電子書籍の厳選無料作品が豊富!

存在否定の対象の存否が認識され得ない故の『絶対無』を表現する場合に、「仏教的な【空】」が適用されるのではないか、と私が勝手に考えているからなのかが分かりませんが、次の内容が疑問になっていますので、質問を致します。

「『空っぽ』の状態と『仏教的な【空】』とは同じなのでしょうか?」

そもそも、私が是を気にし始めました切っ掛けは、或る著名人の方が次の通りの内容を仰っていたからでして、私はそれに違和感を覚えていますが、私の謬見に起因しているのかも知れませんから、御教授を御願い申し上げます。

つまり、「自然科学分野の発達の御蔭で、真空が空っぽでない事情が明らかになったが、生成・消滅が繰り返されている【真空】の状態の存在を古代人達が知らなかったせいで、彼等は『空っぽ』の意味で『空』の概念を表現していた」、という内容です。

A 回答 (12件中1~10件)

 白紙を用意して円を描くと三つの部分が生じます。

円の内部領域,円の外部領域,そして境界である円弧の部分です。『空っぽ』の概念を『器』との対照でとらえると,『空っぽ』がふさわしいのは内部領域です。また,天を見上げて感じる大きな『空っぽ』がふさわしいのは外部領域です。

 古代・現代にかかわらず,まず人はこの素朴な『空っぽ』の両論を戦わせ,互いの相違点から互いを否定し合うのだと思います。これに一区切りつけて,相違点から相等点に視点を移し,互いに肯定しあう対話をすることもあり得るでしょう。
 そうするとまず,『空っぽ』は少なくとも『器』(境界)ではないことが同意されます。そして,『空っぽ』は円を描いた後の白紙の一部と比喩されるものであり,おおもとは白紙であったことも同意されます。このような認識で持つ観念は,もはや素朴な『空っぽ』ではありません。
 古代人がこのような言論の後に『空』の概念を持ったであろうと推測するのは,「その程度の言論もしない古代人もいただろうと推測し,したがって古代人は『空っぽ』しか知らなかったのである」と早まった一般化の誤謬を犯すより,無理がないと思います。

 ところで,はじめには互いの『空っぽ』を否定し合う討論がなされていましたが,同時に,互いに肯定し合う対話というものが潜在的にあったと考える方法があります。認識の相転移によって,互いに否定し合う2つのものが互いに肯定し合うことにより1つのものとなる。これを弁証法的展開と考えています。正・反・合を平面に描くのではなく,正・反の平面の裏側にすでに合があると考えています。
 認識の相転移とは,単純な相機構では,顕在相と潜在相の二相が表裏一体としてあり,これが相補的に(そして相互に隠覆し合うようように)入れ替わることをいいます。生成消滅を現象の中の対象として論じると(無から有は生じないのような)論理が邪魔になるので,認識そのものから生成消滅を生じさせるという便利な考えです。

 もし「色即是空,空即是色」が弁証法的であるとすると,色と空は,一相における相互否定関係ととらえるのではなく,顕在相と潜在相の二相において,表裏一体的であり,相補的であり,相互隠覆関係にあると捉えなければなりません。はじめに述べた比喩では,「境界付けること」と「領域に分かれること」もこのような関係にあります。だまし絵のような関係です。そうなると,境界もまた白紙であったことに思い至ります。
 すべてのもとである白紙を,境界付け以前の,無限定なもの,無制約者,絶対無と,顕在相に認識したならば,同時に潜在相には相補的な絶対有が出番を待っているのですから,認識相の転移によって,絶対無即絶対有となる,という仕組みです。

この回答への補足

有り難う御座います。

その著名人の方からの意見は立場関係の都合で反論を受け難かった故に、恰もそれが謬見を含んでいないかの如くに見做されていただけであって、「『空っぽ』の状態の中に何も隠されていない」という見方自体が早とちりに起因しているのかも知れないのですね。

補足日時:2011/06/03 01:19
    • good
    • 0
この回答へのお礼

更に別ページの質問(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)へとスピンオフさせてみました。

お礼日時:2011/06/13 16:20

絶対無を絶対世界のイメージで表現しているのでしたら、「仏教的な【空】」で表現するには少し弱い点がございます。

それ故に、表現し切れないという点では、『空っぽ』の状態と『仏教的な【空】』とは同じです。

この回答への補足

「真空」という訳語を拵えた訳者の方の認識(空観)はどうだった、と考えられますでしょうか?

