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最近あるセミナーに行ったら、株式の資金出資者を集う年配の人達につかまり、「これも何かの縁だし、一口出資してみませんか?」なんていう話を持ちかけられました。
話を聞いていると、この人達は会う人会う人みんなに縁という言葉を使っている様です。
自分に都合のいい時だけ使って、嫌いな人にも使うのかなぁ~と内心思いながら、適当に話を聞きました。

そもそも縁とは何でしょうか。
日本特有なものでしょうか。
年寄りや人生経験豊富な人は良く使う気がします。

自分としては、
もし、神がいるなら、神が全て巡り合わせを操作しているとも思う一方、
すべてのことは必然的で、本来は計算で予測できるものだけど、人の能力が追いついていないから縁という言葉を利用してるだけとも思えます。

どう思われますか?

A 回答 (7件)

因とそれを助長する縁があって果が生じる、という見方ですが


やや平面的な解釈に終始してしまう場合が一般的のように思われます。
>もし、神がいるなら、神が全て巡り合わせを操作しているとも思う・・・
仰られていることも、失礼ながらそうした平面的、外面的な解釈の一つのように思われます。
答えにはならないかもしれませんが、別な解釈のヒントをお話させていただきます。

植物を例にとってみます。
コブシという木がありますが
私は昔、その根を掘りだして切った事があります。
その時、気付いたのですが、その白い根を切ると特有の臭いがありました。
少し嫌な臭いでしたが、不思議に思ったのは
その根の白さや臭いが、コブシというこの木には相応しい感じがした事でした。
さらに気が付いたのは、花の白さや、幹や枝の色あいや、枝の伸びてゆく状態の全てが
この木全体に調和がとれているといった、一つのまとまりが感じられた事です。
つまり、一つの生命体としての総合的な調和が自然と結実している、という事でした。

こうした植物全般に見られる、それぞれが持つ特質の調和は一体どこから来るのでしょうか。
松には松の枝があり、松の葉があり、松の実があります。
梅には梅らしい枝振りがあり、梅らしい花が咲きます。
ごくごく当たり前のことです。
でも、その当たり前の事が不思議なのです。
地球に植物が誕生してから何億年も経つのでしょうが
その進化の頂点としての生命体の今の姿が不思議なのです。
環境に適応して進化してきたとはいえ、その全体の調和性や、そこから受ける統一感というものには生命の不思議さが現れているようにも思われます。
人間も同じなのでしょう。
自分という人間も、同じく進化の頂点としての生命体です。
そこにも、人それぞれに様々な特徴や性質といったものがあります。
これらも何億年もの進化の結果なのでしょう。
見方を変えれば、やはり何億年もの「縁」の作用がそこにはあるのかもしれません。
神様はその「縁」の全てを扱ってきたのでしょうか?
私にはどうも「無尽の縁起」という言葉の方が自然な感じがします。
偶然とか必然とかいう解釈も人間が勝手につけたもののように思います。

結論からいえば、生命現象の変化における「縁」という作用はその大部分が未解明のままだという事です。
人が傷を負っても、細胞が復活して直ってしまう、という事ですら
何故そうなのかという事も分からないのです。
何かが働いている事は確かだけれども分からないのです。
私達に分かっているのは、物理的な相互作用の一部だけではないでしょうか。
神の領域に任せてしまう事は簡単ですが、それだけでは物足りない感じもします。
「縁」の不思議さが、自分の体の中にもあるという直接的な事が・・・

・・・さて
後の解釈はご自由になさってください。
自由でいいのではないでしょうか。
それでは失礼いたします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

自分自身も周りのとの調和の元にここに至っている。
とても壮大な思いになりました。
神のものか否か関係なく。

自分は、植物の話のように、人に対し相応しさをあまり感じることがありませんが、
それを感じられるようになった時が、自分にとって縁を感じる事になるかも知れません。

お礼日時:2011/11/06 23:29

近代科学においても、あらゆる現象は必ずその原因があっての結果なのだ、と考えられていた時期がありました。

現在ではそれは否定されています(あらゆる現象には必然的なこと(予測できる)と偶然の結果の2種類がある)が、おっしゃるとおり、たとえばAさんとBさんとの出会いひとつとっても、その原因が過去のおたがいの振る舞いとそれらに関する無数の時系列的物理現象の結果としてそれが実現したのだと考えられ、”その出会いは本来予想できたことだ”とされたわけです。
仏教では物事を成り立たせるための原因(因)、とそれをたすけて結果を結ばせる力「縁」によってものごとが生起するとあります。この場合はAさんとBさんの存在が因であり、お互いを結びつける力が縁なのでしょう。
もちろんその予想は多くの場合人間の能力ではできないことですが、その文脈において、「何かの縁」を考えてみますと、AさんとBさんの出会いは、そこに至る様々な動きには何者かがそうしむけた面があるかもしれない、AさんBさんのそれぞれのふるまいを恣意的に操作できる何者かとは、もちろん大変な力を持った大いなる存在であり、ただものではないわけですから、それは、多分、非常に意味のあることであり、それを前向きに活かすことでその何者かの意思に報いることができる、彼らに間違いがあろうはずはない、そうしなければならないと考えたわけですね。

しかし、一方では縁にも良縁と悪縁があって、それを生かすのは本人次第とも言います。勝手なものです。
現在の科学では完全否定された宗教的思考方式であると言わざるを得ないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

