

※ 「神は存在し、常に我々を見護っている」と心の底から
信じている人、信じられる人は幸せな人なり。
※ 「宗教」とは生老病死・生活苦から逃避するためのマスターベーション
に過ぎない。
=以上を 人生の大前提 / 人生信条=としているが
これが間違いでない事を裏付けるかのように~
(1) 以前、イタリアの神父だったか牧師だったか知らないが
教会に属する少年に「性的いたずら」をした事がバレ
問題となった事があった。
思わず「な~にが神父だ」と吹き出した覚えがある。
(2) 遠藤周作の小説「沈黙」にもあった様に、
神は-(キリシタン弾圧 ➡ 棄教セヨ!! と雲仙の熱湯を体にかけられたり、して)
自分のために苦しんでいる信者を助けようともせず、ただ々「沈黙」するのみだった。
(そりゃそうだ、そんなものいないんだから助けられるわけがない)
自分だったら「ハイハイ!!」と踏み絵でも十字架でもいくらでも踏みつけられる。
※ 以上の結果以下の結論となる
(1) 「異星人」はいても「神」はいない。
(証拠を見せろ なんていわないでネ!! 前者の存在の根拠は
「この広い々宇宙に生命体は地球のみ」なんて事はあり得べくもない。
だけなんだから)
(2) 四谷にある某大学の宗教関係者に「本気であの存在を信じているのか?」
とたずねたら「しかり」との事だったので、以後(議論の余地なし、と)「沈黙」を守った。
(3) イタリアの大司教 信濃町にある某オカルト団体の最高責任者 等々は単なる
「どっかのお爺さん」に過ぎない。
(しば々TVに出てくる-出っ歯で醜女で50過ぎのの某タレントが涙を流して
感激しているらしい姿を見て思わず吹き出した-
あの姿は「この世の地獄」の責任者 金○○ に会って涙を流した、
旧○○党のあの婆~さんと同じ)
=「哲学を追究すると宗教に到達する」と考えているが、以上の信条開陳で
「間違い」あらば正して頂ければ、と書き込みましたが-「削除」されるかな?
A 回答 (8件)
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No.8
- 回答日時:
>>以上の信条開陳で「間違い」あらば正して頂ければ、と書き込みましたが-「削除」されるかな?
という事ですので、現在の宗教学または他分野の研究結果踏まえ貴殿の意見との相違を何点かお話させていただきます。たぶん削除はされませんよ。
>>※ 「神は存在し、常に我々を見護っている」と心の底から信じている人、信じられる人は幸せな人なり。
>>※ 「宗教」とは生老病死・生活苦から逃避するためのマスターベーションに過ぎない。
さて、貴殿の仮説は端的に言えば「宗教は一種の安らぎを与え、厳しい現実から逃避をさせるもの」と定義していらっしゃいますが、この仮説は現代日本人が宗教の特徴を考えたときに最もポピュラーな仮説の一つかと思います。しかし、「安らぎを与える」「厳しい現実からの逃避」というような特徴は、私達がよく知る大変稀な宗教に見ることが出来る稀な特徴であり、歴史的・世界的に見ると宗教に必須の特徴とはいえません。
この仮説とは相反する宗教も数多く存在しています。例えば、人類学者エバンス・プリチャードのスーダンのザンデ族の宗教に関する報告は古典的説明は研究者の中では有名です。エバンスが調査していた村で、一軒の泥の家の屋根が崩れ落ちたことがあります。この時村人達は即座にこのことを「屋根の下にいた人たちには強力な敵がいたはずだ」と妖術の視点から説明をしました。すると、エバンスは西洋的な合理主義の考えから、「泥の中にシロアリがいることから考えて、シロアリが巣くっていて屋根がもろくなって崩れたのだ。」と指摘します。しかし、村人達はその指摘には関心を示さず、こういった「シロアリが家を食い荒らすことや、老朽化した建物がいつか崩れ落ちるなど百も承知だ。」と。村人達の関心があったのは、屋根が落ちる前でも後でもなく丁度その時に、誰の誰それが、なぜ屋根の下にいたのかということでした。
