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明暦の大火以来、吉原は23回も全焼していると聞きました。

火事が多かったとは言え、何故そんなに何度も燃えたのでしょうか?

その度に場所が変わったりはしたのですか?

A 回答 (4件)

1。

>>火事が多かったとは言え、何故そんなに何度も燃えたのでしょうか?

 明暦2年(1656年)10月、吉原が日本橋から移転を命じられた時、浅草寺裏の日本堤への移転に決り北町奉行・石谷貞清が図った便宜の中に「周辺の火事・祭への対応を免除する、という一条があります。
 周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした、と下記にあります。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F% …

2。その度に場所が変わったりはしたのですか?

 いえ、日本堤からは変っていないと思います。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>火事が多かったとは言え、何故そんなに何度も燃えたのでしょうか?

これは、NO1.の方のWikiの通りです。


>>その度に場所が変わったりはしたのですか?

吉原が火事で焼けた時には、再建の期間に限り、吉原周辺の農家を借り切ったり、茶屋や料理屋を借り切ったりしての仮宅営業が認められました。
ところが物珍しさもあって、かえってこちらの方が人気が集まった。
日頃は郭の外へ一歩も出られぬ遊女たちも、馴染み客と散歩ができたりしたので仮宅気分を喜んだ。
仮宅での営業は、かたぐるしい仕来りも省略され、酒食の接待も簡略化されており、料金も安かったのでこちらの方が人気でした。

さらに幕末には吉原の仕来りもルーズとなり、仮宅のあとをそのまま遊女屋にするところも現れ、深川の岡場所は私娼とも公娼ともつかぬものになってしまいました。
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更に言えば、当時は照明が「裸火」であった、という事も見逃せません。

大概の民家は油代節約で、夜間ほとんど燈火は使って無かったのに対し、吉原は町の性格上、夜間もしっかりと燈火を焚いていましたから。
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防火上効果のある瓦屋根が許可されず、板葺き屋根だったからですね。


一旦火が出たら、木材ですからアッというまに燃え広がります。
それで、被害が大きくなったと言えると思います。

瓦屋根が許されなかったのは、一段下がった商売だという政府の見解を示すためです。
どんな大店(大きな遊女屋)でも、絶対に瓦を載せることは出来ませんでした。
板の屋根に防火桶を置き、道路にも置き、焼芋屋の煙にさえ気を立てるほど住民(?)は用心していたのですが、それでも火事は出ました。

場所は、変わりません。
これも政府の命令で、あの場所でしか営業出来ませんでしたので。

燃えてしまっても、今でいうバラックのようなものを建てて、間髪入れず営業を再開しました。
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