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現象学における
本質観取(Wesensanschauung) と 仏教、
相容れないところ、相通じるところはありますか?

A 回答 (25件中21~25件)

仏教と一口に言っても、実に広範ですね。

おそらく仏教全般というより、禅と言ってしまった方がよいのではないかと思えます。というのも、禅と現象学の関係は、近年、次第に注目されつつある主題だからです。

まず、「本質観取」の目的は、一言で言えば、本質を抜き出してくるということにありますね。おそらく仏教だとか、禅に限らず、人間の「本質を抽出する」「本質を問う」という点で見れば、宗教全般、何事も共通点があるのです。しかし現象学の手法は、原因と結果をひっくり返すという点で、非常に特異であると言われます。たとえば、「林檎が目の前にある(原因)。だからこそ、赤くて丸いものが見えている(結果)」と考えるのが普通でしょう。しかし現象学の発想の場合、逆に、「赤くて丸いものが見えている(原因)。だから、林檎が目の前にあるんだな(結果)」と考えます。前者よりも、後者の方が、より客観的な認識の仕方であると言えます。「赤くて丸いもの」は、林檎かもしれないし、赤いボールかもしれません。

さて、禅問答の場合、同様の発想の逆転があります。たとえば、一休の頓知などわかりやすい例となるように思えます。つまり、「このハシ渡るべからず」と書かれている立て看板を見たとします。普通は「立て札を立てた奴が不適当な政治家だ」(原因)から、「橋を渡ることを禁じたのだ」(結果)と考えます。相手は意地悪な奴だから、嫌がらせしてきたのだな、と思うわけです。が、一休の場合は、「橋を渡ることを禁じるのであれば」(原因)、「立て札を立てた者は不当な政治家となってしまう」(結果)。自ら不当な政治家だと知らしめて回りたい者はいないはずだ。だから、橋そのものを渡ることを否定したのではないに違いない。「端」を渡ることを禁止したに過ぎないのだ――と考えたと説明することができるでしょう。

同じことを、公案についても考えてみましょう。
・両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい(隻手の声)。
普通は、「両手を打ち合わせた」(原因)から、「音がする」(結果)と考えるわけです。が、この公案の場合、「音がする」(結果)という点から出発して、原因は何だったのか?と問うわけです。片手で音がするというのなら、音が出た原因は、手を打ち合わせることではなかったのかもしれない、別の要因があったかもしれない、というわけです。同様の例は、公案でいくらでもあげられますが、私は禅に関しては専門ではないのですから、ボロが出る前に、このくらいでやめましょう。

しかし、私がこのような例をあげて言いたかったのは、禅問答の場合、客観的な認識に到達するという目的を確固として有しているわけではないということです。つまり、原因→結果という通常の秩序を逸脱させることに、まず主眼があるように思います。というのも、「隻手の声」とあるように、「手が声を出す」とでも解釈しなければ、議論がそもそも成立しません。しかし、現象学の場合、客観的な認識に到達するという確固とした意志があるわけです。

おっと、そういえば、他の方へのお礼欄でマラルメの名前が挙がっていますね。詩において、現象学的な見地や、禅問答が起きるのは、当然と言えば当然です。これは、フランスの詩人らに、ブディスムが影響を与えたという意味ではありません。というのも、「手が声を出す」という言い回しそのものが、既に詩的であって、公案のディスクールが、そもそも詩であるからです。意識せずとも、両者が似るのは、必然と言えば必然なのです。
無論、十九世紀後半の詩において、主体を逸脱するというテーマは顕著でした。ランボーの「酔っ払った船」など、舵を失った船が主体性を喪失した男の内面を象徴しているという意味で明らかです。彼は『イリュミナシオン』で何度も、原因と結果の関係を逆転させます。彼にかかれば、日の出という毎日起きている当たり前のことでも、朝が来たから日が昇るという説明になりません。曙の化身である少女が街を駆け巡り、少年が少女を追いかけ回すという特殊な要因が潜んでいるのです。『イリュミナシオン』のディスクールをいじって公案めいたものを作るのは、実に容易でしょう。

マラルメにも似たようなことは言えますね。「牧神の午後」など、「腕の中に二人女をさらってきたはずなんだが、はて?私は何をしたんだったか?彼女らと愛し合うことができたんだったか?」と問い始めているわけですから。逃げられたから、腕の中に女がいない、とマラルメの牧神は考えません。腕の中に女がいないということからすれば、どうも自分は逃げられたという結論になるのかな、と考えるのです。こういう、とぼけ具合が、禅に似ているということはできるかもしれません。

詩の場合は、客観的な認識をもたらすというより、禅問答的にも自らの主観を抜けていく契機を作るということが重要であるといえます。そこに答えがあるわけではないのです。現象学と禅の違いは、科学と詩の違いのようなものだと、私には思えるのです。「思える」il me sembleに過ぎないのであって、論じているのとは違う、と最後に言っておかなければなりませんが。
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この回答へのお礼

