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 (1) わび・さびとは何か? これを知ることもさることながら どうしてそれらが 美として起こるようになったか? これが知りたい。

 (2) ことばとそれを使う生活態度に着目して考えたい。

 (3) まづ辞典の定義を見てみる。語義の歴史的な推移に沿って何となくその美意識への変化をたどる様子が分かるようにも思われる。

 ○ さび【荒び・寂び】 ~~~~
  ・原義:生気・活気が衰え 元の力や姿が傷つき いたみ 失われるの意。

   1. 荒れる。荒涼たるさまになる。殺風景になる。
     ・ささなみの国つみ神の心(うら)サビて荒れたる都
     見れば悲しも(万葉集33)
   2. ふるくなる。ふるびてゆく。
   3. 心が荒涼となる。心にさびしく思う。
   4.【錆び】 金属などが錆びる。
   5.色などがあせる。
   6. 古びて趣がある。
   7. 修練を重ねて 俗気がなく清らかな精神になる。
   8.〔歌論用語〕 物さびれた境地である。

 ○ わび【侘び・詫び】 ~~~~~
  ・原義:失意・失望・困惑の情を態度・動作にあらわす意。

   1. 気落ちした様子を外に示す。落胆した様子を見せる。
     ・吾無しと なワビ わが背子 ほととぎす鳴かむ五月は
    玉を貫かさね(万葉集3997)
      (私がいないからとて侘びしく思われるな わが友よ。
    ほととぎすが来鳴く五月には 花橘を玉として緒に通して
    ください。――中西進訳)
   2. 困りきった気持ちを示す。
   3. 淋しく心細い様子をする。たよりながる。
   4. つらがって嘆く。
   5. 不如意な生活をする。貧しく暮らす。
   6. 世俗を遠ざかって淋しく貧しい暮らしに安んずる。閑寂を楽しむ。
   7. 困惑のさまを示して 赦しを乞う。あやまる。
   8.(動詞連用形について)・・・する気力を失う。・・・する力が抜ける。

   (以上 大野晋:古語辞典 1990補訂版)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (4) さらに焦点としてここで知りたいことは  ワビの語義の《6. 世俗を遠ざかって淋しく貧しい暮らしに安んずる。閑寂を楽しむ》や サビの語義の《6. 古びて趣がある。 / 7. 修練を重ねて 俗気がなく清らかな精神になる。》というとき それは 誰がそのように考えたのか?
 つまり《心がさびしく荒涼となり /  不如意な生活を重ねたのち 世俗を遠ざかって貧しく暮らし やがて閑寂をたのしむようになる》というその人びとは なぜ そうしたのか? なぜそうなったのか? である。

 (5) 《生気や活気が失われ 気落ちする》なら それは 一般的に見られるような生活の状態や情況が 剥げ落ちて行くことを意味すると思われるが だとしたら それは言わば《生活現象についてうわべのものごとを削ぎ落とし 言ってみれば本質を見ようとする》という意味で 現象学的還元であり エポケーであると考えられる。
 誰が この思索をこころみたのか? どのようにそのワビ・サビの思想(白紙に還元されたような生活態度)を編み出したのか?

 (6) どこの誰だれだと言って特定しないとしても それは社会人として出発したあと どのような事情や経過をたどって そういう境遇になったのか? 質問者の関心は そのような人は 社会からエポケーされた・つまり除け者とされてしまったのではないか? というところにある。

 (7) そしてこう問います。現代においても ワビ・サビの達人は 人知れず わんさといるのではないか? 人間社会は それでよいのか? 哲学は これに どう答えるか? わび・さびは 今でも うつくしいか?

A 回答 (37件中11~20件)

こんばんは、



門外漢のトンチンカンですみませんが、思うところを述べさせていただきます。


(わび)
「なんで、この良さが判らないんだ!」的な、ある意味、独り善がり

(さび)
「・・・「ふるい(古い・旧い)「感(?)」」ということ」


・・・とすれば、海外へ行って「わび・さび」を感じることがあっても不思議ではないと思います。
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この回答へのお礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 たしかにおっしゃるようであるかも知れません。

 ★ (さび) / 「・・・「ふるい(古い・旧い)「感(?)」」ということ」
 ☆ さびれた状態・ふるびた状態で趣がある。でしょうね。

 ★ (わび) / 「なんで、この良さが判らないんだ!」的な、ある意味、独り善がり
 ☆ これは少し分かりにくいですが でも孤立感を表わしているかと思われます。
 《独り善がり》気味になってしまい勝ちなのですが 自信もある。《「なんで、この良さが判らないんだ!」》と。そして 貧困の中からも よさ・うつくしさを持つ風景を見い出したり 道具や何らかの作品までを作り出した。
 
 たしかにこういった基礎の上に ワビサビが広く一般にも迎え入れられて行ったのでしょう。

 ★ ・・・とすれば、海外へ行って「わび・さび」を感じることがあっても不思議ではないと思います。
 ☆ まづ《寂び》は 同じようにどこにもあるでしょうね。
 《侘び》は どうか? 簡素で質素な生活を送る中にそれに見合った美を見いだす・作り出すということは あり得ましょうか? ただしそれを 日本のように様式として完成させることはなかった。かもですね。いえ 知って言っているわけではありません 残念ながら。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/14 00:34

