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審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。

まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。
この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。
このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。

芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。
真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。

しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。

しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

A 回答 (56件中11~20件)

こんにちは。

ご無沙汰しております。
お身体のほう、どうか大切になさってくださいね。

「審美とはいかにして可能か」で私が咄嗟に思いつくのは、
たとえば美の再定義やいわゆる伝統的な美的価値観の喪失を憂い理想の美のありようを希求する「美とは何か」であり、
またあるいは、多元的で新たな価値観を持つことの豊かさを享受し、排他的でなく積極的に異文化理解に努める上で欠かせない「なにが美となり得るか」なのです。

今日に至るまで、私達日本人はこの両輪を巧みに操り、少なからず異文化のフィルターを通じて我が国の伝統美を見出し、異文化理解に努めてきたと言えましょう。

でも、例に挙げれば、現代中国(現代中国美術)に対する私たちのまなざし、そして興味の程度や深さ。
これについてはどうなのでしょうね。
それらのうちに「美」を見出せる、あるいは、積極的に見出そうと努め関心を注いできたといえるでしょうか。

このたびの大震災に際し、アジア諸国から多大な手を差し伸べてもらい、また一定の賞賛の評価をいただいているからというわけでもないのですけれども、
我が国の復興を機に、いま一度、アジアにおいての「審美とはいかにして可能か」を各々自問し「美」を求める良い機会かと存じます。

そしてその際、西洋文化のフィルターは、未だ必要条件だと思われますか。

脱線ついでにMokuzo様へ、
ラブホの件、私は同意します。
ネット上から窺い知る統計上からいったい何が窺い知れるというのでしょうね。
たしかに狭小な住宅事情も無縁ではないと思われます。
でもやはり、自宅で堂々と…というよりも、場所を変えてこそこそっと「恥ずかしいことを隠れて行う淫靡さ」ゆえの愉しみもある──のかもしれませんよね。

むろん、なかには「罪」の意識をおぼえる人もいるのでしょうけれども…。
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この回答へのお礼

ご無沙汰しております。震災の大変な中、ご投稿いただいて感謝しております。

>でも、例に挙げれば、現代中国(現代中国美術)に対する私たちのまなざし、そして興味の程度や深さ。これについてはどうなのでしょうね。それらのうちに「美」を見出せる、あるいは、積極的に見出そうと努め関心を注いできたといえるでしょうか。

同感です。私は実は、アジアの芸術作品を西洋美術より贔屓にしているのです。パリでも「日本だけがアジアで特別」という論調があると前々から抗議するようにしています。何でなのでしょうね。私が中国人や韓国人の方々に、いたるところでお世話になったからでしょうか。パリに来て困っていると、助けられたものです。そしてマシュマロさんの投稿で、日本での排斥運動の類が収まってくれたらいいなと、内心で祈っています。
私は人権問題の方にこそ関心があるのですが、ただ専門で国際政治を学ばなかったものなので、あまり持論を展開はしません。もっとも指導教官は有名な人道主義者でしたけれども。彼は文献学者(仏文学者)を最初の看板にして、次に思想家、更に活動家になったのでした。

>そしてその際、西洋文化のフィルターは、未だ必要条件だと思われますか。

自分の存在意義を否定するみたいになるので、ちょっと語弊もありますが、実は、私は不要だと思っているのでした。というのも西洋文化のフィルターにかける限り、どうあってもキリスト教を理解し、古典を第一に考えることになるからです。いってみれば、いかにバロックとか新古典主義の芸術に似ているかを論じることでしか、その作品を受け入れることができないともいえます。
突き詰めて言えば、これがいかに無為かを弁じ立てるのが、私の研究の方向性であるといえるのです。しかし短絡的になってもよくないですし、嫌悪感をフランス人に持たれてはなりませんから、いくつかのクッションを入れていくのではあるのですが。

マシュマロさんにまでラブホの件でご意見いただいて恐縮です。参考になりました。やはり、これは人それぞれなのですね。私の世代というか、私の環境ではそれが真であったとしても、他の考え方もまた真になるだろうと思います。そして読み返せば、私の書き方も、偏りがありました。

マシュマロさんとご家族様のご息災を祈っております。

お礼日時:2011/04/05 05:36

>きっと何かお気に障ったのですね。

ごめんなさい。

サイコロさん、謝らなくちゃあならないのは此方です。原質問である審美の問題など語る資格が無い頑固爺ですが、サイコロさんが丁寧にお相手してくださったもんだから、ついつい図に乗ってしまって。
真面目な学究肌のサイコロさんに対しては、相手を見てモノを言わなきゃいけないところ、枝葉末節で絡んでくる酔っ払いの様なことになってしまい、反省してます。
以後、もう少し言い方を考えてモノ申すように努力しますので、今後とも、できれば無視することなく、軽くお相手いただければ幸甚に存じます。

>あんたの話しは、裏付け資料が在るんかね、

この場を借りてCyototu先生の質問にお答えしたいのですが、私の論法は文献学者とは全然違って、裁判所に出頭した弁護士のようなもんで、自分が主張したいところを補強してくれる事実を探して、持ってきて、後付けで、客観的な装いをしているけど、所詮自己主張ですねん。トップダウンの仮説-検証型と思っていただければうれしいですね。その点、その主張の客観的事実の裏付けはあるか?なんて、先生の奥方は優秀な裁判官向きだねぇ。

文献学を気取るわけじゃあないけど、一応、参考文献はあるよ。
○「ラブホ」の経営学―この道40年の第一人者が明かす、驚異の大儲け法
統計は出ていなかったと思うけど、どの顧客セグメントを大切にせにゃイカンかは書いてある。

もう少々説明させてただきますが、そもそも審美学の本質から逸れてラブ・ホテル学に突っ込んじゃった原因は、サイコロさんの
「エロスに関してですが、私の思うに、フランス人の方が日本人よりは、遥かに真面目なのです。」という主張があって、その裏付けの一部として、「たとえば、フランスにはラブ・ホテルがありません。」があったので、この点に反応ちまったんです。

フランスに日本の様な専門のラブ・ホテルが無い理由は、一見普通のホテルがその目的に利用されるからであって、一方の日本には、とくに主要なラブ・ホテル立地である郊外の国道沿いには、フランスで普通の安宿が無いからなんですよ。都市部のラブ・ホテル事情は少々ことなりますけど、後述。

随分昔の話になるが、パリの東駅の近くの安宿に泊まったことがあります。
ドイツから鉄道で南下して来る友人(男性だよ!)と合流するために、同じ貧乏旅行の私が、パリ東駅の近くの、安宿を手配しておくことになったんだね。今にして思えば男が二人で泊まる宿じゃあなかったんだけど、そのときは右も左も解らないから「安い」をキーワードにして宿を決めた。宿の部屋は広めでベッドが二つあるけど、浴槽が無い。浴槽が無い程の安宿だけども、その広めの浴室にはビデというモンが付いていましたね。いまでこそ、ウォシュレット王国の日本ですが、当時の日本人学生はビデなるものを知らんかったね。後でその用途を知ってから、我々男子学生二人が泊まった宿は連れ込み宿だったことが分かった(笑)。