補足日時:2011/06/03 01:06
    • good
    • 0
この回答へのお礼

http://okwave.jp/qa/q6875166.html
此方への回答をも賜れますと助かります。

お礼日時:2011/07/16 16:12

前からの質問と、つながっているとは知らずに回答してしまった


愚かさを反省しています。ごめんなさい。
僕は英語が苦手なので、vacuum が真空の意味かどうかは
分かりませんが、お釈迦様の空とは違うような気がしました。
お釈迦様の空は、むしろ高密度な、すべてを飲み込む大きな流れを
暗示している気がします。
僕にはこれ以上のことは、よく分かりませんので
あとは諸先輩方に、善き回答を期待するばかりです。

この回答への補足

有り難う御座います。

是迄に様々の御意見・御教授を賜りました過程の途上でも、私の理解力の乏しさのせいで、非常に拙い愚問を連想してしまっておりまして、その解決への御協力を御願い出来れば、助かるものですから、この質問をも提出させて頂いております。

因みに、「真空」が”vacuum”の訳語である事情はWikipediaの関連ページの記述内容から分かりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A9%BA

補足日時:2011/06/02 07:22
    • good
    • 0
この回答へのお礼

http://okwave.jp/qa/q6875166.html
此方の内容にも御詳しいでしょうか?

お礼日時:2011/07/15 08:29

ANo.2のsiryuanです。



「空っぽ」とか「真空」とかいう言葉が拵えられた切っ掛けは、
一体何だったのか、との事ですが・・・。


空っぽとは、あるべき何かが無いか、
何かが入る事が予測される場合に用いられる言葉であり、
真空とは、空気が全く無いか、
極端に薄まった状態を表す言葉ですよね。

それらが想定されたか、確認された時に、
空っぽや、真空といった概念と言葉が拵えられたのでしょう。

とは言え、質問の内容や、他の方への返事を見ますと、
この様な返事を期待されているとは思えないので、
ちょっとヒネた事も書いてみます。


「空」は絶対無を表現する言葉では無く、
無自性なる「空っぽ」な状態を表す言葉に過ぎません。

早い話「自性」なるものが存在していると誤認されているからこそ、
「空」と言う真理も成立・認識されている、と言う訳です。

この様に相対的に認識される真理の事を、
仏教では「世俗諦」と言います。

もし、人が自性有りと誤認する事が無くなれば、
同時に空性や無自性と言う真理も成り立たなくなります。

「これあればかれあり、これなければかれなし、
 これ生ずればかれ生じ、これ滅すればかれ滅す」


これが因縁生起(縁起)と言う教えの概要です。


自性も無自性も成り立たない様な、
「絶対無」の見地から語られる真理の言葉を、
仏教では「勝義締」と言うのですが、
厳密には勝義締は言葉で表現する事は出来ず、
自ら体得する事によってのみ証されるものです。

(だから禅では「言語道断」と言うのです)

世俗諦はヘーゲルの弁証法によって無限の深まりを見せますが、
弁証法によって勝義締を体得する事は出来ません。

勝義締の体得、即ち「開悟」は、
キルケゴールの逆説弁証法的な手段でなければ、
体得する事は出来ないのです。


「空っぽ」や「真空」を世俗締の様なものと考えれば、
私の主張も少しは解り易くなると思うのですが、
どうでしょうか。

この回答への補足

追加の解説を下さり、誠に有り難う御座います。

因みに、初めて”vacuum”が「真空」と訳された際に、それの翻訳者の方が「色即是空」の【空】の意味を「真空」の用語へ盛り込もうと試みていなかったのか否かを、此処で私は伺っておりまして、理解を深めたいものですから、次のURLのページにも関連のスピンオフを致しました。
http://okwave.jp/qa/q6780564.html