こんばんは。



bragelonneさんは、全てお分かりのようなので、私のような者が答えてもどうしようもないのですが。少しだけ考えてみました。
「もののあわれ」=諸行無常における美とは、「他人を生かすことにより、自分を生かすことでないのか」ということです。万物は変化しています。空間を物とし、時間を変化と考えると、自分も含め全てのもの宇宙まで変化しています。そして、諸行無常感を身に付けた物は、万物に生命の本質を見出します。

千利休の死は、家康の心に強烈な恐怖を与えたのではないかと。「死せる孔明生ける仲達を走らす」みたいなことではないのかと。
日本は、将棋(とった駒は使える)と言う考えの国です。死は、誰にでも許されるものではなく、切腹とは武士にとって名誉なことでした。
家康は、大奥を造り、御三家を造りました、それ程深く、子孫の繁栄に執着したのです。

世俗から離れた者は、日本ではエントロピーを小さくし彼らが新たな時代を造るのではないかという考えだと思います。
すでに、日本のオタク、引きこもり、漫画、アニメ、アイドル、寿司、温泉文化等が外国の若者に支持されてしまっていす。彼らは、「生かされエントロピーを小さくした次の世代の者」また、そうならなくても、次の世代が。すでに、世界は、日本の美「空間の変化」に飲み込まれているのではないのでしょうか。
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この回答へのお礼

 そうですね。ご見解について反応してまいります。
 
 てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「もののあわれ」=諸行無常における美とは、「他人を生かすことにより、自分を生かすことでないのか」ということです。
 ☆ いえ 前半の
 ★ 「もののあわれ」=諸行無常における美
 ☆ は 厳密には 思想の筋が違うはずです。

 ○ 《もののあはれを知る》のは よそから来た儒教や仏教をいちおう排除するわけですから 諸行無常の考えを取り扱わない。
 ☆ と考えます。ただし 《あはれ》には 無常感と同じような情感がともなうということかも知れません。

 ★ 「他人を生かすことにより、自分を生かすことでないのか」ということです。・・・諸行無常感を身に付けた物は、万物に生命の本質を見出します。
 ☆ という積極的な美の感覚を ここでは確かに問い求めて来ています。
 わざと難を言えば 
 ★ 他人を生かすことにより、自分を生かすこと
 ☆ というのは そのように規定することは出来ますが その規定をしているのは 《わたし》です。そのわたしは 果たしてそのとき何を望んでいるか? 何をたくらんでいるか?

 それは 《自分を生かすこと》あるいは自分が社会にあって自由だということ だと思われます。その意味で 人間は かなしいかな 自己中心的に生きています。
 その自覚と言いますか その《自己》についても無常だと見極めることが 大事でしょうし しかもその無常観は その観念じたいも 無常であり移ろいゆくものだと見なければならない。こういう事情だと考えます。
 その上で やっと少しは 人は相身互いであるという《もののあはれを知る》境地に到るのではないか? とは考えます。


 ★ 千利休の死は、家康の心に強烈な恐怖を与えたのではないかと。「死せる孔明生ける仲達を走らす」みたいなことではないのかと。
 ☆ まだ利休や家康について勉強しようという気が起こりません。あしからず。つまり よく分かりません。


 ★ ~~~~
 すでに、日本のオタク、引きこもり、漫画、アニメ、アイドル、寿司、温泉文化等が外国の若者に支持されてしまっています。彼らは、「生かされエントロピーを小さくした次の世代の者」また、そうならなくても、次の世代が。すでに、世界は、日本の美「空間の変化」に飲み込まれているのではないのでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ そうなんですか。それは おもしろいですね。そこには負の側面もなきにしもあらずだと思いますが これをも積極的にどんでん返しすることは あり得ると思います。次のような質問をしたことがあります。
 【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6191141.html

 負の側面つまりネガをポジにしていけばよろしいでしょう。

お礼日時:2011/11/13 22:30

自給率100%


未熟さは人の子の自然で、それを補うために社会や国があるのだから、大人やさらに社会や国ならますます自給率100%以下の未熟なものであってはならない
貿易依存は戦争依存で、買い物依存は暮らしの技術の未熟さや自己価値感の不足からくる不安のせいで

石油
ガソリンや石油が必要な日本なら胡散臭くても水燃料なんかを本気で研究するか、あるいは武田邦彦さんが言うように石油の残量がほぼ無尽蔵なら、石油企業や油田の所有者は石油を高額で売ることに依存せず、余剰としての石油をうんと安く融通したら素敵なのに


熟女のわびさび
非自然は心身や社会における病いで、自然がそこから治るはたらきなら、権力者ももっと自然に浸かって治れればよく
美はみつめて摂取したいもの、力が欲しいのは非力だからで、私がしかばねを好むのは熟女好きだからというか婆専なのでというかわびさびへのエロス、という非モテの悲しみ