これが宗教の生み出す「妖術という不安を解消し、安心を与えている」かのように見えます。しかし、人類学者ダン・スペルベルはそのように考えていません。この説明は、私達が通常説明と読んでいるものとは明らかに違っているという。私達が普段説明と呼んでいるものは「文脈を与えることで、ある現象を以前ほど驚くべきではないことにする」のが目的です。しかし、このような宗教のする説明の多くは、逆に自体をますます複雑なものにしています。つまり、宗教は出来事を説明を生み出すのではなく、むしろ「相応しい謎」を生み出しているといえます。
このように例は、ソロモン諸島のクワイオ族の宗教や、パナマのクーナ族の研究報告にも似たような事例が報告されています。先のザンデ族はこの宗教の生み出す「相応しい謎」のおかげで、日常から妖術という不安と隣り合わせである。仏教においても一休禅師は「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」なんぞという和歌は、まさに宗教のもつ「相応しい謎」を皮肉ったものといえます。また、貴殿はその意見の宗教と呼ぶものの中心にはキリスト教があるようですが、「神は存在し、常に我々を見護っている」と心の底から信じているキリスト教徒でさえ、救われる者と救われない者がすでに決まっているという予定説の信者は「自分は違うのではないか?」という不安は熱心な信者ほど拭い去ることは出来ないでしょう。ですから、宗教は生老病死・生活苦から逃避するためのマスターベーションにもなりません。生老病死・生活苦からの逃避どころか、感じる必要の無い余計な不安や苦しみを生み出しているわけです。
>>以上を 人生の大前提 / 人生信条=としているが
以上の説明により、貴殿の人生の大前提・人生信条は宗教の説明としては不充分であり、大変視野の狭い意見であると考えます。
さて、続きまして、
>>※ 以上の結果以下の結論となる
>>(1) 「異星人」はいても「神」はいない。
とのことですが、裏づけの中に「神」の存在否定を裏づけにはなりません。
裏づけから見ると貴殿は神を「自分の意にそぐわない行為をしているものを罰し」「自分を信じている人が困っていたら、助けてくれる」という二つの要因を持っていると定義しておられますが、こちらもすべての「神」と呼ばれるものを否定する材料にはなりません。
認知科学者パスカル・ボイヤーのカメルーンのファン族の神についてこのように述べています。ファン族の神話には自然創造の神メベーケと文化創造の神ンザメという神が存在しますが、ファン族はこの神にはまったく関心ありませんでした。ファン族の関心事は、自分達を常に観察し何か間違いをやらかすとそこに付け込んで悪さをする妖術師であったり祖霊であったといいます。このファン族の神々は自然を作り文化を作りはしたものの、その後の人間に関わったという神話は存在していません。このような神はアフリカのバントゥー民族では広く信仰されていますが、ンザメやメベーケのような神を裏付け(1)(2)では否定しようが無いわけです。
つまり、上記の裏づけでは「神」を否定する材料にはなりません。しかも、(2)は私の記憶が確かならば、神は沈黙をしていたわけではないはずですよ。
しかしながら、私は神が世界を作ったなどとは考えておりません。しかし、貴殿のおっしゃるように神は人間の願望(いて欲しい)が生み出したものでもないと考えています。
その理由としては、「人間は教えられなくとも神を信仰する要素が存在している」ということ。今年の七月でしたかオックスフォード大学の認知心理学者ジャスティン・バレットを中心とする研究チームが発表した研究によれば、まだ神学を学んでいない五歳以下の子供達は人間の限界を理解するより、「超越的な特性」のほうをよく理解していることが示されたそうです。また実験においては、三歳の子供達に母親が見ていない、つまり母親が中身を知らないはずの箱の中身について尋ねてみると、「母と神いつでもその箱の中身を知っている」と考えていました。しかし、四歳になると子供達は母親が神のごとくに物を知っているわけではないと理解していました。子供は「母親はすべてのことを知っているわけではない」という考えにいたる以前の段階ですでに宗教的考えを持ち合わせていることになります。しかも、これは世界各国異なる文化圏においても同じ結果がもたらされたといいます。
