あなたの習慣について教えてください!!

審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。

まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。
この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。
このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。

芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。
真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。

しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。

しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

A 回答 (56件中41~50件)

 No.2&6&9です。



 §1 《個々の審美の基準》と《全体の問題として》とのかかわりについて

 次のお考えに接してその視点を考慮に入れていなかったと知りました。
 ★(No.15お礼欄) 人間の歴史があり、また人の生きた経験があれば、審美は自ずと存在するということになるでしょうね。ただし、その個々の審美の基準が全体の問題として議論可能な時代は、過ぎ去ったのでしょうか。それともまだあるのでしょうか。
 ☆ 言いかえますと
 ★(趣旨説明)現代において「審美」とはいかにして可能か。
 ☆ という問いを あくまで《鑑賞者としての個人にとって》とのみ捉えていたからです。

 もっともそれを この個人どうしが集まってあくまで個人の審美行為としてのみ談義することは可能です。これまで述べたわたしの考え方は そこまでなら通用します。
 ですが
 ★ その個々の審美の基準が≫全体の問題として≪議論可能〔かどうか〕
 ☆ この《全体の問題として》というのがはっきりしなくなりました。
 いわゆるコモンセンスないし共同主観のことを言うのでしょうか? あるいはさらに旧く成っても出回っている共同観念ないし共同幻想をも含めて ということでしょうか?
 あるいはそうではなく――なぜなら その共同主観はおそらく協議の結果だったりするのでしょうから―― そもそも個人ごとの審美の基準がそれぞれ違っているはずだという命題を打ちだそうとお考えなのでしょうか?

 でももし たとえば宗教画についてその時代に《それぞれ審美の基準を持つ個人個人が互いに集まって話し合い 全体の問題として諸作品のあいだの優劣を決めた》と見た場合 この場合でもけっきょく一人の人の審美基準は他の人とは違っていたと言えるはずです。
 言いかえると――やや単純になりますが―― 個人がそれぞれ独立した審美家であることは どの時代でも変わらない。変わらないが その意見の集約の仕方が違って来た。また 現代ではこの集約という作業や話し合いじたいがなくなったのだ。こういうことでしょうか? (意見の交換はするが それは言わばグループごとに閉じた範囲でおこなわれるということでしょうか?)
 それ以上は 事情に疎いです。


 
 §2 あえて今 《真善美の一致》という主題について

 大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。
 人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。

 その程度ですが そのように傾向として決まったと思われるような美(美群)は その美をめぐる個人の志向性として・またはその美じたいが指向するその先の何ものかとして おそらく人びとの黙契としてはたらくような善悪判断にかかる善と一致すると見ます。
 そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。

 さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。
 人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実と真実》を含むと捉えます。
 《美》は 見た目ということであればそれとしてのほんの一片の知覚であり しかもヒラメキとしてなら認識し得ない真実として非思考の庭がわが心に成るという意味での真理(したがって ほとんど まぼろし)に近い直感であるとも見ています。
 このことをも――ただしこれは ほとんど論証のむつかしいことだと思いますが――いま述べて進めることとしました。
 

 §3 ロマン主義について
 
 これもいま取り上げました。思潮としてなら多少は分かりますが その美術論なり美学なりとしては推測としてしか分かりません。前もってお伝えしたほうがと思いました。

 【Q:ロマン主義について】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5124232.html

 わたしは投稿者となっていますが そこで勉強したというのが実態です。サイコロさんなら この主題をさらにここで追究する質問者になっていただけるのではないかと思いました。でもいまは 別の主題です。
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この回答へのお礼

