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W.H.オーデンの詩ですが、どのように解釈したらよいのでしょうか?
(学校の課題などではありません。が、気になります。)要するに、簡単に(勝手に)人の領域に入ってくるな、もしもそのようなことをしたら相当な失礼にあたる。ということでしょうか??詩の理解力がまるでなく参考までにご意見をお聞かせ下さい。以下詩を掲載します。↓ ↓ ↓


私の鼻先三十インチに

私の人格の前哨線がある。

その間の未耕の空間は

私の内庭、直轄領

枕を共にする人と交わす

親しい眼差しで迎えない限り

異邦人よ、無断でそこを横切れば

銃はなくとも唾を吐きかけることもできるのだ。

A 回答 (4件)

これは1965年オーデンの詩集"About this House"に収められた


"Prologue: The Birth of Architecture"全文です。

特にこの部分は、詩集から離れて個人の心理的領域を述べたものとして、よく引用される箇所ですね。

まず詩集タイトルの"house"なんですが、これは、個人の自我と解釈するのが一般的です。

家を建てるということは、自我を拡大させていくことであり、それによって、ここからここまでは自分が支配する領域である、と内外に宣言することでもある。家はそうしたことのメタファーとして使われているのです。

家を建てることは、自我を築き上げること。
家を建てることは同時に、外界を隔て、その内側に籠もるということでもある。

そうした家についての詩集の冒頭にこの部分がくるわけです。

最初の行の"some thirty inches"、これは社会心理学的に基づく数値です。
いわゆるパーソナル・ディスタンス、個人的距離と呼ばれるもので、一般に、人間が知覚する「個人的領域」のギリギリの範囲は18インチなんだとか。
これを越えて他者が踏み込んできた時、相手の体温を感じ、吐く息を感じるために、人は圧迫感を覚えて、自分の領域が脅かされるように感じるのだそうです。
30インチ、すなわち75cmという距離は、人の腕の長さであり、抱きしめることもできれば、押しのけることもできる。親密な関係性を築ける距離なんです。

>人格の前哨線

はそういうことです。自我意識の一番外側の線、とでも言ったらいいでしょうか。

>その間の未耕の空間は
 私の内庭、直轄領

は、自分のこころの内なる領域と解釈していけばよいと思います。

>枕を共にする人と交わす
 親しい眼差しで迎えない限り

ここの原文は

Stranger, unless with bedroom eyes
I beckon you to fraternize,

となっています。

この詩集には、各部屋の描写がふんだんに表れます。
たとえば"The Cave of Making"では、書斎の様子、机の上のオリベッティタイプライターや辞書が登場する。
"Thanksgiving For Habitat"では、内側に鍵を掛けて、個人が籠もる場としてのバス・ルームがでてきます。
各部屋で行われる活動は、人間の内面のさまざまな領域での精神活動のアナロジーなんですね。

では、ベッドルームは何のアナロジーか。
オーデンはベッドルームのことをほかの所で"the cave of nakedness"と呼んでいる。
人はベッドルームでは、裸の自分自身と向き合うのです。ベッドルームの鏡に映し出された自分、虚飾をはぎ取った自分の姿に向き合う場所として、ベッドルームは位置づけられているのです。
さまざまな精神活動を行っている心の中でももっともコアな領域としてある。

だから個人的にはこの日本語訳はちょっと……と思っているんですが、つまりは、裸の、無防備で、虚飾をはぎ取った自分が迎え入れようとしない限りの人は(入ってきてもらってはこまる)と言っているわけですね。

そうやって読んでいくと、最終行も理解できるのではないかと思います。

オーデンはイギリスに生まれ、後アメリカの市民権を取った詩人ですが、激動の時代をその前線で生きた、と言えると思います。二十代の後半をナチスが台頭するドイツで過ごし、トーマス・マンの娘、エリカ・マンと結婚して彼女がイギリス国籍を取得し国外に出るのを助けています。またスペイン内戦にも共和政府側の一員として参戦しました(野戦病院の救急車の運転手をしていたとか)。1939年からアメリカに移住するのですが、この時期から自らの内にあった宗教性にふたたび自覚的になっていきます。

これはオーデンでも後期の作品で、中期の詩が、#3さんがおっしゃっておられるような政治的意図がこめられたものが多いのに対し(中でも"September,1,1939"は、その予見性含めて"9.11"以降、ずいぶん取り上げられていました)、むしろこの詩集は個人の内面に深く入っていったものととらえたほうがよいと思います。

先にも書きましたが、特にこの部分は、オーデンの作品全体から切り離されて、個人の自我防衛意識を説明するものとしてよく引用されているようです。
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この回答へのお礼

ghostbuster様、お返事が遅くなり申し訳ございませんでした。とっても詳しい解説に助かりました。
まず、About this Houseの"house"が、個人の自我と解釈するということを知りませんでした。
同時に家を建てるということが、自我を拡大させていくこと・・・ということからオーデンの詩が個人の自我について引用されるということもよく解りました。
この詩なんですが、
>30インチ、すなわち75cmという距離は、人の腕の長さであり、抱きしめることもできれば、押しのけることもできる。親密な関係性を築ける距離なんです。