また、ジャスティンは過去の研究論文において、「神」などの超越的行為者(霊や妖術師等々を含む)の起源を「行為者の過剰検出」という人間の心的機能で説明をしています。この「行為者の過剰検出」というのは、私達現生人類は約20万年前のアフリカに出現したそうですが、当時のアフリカには人間の食べ物である「獲物」や、逆に人間を食べてしまう「捕食者」が存在していました。この獲物や捕食者について、私達人間は「居ないのに居る」と感じるように私達は進化しています。「居ないのに居る」と感じるように進化したのは、「獲物はこっちにいそうだ」とか、「捕食者が向かって来ているのではないか」と、「居ないものを居る」と感じるほど敏感な直感を持つものの方が生存する確率が高かったからです。例えば真っ暗な山小屋の一軒家で一人で一晩明かさなければならなかったとして、物音や影の動きなどから、何か居ると直観します。これは「行為者の過剰検出」のなせる業です。これが、宗教で言えば、「神」などの超越的行為者の起源となるの心的機能なのではないかといいます。
しかし、このように話しますと「神は人間が作ったんだ」と単純に考える方がいらっしゃいますが、ことはそれほど単純ではありません。人間の脳は「神が自分の外にいると解釈する」機能を持ってしまっています。放射線医学博士のアンドリュー・バーグ等々の研究によれば、瞑想中のや祈りの最中の人間の脳をSPECTで撮影すると、上頭頂葉後部が不思議な活動をしていることが分かりました。上頭頂葉後部のの主な機能は、自己と非自己を区別することにあり、瞑想中はこの機能が極端に低下しているといいます。しかも、それは薬物を使ったときのような異常な変化ではなく、脳を普段と違う使い方をしているだけで異常性は見つからないという。さて、この上頭頂葉後部の機能が低下したとき、脳はそれをどのように解釈するのかといえば「自と他が一体となった感覚」「すべてのものと密接に関係しているような感覚」だといいいます。実験はチベット仏教徒やサンフランシスコ修道会の修道女等々に行なわれましたが、共通するのが上頭頂葉後部の変化でした。この時修道女達は「触れられるほど近い位置に神を感じた」などという感想を口にしています。上頭頂葉後部の機能の低下によって「自と他の区別の無い感覚」得ることが出来るわけですから、事故の中に神がいると考えてもいいようだが必ずしもそうはならないようです。なぜなら、それが普段は正常に働いているからだと考えられます。普段隔絶されているものが、瞑想や祈りによって一体となった感覚をえることで、普段の機能に戻ったときにより隔絶を感じることがあるのでしょう。このような機能はあくまで特殊な状況を作り出した実験結果、重要なのは人の脳は普段からこのような機能を持っているということです。顕著ではないが脳はこのような活動をしていてもおかしくは無いという事です。
つまり、「神」は貴殿の言うようないて欲しいなどという現実逃避の願望から生まれて来るのではなく、幼い子供でさえ持っているほど根本的な人間の生物学的機能から生み出されていると考えます。
駄文を連ねましたが、誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
No.7
- 回答日時:
「神」の存在を、それを信じる人の行為をもって否定することは難しいと思います。
実際問題として「神を信じる」派の一番厄介なところは、神の存在を否定する人々に対して「神がいないことを証明せよ」と迫ってくるところです。科学を学ぶもののマナーとしては、あるものの存在を主張する側がその証拠を提示しないといけないという規則があるのですが、「神を信じる」派にはそういった科学的常識が通用しません(^^) いわば自分たちが投げるべきボールを持っているくせに、他人に「早くボールを投げろ」と言っている様なものでずるいなぁ~と思います。
ただし科学的な論理を以って批判をするなら、神の存在を前提として論議をすると必ず破綻が生じるということはいえると思います。
例えば「唯一の神」を信じる宗教が複数存在すること。これは矛盾ですよね。
それからここの経典などを見ればその内部に必ず矛盾した記述が見られること。例えばキリスト教の聖書を分析すると悪魔が人を殺したとされる数と神が人を殺した数を比較すると、これはもう神の方が比較にならないくらい沢山の人を殺していること(有名なところでは「ソドム」と「ゴモラ」とか、「ノアの箱舟」の洪水とかね)があります。あれは神の怒りといわれますが、神が人を愛していてなおかつ万能であれば他に手はあっただろうと突っ込みたくなります。