補足日時:2011/06/02 08:31
    • good
    • 0
この回答へのお礼 お礼日時:2011/07/30 15:25

仏教の空観は、まず最初に「空っぽ」つまり「虚無」有りき、と考えた方がむしろ正しいのです。



そうでないと、「一切皆苦」の認識から離れてしまうからです。

ただ、仏教の場合は、「無即有」で「無」がそのまま直ちに「有」に転ずることが説かれます。
ですから、仏教の空は単なる「空っぽ」ではなくなるのです。

だからといって、空は「空っぽ」でないと言うことはできません。

これは弁証法的な考え方ではないからです。

この回答への補足

有り難う御座います。

最初にvacuumを「真空」と訳した方の発想では、「【空】は『空っぽ』だ」と見做されていたのでしょうか?

補足日時:2011/06/02 07:28
    • good
    • 0

「仏教的な【空】」を把握する事は不可能に近いと思います、何故ならば、自我意識の想像を超えているからです。



どの位超えているのかを説明してみます。人間の脳内には『二つの意識』が存在しています。是だけでももう理解を超えている筈ですので、ある文献から科学的に証拠を示したいと思います。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。”

今の貴方には、にわかには信じられ無いかも知れませんが、もし貴方の脳梁を切断した場合、貴方の心は二つの意識から成り立っています。

自我意識は左脳に存在する意識です。主に体験した事柄を言葉にして解釈して理解している機能の事です。言葉を持つ事によって『物事を割り切って計算する機能』です。この機能が発達をしたために、その理解が『有限の壁を作っています』何故なら割り切ると言う能力の事を有限と言っています。つまり割り切れ無い事の理解を、放棄していることを意味します。

この機能とは別に右脳には、違う機能が備わっています。その機能とは『命を働かせる働き』です。細胞分裂から始まっている一連の働きです。

生まれるや否や、泣く事も笑う事も既に知っている働きです。学校に行かなくとも全て、もう既に備わっている働きです。不安や恐怖と云う事も、安心すると云う事も既に知っています。

或は身体に関して言うなら、心臓でも肺でもホルモンでもその場その時の必要に応じて、最適に保っている働きです。寒かったら血管を収縮させて『火を欲しがらせる』働きです。暑かったら汗をながす仕組みです。或は暑い時には、涼しい所を求めさせる働きです。

右脳の働きとは『神や仏』で出来ています。会って見れば分かりますが、会わない人には説明し難いし、したところで信じるはずがありません。

二つの意識と言っても、交替制を取っています。分かり難い話をしています。分かり易い話をします。

眠る場合です、眠る場合『自我意識は眠っていません』自我意識が眠るものと思っていたり、或は自我意識が単独で眠るようにした場合、人間は体も心も眠る事が出来ません。

この勘違いを『不眠症』と言っています。眠りに入るメカニズムは、自我意識はなくなっています。この場合自我意識は『身体も心も全てを』無意識の自分に『安心して預けています』

そうして身体と心を預かった『無意識の自分』は、明日の起きる時間なども計算して、身体と心を深い眠りに入らせています。そうして予定の時間に『身体と心を』自我意識に返しています。

この場合すっきりした目覚めと感じます。自我意識が眠りに関与していない時『良く眠れています』是が『空』です。

例えばオリンピックのメダルが取れるような演技をする場合や、優勝が掛かった一打を打つと言う場合です。最大のプレッシャーが掛かっています。そういう時を乗り越えるために、『メンタル面の強化』と云う事をする場合があります。