つまり、パリ東駅の近くってのは、日が落ちれば街娼がうろつくような地域で(少なくとも当時)、その界隈で安い宿ってのは、連れ込みだったんだね。確かにラブ・ホテルとは呼ばないし、オテル・ダムールとも言わねぇが、れっきとした連れ込みでさぁね。

「(エロスに関して)フランス人の方が日本人よりは、遥かに真面目なのです。」に関しては、半信半疑ですが、「フランスにはラブ・ホテルがありません。」は、その根拠として不十分だと思うんですよね。

改めて主観的なことを申し上げれば、サイコロさんが付き合っているフランス人はエロスに関して日本人よりも遥かに真面目だとしても、その人達のエロスに関して真面目な側面がパリをしてラブ・ホテルを不成立にしている訳じゃあないと思います。

翻って、東京や大阪の都市部では、2人で使えるシティー・ホテルは一泊素泊まりで2万円+税・サービス。一泊1万円以内で泊まれるビジネスホテルは超狭い部屋にシングルベッドひとつですね。そこで、2人分の部屋を一泊じゃなくて、2時間~3時間だけ使って7000円ポッキリというのが日本の都市型ラブ・ホテルのレゾン・デートルですがな。
で、ホテル経営側からみると、普通のホテルは24時間当たり最大で1泊の料金で、実際は満室率なる1.0未満の係数を掛けた金額が売り上げになるわけだけども、ラブ・ホテルの方は時間制だから24時間中に3組が使ってくれれば7000円x3組=21000円になります。安普請でもシティーホテル顔負けの商売ができるんですね。

審美学の議論からは大分遠くに来てしまいましたが、下半身からの日欧比較文化論ってのも面白そうですね。
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この回答へのお礼

見事な弁論ですね。恐れ入りました。いえ、どうぞご遠慮なく。木造百年さんのお人柄もわかってきましたから、そんなに恐縮しないでください。

>エロスに関してですが、私の思うに、フランス人の方が日本人よりは、遥かに真面目なのです。

思えば、私もかなり言い切りました。個別の事例であるという以上のことは言いようがないはずのことを、一般論にしてしまったわけです。日本人を貶める気はありませんでした。お許しください。またおっしゃるように、私と交際があるフランス人は、結構、偏りがあるかもしれません。確かに街中には無頼漢のような若者もいますね。

木造百年さんのおっしゃることは、説得力がありますし、面白かったです。でも、世代の違いというべきか、一点見落としてらっしゃらないでしょうか。恋人を伴って、連れ込み宿に行きたいと思いますか。この「恋人」というのは、お付き合いするかどうかもわかっていないが、肉体関係だけとりあえず持ってしまったというような仲のことです(若者の言葉だと厳密には「恋人」とは呼ばないでしょうね。セックス・フレンドなどと呼ぶでしょう)。
今の若者は贅沢ですから、無理というものですよ。まぁ高校生から二十歳あたりならともかく、もう少し歳をとると不可能というものです。「もう少し歳をとって」もセックス・フレンドとは何なのだろうと思うかもしれませんが、私は暗澹たる気持ちがしますが、周囲を見回しても、そうした風潮が事実なのでどうしようもないとしか言えないです。
ともあれ、となると、ちゃんとしたホテルに行かないとなりません。パッと思いつきで、泊らせてもらうわけにはいかないでしょう。したがって予約をしないとならないわけです。あらかじめ準備を要すると、そう簡単に、その場の思い付きで行動するわけにはいかなくなるでしょう。よほど、よい住居に住んでいれば、そこに呼んで連れてくればいいわけで、話は別でしょう。また、四十歳を過ぎて収入が安定していれば、少し割高になっても、ホテルにパッと入ってしまっていいかもしれませんけれども。

>宿の部屋は広めでベッドが 二つあるけど、浴槽が無い。

余談ですが、フランスは全般的に浴槽がないです。画家のレオナール藤田がパリで浴槽のある住居に住んでいて、当時は特に贅沢で、モデルの女性が入浴に来て、口説くのに便利だったという逸話があるほどです。ちなみに私の住んでいるところもないです。浴槽がある住居は日系の不動産会社が紹介してくれるところで、月の家賃が、十万円前後です。物凄く高いのです。口説けるような部屋に住んでいる人は、一握りだと思いますよ。

さて、ではフランス人は恋人とどこで愛し合うのか。アラン・レネの映画「恋するシャンソン」で、主人公の男が情事の場として年上の友人のアパルトマンを借りるのだけれど、私は最初、この意味がわかりませんでした。ホテルに行けばいいんじゃないか?と思っていたのです。いや、しかし、フランスにいて意味がわかってきました。要するに、ある程度、身持ちのいい家の若者が情事を行うような場所はないので、それなりに小奇麗な部屋を貸してもらったということなのです。

>審美学の議論からは大分遠くに来てしまいましたが、下半身からの日欧比較文化論ってのも面白そうですね。

そうおっしゃっていただけて、ホッとしております。歓迎しますので、どうぞまたよろしくお願いします。

お礼日時:2011/04/05 04:28

 考えを詰めている途中の段階での・しかも連投なのですが あえてお知らせする必要があると考えました。



 ★(No.49お礼欄)・・・「法悦」などはエロスという言葉を用いなければ語ることはできないが、劣情とはまったく別のエクスターズを表現したものでしょう。私はその区分は明確にあるという前提で話をしていたつもりだったのでした。
 ☆ 扱うのに微妙な主題ですが これをめぐって次の一点は あらかじめお伝えいたします。
 情欲じたいは中立であるという命題です。
 中立にあれこれ飾りをつけるのは むしろアマテラス人格語の――ここがむつかしく大事なところですが――単独分立した(要するに逆立ちした)その思想形態である。とも考えます。スサノヲ感性や感情には罪は無い。これです。

 ☆☆ 【Q:なぜ情欲を劣情とするのか?】 ~~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5922822.html

 人間の《情欲》をかつてクリスチアニズムは 何故かくも貶めたのか?
 たとえばつぎのようにです。そこでの《魂》は 単純に広く《感性》のことだと思います。
 ▲ (アウグスティヌス:情欲論) ~~~~~~~~~~~
 魂なしには肉の情欲は存在しないから 確かに情欲を起こすことは 生きており感覚している本性の性質である。だから去勢された男でも情欲が欠けていないで 貞潔がそれを抑制しなければならない。
 情欲を駆り立てる燃料が見出されない場合には 性欲が貞潔に逆らって刺激することがいっそう少ないから 苦労もいっそう少ない。しかるに性交の試みが たとえ〔去勢されているがゆえに〕それができなくとも カリゴヌスの恥ずべき行為に至らないように 慎み深さによって抑えられている。彼はワ゛レンティアヌス皇帝の息子の宦官であり 娼婦の告白により醜行の責任を負わされて 復讐の剣によって罰せられたと言われている。肉の実行はなかったとしても 〔情欲が〕肉的な情欲の渇望によって引き起こされなかったとしたら 集会の書ではそこから比喩がつけ加えられて

   彼は目で見て 嘆息し 宦官のように処女を抱きしめ 
  かつ悲嘆している。 (シラの書(集会)30:20)