この数字についてもちゃんとした根拠があるんですね。

詩って漠然と読むのと、その作者の時代背景などを詳しく調べてみて読むのとでは違うんでしょうね。
まったく頭が下がりますm(_ _)m

お礼日時:2003/11/24 11:18

W.H.オーデンが生きた時代を背景に詠った詩だと思うので


何かを暗示しているのかも知れませんが、文字通り理解すれば下記のようになります。

これは人間の尊厳、品性、自由、安全を守るために人間一人一人が持っている占有空間を歌ったものでしょう。
動物も彼等なりの占有空間(距離)を持ち、それを越えて近づけば、警戒音を発したり、退散したりします。

人間も同じように他人と一定の距離を保つ本能があり(人間も動物です)その距離が破られると不快感を表し(視線を上げる、咳払い、身をよじる、下がって距離を保つ)相手に警告を発します。この占有空間は民族、個人によって差があるわけですが、日本人の距離は英国人などより近い
(狭い)といわれます。これは人が密集する場面で表れます。エレベータなどで日本人は一般にスペースがあっても
出口近くに立とうとして他人に平気で近づきます。英語国民は奥にスペースがあれば離れて立とうとします。又身体に触れた場合、彼らはすぐ謝りますが、日本人は故意でなければ特に気にしません。

握手の仕方にも差が現れます。正しい握手の仕方は相手に歩み寄って強く手を握り、さっと元の位置に戻ることです。日本人は軽く握手して相手に密着したままで意に介しません(要人は写真撮影のためよくこのスタイルを取りますが、あれは特別なケース)

ということで私の品性と安全を守るためにあるこの占有空間を破って近づけるのは、私が気を許した人間(家族、恋人、親友など)だけだと主張しているのだと解釈します。
(たぶん国家間、民族間の尊厳、自由、安全を示唆しているのだと思います)
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この回答へのお礼

martinbuho様 お返事が遅くなり申し訳ございません。
今回、ほんとうに詳しく丁寧な回答をいただき感謝しております。

>人間も同じように他人と一定の距離を保つ本能があり(人間も動物です)その距離が破られると不快感を表し(視線を上げる、咳払い、身をよじる、下がって距離を保つ)相手に警告を発します。

つまり30インチがこの詩の中で言われている一定の距離なんですね。この距離は確かに日本人のばあいは短いと思います。
握手の仕方にも差が現れるというのもおっしゃるとおりですね。
今回大変勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2003/11/24 11:26

タイトルがわからないので、解釈はいろいろ成り立つかと思いますが、とりあえず。




「私の鼻先三十インチに私の人格の前哨線がある。その間の未耕の空間は私の内庭、直轄領」

まずこの前半の四行までにおいて、
「私」の顔の前に約60センチはなれた空間があり、その向こうには他の誰かがいますね。その間の空間は、どちらにも占領されてはいないが、私のテリトリーであり、そこが「私」の「人格」を左右する場所であるということがわかります。そして「前哨」という言葉からは、そこに緊張感があることもわかります。


「枕を共にする人と交わす親しい眼差しで迎えない限り異邦人よ、無断でそこを横切れば銃はなくとも唾を吐きかけることもできるのだ。」

そして後半では、その空間の向こうにいる人について言及されています。「枕を共にする人」とは、普通ならば、「親しい眼差し」を向ける恋人のような存在であると言えます。しかし、まだそうした関係になっていないので、「異邦人」=まだ私の知らない人となるのでしょう。
まだ知った関係ではない異性と、西欧のダブルサイズのベッドで寝ている男、という状況が浮かんできます。まだ関係していないので、この二人の間の空間が緊張感を生み出しますが、こちらにちょっとで転んでこようものなら「私」の人格は豹変し、前哨にて携えているべき「銃」はないものの、口でなんとかできる、ということでしょうか。

これが第一印象でした。


第二の解釈として、
「枕」にやってくる者を考えた場合、西欧の伝統から、死神というものも考えられます。息をひきとる際に、死神がやってきて口づけにより生を終えるという民間伝承があります。つまり、やさしく迎えてくれなければ、唾を吐きかけるぐらいの抵抗はするよ、ということも考えられます。

あくまでも私の解釈でして、これを本当に戦争の前線でのこと、と解することもできるかもしれません。
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この回答へのお礼

arspoetica様 お返事が遅くなりすみません。

まず、arspoetica様の解釈で、

>「枕」にやってくる者を考えた場合、西欧の伝統から、死神というものも考えられます。息をひきとる際に、死神がやってきて口づけにより生を終えるという民間伝承があります。つまり、やさしく迎えてくれなければ、唾を吐きかけるぐらいの抵抗はするよ、ということも考えられます。

・・・という箇所、これは全く気がつきませんでした。
日本では死神のイメージを持たないので、連想することすらしませんでしたが、西欧では伝統なんですね。
 つまり、第二の解釈として「死神」も考えられるということ。参考になりました。

お礼日時:2003/11/24 11:30

>簡単に(勝手に)人の領域に入ってくるな、


に1票! ただし

>そのようなことをしたら相当な失礼にあたる
でなくて「警戒が付き物だ」かな?なんて思っちゃいました。

この回答への補足

誤字訂正:本当に”於く”が深い!
正しくは「奥」

補足日時:2003/11/24 11:33
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この回答へのお礼

tanakacchi様 お礼が遅くなりすみませんでした。
今回は皆様の協力のおかげで「詩」の奥深さを知ることが出来ました。
本当に於くが深い!

お礼日時:2003/11/24 11:32

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