見てくださった方、ありがとうございます!

肥後国人一揆の際に立花宗茂は「1日に13度もの戦に勝利し、敵方の城を7城も落とし、650余の首級を挙げる」活躍をしたそうですが、それはどれほどすごいことなのでしょうか?秀吉が誉め讃えたらしいのですごいってのは分かるのですが、どれほどなのかしっくりこないので(>_<)
どの程度のすごさかを例えでいいので言い表してもらえないでしょうか?

また宗茂は九州征伐で島津軍の攻撃から立花山城を死守し、援軍到着まで時間を稼ぎ、撤退する島津軍を追撃するなどの活躍が有名ですが、そのほかに豊臣軍の先鋒として武功を挙げたと聞いたことがあるます。どの様な働きをしたか知っておられる方、教えてくれませんか?
その他、あまり知られていない宗茂のマイナーな合戦なども教えてもらえたら嬉しいです!よろしくお願い致します!

A 回答 (1件)

ちょうど 鳥羽伏見の戦いの本を読んでいた。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD% …

双方で 20,000人の戦闘員で四日間戦って 死者 390名。
一人で600人なら そりゃ スゴイ数です
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Q柳川市民は、立花宗茂と蒲池鑑盛を慕ってますか?

柳川市民は、立花宗茂と蒲池鑑盛を慕ってますか?

Aベストアンサー

立花家には親しみを持っていると思いますよ。
御花がありますからね。

Q農民一揆と百姓一揆について

農民一揆と百姓一揆の違いを教えてください。後、テストで回答が農民一揆だった場合に百姓一揆と書いてしまった場合は、やはりアウトですかね?教えて頂きたいです。

Aベストアンサー

一揆は民衆の抵抗運動ですが、時代により呼び名が違います。江戸時代の一揆を「百姓一揆」、明治時代のそれを「農民一揆」として、呼び分けることが多いようです。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60011740.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60000470.html

ただこれは教科書的な用語の使い方で、国語辞典などでは百姓一揆をはじめ、農民を中心とした一揆の総称が「農民一揆」とされています。
http://www.weblio.jp/content/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
この場合は、「農民一揆のうち、江戸時代に起こったものを特に百姓一揆と呼ぶ」ということになります。

> テストで回答が農民一揆だった場合に百姓一揆と書いてしまった場合は、やはりアウトですかね?
正解が「農民一揆」なら、明治時代に関する問題でしょう。「百姓」という身分は明治政府により、一応廃止されていますから、不正解にされると思います。
なお、「正解が百姓一揆なのに、農民一揆と書いた」場合には、厳密には間違いとは言えません(国語辞典的な意味では、百姓一揆は農民一揆の一種なので)。ただし学校のテストで問われるのは、やはり教科書の知識です。これも不正解とする採点者の方が多いでしょう。

一揆は民衆の抵抗運動ですが、時代により呼び名が違います。江戸時代の一揆を「百姓一揆」、明治時代のそれを「農民一揆」として、呼び分けることが多いようです。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60011740.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60000470.html

ただこれは教科書的な用語の使い方で、国語辞典などでは百姓一揆をはじめ、農民を中心とした一揆の総称が「農民一揆」とされています。
http://www.weblio.jp/content/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
この場合は、「農民一揆のうち、江戸時...続きを読む

Q立花宗茂はなぜに長男なのに養子に?

立花宗茂は高橋家の長男なのに、なぜに立花家に養子に出されたのでしょうか?
母親が正室ではなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

立花家の当主が既に老齢の域に達するが跡継ぎの男子が居ない。

一方の高橋家の当主はまだ若くあっちの方も万全、男児が生まれた実績もあれば二人目三人目の可能性は充分にある。
共に大友家の一門としての家柄でもあり、赤の他人を養子に迎えるよりも一門同士での縁組みの方が互いの結束も強まり、主家の為にも好都合。

そう考えれば、嫡子であっても養子に出さざるを得なかったのかも知れず
ヒョッとしたら、大友家からの指示があったのかもしれず
色んな事情があったんだろう。

Q中国の宗?(宗王朝?)

中国に宗なんて王朝はあったのですか?
3月28日に横浜の関内駅のうどん・そば店で食事をしたら
壁掛けの書物に中国の宗(そう)と書いてありました
中国の「そう」といえば「宋」じゃないのか、鎌倉時代の日宋貿易じゃないのか?、壁掛けの書物の字が違っているのではないかと思いました
どちらが正しいのですか?