 と語られはしなかったであろう。
 (『ユリアヌス駁論』6:14 金子晴勇訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 問題(問い)は 二つないし三つあると思います。
 ひとつには まづわたし個人の答えですが これも単純に《なぞの何ものかへの畏れ》の問題だと思われること。その畏れをないがしろにするなかれということ。そのためであり その意味であって 情欲じたいを取り上げるのではないであろう。あるいは情欲をおとしめること自体を意図していないのではないか。

 いまひとつには この文章を書いた人じしんが つぎのようにも書いていること。少々クリスチアニズムの特殊な領域にも入りますが。
 ▲ (同上 1・5) ~~~~~~~~~~
 かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いづれの問題点についても これらのことが どうして人間の思惟やその観念として また観念の世界においてこそ唱えられ抱かれ頻々と説かれ やがてはそのような共同の幻想となってしまったのか。これが 三つ目の問いです。

 言いかえると 前の二つの問題点は――それらについても 解説や批判を募っているのですが―― いづれも非思考として成り立っていると思われます。しかるに そのことがどうして想像力の問題あるいは知識の問題に成り下がってしまったのか? こういう問いです。
 情欲論には 落とし穴があるのでしょうか? どういう落とし穴(あるいは つまづきの石)でしょうか?
 さらにあるいは ひとは――もしそうだとしたら――なぜ情欲から離れなければならないのでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ただしわたしの考えでは いちいち情欲のからむ光景を描写しても それはワ゛ーチャルであるゆえに《刺激的》ではなく――または われが欲するたぐいの刺激ではなく―― つまらない。これも基本です。スサノヲ感性のあり方がそう成っているものと思います。

 エロスは 自然であり文化である。貶めるものではない。ただしこれを いちいち表象しようとは思わない。よほど文脈において必要な描写でなければ つまらない。
 ほかの《年配》の方々と同じ見解かどうか分かりませんが。
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この回答へのお礼

アウグスティヌスは面白いですね。私は結構好きなのです。ただ、あまり読む機会に恵まれませんでした。
・情欲への畏れ(révérence)
ですか。確かに、核心的な点ですね。

そしてそれがないと、どうも作品は締まらないと言えます。たとえ娼婦を主人公としている『椿姫』のような作品でも、『マノン・レスコー』でも、感動するのは、愛し合う者らの情欲が尊いことが十全に描かれているからだと私は思います。いや、私はすっかり『椿姫』の例を忘れていましたよ。確かにメロドラマだといえば、そうなのでしょうが、あの感動的な恋人らの思いやりに胸を打たれない人はちょっといないのではないかと思えます。ブラジュロンヌさんはお読みになったことがありますか? いや、オペラをご覧になってもいいのですが。私は今でも、泣かない自信はないですね。

>エロスは 自然であり文化である。貶めるものではない。ただしこれを いちいち表象しようとは思わない。よほど文脈において必要な描写でなければ つまらない。

私には「聖テレジアの法悦」が「よほどの文脈において必要な描写」だと思われたのです。

お礼日時:2011/04/05 03:49

 No.47を承けます。



 取り敢えずの(部分的な)ご返答をおゆるしください。

 ★ ~~~~~~~~~
  >むろんこれらの禁忌や拘束は うそです。《わたしには、すべてのことが許されている》のですから。

 私は実はこの言葉の意味がよくわかっていません。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) 聖書だとか宗教だとかはいっさい忘れてください。ただパウロという人の思想として捉えてください。文字どおり無条件にひとは自由です。
 もちろん《文字(律法の規律 ないし 観念の偶像化)は殺し 霊(無根拠)は生かす》という文句もありますが 同じです。
 
 (2) うそと言ったのは 思想としての問題です。つまり上の内容そのものです。ですから そのあとウソであるのに 禁忌やその種の検閲制があれば それらに対してどう振る舞うかが問題になるはずです。検閲制があるから ウソではないというのは 話が違うはずです。

 (3) このパウロの思想が分からないとおっしゃる。だとすれば 美学をそれぞれ説くそれらの人びとの話を文献にあたってわたしが知ることがなく誤解しているということも それとして話が通ることになりませんか?
 後者の人びとは 芸術家ないし創作家としてその説くところは決して一筋縄で捉えることはできず奥が深いとおしえてもらいはしましたが それがけっきょくこのパウロの人間論と同じ趣旨に行き着くとしたら どうでしょう?
 むろんこれはわたしの勇み足で言い過ぎですが どうも悪名高い《キリスト教》という亡霊によって わたしたちの話し合いが 靄に隠れたり嵐に吹かれてどこか遠いところへ持ち去られていったりしていないでしょうか?


 たぶんわたしは 結論をつねに先に提出するやり方(アブダクション)によっているので 学問からさらにその先の思想の問い求めに重きを置いているということ以上に ときにはあらぬ疑いをもかけられるのかと考えます。でも思想の談義とても むろんのこと 互いに相手の自由意志をとうとぶことは いろはのいです。
 ということは ひとつには わたしの言い分は ラディカル過ぎるのでしょうか? どうもそこらへんが おかしいとしか思われません。

 サドはまだ途中です。
 そのほかにも 主題をいただきました。よろしかったら 投稿いたします。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。時差の関係があるので、アットタイムに対応できないのをお許しください。

>聖書だとか宗教だとかはいっさい忘れてください。ただパウロという人の思想として捉えてください。文字どおり無条件にひとは自由です。

意味がわかりました。パウロの思想だったのですね。わからないというのは、日本語の位置付けがわからなかったのです。ブラジュロンヌさんの信念として書いたことなのか、一般的に言われていることなのか、それとも十九世紀フランスの状況をいったのか、など、様々な文章の解釈を考えた時、「わからない」といったのです。私をあまり買いかぶってくださいませんように。私の頭には聖書よりも詩の文句が詰まっていますから、ちょっとしたコノテーションで、パウロの言葉を援用したな、という発想にはならないのです。
私としては、さしあたって、十九世紀フランスにおける反抗を考える時に重要な要素に、検閲があると述べたわけです。というわけで、少し誤解があるかもしれません。ともあれ、話をそのまま進めてみましょう。

>そのあとウソであるのに 禁忌やその種の検閲制があれば それらに対してどう振る舞うかが問題になるはずです。検閲制があるから ウソではないというのは 話が違うはずです。

真実があると仮定すれば、そういうことになります。が、これは個別の事例を検討して論じる必要があるでしょう。少なくても私の知る限り、『ボヴァリー夫人』も『悪の華』も、訴えられはしましたが、よいものがありますよ。虚構でしか描けない真実があります。

3は誤解が解けたら、お許しいただけませんか。思想にNoを突き付けたのではなく、あの断章形式の書き方だと、その文章の位置付けが、単にわからなかったのです。まぁ私は代々キリスト教徒の家ですから(といっても聖書を暗唱しているような人間ではありません)、偏見も少ないはずです。ホーリーネームも持っていますよ。私はどうも新興宗教にはかなり厳しいですが、ブラジュロンヌさんはカトリックなのでしたよね。どうぞご遠慮なく。

お礼日時:2011/04/05 03:46

サイコロさん、回答有り難う。



>文献学というのは、いわゆる減点法で採点がされます。というのも、自然科学と違って、最後の結論に価値はあまりないからです。

やはり、問題の接近の仕方の違いは自然科学と文学の違いのようですね。



私は北斎でも歌麿でも重々承知してここでは話しております。

>ただ日本人は北斎にせよ、何にせよ、エロは審美の問題として真面目に扱うべき対象だとはみなさなかったとは言えそうです。私も春画が審美的によいなどという話をした近世の学者など聞いたことはありません。

