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洋の東西を問わず、宗教者の多くは「清貧」を常として、姦淫、妻帯を認めていないものが多い。

神職者の性について、おたずね致します。
何故、神への奉仕者たる神職者は、妻帯などの性を認めないのか。

一つの理由として、「神職者は神の伴侶である」という理論がある。
そして、一般の人々に対して神の言葉を説き、神への忠誠心を持つように布教を行う。

しかし、「性」の否定は生物としての人類への否定ではないのか。

人類の繁栄の一つとして「性」への自由が挙げられる。
生物の多くが繁殖期と呼ばれる交尾の時期が限定されているが、人間は有る意味時間的に自由を得ている。

神に仕えるものが繁栄の第一条件たる「性」を否定するのは、事故ひいては人類への否定を意味し、人類の安定を願う神への冒涜としか映らないのではないか。

仏教の「煩悩」の克服に対して、異性に対して興奮を起こさぬようにしていくことが求められているを解していますが、その為に異性を遠ざけたり、精力の付くものを節制したりするのは「逃げ」の一つである。遠ざけ禁忌として悟りを開いても、近づけたり摂取したりすれば瓦解するかもしれぬ修行は、修行ではない。逆に愛・欲に接して尚、悟りを開けてこその修行ではないか。

他の宗教でも禁忌とされるものの中で、「性」への否定が大きいが、全人類が否定を行ったならば未来はない。=神への奉仕、もなくなると思われるが、いかがでしょうか

A 回答 (5件)

神職者は、完璧な人間ではなく、「修行中」の身であるという解釈をすることもできませんか?


修行の邪魔になるから遠ざけるという理論です。

哲学ではありませんが、科学の実験をするときは、
実際の状況よりもかなり純度が高い物質を用意したり、清浄な状態にして行います。
そのようにしないと、実験の結果が見えなくなります。

これと同じで、自分を見つめるための修行をするのに、
それに邪魔になるようなものを排除してから研究する。

逆に遮断することによって、愛とか欲とかが分かってくる。こういうのもあるかもしれません。
断食なんて言うのも、その一種でしょうね。


神への否定の件ですが、信者にまでそれを要求すればそうでしょう。
でも、多くの宗教で、信者の性行為を全面否定することはしていません。
節度ある行為は認めていますね。
なので、神への否定にはつながらないと考えます。


一方で、実用面も。
一般の人間が当然のように行っていることを遮断することによって、神秘性が高まります。
断食してます、寝てません、セックスしていません。
このような面をアピールすることで、神秘性を増し、
信者獲得へのツールとして利用していると考えることができます。
宗教も一種の商業活動と考えれば、このようなことを考えていてもおかしくないでしょう?
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一応、クリスチャンとして私の感じる私見を述べます。



キリスト教では妻を持ち、子供を増やすことは悪いことではありません。
聖書では、子孫が増えることが高らかに神の祝福として賛美されています。

しかし、カソリックの聖職者に関しては妻帯が禁止されています。
私には個人的な感覚として、その理由が非常によく理解できます。

家族を持つと、やはり家族が心配でしょうがないのです。
家族を持ったら、家族の利益に反することをするのは非常に難しいです。
たとえば、アフリカの最貧国に赴任して、その地の人々のために
働くなどということは心情的に非常に難しくなります。

最近封切られた映画でも、聖職者の苦悩を取り扱ったものがありました。
彼らは、アフリカの、無政府状態の国の、たった一つの教会にとどまり、
死の危険を賭して、現地のひとの心の支えになろうとするのです。
だが、家族のない彼らでさえも、その決断は非常に難しいものでした。
彼らは神の栄光を伝えるために生きているという使命感を持っていました。
しかし、犬死していいかどうかについては確信を持てないのです。
いったん母国に引き上げて、その後にまた来る機会を伺えばいいのではないか?
そう考え葛藤するのです。

ましてや、家族がいたとしたらどうでしょうか。
とても彼らの考える使命を全うすることはできないと思います。

聖書には次のように書かれています。
「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19・12)

ここでいう「これ」とは、モーセの律法であり、一度結婚をしたら離婚をすることは絶対に許されないという律法のことです。

聖書は、結婚を賛美しています。が、天の国のために結婚しないもの、これをもまた深く祝福しているのです。
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 完全に神のための存在に為れていて、神のためだけに飲食し、性をおこなうのであればどうなんでしょうか?


 そうではなく、エデンが出て行った始祖のように、神を忘れたり、神から遠くなったりしていったり、自分達だけでいいように勝手をしたらいけないのでしょうね。
 だからそうならないように、性を慎んだりするのかもしれません。
 専一に為らないと、神ってみえないのでしょうね。
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 犬や猫が人間の心を理解できないように、人間は神や仏の心がわからない。



 一週間ほど待ってもらえれば、できるだけ考えをまとめて、解答を試みたいと思います。
 自信があるわけではないので、解答できるかどうか不安ですが。
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欲することで苦が生じるとする仏教は、西洋を超越しなければならないとして、妻帯しているものは欲しているとなり、禁じたというより克服したことを示すために妻帯しないんじゃないかと。



キリスト教の場合は、原始仏教の一派に影響を受けたのではないかと思われるナザレ派が起源だと思われます。

その一派のクムラン宗団は性欲を穢れとして考えたので、想像しただけでも、穢れたとして清めの業をするようにと要求していたそうです。
それでもそのままなら子孫が絶え絶滅してしまうので、結婚の後2年間くらい性交渉をせず、決められたときに性交渉をし子供を授かった場合は、性欲を克服した者だとされたんです。

そんな感じでユダヤ教の聖職者は定められたときに性交渉を妻として子供を持っていたわけで。
しかし定められた時にやったとしても懐妊するとは限らない。
そしたら、また定められたときに性交渉をしていたのと、一夫多妻だったので、1人の妻が排卵日じゃなくても他のたくさんの妻がいますので、そのものと性交渉をしていたわけですから、誰か妊娠するわけです。

そんな感じでキリスト教になっても聖職者は妻帯していたのですが、お金の問題から聖職者は独身であるべきって教会が決めたんです。

金持ちが聖職者になっていたのですが、金持ちが死ぬと財産は教会のものになるでしょ?
だから妻帯していた聖職者に既に神と結婚しているので、結婚は無効だとして、妻子に財産がいかないようにしたんです。
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