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障害者を扱った「きらっといきる」という番組があります。
その中で、障害者からも健常者からも慕われたとされる運動のリーダー、門脇謙治氏について触れていました。
そして門脇氏が行ったとある活動を再現した追悼劇を演ずる団体が登場しました。
http://www.nhk.or.jp/kira/04program/04_331.html

なんでも、門脇氏は駅の階段に設置された昇降機(当時の最先端)に乗るのを断固として拒否し、人の手で上げてもらうよう主張したそうです。

>障害者の意思を無視して、駅員がむりやり昇降機に乗せようとする

これが不満であり、団体の人によれば、その意思とは

>通行人に声かけて上がることが目的
>どうやって上がるかは、“わしが決める”
>やりたいようにやらせてくれん!

ということらしいです。

しかし…。

・駅員さんにはやるべき仕事がいくらでもある。その人だけに関わっていられない。
・人力で運ぼうとしたら腰を痛める危険性がある。
・大きなものを抱えて階段上り下りするのはとても危険。転落して死傷者出たら誰がどのように責任取るのか。
・言語にも障害があり、何を言ってるのかよくわからない。意思疎通に齟齬があったら大変なことになる。

こういった問題があります。

自分が決めたやりたいことを実行するため人の手を借りようとしてるのに、なぜその相手の都合どころか身の安全すら考えないのかがどうしてもわかりません。
機械任せにせず人の手で、という主張はわからないでもないですが、いくらなんでもこの要求は行きすぎだと思うのですが…。

A 回答 (3件)

障害者はそういう「権利」を持っている、と


考えているからではないでしょうか。

権利を持っているのだから、相手はその権利に対応する
「義務」を負っていることになります。

「俺は権利を持っているんだ」
「ハイ」
「だからお前達は、義務を負っているんだ」
「ハイ」

という調子です。

「お手数かけてスミマセンね」
「いえ、いえ、仕事ですから」
「本当に申し訳ない」
「とんでもありません」

これが日本式でしょう。

あの孟子が言っていました。
「世の中が権利と義務の関係になってしまったら
 人間関係がギスギスして、上手く行かないぞ」

欧米キリスト教文化圏でなら、権利義務で上手く行く
かもしれませんが、歴史や文化が異なる日本では
ダメだと思います。

そういう意味でも現行憲法には問題があると思います。
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この回答へのお礼

>「世の中が権利と義務の関係になってしまったら
 人間関係がギスギスして、上手く行かないぞ」
確かにそうですね。
そういう言葉を振りかざし自分の要求を押し通そうとする人、失礼ながら感じ悪く見えます。

普通学級への受け入れなど自分の要求を断られたり迷惑と言われる障害児の親御さんとかが、「理解してほしい」って主張してるのをよく見かけます。
なぜ「協力」「納得」「許す」「賛同」などではなく「理解」という表現なのかと疑問に思っていました。
その特徴が本人の怠慢などではなく障害であり、そういった特性がある、ということなら受け入れや協力を断ったり迷惑だと訴える側だって説明を受け理解してるはずなのですから。

しかし、障害者には普通学級等への受け入れや協力を得る
>権利を持っているのだから、相手はその権利に対応する「義務」を負っている
と考えてるのなら、「理解」してほしいって表現にもなるかもしれません。

先方にも事情や都合、生活といったものがあることを「理解」せずにいたら、ギスギスとした状態になるでしょうね。

社会参加とは何なのか、根の深い問題ですね。
権利と義務、日本式と西洋キリスト教式という問題を教えてくれてありがとうございました。

お礼日時:2011/10/02 20:07

はじめに質問を読んで自分も疑問に思いましたが質問内のリンク先をみてなんとなく分かったように思います。


この門脇謙治氏は駅員に対してではなく社会の様々な壁(無理解?無関心?差別?)に怒りを感じていたのでは?(うまくいえませんが)
このエピソードはずいぶん前の事のようなので、現在とは時代背景も社会の様相も違うので障害者を取り巻く環境は今とはずいぶん違うため単純に事柄だけを見てしまうと単なるわがまま、エゴに見えてしまうかも。
リンク先の話を読んで門脇氏の主張もどうかと思うが、駅員の態度からは戦わざるを得ない門脇氏の(障害者の)状況をうかがい知る事ができるのではないかと思います。