共感が仲間意識なら、美=共感ということは自分=美であり、自分を摂取させたいという自惚れやお節介のような母性あいですか

人の寿命が延び、力が尽きかけているお年寄りがよく生きていて、とにかく生きていくのに必要なもの(美)はちから
若人にとりちからは前提であり目的ではなく、むしろちからの整いが美。制御、抑制、自制心、修身
最も美しい時期に死ねばほろ美
自然に湧いて巡ったり自然や健やかな意識に整えられる力が美であって、整いから外れたちからは美ではなく捨てるか、他に与え
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この回答へのお礼

 ★ 貿易依存は戦争依存で、買い物依存は暮らしの技術の未熟さや自己価値感の不足からくる不安のせいで
 ☆ ちょっと舌足らずではないかと思います。(いえ 分かって言っているのではなく よく分かりませんという意味です)。


 ★ 余剰としての石油をうんと安く融通したら素敵なのに
 ☆ そうなんですか? いまのところその点 無知です。 


 ★ 共感
 ☆ というのは だいたい心理的なうわべの感情の共通性を言います。浮動性のものです。《同感》というのは 根拠にもとづく同意です。


 ★ 自然に湧いて巡ったり自然や健やかな意識に整えられる力が美であって、整いから外れたちからは美ではなく捨てるか、他に与え
 ☆ これは 次の課題とかさなると考えます。
 ☆☆(No.22お礼欄) ~~~~
  ( n ) あともう一つ 《ゲルニカ》のように一般には醜悪と見られてしまう作品が 美として提出されるその現象について どう考えるか?
 これは 心の傾きとしての・つまりはうわべの心理としての反応にしか過ぎない。と言い切っておいてよいか?
 心が(つまりは 厳密には 心理が)ムカツクというときに 醜悪なスキャンダラスな内容の作品を見て そのまま反応することはあり得る。こういった生活の中のひとつの側面の問題だと言っておいてよいものかどうか。――課題です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《整いから外れたちから》を《醜悪》に当ててみましたが どうでしょう?
 言いかえると それでも人はさまざまであって 一時的にはこの醜悪や無秩序なるさまを 心理的に欲しがることもあるということのように考えます。
 しかも ところが 二十世紀になってからでしょうか 現代人は この《一時的なゲテモノ食い》が 一部においては 慢性的な姿になったかに見えます。悪貨なるガリ勉資本主義が 良貨なる勤勉にしてふつうの資本志向を駆逐して 美の感受においてもこのゲテモノ志向が 自然ないし人間自然にもとづく美学をぐいぐいと引っ張って行っている感じになっています。

 ガリ勉資本主義は 交換価値なる貨幣など象徴ないし普遍記号によってのみ――その意味でアマテラス象徴語によって満たしたあたまでその思惟を繰り広げ 資本の力にものを言わせ―― 市場経済に台風を起こし 勤勉なる資本志向のスサノヲ人間語を飲み込んでしまっています。商品には わづかに使用価値として スサノヲ人間語の部分もあるというかたちです。
 この情況にあって 気分が晴れずむかつく気がするなら それにあたかも響き合うかたちの美術が求められるという寸法です。閉塞感のただよう内容の文学作品が 売れるという寸法です。

 このような情況に対する一点突破は うつくしいものを示すことです。人間自然としての美を作り出して行きましょう。

お礼日時:2011/11/13 22:07

こんばんは工場労働者です


敗北主義者ではないのに負け組ですから悔しいかぎりで
美は力ってマッチョ思想ですか
琴線に作用する力のこと

鳥居とか
知らない人がラジオかテレビで神社の鳥居や石段をわざと不完全に作るのだと言ってましたから、ほんとかなと思って外で鳥居や石段を見たら確かに継ぎ目がありました
自然美
自然以外に美ってあるんですか
キリスト者にとって敗北からの復活という抗自然の美が壺ですか
有終の美って言葉いちおうありますが
死んだ虫や蛇の脱け殻は綺麗ですよ形が。力の流れすなわち水や光や熱や風をさばききる形の美。生き物の屍は機能美の極みだったもの
心の動きにかなう作文にもそんな機能美が宿ることもあるとうっとり
記述も脱け殻も屍も動きに処する仕事が済み休らかなもの
最も美しかった母は遠くで自然にときめいている時の母じゃなかったですか
最も美しかった姉はそばで微笑む美ではなかったですか


ひよわな利休がうはうはの秀吉に抱いたヒエラルキアな同族嫌悪がわびさびを殊更このんでみせる嫌がらせみたいなパフォーマンスを産んだんですか
同世代や少女から相手されない私が熟女などを好んでみるように

去勢
去勢はひきこもりの専門家齋藤環が書いてた語で人間自然というか人間の社会化で
ひとり部屋で万能感に満ちる青年が社会でようやくたたかれて万能でない自分に気づき、限界と折り合いをつけ心理的に去勢され、より実効性ある努力をこつこつしはじめる契機になるとか

ちから
貧しい人や古代人はとにかく生きるために神に頼ってでもパワーを欲しがりますか
力を求めるのはやり残したことがあるんですか
マリア信仰者ってあのポーラさんですか
ポーラさんに当たって砕ければそれも必要かもしれない去勢と再出発ですか