果敢な投稿をありがとうございます。
リンゴの例を挙げてくださいましたが、そうですね、現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。こうした経験に構造を見出していこうという学問です。
微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。

「この橋渡るべからず」について仰っている逆転の発想というのは、ブラジュロンヌさんがときどきやるんですよね。。。それはさておき、一休さんの頓知がそんな一周りした発想とは存じませんでした。禅僧というのは大体において莫迦でよしで、あんまり考えないことになっているかと存じます。前夫の住職は修業先が悪かったのか、公案であれこれ答えたら禅師にぶっ叩かれるから無としか言えないうえ、何べん無と答えても叩かれ、とうとう無と答えると、よしと言われるのだと申しておりました。こんなのもある禅の世界ですが、
> 原因→結果という通常の秩序を逸脱させることに、まず主眼がある
というのは納得できます。
現象学的還元が仰るところの逆転になるのは、経験を純粋に取り上げる作業だからじゃないでしょうかね。空間や時間を無条件に存在のかなめとしている経験的意識をエポケーして。

このあたりを踏み台に、誰か、能動性と受動性をめぐって、仏教でのお考えなど教えて下さらないでしょうか。

最後に、マラルメの件はご存じでしょう、ヴェルレーヌに充てた書簡でよく知られているものですが、Rienの発見というあれです。マラルメが精神的危機に陥ってスピリチュアル体験してしまった話です。詩の指示内容よりは詩の構造的展開手段にこの体験が生かされたと考えるのがわたしは好きです。サイコロさんの示されるフランス詩への愛はいつも華麗にして穏やかですね。ありがとうございます。

お礼日時:2011/09/21 03:02

太った醜いおばさんと哲学は相容れない。



のだろうか。

ダメージはどのくらい?
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この回答へのお礼

人間にいろいろあるとする観点からすれば、哲学にもいろいろあると言えます。

人間は似たものを理解し、掛け離れたものを誤認するのです。

経験的に、また、非経験的に先与の条件として、

似ていないものを理解することはたいへん困難であり、

似ていないものを理解したと思うことはたいへん容易です。

お礼日時:2011/09/17 03:03

>現象学における本質観取・・・


難しいですね。
直接の答えにはならないかもしれませんが
「観取」を「観照」として、心で観るというふうに考えてみました。
感想ですが、参考にしてください。

仏像の専門家における解釈には、よく立体観照という言葉が出てきます。
そこには造形に対する感性の了解が好ましいものであるという意味があると思います。
感情に流されぬ、感性の把握の明晰さには普遍性があるという事になるのかもしれません。
また、そういった感性の働きがもたらす指標に基ずいた表現が、宗教的にも様々に展開されていると見てよいと思います。

仏教においても、人間的な感覚や感性に相応する形で本質的なものを示そうとする表現が展開されていると思います。
造形やそれに伴う荘厳と呼ばれるものが、実は、言葉によらない装飾以上の意味を持つものであると受け止める時
そこに見えてくるものは、本質の観取・観照における感性的伝達の可能性です。
或いは、言葉さえも感性的符号であるといった精神的造形性をもつものとして捉えることができるのかもしれません。
あらゆる形、あらゆる言葉が本質を示すものとして、私達に理解されることを待っている・・・のでしょう、中々出来ませんが・・・

見方を変えれば、分かってもらうためには涙ぐましいというか苦心されたものがあったようにも思います。
そうした背景や手法といったところにも、人が本質に関わる姿が見て取れるような気がします。

以上のような感性的伝達を本質の観取としたところに、大乗の教えや表現の豊かさがあると思いますが
その解釈の浅深については個々人に委ねられていると思います。
気がつかずに通りすぎてしまう人もいれば
気がついて立ち止まる人もいます。
或いは、手を合わす人もいます。
そんな感じなのかもしれません・・・。。
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この回答へのお礼

現象学のほうは自分の専門に掛かっていますから、へたのすけさんから仏教のほうを伺えてとてもありがたいです。

> 感性の働きがもたらす指標

これはとても重要なキーワードだと思います。現象学のほうで言うと、この指標の目盛が合うことで、みんなで抱っこすることによって、抱っこされているものが存在すると考えるのですから。
そして、

> 感性の把握の明晰さには普遍性がある

とおっしゃるところが、仏教の深みに降りていると思いました。
意外と思われるかもしれませんけれど、マラルメという詩人は、自分は仏教を知らずに無に到達したと言いながら一時的な狂気を経験しますが、同じことを言いました。
SF的に考えると、わたしたちの感覚細胞が読み取りでおこなうコード変換には普遍性があるというような感じです。