事ほどかように、欠点だらけの人間が創作した神ですから当然矛盾だらけです。神は人の創造物として存在するのが関の山ではないでしょうか。
No.6
- 回答日時:
神の存在は科学的に、或いは脳の機能の研究から、科学的にその存在はもう既に証明されています。
只気が付く人と、気が付かないようにしている人がいるだけです。二つの科学的な根拠を載せておきます。貴方が如何思うかは自由です。
貴方は宗教と言うものを間違って受取っています。宗教の目的は唯一つだけです。その究極的な目的とは、はかないと思われる人生においての魂の救いです。言葉を替えて言うならば『生死の問題の解決』です。
人間の脳の半分は『宗教や神や仏』で出来ています。その証拠は『肯定する声』と『否定する声』と二つの考えが、いつも頭の中を駆け巡っている事からも推察出来ます。この場合の肯定する声が『神や仏』に相当します。否定し続けている心が、自我という自分です。
一つ目はウイキペデアからです。
”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”
この場合の右脳の意識は『一念』と言うものです。常に肯定的な見方をしている意識です。ですがこの意識は意識出来難くなっています、その理由は『無意識の意識として、或いは潜在意識として』働いている意識と言う理由からです。
誰も意識が無くなった時(無意識の時の自分)を意識出来ないからです。科学的な研究成果では人間が普通の暮らしをしている場合、意識する自分でいる時は20パーセント以下という研究結果が有ります。裏を返すなら、『無意識や半意識の状態の時の自分は』80パーセント以上になっていることを意味します。
この意味する事は『自分が意識していない状態の時の自分の意識=無意識の意識』の方が、『我』と言う自我意識よりも遥かに自分を強く、或いは長時間『自分の身体と心を支配している』ことを意味します。
東洋における『無』の思想が近代と言う科学が発展した時代にも、廃れる事が出来ない理由になっています。是は『没我』と言う状態です。道元の言う『仏道を習うは、自分を習う事。自分を習う事は、自分を忘れる事、、、』と言う意味です。
自分自身を忘れた時、或いは自分自身が全てを捨てた時『自分自身には全てが手に入る』ことを意味します。
右脳の意識を動画で見る事が出来ます。頭を柔らかくして、先入観を捨ててみて下さい。その感想も聞かせてください。
URL:
貴方がまだ神の存在を疑っていると言う意味は、『未だ救われた事が無い』という告白をしている事を意味します。
※ そもそも神は観念・願望(いて欲しい、と言う)・現実逃避手段
との考え ⇒ 確固不抜にして神に救いを求める意思ナシ。
はさておいて、有難う御座いました。
No.5
- 回答日時:
「哲学を追究すると宗教に到達する」
↑
これは順序が逆でしょう。
哲学はキリスト教があって誕生したのです。
哲学の眼目は存在論ですが、人は何故存在するのか、
神は何故己に似せて人間を創ったのか、
神は何の為に人間を創ったのか、目的は何か。
人間は何の為に存在するのか。
宗教はあほらしいです。
こんなものを、どうして信じる人間が居るのか
理解に苦しみます。
が、宗教はデメリットだけの
モノでもありません。
それなりに意義があります。
1,秩序維持の道具。
2,死の恐怖の緩和。
3,人間を謙虚な存在にする。
西欧キリスト教文化圏で近代科学が産まれ発達したのは、
神の神秘を解き明かそうとした、宗教的熱意があったから
だと思っています。
No.4
- 回答日時:
>・手をいやしい ⇒ 神は卑しい などとは一言も言っていませぬ。
宗教の一機能をもって評価を下すのは拙速であるという意味です。
>※ 回答畏れ入ります-で、主題たる「神の存在は?」
信条に対して間違いがあれば指摘してくれとあったので指摘したまでです。