私はそのことを言っているので、この点には同感です。

>実際、北斎の春画に関する出版物は、近年のものが大半でしょう。だから西欧の芸術家が騒ぎ出して初めて、「ああ、そうか、これもいいんだ」という風になったと思えます。逆輸入と言えますか。

私に判らないのは、「ああ、そうか、これもいいんだ」と日本の学者どもが芸術のレベルで言い出しているらしい所です。享楽の意味でなら、今更そんなこと言わなくたって誰でも分かっている。だから、それでも良いんですかって言うのが、私の問いです。


>しかし最後にお断りをして起きますが、エロを美とみなそうとする推進者は私ではないんですよ。

大丈夫です。それも十分に承知していますから。ただ聞きたかったのは、その、その他大勢の日本の西洋芸術論輸入業者たちの受け売りに対して、貴方にも何か一言在りますかと言うことが聞きたかったのです。

貴方の「いや、むしろ本当にこの話をしたいのなら、ポルノと烙印を押されているが、実は私個人の主観によって美しいと思われるものを見つけないと説得力がないでしょう。ただ私はそういうものは興味がないのです。むしろ美に関して公平ではありたいという希望の方が大きいのです。」という言葉の中にその答えの一端が出ているようですね。そして、この公平と言うことに関しては、多分貴方が決して逃れられない日本人としての世界の見方がどう現れて来るかも同時に明確にしたときに、始めてご自分を説得出来るような気がします。

蛇足になりますが、私が大分前に貴方の設問に始めて投稿したときに、貴方がまさに西洋人の物の見方に日本人として疑問を抱いていると言うことが貴方の文章の中に表白されていましたね。日本人にしか出来ない方法で文学界に貢献して行かれることを期待しております。
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この回答へのお礼

閉じる前に、このお礼欄を書かなければなと思っていました。考えてみましたが、なかなかパッと言い切れません。今度こそ、これは私の性格が原因です。

マシュマロさんのお礼欄でも触れたように、逆輸入は必ずしも悪いことばかりではありません。あまり日本では興味ないと思われていたらしい「根付け」がイギリスでブームであるというのは、外国人が日本の文化の良さを改めて教えてくれた例でしょう。異文化交流というのは、教えられる側面があります。私もまた、自分の専門で、フランス人が見落としていた視点をフランスに「逆輸出」しているわけですから。私は逆輸出や逆輸入ができる関係というのは、平和な証拠だと思います。また非常に高度な文化交流の形だと思います。

しかし日本の場合、受け手の学者の方が卑屈になりがちです。また自国の文化について、あまりにも無関心ということもあります。こうなって来ると、よくありません。前にボードレールの欄で「間テクスト性」という言葉を使って、猪突先生の目を白黒させてしまいました。しかし「間テクスト性」などと言わなくても、本歌取りといえば、同じ意味なのです。ところが大学院生の中には、「間テクスト性」という言葉を発しただけで、さも重大なフランスの文学理論を駆使しているような気になる方もいる。これは嘆かわしいなと思います。
とはいえ、エロティシズムに関すると、私も似たような様相を呈すると白状しなければならなそうです。私は西欧におけるエロスの説明は出来るつもりです。しかし日本の研究は齧り読んだだけで、何が信頼に値する研究なのか、皆目分からないのです。乱交の風習などに南方熊楠も触れていたと思いますが、私はその野趣ある活力を是とする美意識について、想像も及びません。これは美ではなく、ただの風習だと言い切ってよいものなのか、どうか、私はそれも確信がありません。現代の価値観から計り知れることではないからです。

おわかりのように、私の立場は非常に保守的であって、かつその保守的な態度が過剰に相手を排除しないようにと慎重になっています。だから、こうやって、個人的な意見を匿名で表明することが許される場であっても、前衛的なテーマを排除することを高らかに宣言するには至らないのです。ゴミ箱アートでさえ、積極的に認めるわけではないが、排除もしません。親がホームレスであるとか、何かの事情でゴミに埋もれて暮らさざるを得ない人にとっては、それを美と認めたい欲求があるのかもしれません。あらゆる可能性を考えると、自分がわからないからと言って、「それは美ではない」と断じることが私には出来ないのです。この調子で、私は様々な判断を敢えて保留しています。だからこそ、「美とは常に奇矯なるものである」という定式によって、美醜の枠組みを解体してしまった方が、いっそのこと、もっともしっくりくるのです。

こうした私も、OKWave上の議論で、少々排他的にならざるを得ない場面が出てきました。ご存じのように、私の手に負えない回答がやってきて、いい加減にしろと言わなければならなくなってしまった。そこで強調することになったのが文献学です。
ただしその問題もよく知っています。従来、文献学的にテーマにならないと考えられてきた問題には、被差別問題がありました。これらは文献的な論証が最も困難な分野です。というのも、被差別者に限って自らの窮状を「自らの手で」文献として残すという行為ができないからです。文盲であるとか、うまく整理して自分の言いたいことを弁じられないというためです。そこで大体は、誰かに代弁してもらうことになるのです。しかし権力者が代弁した場合、その窮状は、権力者に都合がいいように改変されます。
また文盲とは違いますが、権力者が文献に手を加えて改ざんしてしまった例だと、たとえばアウシュヴィッツ収容所の例があります。推論ですが、同じことは、太平洋戦争の日本についても起きているのでしょう。こういう問題になると文献学はお手上げです。資料に基づいて極論をぶつことになってしまいます。ちなみに私は文献学の限界がよくわかるだけに、どちらかといえば左派を支持しているのです。またアジアの友人が多いという私の個人的なスタンスもあるわけですけれども。

さて、私はもう少ししたら、ボードレールの欄の方も店仕舞するつもりです。その前に、ボードレールの欄でも、猪突先生にお返事していなかった問題に、回答しなければならないなと思っていました。もうしばらくお付き合いください。

お礼日時:2011/04/13 07:15

 あらためまして こんにちは。



 上半身と下半身とを単純に一緒くたにしているのではなく とうぜんのごとくまづは分けて捉えている。その上で どうも下半身(ないし からだ全体)の問題をも上半身(ないし あたま)のそれとして《文化》化して扱っているように思われます。

 スサノヲ人間語のうちの感性もしくは感情ないしさらには欲望の領域を アマテラス科学語もしくはアマテラス人格語の中に釣り上げて来て これをああだこうだといじくっている。こういう嗜好なのではないだろうか。

 アマテラス普遍概念をスサノヲ人間語なる生活の中から抽象して これを片や人格語に片や科学語にそれぞれ――いくらかは分岐させて――発達させたのは おおむねけっきょくクリスチアニズム〔の中から〕であろうと思われます。

 いわゆるリベルタンの内の単純派は どうもこの世界はアマテラス科学語にもとづいてアマテラス人格語を駆使するようになれば こわいもの無しだと思っている節がある。のではないか。早い話が そうすれば・そうなれば 下半身と上半身とをごちゃまぜにしてももう大丈夫だと思い込んだ。立派な人間なら 誰もがそうなるはずだ。これこそが 人間的な人間であり 人間的な貴族なのだと。