> 人間的な感覚や感性に相応する形で本質的なものを示そうとする表現

が仏教にあるのですね。
ここは扱いの微妙な問題となるかもしれません。本質を捏ねあげる表現なのか、本質を炙り出す表現なのか。

> あらゆる形、あらゆる言葉が本質を示すものとして、私達に理解されることを待っている

のも、たぶんどちらとも取れる揺れ動いた様態なのでしょうね。

お礼日時:2011/09/17 02:50

米粒ほどの現象に 顕微鏡を以ての質問でしょうか。


別の意味を兼ねた質問でしょうか。

とにかく回答します。
本質観取を体得すれば それは原始仏教を超え
原始仏教を体得すれば それは本質観取を超え
体得に向かう道すがら お互いは出会い励まし合い
それぞれが体得すべき方向へと ネバーエンディング
ストーリー。

ああ あまりにピンスポットな質問である気がしますが
気のせいでしょうか。
しかし。。。遠目に見ても美しさは変わりませんね。
いえ 独り言です。(´ω`;)
人間的 あまりに人間的な。
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この回答へのお礼

本質という語は、根っから分析的な概念です。
実はわたしはそれと仏教とが最終的には相容れないと考えているものの、僧侶や、仏教研究家には、現象学から見た仏教とか量子力学から見た仏教などという、分析的思考を駆使する方が散見されるものです。そういう方が参加してくださるとよいのですが。
自分の直観にしたがって二者の異同を精緻に見出したくなりました。

二つの違う道から違う頂きへ到着するとしたら、超えるとは言い難いかもしれませんよ。
でも、お互い励まし合うという点には納得です。

お礼日時:2011/09/17 01:47

 こんにちは。

または おじゃまします。


 問い求める主題が広く大きいですよね。
 というのも 仏教はもとより
 ★ 現象学における本質観取(Wesensanschauung)
 ☆ という場合も けっこう広いと思われます。

 たとえば 大野晋の古語辞典には こうあります。
 ▼ (大野:古語辞典) ~~~~
  いき【息】(生キと同根)・・・〔* 意味が三項目しるされている〕。
  ○ 〔* 解説として〕息と生キとを同根とする言語は 世界に例が少
   なくない。
    例えばラテン語 spiritus は息・生命・活力・魂
    ギリシャ語 anemos は空気・息・生命 
    ヘブライ語 ruah は風・息・生命の根源の意。
    日本の神話でも《息吹(いぶき)のさ霧》によって生まれ出る神
   神があるのは 息が生命を意味したからである。
             (1990補訂版)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち この《生(生命・生活)世界》について見て 純粋意識にまで還元するとこの《息もしくは風》に到るという現象学を もともと昔から行なって来ている見られます じんるいは。
 地水火風ないしアトムという場合も その種の探究なのでしょう。(ですから 現象学の専売特許ではないのでしょうね。――そういう方向や視野を捉えようとするご質問だったでしょうか?)

 《息》にかかわるアートマン( atmo-sphere の atmo- と同根)を根源としての純粋意識と見立てたブラフマニズムが ブッダに先行しましたね。そのアートマンのさらに根源(または 同じ根源)としてのブラフマン これを世界ないし宇宙の側に 主宰神として据え 両者の一体(梵我一如)をとなえました。
 ブラフマン(梵)とアートマン(我)との一如といった純粋意識に還元した世界観を――それが 社会における身分制とその保守にもかかわっていたことも事由になったでしょうか――あまりにも生活世界の内にただの観念として単なる通念として有力となってしまっているのを捉えて ふたたびのようにさらにまた現象学的還元をしたのが ゴータマ・ブッダだと見られます。

 すなわち 諸行無常ないし諸法無我ととなえました。つまり 無我=アン‐アートマン( non-atman )の説です。ブラフマンなどという神は 想像の中におさまるようなもので仮りのものだと言いたかったのでしょう。《われ》に実体などないと言いたかったのでしょう。
 すなわち 言い方を変えるなら 
 ○ 《色・受・想・行・識》即是空
 ☆ だと見る純粋意識であるようです。あるいはつまり 世界を空と見る《超越論的な〈わたし〉》の観点を そのゴータマ・ブッダ自身の《わたし》に立ててみた。これが 人にとって普遍的な存在のあり方であると 批判的にもしくは総合判断として提出した。

 ところが 後世においてかどうなのか この無我説の総合判断にもとどまっていなかった。まだ還元し足りないというわけです。

 ちょうど現象学において 初めにそこから抽象というエポケー作業がおこなわれたところの生活世界 この生活世界があとでは ぎゃくにあらためて取り上げられとうとばれるようになった。そのこととあたかも同じように ブディズムにおいても 色即是空からのさらに新たな還元が行なわれたようです。
 色即是空から いわく:
 ○ 空即是《色・受・想・行・識》 

 ☆ 《生活世界》――すなわちもちろん《色・受・想・行・識》から成る現象世界のことです――こそが 人間とこの世界にとっての根源の場であるのだと二省三省されたようです。




 それでも 初めに戻って
 ☆☆ 問い求める主題が広く大きいですよね。
 ☆ つまりなぜなら 上に述べた――いくらか奇抜な――見方も述べてみれば さもありなんというような内容であり むしろそれは 問い求めのための前提なのでしょうね。

 このご質問は 果たしてどこ行きのバスでしょうか? という模索の投稿です。
 それとも 現象学的還元というひとつの事項にしぼったご質問でしょうか?