Aベストアンサー

私も聞いたことがありません。
中国で「宗」といえば、皇帝の廟号に使われますね。
「太宗」「英宗」とか。

あとは、春秋戦国時代の国々にあるかどうかです。ないと思うけど・・・

Q立花宗茂について

見てくださった方、ありがとうございます。

よくネットなどで、立花宗茂の軍事評価が非常に高いですが何故でしょうか?
私自身、立花宗茂が好きですので逆に気になりました。

たとえば、島津との戦いでは宗茂以外でも志賀親次が同じ様に島津の大軍を寡兵で持ちこたえ、島津義弘をもって「天正の楠木」と称賛されています。
朝鮮出兵では碧蹄館の戦いで活躍しますが、島津義弘の泗川の戦いの方がすごいように感じますし…。
桶狭間の戦い、沖田畷の戦いのように寡兵をもって大軍に挑みかかり、大名クラスの首級を挙げたわけでもないですし、関ヶ原の戦い後に領地に攻め込んできた鍋島直茂と戦い、奮戦するも結局撤退し籠城してますし。

秀吉に豪勇鎮西一や西国無双などと称賛されたからでしょうか?
戦巧者の名将だとは思いますが、これほど高く評価しているのが何故なのかどなたかお詳しい方、教えていただけないでしょうか?よろしくお願い致します!

Aベストアンサー

>よくネットなどで、立花宗茂の軍事評価が非常に高いですが何故でしょうか?

西国無双とよばれるまでの戦績
九州征伐時
天正14年(1586年)、島津忠長・伊集院忠棟率いる島津軍が筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に玉砕した(岩屋城の戦い)。
このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。
この内に8月18日も岩戸にて兵糧を準備する原田種実隊2,000を撃退し700余の首を取った。
8月20日にも秋月種長隊2,000を奇襲し400余の死傷を出させた。島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、8月24日に撤退した。
このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている[注]『日本戦史・九州役』(補伝 第十二宗茂の忠勇)。 その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ
「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」
と要請された[注]つまり、立花宗茂を豊臣秀吉の直臣として取り立てて欲しいと、大友宗麟が要請したという意味である。ただしこれについては、秀吉のほうから宗麟に対して、立花宗茂を譲るように命じたのを、宗麟が自ら推挙したようにして取り繕ったのではないかという説もある(海音寺潮五郎『武将列伝」)。
その後も秀吉の九州征伐で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国の[竹迫城]]、宇土城などを攻め落とした。
更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落ちて川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した[注『日本戦史・九州役補伝』]。
戦後、秀吉はその功を認めて筑後柳川13万2,000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を

「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」
「九州の逸物」

と高く評価したという。

豊臣時代
 天正15年(1587年)9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200と輜重隊を率いて出陣し、兵を三隊に分けて小野鎮幸の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将・大津山出羽守を討ち取った。そして平山城を包囲する一揆方の有働兼元軍を騎馬鉄砲[注、騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせて「火車懸」の戦術を繰り出した]の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し有働志摩守を討ち取った[注、『立花記(正・続)』、『武神 立花宗茂』、『清和源氏隈部家代々物語』による]。
立花軍は佐々軍に兵糧を支援し平山城に入城したが、一揆方3,000の兵に包囲された。その対応のため、先に輜重を運輸したの人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて由布惟信と十時惟由を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は三加和平野立尾の地で一揆方に挟撃された。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有動下総守と一騎討ちして討ち取った。やがて由布・十時の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。
その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城上や軍の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍、たが城将・大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、池辺永晟と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。
また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲するとき、参陣中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包とも義兄弟の契りを結ぶ。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。
天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で

「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」

と、その武将としての器量を高く褒め称えたという。



>私自身、立花宗茂が好きですので逆に気になりました。

>たとえば、島津との戦いでは宗茂以外でも志賀親次が同じ様に島津の大軍を寡兵で持ちこたえ、島津義弘をもって「天正の楠木」と称賛されています。
 志賀親次は1000人で新納忠元の35000人を撃退し、近郊の諸砦を回復して秀吉に激賞されましたが、残念なことに父の親度が島津に内応して自害してるし、祖父の親守は耳川の戦の時、別働隊を率いて肥後に進出したが積極的に動かず敗戦の一因になってます。また翌年の秋月種実の征伐も失敗して立花道雪に非難されてます。つまり、祖父、父の汚名をそそぐための奮戦だったと言えるでしょう。
 また本人も文禄の役の平城攻防戦で小西行長の援軍要請がきたときの軍議で退却を主張して、大友家改易の原因を作ったので後世の評判が悪いからじゃないですかね。