メンタル面が強いと言う場合、『いかにして自我意識が出ないでいられるのか』と言う訓練をします。或はメンタル面が弱いと言う場合『自我意識が出てしまって』無意識の動作が出来なくなってしまう事を言います。

不眠症の場合『心の奥底から』脅迫を受けています。それが不安であり、不眠恐怖と言うものですが、『無意識からの抗議を受けています』

例えば『死』に対する不安や恐怖を覚える場合ですが、是は心の矛盾を『心に感じていることを意味します』なぜならば一つの考えは『有限を超えることが出来ない意識』が考えているからです。

ですが『心の矛盾』が示すように、もう一つの意識は『永遠』で出来ています。この二つの意識のギャップを『心は感じています』是が不安や恐怖の詳細です。

意識と無意識は、通常は『意識の根底で相談しながら』どちらの出番かを決めています。その交替制が崩れた場合、違和感を『自我意識』は感じます。

その違和感を『心の在り方として感じた場合』心を病むと言います。

その違和感を身体の機能として感じた場合『自律神経失調症』と言います。

その違和感を自分の行動として感じた場合『神経症』と言っています。

不眠症の解決と皆同じですが『無意識の自分との信頼関係が崩れた事を意味します』

自我意識が『自分の無意識』と仲違いした事を『心の矛盾や対立や分裂』と言っています。

左脳の意識と右脳の意識が出会う事によって、脳梁からの情報交換がスムーズに行くようになる事を『悟る』と言っています。

それ以後『心は争う事がなくなります』飽く迄も心は静寂に静まり返っていると言う意味です。心の矛盾が解消される事を『悟る』と言います。キリスト教では『神と和解する』と言っています。

仏教では、不安や恐怖を起こしている自身の心に会って、その実態が分かる事によって『生死の問題が解決する』と言う表現ですが、どちらも同じ事です。自身のもう一つの意識が『永遠の存在』である事が判った事によって、肉体(この世での今まで一番大事としてきた事よりも)もっと大事な事に目覚める事を意味します。

お金や地位や名誉のために生きた所で、或は手にしたところで『人間の本当の幸せとは』かけ離れているかもしれないと言う意味です。裏を返すなら『お金や地位や名誉が手に出来たところで』それだけでは未だ虚しさが残るかも知れないと言う意味ですが、では『何』が手に出来たら人間は満足できるのか?という答えが手に入ることを意味します。

それは全てを捨てた時にしか手に出来ないものという言い方が適当と感じます。全てを捨てた状態を『空』と表現していると感じます。全てを捨てた時『空』が手に出来ます。

この回答への補足

詳しい解説は確かに有り難いのですが、此処では【空】の意味を問うているのではなく、”vacuum”を「真空」と訳した方の発想がどちらの意味を志向していたのか、という内容を、此の質問は志向しています。

補足日時:2011/06/02 07:32
    • good
    • 0
この回答へのお礼

本題とは無関係の内容なのですが、仰っている内容の詳細が気になりましたから、次の内容への詳細を教えて下さい。

「グリア細胞関連の研究の結果で、脳の殆どが休んでいない、という事情が判明しているそうですが、『多重人格者達の【各人格】』は大脳の別部位に隠れていると言えるのでしょうか?」

お礼日時:2011/06/02 07:41

あるがままで、すべてが整っている状態。


これがお釈迦様の空だと思います。
変化が起きても、増えもしないし減りもしない。
蛇が自分の尻尾をくわえている。
人類が発生する。人類が絶滅する。
土から生まれて土へ還る。
これらも空を構成していると思います。
2000年前には既に理解されていたので
量子論とは関係無いと思います。

この回答への補足

有り難う御座います。

では、最初に”vacuum”を「真空」と訳した発想の基は、その訳者の方の謬見に起因していたのでしょうか?