お返事が遅れていてすみません。一人一人にお礼をと思った結果、複数投稿してくださったブラジュロンヌさんの回答は、後に回させてもらったのでした。

複数の集団間において美意識が共有されているということは、まぁ幻想共同体(ベネディクト・アンダーソン)というタームを使ってもいいのですが、私はそこまでのことは意図していません。古典主義の頃に流派が形成されていたという程度のイメージです。
流派という言葉は、おそらく現代においては、茶道などの伝統芸能を除いては、考えられなくなったでしょう。今では、その芸術家も、その当人が始祖でなければならなくなりました。ゴッホが好きだと言ったところで、ゴッホと同じことをやるわけにはいかず、インスピレーションを受けて違うことをやらないと評価されないでしょう。こうなると職人はどうなるのだということになりますが、実際、冷遇されていますね。私はこの風潮は問題だと思います。しかし、これは作り手だけの問題ではなく、受け手の問題でもあると言えます。

美とは何なのでしょう。結局、美とはわからないもので、コンセンサスを作っても仕方ないという以上に、美も醜も見分けがつかなくなってしまいました。あるものが、どういう理由によって美であるか醜かは、精密に判断できなくなってきたのです。そして判断できないものだというコンセンサスが、広がっているとも言えるかもしれません。この証拠に、現代において評論というものがあまり大きな力を持たないでしょう。とある美術評論家の評論が広く読まれ、支持されたり、剽窃されて流布したりすることがないでしょう。

真善美に関してですが、何を真理と判断しえるかは、人それぞれですし、難しいことです。資料を集めて分析しない限り納得しない人もいれば(私のことです)、直感と重なる意見があれば、それを真理だと判断する人もいます。
異性が美しいか、好ましいかを判断するという例は、面白い例ですね。私個人は、それを多分に先験的な要素で判断していていると、顧みればいうべきかもしれません。その先験的判断が何に由来するのかはわかりません。遺伝子的なものか、神的なインスピレーションなのか。こうした判断が世にいう美人の判断基準と違うこともあります。こういうときに、自分の考えと集団間の考えが違うのだなとギャップを感じます。

ロマン主義は、私がレッテルを一方的に貼った形となってしまったということですね。また考えておきます。

お礼日時:2011/03/30 20:07

NO.13 です。


嵐とまちがえられたようで申し訳ありません。
あまり建設的なものではなかったので無理もないかと。
そのような雑文にご丁寧なご返事をいただき感謝しております。
今回もアカデミックとは程遠いものになりそうですが、
お気に触ればスルーしていただいて結構です。

>現代における審美の可能性を(アカデミックに)
ということですね。

もちろん美とはなにかということを常に心の問題意識に留めておかないとこれを考えることは出来ないと思います。
私の乏しい文学経験では、たとえば美に関してドフトエフsキーが「カラマゾフ兄弟」で「神が人間にし掛けたなぞではないか」と書いた言葉と、小林秀雄が「モオツアルト」で発した「美は実は美しくも何ともないものだ」といったことが印象的です。彼らの混乱を見れば、結局、彼らも文字で美というものの概念を直接表すことを断念したのではないかということでしょう。

自然を模倣するにせよ、自然から可能な限り離れて人工の極に徹するにせよ、われわれは美を目指す以上最終的には言葉を離れて人間の感覚に頼るしかないのですから、なぞがあるとしたらやはり人間自身の研究に入っていくしかないのではと思います。それが意味のあることかどうかは留保しますが。
その価値意識が科学とも論理とも違うのは、結局人間がこれまで文化として培ってきた、あるいは積み重ねてきた記憶の深さと多様性によるところが多いからだと思います。つまりぶっちゃけ人間特有の癖というか趣味というかそういったものの洗練(共通化、普遍化)のきわみが美になっていくということではないでしょうか。
なぜ洗練なのか。一例として男が若い女を好むのは科学的な真理ですが、それから可能な限り離れ(てモラルを守りつつしかも欲情を満足させ)なければただの性欲の発露でしかないとみなされるわけで、ある人間が時空を越えてこれを洗練させていったのがヌード芸術なのではないか。だれであれ「いい、好ましい、すばらしい」といいうる人工的美女の構築。これが現代では非常に拡散し先鋭化して多様な趣味が許されるようになり、それなりに支持者を得ていった。ロダンの美がありプルーデルの美があり、村上隆の美がありと言う具合でしょうか。