また立花勢は実父高橋紹運 養父立花道雪の家臣も引き継いだ為、

>朝鮮出兵では碧蹄館の戦いで活躍しますが、島津義弘の泗川の戦いの方がすごいように感じますし…。
泗川の戦いの明朝鮮軍は20万と号してますが実際は3万7千から数万です。島津は7千(島津は10000人の軍役)。
碧蹄館の戦いでは明軍40000人日本軍41000人で 弟の高橋軍と合わせて3000人で先陣でした(立花は2500人の軍役)。

>桶狭間の戦い、沖田畷の戦いのように寡兵をもって大軍に挑みかかり、大名クラスの首級を挙げたわけでもないですし、
基本的に立花勢は全ての戦いで寡兵です、なぜなら立花氏は大友の一家臣だったし、大名になってからも13万2000石しかありません。


>関ヶ原の戦い後に領地に攻め込んできた鍋島直茂と戦い、奮戦するも結局撤退し籠城してますし。
家康への恭順を示すため宗茂は城に残ってます。戦ったのは家老の小野鎮幸です(それでも13段の9段まではいきましたが)。

>秀吉に豪勇鎮西一や西国無双などと称賛されたからでしょうか?


九州の役
秀吉軍来る!の報に
普通ならここで安堵し秀吉軍の迎え入れの準備をする城兵。
しかし、ここからがまだ20歳前の若者宗茂、戦争の天才の真骨頂です。
島津軍が撤退するや否や城門を開けて追撃
十分に備えのあった島津軍を一日で数百討ち取り
さらに次の日には島津方の高鳥居城を攻略し
そのまま岩屋城、宝満城を奪還します。

たった三日で筑前方面の島津軍を掃討します。
この電撃的な早業には秀吉も「九州一之一物」と絶賛し
「その忠義は鎮西一、またその剛勇も鎮西一」
「上方にこれほどの若者はいない」と激賞します。


小田原出陣で京に大名を参陣させた時に本多平八郎忠勝をわざわざ召し出し、
「東国に隠れなき勇者本多平八、西国無双の誉れの立花左近将監、東西にそれぞれ無双の者故、対面を許す」
リップサービス好きの秀吉ですが自分に比しないでしかも一番と言っているところから見ると本気のようです。


>戦巧者の名将だとは思いますが、これほど高く評価しているのが何故なのかどなたかお詳しい方、教えていただけないでしょうか?よろしくお願い致します!

名将言行録より
「宗茂の人柄は、温純で寛厚で、人徳があっておごる事が無い
功があっても自慢する事がない。
人を使うのも、おのれの意にしたがってしかも自然である。
善に従うこと、あたかも自然の流れのようである。
中略
士はみな、宗茂の役に立つ事を楽しみにした。
その用兵ぶりは、奇襲といい正面攻撃といい、いずれも天性の妙を発揮した。
ゆえに、攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝利を得たのである。」と

>よくネットなどで、立花宗茂の軍事評価が非常に高いですが何故でしょうか?

西国無双とよばれるまでの戦績
九州征伐時
天正14年(1586年)、島津忠長・伊集院忠棟率いる島津軍が筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に玉砕した(岩屋城の戦い)。
このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。
この内に8月18日も岩戸にて兵糧を準備する原田種実隊2,000を撃退し700余の首を取った。
8月20日...続きを読む

Q決戦やっててふと思ったのですが、播磨決戦で、黒田如水が立花宗茂&加藤清

決戦やっててふと思ったのですが、播磨決戦で、黒田如水が立花宗茂&加藤清正といっしょに播磨に陣を引いて、西軍残党部隊とともに、家康と戦いますよね(1601年)
これって長政は裏切らないで、如水と戦ったのですか?

このあと黒田家は改易されなかったのですか?

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史実では、質問文面にある戦いは、ありません。

Q関が原の合戦時の立花宗茂の本戦不参加の理由

関が原の戦いの際、名将立花宗茂は、滋賀の大津城を攻めていて本戦(関が原)には参加できなかったと聞きました。
これはどんな理由からでしょうか?
宗茂が居ればまた、結果は違ったものになっていた気がするのですが・・・
ご存知の方がいらっしゃいましたらお教えください。

Aベストアンサー

URLが参考になると思います。

参考URL:http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/otsu.html

Q立花宗茂の兵隊動員数について

見てくださったかたありがとうございます。
とてもくだらない質問ですがよろしくお願いします。

筑後柳川城13万石の大名・立花宗茂についての質問です。
関ヶ原の合戦の後、徳川家康の命令で鍋島直茂ら東軍が3万2千の兵を率いて宗茂討伐を行いました。その時宗茂は1万3千の兵を動員したと資料には書いてあるのですが、13万石の領地しか持たない宗茂にそのような大軍を動員することができたのでしょうか?
どなたかよろしくお願いします!