戦争しかできない国々
戦争しかできない国がありますか
アメリカはもうはじめから戦争しかできない国なんですか
他の国々もそうですか
自給率が100%以下の殆どの国は軍事戦争や経済戦争をして他から資源を奪うしかないですか
インディアンやアボリジニやリビアやアフリカが犠牲になり
自給率100%を超えないと自立した国ではなく、寄生したり強奪したりしますか
地球規模の助け合いが素敵であるには各国自給率100%以上であることが前提で
余剰を融通しあうぐらいで良いのに
でないと戦争しかできない国がますます増え地球規模の奪い合いが終わりません

キブツ半資本主義
嫉妬深いのでキブツみたいなのの平等なところが好きで
出世したいというか安定したいですが
日曜日なのに/なのですることがなく
ありがちで純粋な脱資本主義ではなく『半』資本主義で妥協です
マネーは人や自治体の余剰どうしを融通しあう交換券でしかなく、必需品未満くらいの重要度にまでマネーの価値を去勢すれば、実に地味な暮らしのための努力を人々がしはじめる契機となり
多少貧乏でも恋人や恋人を持つ勇気を持てるような社会や自分を求めます


茶道は茶室に逃げこんだ狂った人々の精神療法ですか
茶を飲むだけのことにわざわざ不自然なルールからみつけて狭い所で同じ顔でガチガチになって頭おかしくなって、思いあまって茶碗のでこぼこなんかにみとれ、殺し合いの中で見失っていた甘い部分、律しきれない自然が生む不完全さへの許しに逃げ、溜め息の吐きさきを見つけたのか

わび・さび
ゆくものを眺める感じ
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この回答へのお礼

 すでに のなめ氏になっていて 何てお呼びすればよいかさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 今回取り上げられている話題については ほとんどよいお応えが出来ないものが多いようです。

 ★ ~~~
 (あ) 美は力ってマッチョ思想ですか
 (い) 琴線に作用する力のこと
 ~~~~~
 ☆ この二つは 互いに別々なものですから (あ)の系統は これまで問い求めて来た美の中身とは違いますよと まづ言っておきたいと思います。(い)を採ります。

 さて
 ★ 茶道は茶室に逃げこんだ狂った人々の精神療法ですか
 ★ ひよわな利休がうはうはの秀吉に抱いたヒエラルキアな同族嫌悪がわびさびを殊更このんでみせる嫌がらせみたいなパフォーマンスを産んだんですか
 ☆ 茶道も利休も くわしくなく 申し訳ないですが お手上げです。
 ちょっと考えたところでは 社交の場をあたらしく作ったということなのかも知れません。残念ながら 分かりません。(いまのところ 調べる気になっていません)。


 ★ 鳥居とか / ほんとかなと思って外で鳥居や石段を見たら確かに継ぎ目がありました
 ☆ これだけでは 話がすすみません。と思うのですが どうでしょう?


 ★ ~~~
 自然美
 自然以外に美ってあるんですか
 ~~~~~
 ☆ ないんですか?


 ★ キリスト者にとって敗北からの復活という抗自然の美が壺ですか
 ☆ これは ひととおりの議論が必要でしょうね。ひとことで済ませられるかどうか そうですね。
 ★ 敗北からの復活
 ☆ ではなく そうではなく 次のようでしょうか。
 ○ 敗北そのものが 勝利であり すでに復活が織り込まれていた。人間は 聖職者も権力者も この十字架上の敗北に勝てなかった。(その意味では 磔という言わば呪われた者になるという手段を採ったにもかかわらず 基本的に言って人間の自然本性にさからうものではなかった。その闇をかえって照らし返すことになった)。


 ★ 万能感に満ちる青年が社会でようやくたたかれて万能でない自分に気づき、限界と折り合いをつけ
 ☆ これは 人間誰もが通る道です。


 ★ 貧しい人や古代人はとにかく生きるために神に頼ってでもパワーを欲しがりますか
 ☆ これは 初めに取り上げた(あ)の思想のようですから だめでしょう。次の捉え方も 同じくですよ。
 ★ マリア信仰者ってあのポーラさんですか / ポーラさんに当たって砕ければそれも必要かもしれない去勢と再出発ですか
 ☆ (い)の思想に観点を変えれば 済むことです。


 ★ 戦争しかできない国がありますか
 ☆ このくだり よく飲み込めません。
 ★ 自給率
 ☆ というのは 国境を前提とした議論ですよね。この前提が近い将来になくなるとは見ていませんが それでも考え方としては そこを柔軟に捉えて新たな議論ないし展望を得ようとしたほうがよいかなと。
 ともかく これぞ うつくしさであるという作品を生み出してください。その美が世界をすくいます。というよく分からない応えでお茶をにごします。