神の存在に関しては、神らしき現象が真の神であるのか人間には検証できない以上、信じるかどうかとういう性質の事柄になります。個人的には、神の存在が重要になるのは神をコントロールしたいからであると思います。神も宇宙人も全ての生命に含み幸福を願う対象になれば、いてもよしいなくてもよし。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
★( a ) ~~~
「神は存在し、常に我々を見護っている」と心の底から
信じている人、信じられる人は幸せな人なり。
~~~~~
☆ 《信じる》は ナゾの何ものかから与えられるものです。与えられたとき 受け取るのは 人間の・自分の行為です。
どうして《幸せ》と思うかを明らかにしないと はぁ そうですかと答えるしかありません。
★( b ) 「宗教」とは生老病死・生活苦から逃避するためのマスターベーション / に過ぎない。
☆ 《宗教》は 個人が信じることをつうじて得た観想を 倫理規範として・つまりおしえとして頂き そのもとに集団をつくり組織として活動する運動です。観想・瞑想の中身を教義とした時点で それは 言葉で表現したものですから 思考の対象となります。つまり おしえは考えるのであって 信じるものではなくなります。
その宗教のおしえ あるいはその組織に入ること これによって苦しみから逃れようとするのならば それは おそらくおしえを――信じるのではなく 考えてよしとした結果――自己の心情とし信念として生きることにした。このことを意味します。
★( c ) 以上〔=( a )( b 〕を 人生の大前提 / 人生信条=としているが
☆ というようにです。
つまりこのことは 個人の信仰とは 別ものです。信条となれば 個人のものになっていますが その中身は おしえであり 考えるものであり 信じるものではなくなっていますから。
マスターベーションであるかどうかは その信念をつらぬいた結果がどうであったか あるいは失敗に終わったのだとすれば本人の受け取り方はどうなのかによりましょう。
★( d ) ~~~
(1) 以前、イタリアの神父だったか牧師だったか知らないが
教会に属する少年に「性的いたずら」をした事がバレ
問題となった事があった。
思わず「な~にが神父だ」と吹き出した覚えがある。
~~~~~
☆ ふたつの論点があります。
ひとつは 教会とそれに属する人の場合は 個人の信仰の問題ではなく 組織宗教のそれです。それは 信仰の問題ではないという意味で 宗教もほかの会社もあるいは公務員もみな情況は 同じ地続きです。つまり 神父だからどう 検事だからこう 大学教授だからそう 会社社長だからああ といった違いは ありません。吹き出してもかまいませんが。
もうひとつは 信仰する個人は 神と同じではないということ。神ならあやまちを侵さないでしょうが 人なら たとえ信仰を持っていても あやまつものです。あやまちを指摘し 吹き出しても構いませんが。
★( e ) (2) 遠藤周作の小説「沈黙」にもあった様に、・・・(省略)
☆ (あ) 《棄教》というからには 組織――教会制度――の問題です。個人の信仰とは別。
(い) ★( f ) 《神は・・・自分のために苦しんでいる信者を助けようともせず、ただ々「沈黙」するのみだった。》
☆ 《神のために苦しんでいる信者》を 組織の問題から離れて 個人の問題として扱うならば それは《神のために苦しんでいる》という見方は どこから・誰がするのでしょう? 信者本人は どう思っているのか? 第三者が その見方を外から勝手にしているだけではないか?
(う) 《神は 沈黙するのみ》という見方も 信者本人にとってはどうか? まづそのことを考えたうえで――あるいは 直接そのような人に尋ねてみたうえで―― 《沈黙》するのはどうしていけないのか? これを考えるべきでしょう。
(え) ★( g ) (そりゃそうだ、そんなものいないんだから助けられるわけがない)
☆ というのなら それでよいではないか? 信教・良心の自由のもとに その信者本人は信じているのだから それだけのことだ。組織の信者でなければ 取り立ててあなたに その同じ信仰を持ちなさいとは言わないでしょう。あるいは あなたが そんな信仰は捨ててしまいなさいと 時には 言ってあげるという程度に その信者もおのれの信仰のことをあなたに話すといった程度であるでしょう。――それで ふつうのことではないか?
