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現象学における
本質観取(Wesensanschauung) と 仏教、
相容れないところ、相通じるところはありますか?

A 回答 (25件中11~20件)

すみません。

拓けている地点なんてありません。
具体例をいただいて、ようやくなんとか理解できたと思います。
併せて、「明証性」に関しても全くの誤用で申し訳ありません。
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この回答へのお礼

経験対象の、ものと自己との衝突のポイントが、
受動的なのか能動的なのかわからない流れにあるようなカンジを、
仏教の視点やイメージから伺いたいと思っているんですけれど、
そうですね、
経験ってなんだろう、意識の持続ってなんだろうというようなところ、
たぶん仏教の思考にあるような気がするんですね。

きっと、美術や、武道や、囲碁や、チャトランガや、音楽の、
現代的な理論ではなく伝統的に形式に織り込まれて堆積している事柄からも、
いい言葉が引き出せるといいなと思います。

まだまだ開けていますので、ゆっくりとみなさんのご回答をお待ちします。

お礼日時:2011/09/27 02:06

#9です。



「実践上の『悟り』」
みたいなものなんでしょうか?
職人芸や
武術などの。

中国では
武術を「立禅」と言ったりするそうですね。

御釈迦様と同じように「悟る」のは
教え(明証性)だけではなく、プラスα(言って良ければ「本質観取」)が必要なのだと思います。なにせ、心も体も、本質的には自分ではないのですから。 この、自分とぴったり重なる、けれど異質な他者と共に生きながら、苦を滅するのは大変そうです。
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この回答へのお礼

よく意味がわかりませんでした。
何故、悟りなのか、何故、「教え」が明証性なのか、何故、プラスαが本質観取なのか、
もう少し言葉を添えていただけると幸いです。

前回伝えようとしたつもりなのですが、そして他回答者様にも申し上げたことの繰り返しですが、念のため確認しますのでご容赦ください。
たとえば、シャツのボタンが、あなたの知っているボタンの具体物一つ一つであることを棚上げして、
ボタンという形相と結びついているということ、
あなたの知らないボタンがどれほど無数にあるか知れないのに、存在するボタンの全てを一つずつ確かめなくても、ボタンをわかっていること、
これが、全体の明証性を問わずにいられる本質観取という出来事です。
そして、さらに言えば、経験において時間の過程であるボタンの現出がずっと同一のボタンでありつづけるための志向性があること、これが本質観取という、明証なき実在の知覚の事態です。
くどいようで申し訳ないです。
たぶん、イマンタさんの感覚で何か拓けている地点があるのだと思いますが、わたしにはよくわかりませんので内容の補足をください。

お礼日時:2011/09/26 19:13

本質観取について教えて頂き ありがとうございました。



せっかく教えて頂いたことなので 少し発展させようと思い
調べてみたんですが けっこう根の深い問題だったんですね。
ちょっとボクには判断できない内容でした。精神医学とも関連
が深いようですし・・・回答しなきゃよかったと思っています。
難し過ぎでした。申し訳ないです。 (´ω`;)

>実在と空は反駁するでしょうか
●ボクとしては答えを持っているのですが 仏教としての解釈は
分からないので答えられないです。

なんか分からない事だらけで申し訳ないので 面白い事をひとつ
書いていきます。
人の目から見て赤色の物であっても 鳥の目から見ると青色なん
だそうです。物を見るという行為は 光の乱反射を見る事であり
そして光は電磁波であることから 

物を見る=電磁波を感受する⇒生き物それぞれに異なる特性

このことから 光に色は無く 物にも色は無い。ただ見る者が
勝手に 電磁波の波長を 色だと勘違いしてるだけのようです。

では 何もお役に立てないままで去らせていただきます。
ああ 太陽が いっぱい。
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この回答へのお礼