 * おまけとしてと言ってはいけませんが:
 ブッダは 主宰神ブラフマンを説くひとつの特殊絶対神論に異を唱え 特殊絶対無論(無神論)を唱えたとも見られましょうか?
 としますと これらの特殊絶対性理論を 普遍的なひとつの根源にまで還元する一般絶対性理論が待たれます。
 ブッダの後世において 仏性が持ち出されて来ました。これによると 名前こそ違え やはり梵我一如と同じ趣旨の特殊絶対神論に回帰したとも見られます。とするとけっきょく 絶対有と絶対無とは 互いに同等であり対等な非思考の理論だと思われます。
 この信仰類型論行きのバスだったでしょうか? という自己宣伝に行き着きました。


 おじゃましました。どのくらい話がかみあうか 模索してみようと。

この回答への補足

いらっしゃい。ちょっと待って下さいね。悪い意味ではないのですが独特の読みにくさがありますから。

補足日時:2011/09/17 01:54
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この回答へのお礼

ありがとうございます。まず考えさせられたのは次です。

>この《生(生命・生活)世界》について見て 純粋意識にまで還元するとこの《息もしくは風》に到るという現象学

なんと、フッサールやメルロ=ポンティをさほど踏み外していないと感じるのです。
意識の流れ、身体の存在形式、先験的意識において時間を超えて志向する生といった、彼らの拓いた方角を向いていると思うのですが、それでいて、現象学のようにメカニスムの表出を謳うこととは異なりますね。このような表現というのはギリシャ-インド哲学にふさわしく論法のもつ説得力に重点があるのかもしれません。つまり無限に修辞的であり代替的であるアプローチの。

> ブラフマン(梵)とアートマン(我)との一如といった純粋意識に還元した世界観

宇宙=世界と実体的な霊性は二つならず異ならず、ということが、純粋意識とどう関わるかわかりませんので考えてみます。
現象学の場合ですと、「事物があると経験できる」から「経験すると事物があらしめられる」へ切り替えるときに(還元)、何かを意識するのではなく流れそのものである意識が志向性を保っていたり同一性の定立を目指していたりするという特質をもって何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。
ブラジュロンヌさんのイメージするところとして伝わってくるのは、息や風のなかに現出する宇宙(梵)とその同時発生にある霊的実体(我)という感じでしょうか。

> さらにまた現象学的還元をしたのが ゴータマ・ブッダだと見られます。

続きを読むとこれは現象学的還元ではなさそうです。息や風は息や風だというのが近い印象です。

> 《色・受・想・行・識》即是空 だと見る純粋意識であるようです。あるいはつまり 世界を空と見る《超越論的な〈わたし〉》の観点を そのゴータマ・ブッダ自身の《わたし》に立ててみた。これが 人にとって普遍的な存在のあり方であると 批判的にもしくは総合判断として提出した。

そうなるとその普遍的な在り方のうえで人の経験がどう戯れているかというのが現象学だといえるかもしれませんね。

> ブディズムにおいても 色即是空からのさらに新たな還元が行なわれたようです。
 色即是空から いわく:空即是《色・受・想・行・識》

ユーモアなのかもしれませんが念のため、これも還元ではないですよ。同じことを言っていますから。でも、

> 《生活世界》――すなわちもちろん《色・受・想・行・識》から成る現象世界のことです――こそが 人間とこの世界にとっての根源の場であるのだ

というのは変わっていますが素敵な解釈ですね。

> * おまけとしてと言ってはいけませんが:
 ブッダは 主宰神ブラフマンを説くひとつの特殊絶対神論に異を唱え 特殊絶対無論(無神論)を唱えたとも見られましょうか?

ひとえにアートマンのほうの否定ではないですか。霊魂の存在を否定しますから。

> ブッダの後世において 仏性が持ち出されて来ました。これによると 名前こそ違え やはり梵我一如と同じ趣旨の特殊絶対神論に回帰したとも見られます。

同じ主旨だったんですか。それは疑わしいです。
しかしながら、大乗仏教は内在的世界に図式を与えたという意味では、ブッダよりも現象学から離れますね。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/22 18:56

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