また雑駁な文章になってしまいました。
どうも地上から離陸できません(笑)。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。楽しんでいただけたら、別にアカデミックにならなくても大丈夫です。私のスタンスがそこにあるというだけで、回答者の方に同じことを求めはしません。

>つまりぶっちゃけ人間特有の癖というか趣味というかそういったものの洗練(共通化、普遍化)のきわみが美になっていくということではないでしょうか。

いくつかテーマがありますが、まずは美と処世術というテーマのようですね。衣装などで美を纏うということは、社会的なステータスでしたし、今もそうでしょう。上流社会に入るためのパスポートのようなものであったわけです。しかし、お金があまりなくて、十分な衣装を揃えられない時はどうするか。ボードレールがやって見せたのは、ダンディズムという手法でした。高い衣服を買うことはできないが、喪服のように真っ黒な服装をして、人を驚かせてみたのです。こうやって身の丈にあった範囲で人目を引くこともまた、彼の美学であったわけあって、他のお礼欄で書きましたが「美とは常に奇矯なものである」という定式の実践なのです。

さて、官能についてはどうでしょうか。「モラルを守りつつしかも欲情を満足させ」というのは、その通りですね。新古典主義の画家アングルの「オダリスク」は、女性を精緻に分析して表彰したという意味ではアカデミックな絵画ですが、しかし春画としても見れるわけです。しかしダイレクトに春画なのではなく、アカデミズムという隠れ蓑がもたらす距離もまた、エロティシズムに結びつくものと言えるでしょう。というのも、ただ欲望を満たすのではなく、そこまでのステップがあってこそ、官能は刺激されると言えるでしょうから。

ロダンと村上隆は、うーん、私は並べることには抵抗はあります。村上隆の場合は、性欲を皮肉ったのです。しかしロダンの場合は、理念的な愛を追求したのです。二つとも同じく、春画的に鑑賞できるというのは、ちょっと大雑把過ぎると私には思えます。ちなみにロダンはボードレールから強い影響を受けているのですよ。『悪の華』の挿絵を描いてもいます。

お礼日時:2011/03/30 19:14

物事を認識する時に、その対象の階層現象的表面の感受、ないし因果律の時空的連続性の刹那的な把握をベースとします。


そこから、階層現象を原理的に遡る=本質的に把握する事を「真」とするならば、その対象の社会的効果の位置づけ(空間的波及)として「善」が生じるのです。

そこにおいて「美」は、あくまで階層現象的表面に限定されているように思えます。
しかしそこには、認識プロセスの特質たる“過去の経験の総和による感受への直感的印象の付与”において、その「表面」に時間的連続性(記憶)が集約されているのです。
光や音などの先行感覚の、特定の刺激パターンに対して、過去の五感の相関した刺激パターンの総和が励起される事によって生じる、「色(生理的作用)」や「形(空間的遅延作用)」、そしてそれらの総合としての「美(経験を二分する「快的経験の総和」)」として。
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この回答へのお礼

>階層現象を原理的に遡る=本質的に把握する事を「真」とするならば、その対象の社会的効果の位置づけ(空間的波及)として「善」が生じるのです。

難しい言葉も多いので機微を理解するには限界がありますが、概ねでおっしゃることは理解できたと思います。
・真:本質的なもの
・善:社会的な評価
というのが大枠でしょうね。階層現象が何の階層なのかはわかりませんが、聖と俗の階層ということなのかと思います。

>しかしそこには、認識プロセスの特質たる“過去の経験の総和による感受への直感的印象の付与”において、その「表面」に時間的連続性(記憶)が集約されているのです。

さて、上記のように真と善を定義した上で、美は、それとは別個に、心地よいと思われた経験を集積したものだというわけですね。となれば人間の歴史があり、また人の生きた経験があれば、審美は自ずと存在するということになるでしょうね。ただし、その個々の審美の基準が全体の問題として議論可能な時代は、過ぎ去ったのでしょうか。それともまだあるのでしょうか。

