんかで一時は各紙こぞって犯人扱いしてた人がいつの間にか冤罪の被害者のヒーローで「本紙は最初からわかってましたけど」みたいになってるのはちょっとは言い訳でもしたら?と思いますけどね。

「下の塊~」以下の三段論法については、どこの部分のことか私にはいまいちわかりませんでした。


* 「美術や音楽は言葉での意志疎通が本来あるべきでない」という考えがけっこう広くありますね。でもそれは美術館やコンサートのような展示形式に馴らされ過ぎた結果の一種の倒錯にすぎないのではないかと指摘しておきます。
作家が天才だとか作品が有名だとかの権威を前提にした上での「上からのアナウンス」は確かに目立つし、好ましいとは思いませんけれども。「元来言葉での意志疎通を拒否したものであるべきだ」とは言えないでしょう
しかしまあ茂木ケンがここでとりあげてるのはそういう分野のことではないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうですね、
訂正と言い訳は違う。
これを考えるときは、同じ様に考えてました><

たしかに、
表現者=マスコミ的なものと考えられますね。
一方通行のコミュニケーションなので、ディスコミュニケーション。

なんかしっくり来る説明です。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/11/17 21:07

No.4です。


思ったんですが、「言い訳しない」は世の中の風潮であるとかなにかの圧力に迎合して自分の意見を変えない、「あの時はしかたなくこう書いたけど本当はこう思ってたんだよね」というような言い訳をしないっていうことなんではないかと。

「表現者」がマスコミ、本、で論を発表している人=自分も含め であろうというのは前述通りです。

茂木さんがそういう攻撃を受けるような発言をしているような記憶は無いのですけど、それでもそういうことはあるのかなと思いました。
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この回答へのお礼

自分の発言には重い責任があると、
改めて思ったんですかね。
今も最新の注意をして発言しているけど、
もっと注意をしないといけないかもって。

お礼日時:2010/11/17 21:10

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