 ★ キブツ半資本主義 / ありがちで純粋な脱資本主義ではなく『半』資本主義で妥協です
 ☆ 論証しませんが 《脱》も《半》も同じぢゃないかな? ガリガリ亡者と同じくらいに資本主義資本主義していると自覚してことに当たるならそれで ちょうどよい湯加減だと思うのだけれど。その立ち位置で あたらしい施策を打ち出して行きましょう。殿(しんがり)にいて 最前線のことを考えその施策を実行して行きましょう。
 冷酷さを身に着けるくらいに分かって ことに対処して行きます。要するに右翼よりも右に左翼よりも左に思索を伸ばし 資本家よりも資本家の思惟の形式を理解してしまいましょう。
 ★ ~~~~
 マネーは人や自治体の余剰どうしを融通しあう交換券でしかなく、
 必需品未満くらいの重要度にまでマネーの価値を去勢すれば、
 実に地味な暮らしのための努力を人々がしはじめる契機となり
 多少貧乏でも恋人や恋人を持つ勇気を持てるような社会や自分を求めます
 ~~~~~~
 ☆ 資本主義の極致をしっかりと理解しそれを前提としてことに当たるのがよいでしょう。もっとも冷酷なマネーゲームの中に身を置き(置いたと想定し) その極端を突き抜けて みづらかの愛をつらぬき通す道を模索しましょう。と考えます。そうすれば 負けても勝ちます。


 ★ わび・さび / ゆくものを眺める感じ
 ☆ うしろ向きに前へすすむ。という姿勢と同じですか? ちがいますか?

お礼日時:2011/11/13 21:40

ブラジュロンヌ樣おはようございます。


先日ノックアウトされたKOMaas88 です。

またカウントが残っている間に起き上がってきました。いや、もうカウントアウトされたかもしれませんが、ともかくここがなお閉店されていないようですので、投げ込まれたタオルを無視してへたの足掻き、へぼ書きを続けます。

> 永遠性としての本質は ないが 全面的に世界は無常だとも言い切っておくべきではない。けれども 流行から自由な不易としての美(その感覚・チカラ・ハタラキ)は 人は経験することがあるのではないか?

のご提案に付いてちょっと触れさせていただきます。

同じ方向からずっとアプローちしている間に、こういったものはとかく同義反復に陥いってしまうものです。
少し退いて違った方向から探ってみます。

ここでのご質問は、侘しい、寂しいという本来美とはなりえなかった反生命的なマイナスの事象が、なぜ日本で新しい美として立ち上がったのか、その必然性はあったのか?という疑問から出発していると思わせていただいております。

それに対して、私はそういったマイナスの観念の中にもキーワードとして美に通じる要素はある、という提案をさせていただきました。わびからは孤立(孤高)、孤立している故の目立ち、特異(他との差別性)、さびからは古さゆえの得難い時間的物理的積層、悲しさという強い感情的なストレス状況、消え入る瞬間に着目するという動き、強弱を伴う強い微分的インパクト などです。
ギリシャ悲劇などに見られる崇高美に通じるこの美意識、また強弁すれば、演奏が終われば静寂の中に消え去ってしまう音楽という美の芸術など世界共通のものでありましょう。そういった古今東西誰にも共通な美をわびさびに見ることは可能であり、そういう意味ではこれを不易と呼ぶことも全くさしつかえはないのではないか、と私も思います。ただ、以下のことは言えるとおもいます。

繰り返しになりますが、こういったものが無常という観念に近いがゆえに中世の日本で見出されたのは偶然とは言えないでしょう。しかし、そういった美が不易であるがゆえにどこでも、どんな場所ででも容易に再現できると考えるのはいささか甘いといえるのではないでしょうか。
それらわびさびの芸術美が単なる偶然性で現れたとは私も思ってはいませんし、深い哲学思考の結果として形作られたとも思いません。まだまだ理論的に(例えば黄金律や遠近法などのように理論化されていないことは認めざるを得ないとは思いますが、それができるとは思えませんし、絶対必要だとは私は思いません。

ひとはとかく美を自分のモノにしてずっと獲得し続けたいという欲望のためにそれを分析し、再現できるものならしてみたいという希望から自由にはなれません。そういったあらわれとしてこのようなご質問も出てくるのではないか?と私は思っています。いや、ブラジュロンぬ様の純粋な真理への情熱に水をさすつもりは全くありませんが。

ぐだぐだつまらないことを書いてしまいました。
失礼居いたしました。
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この回答へのお礼

 こむああす88さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 思えば遠くに来たもんです。水入りということは 《永遠性に触れられている不易》としての美いかんを除いて おおむね合意に達したという意味でした。ノックアウトだとすれば 《負け惜しみからのワビサビ》論でわたしがノックアウトされたあとの巻き返しだったでしょうか。

 さて 考えてみれば いまの段階で課題となっているこの《――経験的に人びとに共通の不易としての美ではなく それをさらに超えて・つまりは経験世界を超えて――永遠性につつまれるような不易の美》 これは言ってみれば ほかでもなく・けっきょくむしろ感覚的に捉えられたところの《仏性》なのです。と思い至った今日この頃です。