文化人類学的にも、人間に共通の何かがあると思うのなら、美には普遍的な要素があると言えるかもしれませんね。色形というのもそうかもしれません。黒は喪の色になることが多いようです。またたとえば、母性など、普遍的にわかりやすいテーマであるとは言えるでしょう。
もちろんアリエスの『子供の誕生』のようなものをひいてくれば、子供は労働力に毛の生えた存在であって、母性が絶対ではなかった時代を示せるわけですが、まぁアリエスは一つの仮説だと考えることにしておきましょう。

大変参考になりました。

お礼日時:2011/03/28 10:51

美というものは私の最大の関心事ですが、質問者様ほどには


難しいことはまったく知らないので、単に感性で私の思ったことを書かせていただきます。

まったくはずしてしまっているかもしれません。

真善美といわれる以上、美は前2者とは無関係のものと考えねばならないのではないでしょうか。
確かに完全性と美とは近い性質があり、この点から真と美との類似性がいわれるのかもしれませんが、
本来真と完全とは似て非なるものです。また、
善と美との類似を考えるときに関係性を取りざたされるものは、よいもの、好かれるもの、つまりは快というものでしょうか。このあたりはかなりこみいってはいますが、はっきりいって善と快とは重なってはいてもほんの一部であり、やはり似て非なるものといわざるを得ないと思います。

美 は実体のないもので確立したものは何もないといっていいでしょう。それに、真やら善ほどには人間に生きるための恵みをもたらしてくれたわけではなく、むしろ害を与える場合が多かったと思います。ともかく実がないやくざっぽいものです。有史以前から大変な人間の労力がこれに費やされてきましたが、個人の道楽だったと談じる以外になぜなのかは誰にも分かっていないのではないでしょうか。単に性欲と同等の、いや性欲だったら子孫が恵みとして生産されましたが、美の追求では芸術家といわれる特殊な人間を食わせる以外何の実も人間にもたらさなかったといっていいのではないでしょうか。
しかし、美は現代において急にその勢力を広げ、かわったもの、ちょっとびっくりするもの、刺激的なものなどをキーワードにあらゆる分野が美になだれ込んできているといった感がします。つまり客観的には可能性が過去最大になっているということでしょう。
なぜなのかは大体想像がつきます。つまり、生活が楽になり道楽が大衆に降りてきて、一方美のライバルである真と善があるていど追求されつくして頭打ちになっている(生活が楽になったことの原因でもあります)からではないでしょうか。

まったく散文的な、非哲学的な雑文で、何のご参考にもならないと思いますが。
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この回答へのお礼

重要なお話ですね。ご回答を糸口に、話を広げてみました。たとえば美術品が貴族の独占物ではなく、ブルジョワに行きわたり始めた時代、工業を基盤にのし上がったブルジョワらに美の実用性はよく議論されたのです。美には何の実利的な価値がないではないか、と。それに反発した評論家らで主流派を占めた意見は、低俗なブルジョワには美が理解できないのだという揶揄でした。貴族的でなければ美は理解できないというのです。

しかし、この議論も、実は微妙な問題があります。そもそも審美が可能であった時代とは何なのでしょうか。私は設問で、審美の基準が真善美の一致という前提にのっとった上でなされていた時代のことを述べました。
この三つの要素の結びつきは、イデアの話になりますから、ちょっと置きます。しかし、あるモノの価値を判断するためには、外部の価値観を持ってこないと客観的にできないとはよく言われることです。変な喩えですが、たとえばコーヒーの価格を設定するためには、コーヒー豆の生産コストだけ考えればいいのではなく、紅茶や緑茶という他の飲料の価格を考慮に入れないとならないでしょう。同じように美の価値も、他の善や真との関係で量られていたわけです。
しかし美は「芸術のための芸術」という言葉を掲げて独立してしまいました。この結果、美の値打ちを測ることが難しくなったというのは、まぁ論理的に考えて導かれる必然ではあるのです。評論家たちにしてみても、基準をもっていたとは言い難く、ブルジョワの自尊心を傷つけるべく「貴族なら理解できたはず」という言葉を投げていただけではなかったでしょうか。

