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「他人を信用する」とはどういうことか?
例えば私は尊敬する人物からの信用を失っています。
利己は利他を包含します。
真に認識力を高めたとき、尊敬する人物の信用を得られると考えます。

皆様は、どう考えますか?

A 回答 (7件)

見てて歯がゆいな。


おたま君の尊敬する人は、おたま君には古いアカウント(利用停止・おそらく1個)がそのまま残っているから、おたま君が信用ならんのだろう。

使えないアカウントをいつまでも持ってるから誤解されんだよ。
さっさと反省文を書いて運営に古いアカウントを削除して貰え。
使えないアカウントで自作自演もないんだが、そんなのわからん人にはわからんよ。
これも憶測で書いてるだけだがな。

あと、尊敬しているからって何でもかんでも質問すれば良いってもんじゃない。
慕っているのなら尚更相手を理解しろ。
本人が不快だと言っているんだから止めろよな。
先ずは相手を理解する努力をしろ。

自分と他人は別物。
違いを理解するところから真の認識が生まれる。
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それは、二元性の一元化によってなされることと思います。


食べることを必要とする自己、友達と会う自己、仕事に出掛ける自己、痛みを感じる自己などは、間違いなく現実であることは否定できません。
しかし、それは私たちのごく普通のレベルの知覚であるにすぎませんね。
普通は、現実の本質を理解するための因習的な様式によれば、自分自身というものは、自分の中にあるように考えられています。
通常私たちは、「真の自己」というものは自分の中にあると考えているために、自分を取り囲んでいる世界から自己を切り離して考えます。
そうすると、私たち自身が孤島のような存在になってしまうのです。世界の縮小体(小宇宙)でありながら、皮肉なことに世界から孤立してしまうのです。(少なくとも物の見方という立場からいうと)
その結果として、このような言葉が出てきます。「"私"の人生は"私"の問題であり、"あなた"の人生は"あなた"の問題だ」
これが残念なことに、自分自身に対する("真の自己"も含めて)存在論の歴史的な認識のありかたでした。
しかし、ちょっと百八十度の方向転換をしたらどうなるでしょうか。
私たちの"真の自己"を他の中に見ればどうなるかということです。
実は非常に驚くべきことが起ります。
そうすると、私たちが周りの世界から孤立しているのではなく、実は共存の関係にあり、しかも責任があるということがわかってきます。
そして、私たちが他を傷つける時には、自分自身を傷つけているー心の中にある毒や憎しみによって私の自己が傷つくーという事実が分かるようになり、この「責任がある」という言葉の意味を、個人としての責任の場合と同じように理解できるようになるのです。
また、そうすることにより、私たちは、もっといろいろつながっており、もっと多くの共通要素を持っていて、私たちを結びつける連結性があることが分かるようになるのです。
では、真の自己は今どこに存在しているでしょうか。
自己は他の中にあるという時、それは因習的に表現された自己、すなわち私たちのうちにある自己を否定することになるのでしょうか?
それはそうであるとも言えれば、そうでないとも言えます。
つまり、因習的な現実(あるいは意識的現実)のレベルにおいては、「私」は現れた世界に対して個別の個性体として相対していますが(※二元論的関係)、
絶対的現実のレベルにおいては、私たちの"真の自己"は、二元論とか他の存在や世界からの分離を超越した一元的存在なのだということです。
このどちらも現実ですが、質的に違った要素を持っています。
このように、真の自己のありかが他者の中にあることがわかるようになるわけですが、
私の真の自己が他の人の中にあるということが正しいとすれば、逆に言えば、他の人が私の中にあるということも正しいということになります。
これは存在論的な大転換であると同様に、物の見方という立場から見ても大転換となるのです。
私たちは利己的に「他の為に生きようとする」時、その意味は"私"が"あなた"のために生きるということ、つまり言葉を換えると二元論を示唆します。
それと同時に、自己をすべての他者の中に見出し、それによって、"私"と"あなた"という区別を超越して一つになるという、絶対的現実についても確認できるのです。
私たち自身の生活の中に二元の一体化を持ち込むことは、現実の経験的な存在によってのみ可能となるでしょう。
通常、私たちは圧倒的に因習的現実の領域にいることが多いので、一方に偏った立場に立っています。
しかし、"もしも私たちが全体と「一つ」になることができるならば、その時には、全体が、私と一つになるのです。"
それで、私たちが再び因習的な意識の様式に戻った時には、私たちは既に変化しているというわけです。
私たちは、第三世界の国々で飢えて死んでいく子供たちを見る時に、もはやそれを、ただの不幸なことだと考えたりはしません。
今や私たちは、その第三世界の国々で食物や愛、そして命に飢えている子供たちに、私自身を見るのです。
"私"こそが。その子供なのです。
私たちがこのような絶対的現実の中に、絶対的自己を体験した時において初めて、私たちの因習的な意識の中に、世界と、その世界に対する私たちの関係を見るための、もう一つの新しいフィルターが備えられるようになるのです。
世界との関係において、私たちが世界を連結する、まれに見る連結性に成った時においてのみ、
私たちは世界との交流を通じながら、より大きな慈悲心を育てることができるのです。
その時、私たちは、もはや世界を自分と別のものとしては見ず、自分に直結されたものと見るようになるでしょう。
だから、苦しむ世界を見る時に、それを自分と関係ないものと見ることはできず、自分の痛みとして、自分の飢えとして、自分の苦しみとして見るようになるのです。
これ即ち「真の主人意識」ということです。
自分の苦しみだけを見つめるならば、私たちは絶望感と弱さと恐れから行動するしかないのです。
あたかも、自分ではコントロールが利かない、苦しむという選択以外ないと感じながら。
しかし、私たちが他者の苦しみを自分のこととして見つめ、自分自身のものとして見て、かつ感じようと実践するならば、
私たちは、絶望感や弱さからするのではなく、主体的な同情心からするのです・・・
自らの自由意志によって、他者の苦しみを自分のものとして体験しようという"選択"をするのです・・・
自分のためだけに生きようとするのと、他者の利益のために生きるという"選択"をするのとでは、
根本的な違いがあります。
自分のためだけに生きようとすれば、結局、無力感に襲われるようになります。----人生が投げつけてくるものに翻弄されて----
しかし、他者のために生きるという"選択"をすることにより、本心の愛に由来する内的な強さによる自信を得ることができるのです。
こうして、自分の自由意志で他者に仕えることを"選択"した人間は、弱さや無力感からではなく、強さという立場から人に仕えることができるようになるのです。
見かけ上の利他や机上の利他ではなく、真実に"他の為に生きる"という生き方をすることができるのです。
よって他人を信用するとは、言い換えれば自分を信用することに他なりません。
自分を信用するとは、上述の通り、真の主体意識(主人意識)を獲得することです。
二元性の一元化・・・これの深い世界を経験値として得ることに他なりません。
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他人の信用を得られるとはどういうことか、と、