 ブディズムは よそからの思想ですから 自前の思想としては 《もののあはれを知る》そのアハレ観になりましょうか? ひと言で言えば よくもわるくも――縄文・弥生・古墳時代と経て来てやがて国家を築くことになるそのあたりまでの歴史とその伝統であると考えられるところの――シントウでしょうが もしこれを《かむながらの道》と言いかえるなら その《〈かみ〉のこうごうしさ(=かむかむしさ=神神しさ)のまにまに》ということになるでしょうか? 分かったような分からないような。


 言いかえると やはりほかでもなく一般に昔風に《真善美》のおおむね一体としての《美》だったのだ。ということになるかも知れません。(古臭い議論に見えましょうが)。(あるいはまた 神道に 真理だとか善だとかの概念は持ち込まれていないでしょうが)。





 なら 初めに言っておけ! ということではありましょうが 設問からの経緯については 次のようにうまくまとめてもらっています。

 ★ ここでのご質問は、侘しい、寂しいという本来美とはなりえなかった反生命的なマイナスの事象が、なぜ日本で新しい美として立ち上がったのか、その必然性はあったのか? という疑問から出発していると思わせていただいております。

 ☆ したがいまして 美だと言われている侘び寂びの皮を剥いて行ったら ふつうにはけっきょく玉ねぎの皮を剥くごとくその芯は イデアといった概念のごとくには ないということ。これがひとつの結論であり すでに確認されたと思われます。
 その上で その上でです 誰かさんは一歩すすめたいと我を張り もし不易の性質を持つのならばその美は 真理や善といっしょに伴なって 永遠性に どこかで接しているのではないか? それゆえその不易と言えども移ろいゆく経験的相対的な美ではあるが それでも どこかでナゾにおいてのように永遠性によってつつまれている。――そういう性質も まぼろしのごとくにでも 持つと捉えられまいか? こう言っています。

 そうでなければ 神ながらの道と言ったところで くだらない或る種の日本的なイデアの創出であるに過ぎないと言って捨て置かれましょうし また仏性があらゆるものに宿ると言ったところで 何を寝ぼけたことを!と一笑に付されることでしょう。




 直感という感覚が――美としても 或る種の善としても そしてさらには永遠性と同じ意味になるところの真理としても―― 人びとに なぜか・どこかでナゾのごとくに 共通である。という可能性については けっきょく一人ひとりが積極的に発言しあって 或る程度は一般的な合意を得ておくことも有意義なのではないでしょうか? 
 そのように往生際のわるいそのわけは 仏性や超自然としての神々の息(息吹き)という――或る意味で無責任な――言い方見方を 人びとは捨てきれないし これを否定してその実証も論証もし切れない。ということにあり それゆえ いつまでも 課題として残っているということではないか?

 いっそのこと このように課題として残っているというそのこと自体を 現実として受け容れればよい。のかも知れません。つまり 永遠性につながるような不易としての美は 一人ひとりの主観においてそのことを言い張ってもよいが 誰もに証明しうるようなものとしてはないであろうというかたちで 保留しておくこと自体が 現実なのであると。
 美は そのような宙ぶらりんの現実世界の中にあって 一人ひとりの主観において捉えられているのだと。

   *

 このように見たということは 《不易》の意味が微妙になってきます。
 ★ ~~~~~
 ギリシャ悲劇などに見られる崇高美に通じるこの美意識、また強弁すれば、演奏が終われば静寂の中に消え去ってしまう音楽という美の芸術など世界共通のものでありましょう。そういった古今東西誰にも共通な美をわびさびに見ることは可能であり、そういう意味ではこれを不易と呼ぶことも全くさしつかえはないのではないか、と私も思います。
 ~~~~~~~
 ☆ この古今東西に共通に見い出される不易としての美は 侘び寂びの系統としては まだまだ経験的で相対的な移り変わりのある美である。ということに 厳密には なります。
 言いかえると 枯れた美も華やかな美も それらは――世界に共通であって しかも――うわっつらの美のかたたちであると。永遠性につながる不易の美は ミヤビについてもワビサビについてもそのような外観を超えたところに息づく何ものかであるのではないかと。まぼろしの玉ねぎの芯としてのように。
 言いかえると このような限りなく湧き出る泉の水のような美は まぼろしとしてあるほうが 現実的である。言いかえると われらが心は 玉ねぎの皮を剥いて・剥き切ったところで おしまいだとはならない。ということを ぎゃくに言っているし そう言っているのみだと。
 まぼろしが存在するとは言っていない。その存在の可能性を 否定し切るなかれと言っている。
 心は閉じられておらず 開かれているのだと。
 永遠としての不易の美は 心の伸びあるいは明けとしてのみある。窓が閉じられていない・つまり開いているというのことにのみ 現実性がある。だから まぼろしのままである。
 けれども 仏性だとか 神ながらの道というのは そもそも そういう絵空事でしかない。絵空事でないとすれば そこら中に 聖りやブッダがうようよ歩いていることになる。歩いていないから その美がウソだとは言えない。
 この宙ぶらりんの世界に 美は位置しているのではあるまいか? それが 現実世界なのでは?