さて、この結果、美の内実を精密に分析する基準がなくなってしまった以上、おっしゃるように、「何かしら刺激がある」とか、「力強い」とか、曖昧なことより他、言えなくなってしまったのです。そして「誰にとって刺激があるのか?」という問題を考えると、審査員とか購買層に受けるにこしたことはありません。つまり普遍的な美を問うのではなく、個別の美を問題にし、マーケッティングする方が認められやすくなったわけです。
こうなると、受け手が変われば、作品の良さは通じないでしょう。たとえば金満家に対しては「貧乏人を殴り倒そう」という表題の詩が、刺激に満ちているかもしれません。しかし貧乏よりマシなくらいの良識人にとってみれば、「何を言ってるんだ?」ということにはなるでしょう。

実際、現代では、この混沌は大変なものです。たとえば、美術品とそうではないものの差は、もはや作品のクオリティによっては区別できず、ブランドや市場価格によって決定されるなどという議論を美術評論系の雑誌Art itの創刊号で展開した評論家がいました。村上隆のフィギュアと、そこら辺の玩具ショップの人形と何が違うのかといえば、村上隆というブランドに価値があるのだというのです。村上隆のフィギュアを大枚叩いて買った金満家が欲しかったのは、ただのブランドであって、美のなんたるかを理解する力はない、と。しかし、成り金であるらしい買い手は、ことによったら常人とは異なる感覚を有しているのであって、村上のフィギュアに感じ入る何かがあったのかもしれません。こういう個別の感覚を言い出すと審美とはどのようにしてよいのか、評論家もわからず、ただ市場価格を呆然と見守るしかない――とまで言えば、悲観的過ぎるでしょうか。

お礼日時:2011/03/28 06:12

訂正。



×イコールで結ぶのが正しいとするのが正しいと思うなら、


⇒真と善がイコールであると思うなら、


 ああ そうそう、ルドルフ・シュタイナーの著作に「悪の秘儀」というものがありましたね。

 いえ、特に何かを揶揄して言っているわけではなく、実際シュタイナーというのはマイナーなので、何か知っていないかな、と思いましたので。
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この回答へのお礼

シュタイナーですか。うーん、二十世紀となれば、私はあまり勉強していません。実際、私は、あまり神秘主義は好きではないのです。ご期待に沿えず、すみません。

お礼日時:2011/03/28 05:11

どう考えても、真と美をイコールで結ぶのは間違いですね。



 文字の形も、読みも 意味も違います。

 1=2 としているようなものです。1≒2とするなら まあ、間違いはないかもしれないですが。

 イコールで結ぶのが正しいとするのが正しいと思うなら、その過程で誰かが間違った思想により「喝破」してしまい、それを正しいこととして認めてしまったからでしょう。

 幼児期に親の存在感をはじめとする刺激や抑圧が強すぎ、したがってそのような暴論とも言える思想を受け入れているのでしょう。これは推察です。それはともかく

私が 真>善>美 としたのは、何かの書物を読んでとか、何かに影響されたわけではありません。知識はほとんどと言ってよいほどないのでね。


>しかし芸術を信奉するのなら、善は美の一部に過ぎないわけです。

 信奉しないなら、やはり 善>美 ですね。 耽美主義の人は思想理念より視覚器官に映るものを優先している人なんでしょうか。やはり幼児期の刺激が強すぎたか?