どなたも素敵な感受性があるんですから
せっかく問題が目に付いた時には広げて行ける場所へ広げてほしいです。

> >実在と空は反駁するでしょうか
> ●ボクとしては答えを持っているのですが 仏教としての解釈は
分からないので答えられないです。

答えを持っていますか。前回、

> 一切空ではあるが仏性があり 肉体とは別に心(フリダヤ)が実在するとゆー

とおっしゃっていましたので、この文脈での実在ってどんな感じかなと思いまして伺ったのです。
なにしろ、空と肉体は自在に色即是空空即是色でよいとして、心は自在にならないものですからね。

> 面白い事をひとつ書いていきます。

ありがとうございます。近年は、光を電気に変える色素の研究がすすんでいますね。
お礼にゲーテの『色彩論』を捧げます。

お礼日時:2011/09/24 02:51

補足させていただきます。


>その鶴を見て鶴と知るのはなぜか、というところを仏教においてであっても慧と答えて済ますわけにはいかないと思うのですが

慧の育成とは鶴が鶴であるとわかることの真逆を求めることなんです。
つまり、鶴は幻であるという前提から入る訳です。
そして、それは純粋な認識の追及と言ってもよいでしょう。 質問者さんの研究対象を些事と言ってしまうのは心苦しいのですが、仏教的には執着しないために解明するプロセスのひとつに過ぎません。
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この回答へのお礼

鶴が鶴であるとわかることの真逆
=鶴は幻である

ではないとわたしは思いますよ。
そしてまた、
きわめて長時間に及ぶ坐禅の途中に、庭に鶴が居るのをどう知覚するか、
特異な体験を通ることですが、ただ幻であるとは言えないことでしょう。
鶴が鶴であるとわかることの真逆
=自己が幻である、とおっしゃったなら、
ああ、禅の経験の深い方だなと
理屈抜きに思うばかりですが。

鶴は幻である
⇒純粋な認識の追及

は、了承いたします。

> 質問者さんの研究対象を些事と言ってしまうのは心苦しい

いえ、研究対象に付いては何も言っておられないに等しいですから気になさることはありません。
もしお時間がありましたら、他回答者様へのお礼欄をご参照いただき、
何か思い付くことがありましたら、またいらしてくださいね。

お礼日時:2011/09/24 02:25

 No.1です。



 くわしい解説としてのお礼をありがとうございました。
 その意味は ひとえにわたしのこのNo.1の投稿は 現象学をすでにひとつの方法として用いたあとの・それとしての世界観を取り上げてみたものでした。
 言いかえると 申し訳ないことに 
 ★ 本質観取
 ☆ という方法としてのあり方については 答えていませんでした。と思います。

 ですから はづかしいことに 文字どおりおじゃましただけに近い形になってしまいました。
 ふかくおわびします。


 
 せっかくですから 少しでも話のかみあったところとして 次の箇所については ひとことおぎないたいと思います。

 ★ (No.1お礼欄) ブラジュロンヌさんのイメージするところとして伝わってくるのは、息や風のなかに現出する宇宙(梵)とその同時発生にある霊的実体(我)という感じでしょうか。
 ☆ イメージとしてという前提だと話しやすいこととしてですが 我なるアートマンは それ自体が 息ないし風なのだと思います。
 たぶん――こればかりは 推測ですが―― この息ないし風なるアートマンを宇宙にまで広げたのが ブラフマンなのではないでしょうか?

 その梵我一如なる霊性とそして仏性とが 息・息吹・いのちとしての力・さらにあるいは 善悪を併せ飲むかのようなその意味での善悪の彼岸なる場として 同じもの(一元ないし神)だというやはりイメージです。
 仏性は どう見ても 神性ないし霊性でしょう。
 
 それで ゴータマ・ブッダにとっては その言葉としてはおそらく――アン‐アートマンと言う限りで―― 絶対無をそれらに代えてかかげる無神論であろうと見られます。といった現象学的還元を 勝手に利用した本質論というほどのことだったと思います。