 ★ ひとはとかく美を自分のモノにしてずっと獲得し続けたいという欲望のためにそれを分析し、再現できるものならしてみたいという希望から自由にはなれません。
 ☆ 《この永遠の美を 人は獲得することは出来ない》 この前提の上で その可能性を全面否定することも 人間の能力によっては出来ない。このような宙ぶらりんの状態です。それが 現実であり 現実であるのなら それが むしろ答えであるのかも知れない。

 ふうーう。ここまで来ましたが 果てさて どうでしょう? いったいこの先どうなりましょう?


   *

 侘び寂びそのものについて詳しい分析をしてもらっています。しかも そのワビサビかそれともミヤビかの二分法を超えて どちらにも通じる美のあり方を 上では問い求めた格好です。この点 あしからずご了承いただけるならさいわいです。

 ★ ~~~~~
 それに対して、私はそういった〔* 侘び寂びにかんする〕マイナスの観念の中にもキーワードとして美に通じる要素はある、という提案をさせていただきました。
 わびからは孤立(孤高)、孤立している故の目立ち、特異(他との差別性)、さびからは古さゆえの得難い時間的物理的積層、悲しさという強い感情的なストレス状況、消え入る瞬間に着目するという動き、強弱を伴う強い微分的インパクト などです。
 ~~~~~~
 ☆ このような要素分析を超える・もしくは突き抜ける というのが すでにご指摘の《美はこれだと定義づけすることが困難である》との観点そのものではなかったでしょうか? (むろん このワビサビ論はそれとして精緻なものであると感服した上でのことです)。


 紆余曲折を経て 《うつくしいとは どういう現実か?》の探究に入ったでしょうか?
 この問い求めは 拙速を嫌いましょうから たぶんあらためて 切り口を変えて問うことになるかも知れません。
 というところまで来ましたが いま少しこの質問にて これまでのやり取りを整理したりして――あるいは ほかの視点のあらたな導入がもしかしてあったりするかも知れません(《もののあはれ》論は 不易の芯としてのまぼろしの永遠性を提起してくれたと思います)――とどまることにします。やはり ふうーう。

お礼日時:2011/11/13 13:21

こんばんは。



あ~紅葉狩り楽しかったです。
共通の美、感動だそうです。
でも、哲学で幾ら言葉で表そうとしても無理ですね。

やはり、人と人の出会い、会話、の中での美の分かち合いにはかないません。
特に自己中の美が最高。
間違っていても、私は、この回答で満足です。(笑)
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この回答へのお礼

 てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ やはり、人と人の出会い、会話、の中での美の分かち合いにはかないません。
 ☆ その中身を じつは無理だと考えずに 言葉に表わして行こうという問いではあります。

 ★ ~~~~~
 特に自己中の美が最高。
 間違っていても、私は、この回答で満足です。(笑)
 ~~~~~~~ 
 ☆ ま こうおっしゃるなら 無理にとは申しませんが。

お礼日時:2011/11/13 00:15

歌は物のあはれをしるよりいでくるものなり(石上私淑言巻一)。



「物のあはれをしる」の「しる」の意味を考えてみられたらいかがでしょう。

西洋の芸術は知的な要素を含んでいる。
プラトンにあっては美とは感覚の世界にイデアを写すことであり、そのイデアは知の対象となるものである。またカントにあっては美は一種の快感だが、その快感は対象の形式と主観の認識能力すなわち知的能力との合致によって生ずるものと考えられている。
このように西洋のでは美の根本に知的なものを置くが、日本の「物のあはれ」は純粋に感情的なものであって知的なものではない。「物のあはれをしる」の「しる」は決して知的な働きではなく純粋に感情的なものである。「さび」や「わび」は「幽玄」という美意識から生まれたものだが、すべて純粋感情たる「あはれ」がそれらの特性をになっているのである。

この回答への補足

 おぎないます。

 お礼欄の前半 うしろのほうのくだりで 打ち間違いがありました。
 ☆☆ ~~~~
 ・・・おおむね非論理的に――構築・再構築されつつ 生活をいとなむ半知性のあり方と。