他人を信用するとはどういうことか、が、
まったく違う問題だということに気付くことが先決だと思います。
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相手を理解してないから、望む反応が得られないだけでは?


まるで良かれと思ってクルマに灯油いれてるようにみえる。
内部を把握しないとだめだよ。
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やっぱり100億円ほど 余っていらないお金を振り込むことだと思います!

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利己的じゃない人は信用出来ます。

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>利己は利他を包含します。


・理解できます。

>真に認識力を高めたとき、尊敬する人物の信用を得られると考えます。
・すみません。意図を把握しかねます。
・相手に対する認識力を高めた場合、つまり、相手と自分が完全にリンクした場合相手は自分になる。 そして、自分のことは自分がよくわかっている。なので信用は得られる。ということでしょうか。

>例えば私は尊敬する人物からの信用を失っています。
・質問者様が投稿された意図はこの問題解決にあるのではないでしょうか。

おこがましいですが、質問者様の気持ちはなんとなくわかるような気がします。

あなたは傷つくのを怖がっているように思います。
理論武装しなくても、信用を得るためには、嘘をつかない。約束を守る。ということの2つに尽きるのではないでしょうか。

老婆心むき出してすみません。

参考になれば嬉しいです。
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この回答へのお礼

ご丁寧なご回答、誠にありがとうございます。

>・相手に対する認識力を高めた場合、つまり、相手と自分が完全にリンクした場合相手は自分になる。 そして、自分のことは自分がよくわかっている。なので信用は得られる。ということでしょうか。

いいえ。違います。「認識力を高める」とは、自己の「生」を物理的根源まで遡って正しく把握し理解する、という意味です。

>あなたは傷つくのを怖がっているように思います。

ご心配ありがとうございます。私は怖がっておりません。
なにせ、敬愛する人物からの注意は、今までさんざん受けており、慣れております。

>理論武装しなくても、信用を得るためには、嘘をつかない。約束を守る。ということの2つに尽きるのではないでしょうか。

私は「理論武装」を必要とは考えておりません。「嘘をつかない。約束を守る。」、そうですね、それは必須だと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/08 16:50

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