 まことにおじゃましてしまいました。
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この回答へのお礼

いえいえ、ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/23 02:58

瞑想や座禅は良い意味での馬鹿になるためにやっているのではないかと最近思いました。

ですから、分析も直感的洞察も些事と感じていましたね。
そこで、書籍で調べましたら慧と直感的洞察は異なるとありましたので、直感的洞察は仏教の本質ではないと回答できるかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
慧(え)ですね。その鶴を見て鶴と知るのはなぜか、というところを仏教においてであっても慧と答えて済ますわけにはいかないと思うのですが、直感的洞察で済ますわけにはいかないのも、現象学にしろ仏教にしろ同じでしょう。

お礼日時:2011/09/22 03:39

現象学は全く解りませんが、


仏教では禅定(ディヤーナ)によって自己の生存に纏わる苦を徹底考察します。この考察・観察のことを「観」というらしいです。苦観、縁起観、無常観、非我観などと言うらしいのですが、本質観相 と通ずるところがあるでしょうか?
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この回答へのお礼

本質観取または本質直観というのですが、たぶんこの日本語の響きには"直感"させるものがあって、誤解が生まれやすいかもしれませんね。
実際の内容は知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず、経験の対象について一個別的なものにとどめず、総称的な全体概念を把握できるということなんです。
"自己の生存に纏わる苦の徹底した考察・観察のことを「観」という"
なるほど、そこにも徹底的といえる知覚分析的なプロセスがあるわけですね。

お礼日時:2011/09/22 03:24

質問の通りの意味でしたか 安心しました。



これはボクの推測ですが 本質観取は 原始的な感受 つまり
赤は赤として青は青として緑は緑として 初めに色ありきでの
観取ではないかと思ったのです。もし違っていたら教えて下さい。

それでは ここからは原始仏教の話をします。
この世界は空である。空であるから移ろい往く現象として存在
するのだ。存在が空なのだから 赤も青も緑も無いし 暗いも
明るいも無い。我々の肉体も魂も無いのである。
つまり空が出発点なのです。

しかし日本へは 原始仏教とその他の宗教がごちゃ混ぜになって
伝わってしまい 一切空ではあるが仏性があり 肉体とは別に心
(フリダヤ)が実在するとゆー 訳わからんことになってもーた
しだいであり 真面目に研究しようとしているamaguappa様には
誠に申し訳ない状態であります。

そこで思いついたのが太極図を用いた解釈でした。(#2回答)
出発点が異なり また到達点も異なりますが 湧き出でる丸の
中心に小さな穴が開いています。そこは相手側の色で示されて
いますね。つまり到達した者は相手側の理解へと進むと解釈した
わけです。留まることなく移項して更に進むということです。
「超える」は自己が創りだした障壁を超えると捉えていただけれ
ばありがたいです。
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この回答へのお礼

> 本質観取は 原始的な感受 つまり
> 赤は赤として青は青として緑は緑として 初めに色ありきでの観取では

違うんじゃないでしょうかね。
赤は色覚だから見る体験ですが、例えば熟し実や夕焼けや花を見て経験するカテゴリに関連付けされ、見ている意識の持続においてぶれなく現出してくるので、存在として認識した像を結ぶことができるんでしょうね。初めにあったものごとのことなんてわかりませんでしょう、現象学では。

一切皆空。。。
実在と空は反駁するでしょうか。
肉体が実の在でないとするならその横で、心って実の在なんでしょうか。

2のご回答の到達超越については、道教で来ましたか。
とすると、現象学の本質観取と仏教のほにゃらかの両者は、一元の異なる顕われ。と。

お礼日時:2011/09/21 20:15

 【ご参考のために門外から━現象学も仏教(今は)も門外でして】


 貴方は天の川の河童。私は地上界の荒川や綾瀬川の下流流域の河川敷を領地とする河童。
 もう68年以上も前は一応小学校ですからね。
 広い河川敷は背丈を遥かに越える葦や蒲が生い茂り、中にはいったらもう異界です。
 広大な湖もあり、生物達の王国が広がっている。