補足日時:2011/06/01 01:58
    • good
    • 0

たしかにその著名な方がおっしゃるように、小乗仏教のある派では実体のないということから全ては虚無であるという説を立てますが、大乗仏教では、それは断見に陥り、現象の存在を見落とすものであって「但空(たんくう)」と名付けて退けます。

大乗仏教における空の思想は中道であって、肯定と否定とを止揚する思想であり、一種の弁証法の構造を持ちます。この弁証法は天台の空假中の三諦円融の説に最もよく見られ、その体験は天台の止観実践によってえられるといい、これは禅につながるものとして、空の思想は禅の無の思想に移って行きます。

この回答への補足

有り難う御座います。

「但空」の発想が最初には明言化されていなかった故に、初期の小乗仏教の解釈には、そういう誤解が含まれていたのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9B%B8% …

補足日時:2011/06/01 02:07
    • good
    • 0

0と無、あるいは空(虚無)の違いは何でしょう?


0とは、ある基準において、全ての計量し得るものを除いた状態
であり、空とは、そうした基底も除外したものだと言えます(無は、
広義において両方にかかります)。
例えば、真空の量子エネルギーにおいて、あらゆる所に均等に
分布するエネルギーは、そのレベルを0点として計量します。
空は、そうした潜在的メカニズムも含めて除外するものです。
全ての存在が量子的不確定性(確率波動)に基づいており、
ギッシリ詰め込むと山と山が重なって、無限不確定性=絶対無
(空)となります。
この絶対無=無限不確定性に於て、その潜在たる認識可能性
の仮想的変移(hの収束の時系列化=物体収縮=宇宙膨張)に
於て、その自我仮説(時間の流れ=経験)に対して、時空仮説
(空間的広がり=予測)が相補分化する時、その存在の基底を
なす時間と空間そのものが対発生する時、その始原としての
絶対無と結果的相対有の関係は、「色即是空」と言うべきでしょう。

この回答への補足

前回の質問との関わりへの配慮を盛り込んで頂きまして、誠に有り難う御座います。

喪失の主体の存在を認識させて貰えなかった場合にも、古代社会の方々はその主体を「絶対無即絶対有」として意図的に受け入れてきたのでしょうか?

補足日時:2011/05/31 05:57
    • good
    • 0

「『空っぽ』の状態と『仏教的な【空】』とは同じなのでしょうか?」



○ 違いますね。
仏教でいうところの「空」は変転する様を表しているのですね。地上の全てのものは変転するものであると捉えるものですね。地上の空性を別の言葉で表現すれば諸行無常ということですね。
何にもない空っぽの空など子供にもわかることが大宗教、大哲学になるわけがないですからね。
2500年前に空性は説かれていますから、、「自然科学分野の発達の御蔭で、真空が空っぽでない事情が明らかになった。」わけではありませんね。
最近の子供は、流動性のある水が冷やされれば固体の氷になり、暖められると目に見えない水蒸気になることは学びますから、それから変転ぐらいは理解できるようになりましたので、科学もやっと高等なな宗教の足元に近づいてはいますね。
仏教の教えもわからない人が増えてますが、色即是空、空即是色は変転がすべてのものに存在するという意味なのですね。死んだら何にもなくなるでは子供の空っぽの空ですからね。
科学で言えばアインシュタインのmC^2⇒Eが「色即是空」ですね。でも仏教はE⇒mC^2「空即是色」も正しいといっているのですね。科学も未だここまでは届いてませんね。でもこれも物質化装置として未来にはできるでしょうね。

この回答への補足

有り難う御座います。

質問文の末尾で、或る著名人のコメントの抜粋を私は引用していますが、矢張り、その方の意見が【誤り】で、仏教徒集団に限らず、偉大な古代人達は「【空】の中での生成・流転」の存在に漠然とでも気付いていたのですね。

補足日時:2011/05/31 04:41
    • good
    • 0
この回答へのお礼

因みに、此の質問は次のURLのページにも関わっています。
http://okwave.jp/qa/q6770985.html

お礼日時:2011/05/31 05:49

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!