>真=美>善ではないでしょうか。

 違いますね。具体例で考えてみればわかると思いますよ。美しいと思っても、嘘(つまり真の反対の偽 偽り)である場合もあります。
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この回答へのお礼

持論を展開されていたのですね。これは失礼しました。私は新プラトン主義に即して議論を手伝ったつもりですが、お考えと違ったのかもしれません。ただ立場や思想によって、真善美の位置付けは変化するものです。私は持論を展開しているわけではないから、別に幼少期のトラウマなど関係ないのですが……。まぁともかく、ご不快になったことだけはわかりました。

>耽美主義の人は思想理念より視覚器官に映るものを優先している人なんでしょうか。
>美しいと思っても、嘘(つまり真の反対の偽 偽り)である場合もあります。

その通りですよ。嘘でもよいから美であってほしいとは、ボードレールも書いているとおりです。

だがきみが外見であるだけで、足りはすまいか、
真実を遁れる心を喜ばせる為には?
きみの愚かさ、はたまた、つれなさがなんだ?
仮面だろうと書割りだろうと、栄えあれ! 私はきみの美しさを崇める。
(「嘘への愛」、阿部良雄訳)

お礼日時:2011/03/28 05:09

「審美」は可能性としかあり得ないんじゃないんですか?これこれこういうものが美であると決まっていたら芸術家は廃業でしょう。


そういう意味では「審美」はポテンシアであり、非決定論的である。
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この回答へのお礼

美が定められるものではないというのは、現代的なお答えですね。ボードレールが『1846年のサロン』で述べたように巨匠の打ちたてた様式や流派は失われたのであって、どのような作品を作ってもよい時代になったのでした。
このような自由の中で美を定めるというより、あるいは美の類型を整理するという以上に、様々な可能性を探ってみたいというのが、設問の希望でした。

お礼日時:2011/03/28 05:08

 No.2&6です。



 賛否は別としてご理解いただいたようで あたらしい世界です。

 ★ 上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。
 ☆ 《審美》は 創作者であろうとなかろうと あるいは一定程度の知識や情報を持たなければ作品を鑑賞し得ないという意味での専門家で――じつは――あろうとなかろうと そのまま作品の前に立てば おこなわれる。時代が現代であろうとなかろうと そしてその他あらゆる事柄について条件づけることは一切なく 審美はふつうに行なわれる。――こういう回答なのですが それだけでは 阿呆のひと言になりますから まづは話の前提を整理しようとこころみました。踏まえるべき《上記の経緯》について突き合わせをしたわけでした。

 イデア論が問題になったり わたしは思想家として主観を表わすことに重きを置くというその傾向が指摘されたりしましたが 上の回答を寄せるのみということになります。

 お分かりのように 美術史の生徒であるというのは 額面どおりなのですから どの思潮や議論を下敷きにして述べよと言われても 何もありません。そのままの美論です。

 ロマン主義が 社会生活の中で共生を目指しつつ 個人としてその自己表現を精一杯こころみ努めつつふつうに生きる思想(生活態度)だとすれば それがたぶんひとつの主義主張であるかとも思います。
 ゴッホは 本人がどうであったにせよ その作品は そういう意味でのロマン主義の香りがただようとはわたしには思われます。

 言いかえると 作品の美は あくまでそれぞれの主観です。と見る立ち場です。
 言いかえると その観賞の際にこだわるためのようなイデアの体系はいっさいありません。持ち合わせていません。底抜けの自然です。

 あとはお答えに応じて 反応します。

 * 参考にする文献などが明らかになれば 話は確かに早いのだろうと思います。それは ここで(この質疑応答の場で)勉強中です。
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この回答へのお礼

>賛否は別としてご理解いただいたようで あたらしい世界です。

なるほど、前のお礼欄に私が書いたことは大胆だったかという反省もありましたが、大枠は外していなかったと考えてもよいようですね。イデアというより主観の問題を扱いたいということも理解できました。
実際、美術史的に見ても、芸術に措定された感覚的なイデア(=主観と客観の交じったもの)を目指すという態度から、主観を尊重するという変化はあったのです。私とすれば、ブラジュロンヌさんの議論がロマン主義以降のものであると考えれば、受け入れることはできるわけです。
さて、では議論を進めましょう。3つ伺いたいことがあります。