Aベストアンサー

実数はどうか、事実はどうかというのはお答えできませんが^^

動員できたかどうかというのであれば、できました。

石高から算出できる兵力は常時動員可能な範囲です。

また、軍役というのは出しなさいという決まりで、動員できる人員とは関係がありません。

で、関が原時、どこの武将も功名目当てに実力以上の兵力を一時的にそろえていましたので、十分可能でしょう。

確か、立花勢は関が原には約1万の兵で出兵し、東軍方の城攻めに回って関が原にはいませんでした。個人的見解ではおそらく西軍最強部隊で、金吾なんかを松尾山に配するなら、小早川勢を後方にまわし、立花勢を関が原に出せば、楽勝だったと思ってますが、これは余談。

それと、彼は戦国武将にしては非常に律儀で誠実なことで有名で、領民からも大変慕われていたといわれています。この質問のとき加藤清正に包囲され、結局開城しますが、そのとき領民達が命がけで開城を押しとどめたと言われています。

ということで、本城の防衛戦に一万三千は別におかしくはない。と思われます。

Q立花宗茂と徳川家康

昔、戦国の本を読んでいたい時に

関ヶ原の合戦時、徳川家康が立花宗茂に
超!ラブコールを送っていた

・・みたいな事を読んだのですが

実際、宗茂の、純粋な戦術的才能は
私感で【もしや、戦国最強!?】

・・などと思う時があります

彼を評価した人物に

小早川隆景
豊臣秀吉
加藤清正

などなど、多々あります

実際、家康は、そんなに熱烈なラブコールを送ったのでしょうか?
また、彼の実質的な評価をお聞かせくだされば、幸いです

Aベストアンサー

久しぶりに歴史カテゴリーに投稿します。

皆さんかなり本をよく読んでいるみたいで大変お詳しく、私の投稿はベストアンサーには程遠い(笑)。

しかし、私はあくまで、歴史は古文書などの資料から研究するという立場ではなく、想像するというロマンから投稿してみます。

戦国時代の合戦はほとんど謀略による内通で勝敗が決まっていて、信玄と謙信の川中島のような合戦は、少なかったと本で読んだことがあります。

関が原の戦いにおいて、家康が宗茂に九州の黒田官兵衛の動きを警戒し、押さえるため、内通の手紙を送ったのは当然と考えます。

現在、NHK大河ドラマで、新島八重をやってますが、会津での戦に女性でありながら、参戦したそうですね。

宗茂の奥さんの誾千代もさすがに道雪の娘ですから、女性でありながら戦に出るなどと気性が激しく、私は宗茂は、奥さんの誾千代に尻をたたかれて成長した可能性を考えています。(笑)

でも夫婦中は良くなかったみたいですね。

いつの時代も女性は強いです。男性はもっとがんばらないと。

Q肥後国人一揆での立花宗茂

見てくださった方、ありがとうございます!

肥後国人一揆の際に立花宗茂は「1日に13度もの戦に勝利し、敵方の城を7城も落とし、650余の首級を挙げる」活躍をしたそうですが、それはどれほどすごいことなのでしょうか?秀吉が誉め讃えたらしいのですごいってのは分かるのですが、どれほどなのかしっくりこないので(>_<)
どの程度のすごさかを例えでいいので言い表してもらえないでしょうか?

また宗茂は九州征伐で島津軍の攻撃から立花山城を死守し、援軍到着まで時間を稼ぎ、撤退する島津軍を追撃するなどの活躍が有名ですが、そのほかに豊臣軍の先鋒として武功を挙げたと聞いたことがあるます。どの様な働きをしたか知っておられる方、教えてくれませんか?
その他、あまり知られていない宗茂のマイナーな合戦なども教えてもらえたら嬉しいです!よろしくお願い致します!

Aベストアンサー

ちょうど 鳥羽伏見の戦いの本を読んでいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E3%83%BB%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

双方で 20,000人の戦闘員で四日間戦って 死者 390名。
一人で600人なら そりゃ スゴイ数です


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