 ◆ (パウロ:コリント前書 6:12) ~~~
 ( a )「わたしには、すべてのことが許されている。」
 しかし、すべてのことが益になるわけではない。
 ( b ) 「わたしには、すべてのことが許されている。」
 しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ( a )の《しかし》以下を知らない。または知っていても 《スサノヲ人間語およびアマテラス人格語》の全体としての――自然本性にもとづく――人格のもんだいとしては分からない。特に《人間的な貴族であれば 何をしてもゆるされる》と思いこんでいる節があることにおいて。
 すなわち ( b )の《しかし》以下の言葉をあやまって自分のつごうのよいように解釈してしまったらしい。
 すなわち考えるに アマテラス科学語もアマテラス人格語もともに同じく 基本的に言ってとうといものであり しかもとうといものでありながらも そこにはいろんな飾りをひとはつけ加えるくせがある。すべてのことが益になるわけではないのだし そのような飾りによってわたしは支配されはしないとは 思わない節がある。

 《芸術のための芸術》の内の一派には この・ひとつには《エロスの〈文化〉化》とひとつには《アマテラス語で飾りまくるくせ》とが もろに含まれている。こういう傾向はありませんか?
 もしそうだとしたら――このあくまで一派についてのみ言っているのですが―― 審美の出発点が つまりボタンの掛け違いのごとく ちがっている。こう考えられます。いかがでしょう? まづこの一派の処理です。自分たちのあたまの中で ふつうの人間を 想像力を駆使して ひとまわり大きくさせたような人造人間を出発点に持ってしまったのではないかです。

 * 《〈スサノヲ人間語およびアマテラス人格語〉の全体としての――自然本性にもとづく――人格のもんだいとしては》 エロスも文化です。自然であり文化です。その全体です。しかもその中から アマテラス語の単独分立ないし果ては自称の独立自尊によってさらに文化・化させたかたちなのではないか? です。

 * もっと単純に乱暴に言えば 道徳規範による拘束を嫌いいわゆる禁忌をも嫌いこれらに挑戦する。その挑戦の行き過ぎなのでは? 
 むろんこれらの禁忌や拘束は うそです。《わたしには、すべてのことが許されている》のですから。

 * そうしますと こんどはニーチェのように そのクリスチアニズムの社会慣習に そしてそれがドンキホーテに見るごとく相手はただの観念であるのだからよせばよいのに(ただの観念ないし幻想としての神がはびこっているだけなのに) これに挑んでその神を死なせなければ自分が持たなかった。といった事例にもつながるかも知れません。もともと《わたしには、すべてのことが許されている》と言っているのにです。
 (モーセの神が ユダヤ人のあいだでは――アブラハムの信仰の神と同じであるはずなのに そうではなく―― 観念と規律の神になってしまった。その同じような神を いわゆるキリスト教文化は あらためて生んでしまったし 後生大事に抱いている。そういうひとつの思潮がある)。



 お言葉に甘えまして。
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この回答へのお礼

>スサノヲ人間語のうちの感性もしくは感情ないしさらには欲望の領域を アマテラス科学語もしくはアマテラス人格語の中に釣り上げて来て これをああだこうだといじくっている。こういう嗜好なのではないだろうか。

そういう風に言っても外れではありませんね。しかし擁護してくださるのかと思ったら、その代わりに私をアマテラスにしてしまったというわけです。となれば、暗に批判なさっていることになるでしょう。なかなかエレガントな書き方で、私好みです。ともあれ、歓迎しますよ。

>いわゆるリベルタンの内の単純派は どうもこの世界はアマテラス科学語にもとづいてアマテラス人格語を駆使するようになれば こわいもの無しだと思っている節がある。のではないか。早い話が そうすれば・そうなれば 下半身と上半身とをごちゃまぜにしてももう大丈夫だと思い込んだ。

サドの単純な読者について述べているという限定でなら、これは鋭いですね。でも、単純ではないサドの読みとしては、ちょっと違います。ユーモアがあるのです。「こんなふざけたことを考えている怪人がいますよ。みなさん、どう思いますか」という目配せがあるように私は思います。クロソフスキーの「ロベルトは今夜」もまた、同じようなものです。やはりどこかで、「本当にこれでいいのかなぁ。ちょっと考えてみましょうよ」というためにわざと言語化してみせたという風に私は思います。コリント前書の「しかし」以下をわかっているというか、前提としていると言えます。
もっとも、これは一解釈に過ぎません。私は前にサドはクリシェだと書きましたね。この時に、どのくらいの人が先の意味までわかっていたのか、不明です。単なるインモラルの紋切り型や、他人を自らの快楽のために酷使する正当化の理屈だとしか考えていなかったということはあるでしょう。それにしても意外かもしれませんが、サド研究者は大変な人格者が多いのです。案外、デカルト研究者の方が、人間が破綻しています。

>《芸術のための芸術》の内の一派には この・ひとつには《エロスの〈文化〉化》とひとつには《アマテラス語で飾りまくるくせ》とが もろに含まれている。こういう傾向はありませんか?
 
うーん、こちらは完全に誤解です。これはゴーティエやバンヴィルを読んでみてくださいとしか言いようがないです。というのも、エロスに関するディスクールがいかに平易で、わかりやすいかを述べよということになるでしょう。これは主観的な問題もあるわけです。ちょっと説明をどうやったらいいのか、私には漠然としています。
しかしボードレールに関して言えば、次の言葉は外れてはいないでしょう。「* もっと単純に乱暴に言えば 道徳規範による拘束を嫌いいわゆる禁忌をも嫌いこれらに挑戦する。その挑戦の行き過ぎなのでは?」彼が反逆児であることは確かです。しかし他の前高踏派の詩人らは、ブラジュロンヌさんのお考えとは、まったく違う位置にいるでしょう。優雅な美意識をもった作家らなのです。たとえそこに精神性がなかったとしても、美しい姿こそ幸福を約束してくれうるものだというのです。「美とは幸福の約束である」とは、優雅ではあるが、非常に軽薄な言葉なのです。たとえていえば、美人だが中身のない恋人を愛するようなものです。

>むろんこれらの禁忌や拘束は うそです。《わたしには、すべてのことが許されている》のですから。

私は実はこの言葉の意味がよくわかっていません。しかし十九世紀フランスでは違います。検閲の法律がありました。詳しい事情を知りたければ、たとえばネルヴァルの「アンジェリック」を開いてみてください。そこではフィクションを出版した場合、罰金刑になると書かれています。罰金の額など笑いをとるための誇張はあるのですが、概ね嘘ではありません。

さて私から聞きますが、バロック期の傑作であるベルリーニの「聖テレジアの法悦」は、上半身と下半身がごっちゃになっている類の芸術だと思いますか。「法悦」などはエロスという言葉を用いなければ語ることはできないが、劣情とはまったく別のエクスターズを表現したものでしょう。私はその区分は明確にあるという前提で話をしていたつもりだったのでした。私はどうも、自分が批判されるのが、信じられないところです。よほど回答者の年配の方々は禁欲的なのか、あまり美術に親しむ機会がなかったのか。あるいは、これはキリスト教が理解できないと理解できない類のものなのか(ボードレールは理解できないと断言しており、差別的だと私は反対でしたが、認めないとならないのだろうか)。ブラジュロンヌさんは、いかがでしょうか。