まず以前、ゴッホはよいが、ピカソはわからぬとおっしゃっていましたね。その差は何でしょうか。これはブラジュロンヌさんの感性にピカソが訴えかけてこないというだけのことであって、ピカソの作品が劣っているということではない、という風に考えてもいいのでしょうか。というのも、ピカソもゴッホも自らの主観を表現していることには変わりないからです。
あるいは、ピカソの作品が訴えかけてこないとは、すなわち、彼の主観が劣化しているということなのでしょうか。というのも、ブラジュロンヌさんは認識されたものを表現するにあたって技巧の問題は無いとお考えなのですから、表象されたものは直接、その人物の内面を示すことになるでしょう。しかしそうであるとすれば、ある作品を判断する際には、審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。

また、上記の問いと関連しますが、芸術が表現するものが芸術家の主観でよろしいということになれば、作品の良さはどのように判断するのでしょうか。当然ながら、その作家の主観は覗き見ることができません。その作家のインタヴューや伝記を調べ、「こういう気持ちを表現するのだとしたら、その表現は未熟だ」とか、逆に「まさにゴッホのその時の気持ちを十全に表現しえたに違いない」などと判断するのが納得いく手法ではないでしょうか。
が、こうした研究的な態度は認めてらっしゃいませんでしたね。となると「私ならどうだろう」と芸術家に同調する形で、その作品が主観をどのくらいよく表現しているかを判断するということでしょうか。そうであるとすれば、芸術作品とは鑑賞者の心の内面を写す鏡だという位置付けになるように思われますが、いかがですか。

最後に主観の世界を表わしているというのなら、シュルレアリスム的な手法によって無意識を引きずり出してくる創作活動があるわけです。あるいはシュルレアリスムという流派とも外れて、自らの意識を記載する試みがあったわけです。主観をより直接的に表現するという点では、まさにブラジュロンヌさんの基準に当てはまるのですが、これについてはどう評価なさいますか。
・アンリ・ミショー:
http://koinu2005.seesaa.net/article/139112051.html

お礼日時:2011/03/28 07:17

質問者さまには、あまりに素朴に過ぎる疑問と思われそうですが、


仮に馬なら馬というものを一切知らない場合、どう審美可能なのかしらん。

他のかたへの御返事ではありますけれど、
>エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のもの

どうでしょうか、けっこう「精神修養」なのかもと思えるのですけども(笑)ひねくれているような人にとっては特にそうじゃないのかな?と。

「キレイはキタナイ」って、バイキンマンだったか、『マクベス』だったかな?
「残酷」とか「悪徳」とか「汚物」が美しい、好きだー!と感じる人もいるようなんですけどね。アポリネールとか。

>美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破

なぜ、「刺激的」と感じるのでしょうかね。


(なお、「的を得た」というのは、べつに間違いではないそうですよ。)
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この回答へのお礼

>仮に馬なら馬というものを一切知らない場合、どう審美可能なのかしらん。

馬だとわかりにくいので、たとえばファンタジーの生き物を考えてみましょうか。誰もキマイラなど観たことはないでしょう。これをどうやって評価するか。自分の知っている生き物にひきつけて考えるのではないでしょうか。しかしファンタジーの生き物は、究極的には芸術の描く対象としてあまり好まれませんでした。古典においては、結局、人間が一番好んで描かれたのです。

>エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のもの

アポリネールは二十世紀ですよね。彼は「芸術のための芸術」以降の作家ですね。こういう芸術をどうやって評価しようかというのが、設問の趣旨でもあります。
アポリネールの美学にシンパシーを感じるというのなら、どうぞ持論を展開なさってください。『一万一千本の鞭』の話でしょうけれど、楽しみですね。バタイユにせよ、ジュネにせよ、サドにせよ、某かの精神性はあるのですし、私はそれを否定していないのです。ただし彼らの精神性は、新古典主義の規範と異なるということを言いたかったのです。