この回答への補足

確かに、社会に対する怒りというのはわかります。

しかし、だからと言ってそれで駅員さんを悪者にするのはどうかとも思うんです。
どんな事情があったとしても、身の安全を無視した要望に正当性があるとは思えない。
あそこまでしなければ、意見を聞き入れてもらう段階にも立てなかったのでしょうか?
暴動まがいの学生運動に通づるものを感じます。


リンク先の話で駅員さんはバカにする態度を取ったとあるが、そのエピソードにリアリティが無い。
五円玉に紐結んで催眠術のようなことをして昇降機に乗りたくなるように仕向けたとかなんとか。
そんなヒマなことわざわざやるとは思えない。

強いて考えるなら…。
障害者の対応というスキルに関しては駅員さんも通りすがりの一般人も大差ないわけで、障害者に対する理解も同じでしょう。
そんなときに、とてもじゃないが考えられないとんでもない無理難題をろれつの回らない口調でまくし立てられ説得も成り立たないとなれば、知的障害の線を疑うのはおかしなことではないと思います。
あの催眠術は素人なりになんとか、障害者と支援者双方の安全のため昇降機に乗ってもらうように工夫した苦肉の策だったのかもしれません。
知的障害という線で対応されたことが不満だったとしても、それを改める手段が戦いってのは…。


どうにも、あの団体や障害者の主張は一方的すぎます。
この番組に限らず、障害者の受け入れや協力を拒む人は悪者扱いされがち。
真の理解を目指すなら、その悪者にこそスポットライトを当てるべきだと思います。

補足日時:2011/10/16 10:35
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正直、私も理解できません。

しかし、理解しようとして考えてみました。まず、昇降機というものがどういうものか。おそらく、普通の階段を利用して、テーブルの上に車椅子が乗るタイプであると思うので、それだと仮定します。
http://www.fujitaka.com/kurumaisu/products_outdo …

現代のエレベータやエスカレータであれば、健常者も使用しますが、この昇降機なるものの場合、健常者が階段としてか利用しないところに、足の不自由な人だけが、テーブルの上に載ることで、健常者の利用する階段と同じ階段上を登って行くことになります。

階段の上をテーブルに載せられて上がっていくって、結構目立ちますよね。おそらく、実際に上がるときには、階段を利用する複数の健常者に足を止めてもらい、待機してもらって、多くの健常者の視線の中で、昇降されることになるのだと思います。これでは、考え方によっては、「健常者とは違うお荷物・不能者のお通りでござい」というような扱いを、周囲に見せつけているようなもの、とも考えられなくもないです。

一方、人で運ぶ場合は、さすがに、車椅子に人を載せたまま運ぶのは大変でしょうから、人と車椅子とを分けて運ぶと思います。人と車椅子とを分けて運べば、危険性は小さくなるように思います。

エレベータが初めから作られていたら問題は無かったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>考え方によっては、「健常者とは違うお荷物・不能者のお通りでござい」というような扱いを、周囲に見せつけているようなもの

そういうふうに卑屈に考えてしまい屈辱に感じるってのはあるかもしれませんね。
もっとも、それは人の手で運ぶのでも変わらないような気がしないでもないですが…。

障害を隠さずオープンにしていこうと主張する人もいますが、それならそういった機材を使って移動することも変に恥ずかしがらず堂々としていけるよう割り切っていけるかもしれません。


>人と車椅子とを分けて運べば、危険性は小さくなるように思います。
今は見れなくなってますが、リンク貼ったサイトで以前は放送当時の画像が見れるようになってました。
その画像では、劇のクライマックスで障害者の主張に賛同した通りすがりの人たちが神輿のように車いすごと担ぎあげていたので、そのやり方は望んでないようです。
(演出であり、見た目の派手さを優先しただけかもしれませんが)


昇降機の場合は晒しもののように感じるってのは盲点でした。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/02 19:21

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