お礼日時:2011/04/04 09:08

今回は、木造さんとサイコロさん両方に質問がある。



先ず、木造米虫さんから。#43の回答、米虫さんの文章も論理も何時読んでも歯切れが良くて判り易い。あたしもまた感心させられて、家の婆さんにあんたの意見を紹介したんだ。家の子供達(と言ってももう疾っくに独立しているんだが)に言わせると家の婆さんが一番頭が良いんだそうだ。あたしの世間知らずは定評が在る。だから、私も正直、いつも婆さんの方が上だと思っている。そしたら、婆さんはあんたの意見に反対した。婆さんが直ぐにインターネットで調べたら、ラブホテルの利用者は圧倒的に若いのが多いと出て来たそうだ。あたしが調べたわけじゃないんで責任持てないが、どうもあんたの言うような既婚者が利用者の大半だというわけではないと婆さんが言ってた。

そこで米虫さんに聞きたいんだが、あんたの主張はどれだけの資料に基づいて言ってんのかね。あんたの論理はいつもいきなり本質を突いていて、さらに凄く判りが良い。あたしの経験じゃ、そんなのが一番危険だね。もしかしたら、もう少しであたしも騙されそうになっのかもしれない。そして、もしかしたら、あんたはいつもそんな判りの良い論理で、若いのを煙に巻いて来たんじゃないかって、そんな気がした。だから、判り易い論理は恐いってのが、あたしの持論だ。あんたの話しは、裏付け資料が在るんかね、それとも、論理的な思索から出て来たもんかね。誤解しないでね。これあんたのこと褒めてんだから。

次に、サイコロさんに質問。あたしは木造米虫さんとは違った意味であんたの文章に感心させられている。物理屋ってのは、一瞬でその論述に現れる概念の間に直感的に序列を付けてしまう。まあその直感は経験から養われて来るもんだ。そして、その序列で余り重要でないと決めつけてしまったことには注意を向けない。だから、その重要だと思わなかったことに対する論旨が不透明でも、それを透明にしようなんて考えないで打っちゃって置く。そして、序列の上位の物だけに神経を集中してそれを透明に表現しようとする。そうじゃなくちゃ、ごちゃごちゃになちゃって、物理屋は自分で何を言っているのか判んなくなちゃうんだと思う。ところが、あんたのやり方を見ていると、どうもそんな序列を付ける前に提出された概念を一つ一つ論理的に明確にしているみたいだね。そして、明確になってからきっと序列を付けているみたいだ。私から見ると、それは凄い才能だ。あんたはもと数学に興味があったと言ってたが、数学ではあらゆる概念が全て平等に重要で、概念の間に優劣がないから、数学屋さんは物理屋のようなやり方は山師みたいだと思ってんだと思う。もしかしたら、そんなあんたの嗜好がそんな才能を醸し出しているんかね。それとも、そのやり方は、あんたの個性ではなくて文献学をやる人間の条件なのかね。

さて本論に行くことにして、木造さんが言っているように、私にもエロが芸術だなんて考える奴は本来日本にいなかったような気がしている。ところが毛唐文化に憧れ、奴らのやってることは何でも重要なんだなんて考えてしまう、時々いる西洋かぶれした学者もどきが、「フランス人はエロスは芸術だと言っている。きっとそうなんだろう。俺はフランス語が読めるから、それが読めないその他の日本人よりもずっと文明に近いんだ。だから、俺にはフランス人の言ったことが判るんだ」なんて気になって、エロス芸術論を日本に輸入して売り込もうなんてしているんじゃないだろうね。別な聞き方をすると、エロス芸術論は輸入された物の考え方なのか、それとも、そんな毛唐どもの話を聞く以前からすでに日本人の誰ぞやがそれに近いことを論じていて、それと毛唐どもの意見を比較見当して、芸術とは何ぞやと論じているのかどうか。その辺りが知りたい。

まあ、世の中には外国人から教わって初めて解った物もないわけじゃないから、別に輸入しちゃ行けないってこたないが、何をもって美と言うかなんてことを、一々外国人から教わらなくちゃなんない民族ってのは、何だか寂しい気がするからね。文化が違えば美だって違って来るってえのは、当たり前のような気がする。だから、もし日本人に西洋人と接する前からエロス芸術論を唱えている輩がいなかったとしたら、そんな議論では、人間とは何ぞやなんて論じているわけではなくて、西洋人て何ぞやとか、フランス人て何ぞやと言うことを論じていることになりかねない。それを日本人が知りたがっても、それはそれで個人の趣味として結構だが、あたしは「あたしは誰でしょう」なんて考えながら年取って行きたいもんだ。

これ結構真面目な質問だから、あたしの言葉使いは気にせずに教えて下さいね。

この回答への補足


さて、こうやって考えてみると、西欧美術において新古典主義という建前はあったが、それ以後は、その裏にあったものがおおっぴらに出てきたと言えます。そしてその呼び水として、日本の春画が大きな役割を果たしているということも留意しておいてよいでしょう。つまり日本は、必ずしも西欧に教えられるばかりではなく、「エロ」に関しては、先端を行っていたのかもしれません。むしろ逆なのです。
ただ日本人は北斎にせよ、何にせよ、エロは審美の問題として真面目に扱うべき対象だとはみなさなかったとは言えそうです。私も春画が審美的によいなどという話をした近世の学者など聞いたことはありません。実際、北斎の春画に関する出版物は、近年のものが大半でしょう。だから西欧の芸術家が騒ぎ出して初めて、「ああ、そうか、これもいいんだ」という風になったと思えます。逆輸入と言えますか。

しかし最後にお断りをして起きますが、エロを美とみなそうとする推進者は私ではないんですよ。私は仲間内では、かなり堅い方なのです。私も微妙なのです。お礼欄で示した例などは、とても有名な話で、特に私の見つけてきたものではありません。いや、むしろ本当にこの話をしたいのなら、ポルノと烙印を押されているが、実は私個人の主観によって美しいと思われるものを見つけないと説得力がないでしょう。ただ私はそういうものは興味がないのです。むしろ美に関して公平ではありたいという希望の方が大きいのです。

補足日時:2011/04/04 08:21
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この回答へのお礼


猪突先生、どうもありがとうございます。まず私の性格的な問題かどうかについて。文献学というのは、いわゆる減点法で採点がされます。というのも、自然科学と違って、最後の結論に価値はあまりないからです。そうも言えるかもしれないという程度のことは、資料など無くても、誰にでも直感で言えるのです。そうではなくて資料を読みこんだ上で、浮かび上がってくることを示すのが文献学の醍醐味ではあるのです。

>エロス芸術論を日本に輸入して売り込もうなんてしているんじゃないだろうね。別な聞き方をすると、エロス芸術論は輸入された物の考え方なのか、それとも、そんな毛唐どもの話を聞く以前からすでに日本人の誰ぞやがそれに近いことを論じ ていて、それと毛唐どもの意見を比較見当して、芸術とは何ぞやと論じているのかどうか。