(お) ★( h ) 自分だったら「ハイハイ!!」と踏み絵でも十字架でもいくらでも踏みつけられる。
☆ 信者によります。踏み絵などの偶像はすべて 屁の河童です。
ただし 人によっては たとえば自分の親が侮辱されるのを放っておかないという場合もあります。それと同じように 踏み絵のイエス像(マリア像?)も あたかも自分の父や母と同じものと思う人も 中にはいて そのうえに足を載せることをいさぎよしとしない場合もありましょう。
つまり いろいろです。そして どう選択しても 自由です。
★( i ) 「異星人」はいても「神」はいない。
☆ 《いない》とどうして断言できるのですか? 個人としての信仰においては――組織宗教は知りませんが―― 《いる》と断定することはありません。なぜなら――《沈黙》すなわち《デウス・アブスコントゥス(隠れたる神)》というように―― 神は《いる(有る)》と言っても《いない(無い)》と言っても どちらも同じことだからです。
ぎゃくに言いかえるなら もし人間にその有無が分かっていたなら その存在は ほんとうの神ではありません。有るにしろ無いにしろ分かっていたなら それは《十字架》といった仮りの像かそれとも《かみ》という観念の神かだからです。見た目に有る無しが分かるか 心の目で有るとか無いとか言って行くかたちで扱うか そういうものでしかないからです。
ほんとうの神が 人間に分かるわけがありません。
神はいるとも いないとも 断言できるものではありません。
組織宗教が 神はいると言い続けているので あなたは いないと言いたいというのであれば それは組織宗教とまったく同じ次元で 神の間違った概念をただいじくりまわしているだけになります。
信仰とその神は まるでそれとは違います。
★( j ) 「哲学を追究すると宗教に到達する」と考えているが
☆ 宗教は・つまり組織宗教は 個人の信仰にとって その信教の自由を――組織の命令のもとに置くかたちにしているとすれば――侵すという意味で 信仰じたいの自殺行為です。
そのように宗教を批判するのが 哲学の役目です。
No.2
- 回答日時:
宗教の機能はひとつではない。
あなたの例えを使って例えるならば、手の機能にオナニは含まれるが、それをもって手を卑しいものと断定するのは早合点に過ぎないのと同じ。※ 回答畏れ入ります-で、主題たる「神の存在は?」
・手をいやしい ⇒ 神は卑しい などとは一言も言っていませぬ。
・ただ、自分より数段高レベルの人々が神に一生を捧げて悔いないのには
きっと何らかの理由があるのではあろうが「自分とは別世界」
とは言いたい。
・「なんとか教」の様に、ドンツクドンツクと太鼓を叩き念仏を唱えて
恍惚とする人間にはなりたくはなし。

No.1
- 回答日時:
ま、とりあえず
>「この広い々宇宙に生命体は地球のみ」なんて事はあり得べくもない。
↑根拠は直観てやつですかね。つまり脳みそが元々有する「狭い=少ない < 広い=多い」なんていう単純な衝動に従ったわけなんでしょうか?
そんなことないんですよ。
哲学のすごいところは、論理を積み上げることで反直観的な答にすら到達できることです。自意識を有する知的生命体は、おそらく私たちだけだろう、というのが哲学の答ですけど?
(「何故?」と思えるなら、哲学への扉は開かれています)
そんなわけで
>「哲学を追究すると宗教に到達する」と考えているが、
意味不明の事実誤認かと思います。
哲学は二百年以上も前から、「『神』は人間の経験に由来する観念的な想像の産物にすぎない」なんてことを言っていますし、
多様性→自然淘汰→適応
という進化論の原理は、生物学を超えて、今や「どのような物理法則の宇宙でも」通用する理論として、哲学にとってはなくてはならない道具の一つです。
どうやら哲学を大いに誤解していらっしゃるようで。
まぁ無理もないけれど。
※ う~ん!! 「こういった書き込みはふさわしくない」とかなんとかで
投稿 ⇒ 直ちに削除 と思っていたら結構ふところが広いネ!!
は、こっちい措いといて~
(1) 上から「そんなわけで」まで(特に、自意識 / 知的生命体 云々)
自分は180度「哲学の答でけど」とは別の世界に住んでいる事を確認。
(2) その下、「『神』は人間の経験に由来する観念的な想像の産物にすぎない」
「神は存在しない」の点で共通意見と確認。
(3) 進化論は科学であり、哲学は「屁理屈のこねまわし」に過ぎない。
進化論はきっと「哲学の道具にされたくない」と言っているだろう。
(4) 誤解も何もそれ以前のレベルなのであります。
=結論 - 回答有難う=
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