>なぜ、「刺激的」と感じるのでしょうかね。

ボードレールを引用して説明してもいいですが、それより、よかったら『悪の華』をめくってみてください。

お礼日時:2011/03/27 16:16

美を語るとき、芸術の話に限定しないでおくんなせい。



この世の美の大半は芸術とは関係ないところの日常で大工や土方や庭師や指物師などが作っているでしょ。

>しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。

ホンマでっかいな。美を求める人が居なくなった事の証明に東京と言う街があるじゃありませんか?

そうして、人類は美を求める事を忘れ、直方体のコンクリートで街を埋めていったのです。おしまい。
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この回答へのお礼

>ホンマでっかいな。美を求める人が居なくなった事の証明に東京と言う街があるじゃありませんか?

ご来訪ありがとうございます。「おしまい」と切りあげられてしまいましたが、最初なので私の方でサーヴィスして、東京の美に関して、ちょっとだけ。私はフランスに住んでいますが、その前まで、私も同じ意見でした。東京というのは、何と美観の無い街なのだと思っていました。この考えが覆された経験をお話ししましょう。

私が最初にフランスで行った街はレンヌという北西の古風な街です。雰囲気は、わかりやすいところでいえば、東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。私はここを満喫していました(ここに来ると、東京のテーマパークなど、張りぼてにしか見えなくなるほどです)。
さて、ある時仲良くなったフランス人が、レンヌで最も美しい場所に連れて行ってやろうというのです。大喜びで着いて行った私ですが、何と連れて行かれた場所は、新型のショッピングモールです。新型と言っても、日本でいうと珍しいものではないのです。私は言ったものです。「東京なら、街全部がこれだよ。東京って恐ろしい街だろう?」と。相手は仰天して、「東京は世界一美しい街に違いない」と大真面目にいうのです。

最初はレンヌのフランス人の意見を、私は正直にいえば阿呆だと思っていました。自分たちの街の美しさがわからないとはバカだと。しかしフランスに暮らしていると、意見が変わってきました。というのも、パリでさえ高層ビルは一部を除いて存在しないし、ショッピングモールも一部を除いて最新型とは言い難いのです。東京の方が便利には違いありません。
そして実用的な問題だけではなく、私は高層ビル街に安心があったことにも気付かされました。つまり最新のテクノロジーで守られているという安心がです。パリの十九世紀より前から変わらない建物より、無機質でゴミなど付かないかのような高層ビルには、人間がこの場所の覇権をとったという安心があるのではないか、と思ったのです。そうしてみると、東京を作った人の脳裏には、やはり某かの美意識があったのではないかと私には思えています。

こうした感覚は、外国をめぐってみないとわからないかもしれません。東京は住んで慣れてしまえば分からないかもしれないが、大変恵まれた街です。
木造百年さんの美意識は、わからないでもないのですよ。私はまさに木造百年以上の住居に住んでいました(建築されたのは江戸時代なので、木造二百年くらいだったはずです。今なら文化財の一歩手前で、私の家とそっくりなものが「民家」の図鑑に載っているほどです)。家の敷地には巨木がありますが、計画性のある先祖の誰かが建て替えの際に大黒柱を調達するべく植えたのでしょう。人間が覇権をとるのではなく、自然と共に暮らすって、私はいいなと思います。

>この世の美の大半は芸術とは関係ないところの日常で大工や土方や庭師や指物師などが作っているでしょ。

私は現場の方々と話したことはないので、様子がわからないんですよ。お気に障ったらお許しください。実際、建築は芸術の中でも最も認められにくい位置になってしまいましたね。昔は総合芸術として尊敬されていたのですが。

お礼日時:2011/03/27 15:55

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