猪突先生まで、そうおっしゃるとは、よほど私は議論の仕方を失敗したと見えます。ある程度わかりきっていると思ったので、議論を省略していましたが、まず西洋美術でも、新古典主義までは、劣情と美は分けて考えられていました。ヴィンケルマンは、ヌードとは人間の根源を明らかにするものであり、見ることで心が落ち着くものでなければならないとしています。ここで「エロ=劣情」は問題にも入りません。同じ考え方はゴーティエら高踏派にも引き継がれています。
新古典主義に照らし合わせると、実は日本の方が、エロに関してかなり寛容です。葛飾北斎などの巨匠にしても、春画を描いており、かなり際どいものです。蛸と交わっている女性の姿とか、こちらはエロスというより、ポルノというべきものです。西洋人からしてみると、日本的な美術こそ、退廃的だったでしょう。次の記事は北斎の春画の絵を示そうと検索していて見つけましたが、それ自体はgoogleですぐみつかるので、面白い記事を優先して紹介します。本当かどうかはさておき、日本の方が大らかだったことを示す例ではあります。
http://homepage3.nifty.com/time-trek/else-net/to …

さて、ヴィンケルマンなどが理屈では、理想を語っているが、実際のところはどうだったのでしょう。ここからが学者の仕事です。アングルの「オダリスク」は新古典主義の作品ですが、果たして、完全に美を表現しているのでしょうか。やはり美女のヌードを見たいという欲求がないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …
またクレザンジェの「蛇にかまれた女」は、蛇の毒にのたうちまわっているのが表向きの説明ですが、鑑賞者は女がエクスタシーに達した姿を描いていることは百も承知であったといわれます。
http://www.kyuhaku.jp/roji/roji_yn-12.html
この調子で、新古典主義の理論の蔭に隠れて、実は裏では春画と同じような意味で芸術が愛好されていたということもあるのです。しかし劣情も美にまで昇華する場合もあります。二十世紀の例をあげてみましょうか。たとえばクリムトのダナエはどうでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …
あるいはエゴン・シーレ。
http://image.blog.livedoor.jp/kajison777/imgs/8/ …

バルテュスは少女の裸体を描いた作家であり、ロリコンといえば、そうなのです。しかし普通の「エロ」と異なることは一目瞭然でお分かりでしょう。
http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/3004
バルテュスは最後の奥さんが日本人であったように、日本に強い影響を受けているのです。紹介したサイトの下には、和服の女性のヌードが出てきます(「黒い鏡を見る日本の女」)。

ホルスト・ヤンセンは北斎の春画に強い影響を受けています。
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2007/04/pos …
ただ残念ながら、うまく資料をダイレクトに提示できるサイトはないです。

(補足へと続く)

お礼日時:2011/04/04 08:17

理性と感性との全二重通信的な越境の継続は可能なのでしょうか?

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この回答へのお礼

>理性と感性との全二重通信的な越境の継続

「全二重通信的な」という意味が難しいですね。私が勝手に推測するのではありますが、理性と感性の合一が継続的に可能か?という問いでよろしいですか。そうであれば、理性と感性の合一は、新プラトン主義において目標とされていたことであったというお答えになります。新プラトン主義は十八世紀以前の潮流です。

可能であるかと言われると、凡人には不可能であるが、天才をもってすれば可能であると想定されていたということになります。しかし継続的かといわれると、やはり一瞬の閃きであったと思います。本来、別々のものを統合するのは、大変な困難を伴うからです。そしてそれに長けていたのは、聖職者や哲学者だと考えられていました。芸術家は彼らには敵わないまでも、一瞬の霊感を逃さないように形にする技術に優れているとみなされていた――ということになるでしょう。これはいうなれば主観と客観を統合する試みですが、十九世紀以降も、芸術家が目標としたことであります。

これでお答えになっていますか?

お礼日時:2011/04/03 07:59

>たとえば、フランスにはラブ・ホテルがありません。



あのね、世界中どこでもホテルがある町にはラブ・ホテルは要らんのですよ。

日本の農村をドライブしているとね、畑の中にラブ・ホテル!
ホテルも旅館もB&Bもないところにラブ・ホテルですね。
この村の主要産業は農業とラブ・ホテルですか?みたいな驚きですね。

フランスでは結婚した男女は自宅で夫婦の営みをするでしょう? 自宅の寝室で出来るんでしょう?

日本の農村では襖1枚隔てたとこで、祖父ちゃん、祖母ちゃんが寝ていて、若夫婦はどうすりゃいいの?
フランスの家は石壁で寝室の音や声が漏れないでしょうが、在来木造日本家屋に老夫婦と若夫婦が住むのは大変ですよ。
老夫婦にお迎えがきて世代交代するころには、今度は思春期の娘や息子が襖1枚隔てて寝てるんだよね(笑)

ですから、農業とラブホテルだけが産業、みたいな村のラブ・ホテルでは、既婚夫婦が上得意なんですよ。リピーターですね。
ただし、自分の家から一番近いラブホテルではなくて、軽トラックで走って、隣村のラブホテルのリピーターになる。
もちろん、夫婦でない男女も使うでしょうが、そんなことに目くじら立ててはいけない。
なんたって、夜這いとか足入れ婚が延々と続いてきたのが日本の伝統ですからね。

これは、日仏の住宅事情の比較分析(=社会学)であって、日仏のエロさ加減の比較(=芸術文化論)じゃあないんですよ。
住宅事情が改善して、老夫婦と若夫婦が別屋で住めるようになるとラブ・ホテルの経営は厳しくなると思いますね。
人気を維持するためには回転ベッドやミラーボウル、カラオケセットやハイビジョンTVを用意して、自宅の寝室とは差別化しないとお客は来ない。もちろん隣室との壁も厚くして30db位の遮音壁にしなくちゃダメ。

日本人は決して下半身マターを軽視しませんよ、むしろ歴史的に下半身の満足も重要視してきたと思いますよ。
でもね、日本で建築美を論ずるときに村はずれのラブホテルの建築美は俎上に乗らないの。
たとえ、シンデレラ城もどきであれ、地中海風の白亜の殿堂であれ、上半身で議論する時には歯牙にもかからない。

せいぜい文学の世界、永井荷風「四畳半襖の下張り」の世界かな。それでも依然として上半身で審美の議論をする対象ではない。日本では、下半身の事を大切しますが、審美の議論のときはにエロとかグロとかは無視するんですね。

ドイツでも上半身と下半身は厳密に区別しているでしょう。これが「文化」じゃないかな。

上半身と下半身の議論を一緒にするのはやはりフランス人独自の”学際的挑戦”なんでしょうか。
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この回答へのお礼

>これは、日仏の住宅事情の比較分析(=社会学)であって、日仏のエロさ加減の比較(=芸術文化論)じゃあないんですよ。

田舎の事情を踏まえてという返答ではありませんでした。きっと何かお気に障ったのですね。ごめんなさい。しかし都会だと、ラブ・ホテルの使われ方は、私が述べたことでそう間違いはないと思います。私はフランス人とこの問題を前に話してみたことがあるのですが、日本の恋愛事情にはとても驚かれたものです。村上春樹の小説の世界では、ラブ・ホテルが一つの重要な舞台になりますが、どうもフランス人には何をやっているのかが分からなかったようです。架空の世界だと思っていたとか。それくらいに違うのです。