わかりやすかったです。
偶然も必然も有り得ると覚えておきます。
純粋な人なら縁には良縁しか無いと思っていそうですね。

お礼日時:2011/11/06 23:54

縁という言葉は非常にいい加減に用いられていますね。


それは縁そのものがいい加減なのではなく、いい加減に、そしてそれが当然の如く扱っている輩が悪いのです。

縁は神が与えるものではなく、自らが作り出すものです。
因果という言葉がありますが、生まれることによって死がある。これが唯一絶対の因果です。

袖摺りあうも他生の縁・・確かにこの世の物事に触れる事は全て縁ですが、だから関わりを持たねばならぬことではありません。
そこで取捨選択する事が自分の権利であり、それが原因となって結果を生じる、その結果が次の原因となる。これが因果というものです。

縁をどう活かすか、縁を軽んじるのか、縁というものを真剣に見つめるのか、それが私達に与えられた課題でもあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

因果、または唯一絶対の因果がどういうものかがよくわかりました。
私の場合では、投資話しをそのまま受け入れればそれが因となり、嫌な思いをこの先ずっと残す、これが果ということでしょうかね。

お礼日時:2011/11/06 23:38

全ては結果論です。


たとえばサイコロで1が出る確率は1/6で、
1が出ると「ラッキー」と思うかも知れませんが、
しょせんどの目も1/6の同じ確率なのです。
現象的に、「確率」がそのまま現れる事はなく、
どのような小さな確率も必ず100%の実体として
現れるので、全て奇跡であり、運であり、縁なの
です。

「能力が追いついていないゆえの確率性」という
より、存在の本質が不確定性原理に基づいており、
階層現象(量子>クォーク>素粒子>原子>分子
>細胞>個体)的な存在を、表面的かつ経験的に
捉える時に、有限的な存在性が生じるのです。

そうした偶然と必然の接点は、「自己の認識成立の
ための必要(人間原理)」です。
最新の量子論的世界像において、有限な存在性は
観測される事 によって生じています。
自我仮説に対する相補的な時空仮説における、
相殺点(無への還元)こそが存在だと言えます。
疑問として派生した世界における、「本当は無いんだ
けどね」という、無の射影(ミンコフスキー空間における
ライトコーン=界面原点 =無の相対化)、ていう。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的
根源にまで遡った)補完なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なるほど、結果論という考え方ですね。

>偶然と必然の接点は、「自己の認識成立の
ための必要(人間原理)

参考になりました。

お礼日時:2011/11/07 00:01

縁というものは確かにありますが、質問者さんの仰るような大仰なものではないかもしれません。


人との出会いを縁と感じているのは人の心です。そして、出合った全ての人に対して縁を感じる訳ではありませんよね?
結局、その時その時の出会いを特別なものにしよう、特別なものにしたい、という心理の現われが"縁"という言葉に集約されているのだと思います。

例えば、"あぁ、良い人と出会えてよかった。これが縁というものなのだな。"と思ったとします。しかし実はその人の潜在意識なり何なりが、現在必要としている人を無意識に探し当てただけなのではないかと思います。
必要な人を探し当てる能力がある種の技術なのであれば、人生経験豊富な人の方がその技術に長けており、縁という言葉をより多く使うでしょう。
また、この技術なり能力なりを本人が自覚せずに使っているとすると、縁が生じる事を不思議なものと感じ、『神様が巡り合せてくれた』と思うかもしれません。

と、夢の無い話ですがこういう考え方も出来るかな、と思いました。
寝起き+下手な文章表現で分かり難いかもしれませんが、一つの考えとしてご参考下さい。
因みに私は普段はどちらかというと運命論者的な考え方をします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに自分でも、初対面でも好意を持った人には縁を感じることがありました。
また付き合いが長くなるにつれ縁を感じるようになります。
逆に、今回の勧誘のおばちゃんには全く縁を感じませんでしたね。


>例えば、"あぁ、良い人と出会えてよかった。これが縁というものなのだな。"と思ったとします。しかし実はその人の潜在意識なり何なりが、現在必要としている人を無意識に探し当てただけなのではないかと思います。
必要な人を探し当てる能力がある種の技術なのであれば、人生経験豊富な人の方がその技術に長けており、縁という言葉をより多く使うでしょう。
また、この技術なり能力なりを本人が自覚せずに使っているとすると、縁が生じる事を不思議なものと感じ、『神様が巡り合せてくれた』と思うかもしれません。

そう言えば、老年の会社社長と縁について話すことが昔あったのですが、その社長に当てはまるとふと思いました。

お礼日時:2011/11/06 22:38

人間は完璧な人など一人もいのだし、縁というのは、自分に足りていないものを補いあい、また欲望とは違う意味があるのではないでしょうか。



あなた自身も両親の縁によって誕生され、縁によって友達、先生、……と繋がって今がある。

人は縁によって出会い、また滅びるという、永遠に続く変わらないものだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

永遠に続くと考えると、大切なモノだと感じさせられますね。
来世も両親と一緒にいたいと思う人も、二度と一緒になりたくないと願う人も、切っても切れないものなのかもしれませんね。
縁とは自分と周りの人含めチームみたいなものでしょうかね。

お礼日時:2011/11/06 22:28

縁というのはもともとは仏教用語のようです。


なので仏教圏であれば日本以外にもあるかもしれませんね。

縁にはいいものも悪いものもあり、「何かの縁だから」という使い方は間違ってはいません。
「袖ふり合うも他生の縁」という言葉があり、すれ違った人と袖が触れ合ったのも前世からの因縁であるといったような意味ですね。
「何かの縁だから」=ここで出会ったのも前世で何か関係があったからなんだろうと思って
という事になります。
別に、良い縁だったとは限りませんが(笑)

仏教的には輪廻転生を前提とした言葉であるということになります。
前世の記憶は失われても感情だけは残り、それが縁であるということだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

縁にも良いものと悪いものがあるんですね。
悪い縁なら触れない方がいいのかなw
でもその前に、良し悪しの判断が出来ないですね。

お礼日時:2011/11/06 22:20

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