 この質問に参加するために現象学はちょいと読みましたが、なんと西洋人で実りのない、面倒くさいことを考えるものですね。
 私たちヒンドゥのラージャのヨーガの精進者、生徒は認識論や現象、物自体(本質)をこのような形では問題にしていません。

 結論をいうと、自分という主格(意識)が知覚し、経験し、そして認識という構成紡ぎをしているのがこの地上の世界。万物と森羅万象ということです。
 この自分なる主格(意識)の知覚し紡いでいる結果や内容のある部分を自分だと普通の人は思いがちです。
 そういう知覚内容経験内容を捨象し、出て知覚し経験している主格(意識)に気付く。
 そういう技法と行法(空海の子孫達はぎょうぼうとかいう)を私たちは勤行していますが、まぁ実際は一切の知覚内容経験内容のない世界ということになります。
 それって、結局個体ではなくなってしまう。そして全ての個体と全体の個体になってしまう。
 だから一つであって多なんです。
 だから本質は一つであり多であり、共通です。最初から。
 それ(ら)が紡ぎ出している内容や結果は経験の現象ですが、影、ドラマとなる。
 映写室という光源の光が相対性と相関性、そして因果律みたいなもので陰影をつけているフィルムを通って、スクリーンになんか思ったと思っている映像が出てきている。
 その中に個である自分の思っていることも観ている。そして自分の姿も作り出している。
 というカラクリだとうことですので、西洋人の現象学も単にフィルムを通ったスクリーンの映像でしかない。
 そんな実も蓋もない世界で生活して、出て行く時に出て行くわけなんです。

 以上すみません、駄弁のご参考を。
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この回答へのお礼

こちら光るは光るでも不夜城の隣町ですよ。河川敷がうらやましい。

>この自分なる主格(意識)の知覚し紡いでいる結果や内容のある部分を自分だと普通の人は思いがちです。

これは核心を言い得ておられると思います。

> そういう知覚内容経験内容を捨象し、出て知覚し経験している主格(意識)に気付く。

たしか、現象学者は時と紙幅を費やしてこれを純粋意識と呼んだと思います。

> それって、結局個体ではなくなってしまう。そして全ての個体と全体の個体になってしまう。
 だから一つであって多なんです。

こういうところは仏教というのはどうなのでしょうね。寧ろ現象学のもつ、意識の流れである時間における普遍なる志向性相関というのが容易に連想されますが、やはり西洋哲学は解明を目指していますから。

> それ(ら)が紡ぎ出している内容や結果は経験の現象ですが、影、ドラマとなる。

実に、現象学は影学ドラマ学で。そして影の類型に普遍的法則があることだけをみつめていると思います。

> その中に個である自分の思っていることも観ている。そして自分の姿も作り出している。
 というカラクリだとうことですので、西洋人の現象学も単にフィルムを通ったスクリーンの映像でしかない。

劇中劇になりますね。この映写の光源は、意識の映画を照らす意識なのでしょうね。

> 出て行く時に出て行くわけなんです。

軽々と出ていきたいですね。ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/21 03:52

様々な事象や判断思考は既得概念、偏見により成立させられていて、


その確かな原因とされる偏見!?から結果も導いていくのが現象学だと思ってました。
現象学で本質のような根拠に辿る逆説もあるのですね。

仏教が哲学的に優れている点は終始無神論であるが故に、
偏見による考え方、生き方の支配から独立できている。
仏教の実在は本質によらずとも実在であるなら、相容れないかもです。
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この回答へのお礼

現象学って経験しかみつめないんです。それで、時間をみつめることになったり、志向性そのものを見つめることになったり、意識や認識をみつめることになってしまうんです。

> 仏教の実在は本質によらずとも実在である

これは、もう少し伺いたいと思います。いいオーラが出かかっている気がしまっす。

お礼日時:2011/09/21 03:11

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