おそらく、少し誤解があるかと思ったのですが、私は「エロ」の比較をしようとは思っていません。というのも日本語の俗にいう「エロ」とギリシア語の「エロス」の意味は違うものです。エロスは元々、合一を示す語で、決して淫らな意味はなかったのです。性愛にまつわるものを理解する枠組みには、日仏で差があります。エロス、エロティシズムなど平気でフランスでは連発しますが、私が驚いて「エロスはどのようなニュアンスでお使いですか?」と質問すると、実は政治的な含意であるとか、かなり複雑なのです。私が仏語の文献を訳しても、日本の一般の読者にわかるかどうかは、非常に心もとなく、形容詞を補うなど工夫するとか、別の訳し方をすることもあるほどです。

ただし、私としては、フランス=エロという図式には、なるほど日本では流布しているイメージですが、反対せざるをえません。変な話ですが、たとえば児童ポルノにしても法的に規制が厳しいのは、外国の方でしょう。また法規制という上辺のことだけではなく、フランスに来てみるとわかると思います。街中で、渋谷や新宿の繁華街のようなものはありません。また娼婦のような格好をしている女子学生というのもいません。日本の女子学生が留学してきて話すことになると、ちょっと恥ずかしいなと私は思います。東京と比較するとパリは、随分と地味なのです。と言ってもパリを過大広告する大量の記事が出ているので、あまりリアリティを持ってもらえないかもしれませんが……。

>日本では、下半身の事を大切しますが、審美の議論のときはにエロとかグロとかは無視するんですね。

確かに、従来、性愛に関する研究は、審美の研究と違う形で語られてきたかもしれません。しかし近年の日本の文学や芸術の研究の友人と話してみると、これは必ずしもそうとは言えません。ドイツにせよ、ヴィンケルマンのような新古典主義の始祖まで遡れば、それはそうなのでしょうが、現代においては必ずしも、そう言い切れないのです。

>でもね、日本で建築美を論ずるときに村はずれのラブホテルの建築美は俎上に乗らないの。

実際、従来はそうでした。しかし最近、そういう研究が出てきたようです。たとえば次の著作は、建築学的な視野からだそうです。
http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%AE%E7%A9 …

私は実は時間がなくて読んでいませんが、英米文学の第一人者の鬼のような先生が「研究テーマってもんは自由なんだねぇ」と感嘆していました。彼からのまた聞きですが、恋愛感情を高める内装は、異国情緒のものが多いのだそうで、文化比較の観点から研究されているのだそうです。ラブ・ホテルの内装も、前のお礼欄で書いた東京ディズニーランドの混淆した様子も、同系統に位置づける議論だとも聞きます。もしかしたら木造百年さんは、批判的な観点からご関心があるかもしれません。それにしても私に内容を語ってくれた先生は学会にも出かけて行ったそうですが、会場から出た質問は「どうやって内部を調査したのか?」というものだったそうです。リフォームの時に、業者に協力してもらったのだそうです。

以下の新書は、またそれとは別の方が書いたもので、建築学的な視野とは別のようですが、結構、売れているようですね。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_de …
また次のサイトにはインタヴュー記事があります。
http://www.j-cast.com/2007/02/04005265.html

ただ日常会話のレヴェルで、年配の方とする話題として適当では無かったとは言えるかもしれません。「学際的挑戦」は、傷つきますよ。

お礼日時:2011/04/03 00:01

>すると真善美の一致が、猪突先生のお考えに近いものだといえるでしょうか。



真善美とは昔から良く聞く言葉ですね。若い頃は意味のある言葉のような気になっていましたが、いろいろ創造的な営みの経験をした今になってみると、これも良く解らない言葉ですね。私は、芸術って神懸かりだなって感覚が増々強くなっています。創造は驚きの中から出てくる。何で私にこんな物が出来てしまったんだろう。何で他の人じゃなかったんだろう、って何時も何かを創り出したときは考えて、それを言葉にする努力をしています。しかし、もっともらしい言葉が幾つも見付かっても、結局それを統一する言葉は、幸運に尽きてしまう。だから神懸かりだと言うのです。そんな物になんで真も善もあるもんですか。だから、「美とは神懸かりである」なんて命題も成り立ちそうです。勿論私の神懸かりは、美しい女神様のご降臨、お憑きだと勝手に決めつけています。やはり男性ですから女神様じゃないといけないのです。

 こうしてこうすりゃこうなるものと 知ってたつもりがありゃこうなった

 軒に吊られたわしゃ風鈴よ 鳴るも女神の風次第
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この回答へのお礼

勝利の女神には後ろ髪がないそうですが、作り手は女神の前髪を、すかさずつかむしかないのですね。これから作ろうとする徒弟、あるいは分析する側は、傑作にあやかろうと、あれこれと傑作の素晴らしさを理由づけるが、結局、作り手と同じ目線に立つことはできない――とも言えそうです。
どこかの設問欄で、ライトノベルの解説を私がしましたっけ。あれにしても、私はあれこれと言ったところで、自分がライトノベルを書こうという気にはならないのです。これは私があまりファンタジー小説に興味がないという理由に尽きますが、やはり文学研究者は批評家の類には違いありません。

さて、猪突先生の句、恥ずかしながら私は川柳にあまり詳しくないですが、気が効いていて、とても面白いですね。女神のキスで、風鈴はよい音がすることでしょう。ニュートンは砂浜で貝を見つけるような行為に研究を喩えたそうですが、猪突先生は風鈴の音なのですね。円熟という点では、風鈴に軍配が上がりそうです。童心を表現したという点で、私はずっとニュートンの比喩が好きだったのですが、少し歳をとってくると、童心を強調し過ぎるのも病的であるとは思うのです。ボードレールは童心を強調しているのです。それは、病身から回復したような感覚だと述べています。私は呼吸器系の病気があったので、これはよくわかります。ずっと病院のベッドにいて、息をするのが苦しくて、とても外界のことには構っていられません。しかし回復してくると、次第に外界へ目が向いてきます。そして退院して巷に出ていくと、何もかもが新しく不思議に見えるのです。普通に食事し、出歩けることがしみじみと有難く感じられます。ああ、生き返った!と。

ボードレールの病とは何だったのか諸説ありますが、ともあれ、こうやって外界に見開かれてきた時に彼はものを書いたようです。そして、その時の感覚を忘れずに、自在に引き出せるのが天才だとも定義しています。
似たような例はほかにもあります。『失われた時を求めて』が眠りの場面から始まるのはよく知られていますが、プルーストもそうだったろうなと思います。ボードレールの恢復期に創造的瞬間が訪れるという説をわかってなのか、プルーストのボードレール論は病気で伏せっている時に、記憶だけで書かれたものだったそうです。

こうやって女神が訪れる瞬間をいろいろ考えてみると面白いです。大したものは作っていませんが、私の場合は、元気な時であるようです。恢復期に創造力は増しますが、あまりにも周囲が目新しく見えるために当たり前のことに拘泥しすぎて、木を見て森を見ずというようなことが起きてしまうのです。バランスも大切かなと思ったりします。この意味で私は風鈴の喩えがとても気に入りました。季節の良い満たされたときこそ、風鈴はいい音で鳴るでしょうから。

お礼日時:2011/04/02 22:41

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