 いま《非論理的 / 反知性》と言いましたが・・・
 ~~~~~~~
 ☆ これは 半分という意味で《半知性》と言おうとしています。反対の反は 打ち間違いでした。おわびします。







 なお《もののあはれを知る》という主題をめぐっては いささか問い求めて来ています。えらそうに勝手な掲載ですが まとめておきたいと思いました。参照しうるところがあったらさいわいです。

  ※【Q:「さかしら」の定義】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5775996.html
  ・その回答No.〔7〕・8・10・12・13.15などです。

 【Q:もののあはれは 安全保障には通用せぬか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5748942.html

 【Q:権利と義務という次元を掘り下げることはできないか? (もののあはれ)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5949269.html

  ※【Q:本居宣長はなぜ天皇制を肯定しているのでしょうか】回答No.5
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5551881.html

補足日時:2011/11/13 10:15
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この回答へのお礼

 あほお007さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 基本的に――と言っても たぶん ご見識の広さから行けば ひじょうに乱暴なまとめになるかも知れませんが―― どの民族どの地域の人間も 美については その知覚とさらにその認識を深めることとの二つの段階(次元)を持つと考えます。
 
 ただしたぶん 西欧では美についてどちらかと言えば 第二次の認識のほうに重点を置いて捉える傾向がつよいのではないか。
 言いかえると わが日本人は 美についてわざわざ議論するなどということは好まなかったようです。
 さらにこの対比を色眼鏡で眺めてみれば おそらくヨーロッパ人は 美にかかわる感性を理性よりも下に置くくせがある。人間の自然本性として劣った能力であると。
 われわれは どうでしょう? 情感を重んじ情感の共同性といった人間関係において生活している。理性による論理的な話は 小賢しいとして嫌われる。
 

 もっともパスカルでしたかは 《幾何学の精神と繊細の精神》というふたつの側面を捉えて どちらをも重んじるのがよいと言っているはずです。これに沿って言うなら
 片や おのれの意志行為についてその理性的意識の流れをとらえ そのわざわざおこなう構築をもって互いに立ち場を明らかにしつつ その意味で対立しつつ しかも弁証法的に互いに同感(合意)を得て行こうとする知性のあり方と
 片や 情感の共同性がすでに人と人とのあいだに(あるいは 当人にとっての内と意識される集団とそして外とのあいだに) あたかも観念の運河が穿たれたかのように或る種のつながりを作っていて 情感の共同性の 共感と反感とが・つまりは 破綻とその統合とが――おおむね非論理的に――構築・再構築されつつ 生活をいとなむ半知性のあり方と。


 いま《非論理的 / 反知性》と言いましたが これは そうは言っても 理性をも――感性だけでなく理性をも――よく用いる知性なのです。あるいは《理性的意識の対立とその総合》と言っても そこに感性や情感が忘れ去られているわけのものではない。こう考えます。

     *

 ★ 西洋のでは美の根本に知的なものを置くが、
 ☆ ではなく 根本はやはりどこでも《情感の繊細さと理性の幾何学的精神》との全体としての自然本性なのです。その自己表現の仕方が どちらに重心を置くかで違っている。となりませんか?

 ★ 日本の「物のあはれ」は純粋に感情的なものであって知的なものではない。
 ☆ ヨーロッパの繊細の精神も 同じくゆたかな感情を持ちます。

 ★ 「物のあはれをしる」の「しる」は決して知的な働きではなく純粋に感情的なものである。
 ☆ これはですね 複雑です。いくつかの段階があると考えます。
 《あはっ! または あはれ!》とつぶやいてイメージによる直感を持つとき そこではすでに モノゴトのいわゆる本質をも見通すような直観をも得ることがあり だとすればそこですでに理性的な世界観の萌芽をも得ていると言ってよい。
 そして 次に引用するように日野龍夫によると いちどこの初めの情感として得られた直感をたしかに生活態度として身につけることをおこなうと言います。つまり そのときには 直感を――つまりは《もののあはれ》を――実際の生活上に活かすためには知性による仕立てがほどこされて初めて 身にまとうことができるのだと。
 

 ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~
 宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅びやかに詠まねばならない》・・・。
 歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。

 前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。

 右(上)の歌論は この認識に対応するものである。
 つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。
 意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。
    (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)

 cf.【Q:もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー】趣旨説明
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7029049.html
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかにこれについては おっしゃるように 但し書きが要るようです。
 もし《もののあはれ》の直感をそのまますんなり社会における人間関係に表現して行ってもよい場合なら 人為的な知性は必要としないかも知れないからです。
 そういう場合というのは 宣長によれば《古道ないし古神道》が社会にそのまま生きている世界であったようです。そしてこれは 宣長にとっては具体的には天皇制であったようです。おそらくひとり天皇についてだけは 特別の身分にあり そのほかの万民はひとしく《もののあはれ》のままに生きるといったところなのでしょうか。
 
 ということは この但し書きを超えて けっきょくは もののあはれにしたところで 知性を交えていますし 知性がその直感を統括していると考えられます。のではあるまいか?


 ★ 「さび」や「わび」は「幽玄」という美意識から生まれたものだが、すべて純粋感情たる「あはれ」がそれらの特性をになっているのである。
 ☆ この情感を活かすために 知性をも必要としている。この知性を あまり表に出さない。理屈をこねないようにしている。それは 情感の共同性が じつは 人びとのあいだの・けっきょくは広く解した身分の関係として 何かと気を使わなければ生きて行けないという空気をつくっており それは すでにその空気が示唆するところの観念の共同性として成り立っている。
 人びとは互いの交通において すでに〔流動的な〕身分感覚をもとにして 互いのあいだに《観念の運河》が敷かれていると感づいている。この社会で生きて行くためには この運河を通行するための手形が必要である。それは その場や所属団体や社会全体やのクウキを読みこれの示唆するところを行動するというその経験が 通行手形を得させることとなる。つまりは 要するにエライ人もしくはお二階さんの言うとおりにしなさいというクウキであり このクウキと《もののあはれ》とは それぞれが観念と情感とであることにおいて対応するかたちで 中身を同じくしているかと思われる。
 観念は しばしば 古くなり 黴が生えてくる。観念の運河は 水が汚くなる。



 こういった情況にあって 美とは何か? 日本人として経験してきた美とは何か? 人間にとっておそらく同じだと思われる美のその表現の仕方は どうだったか?
 と尋ねてみたい。なお こう思います。

お礼日時:2011/11/13 00:11

失礼しました。



黄金の茶室は、豊臣秀吉です。
資料を見なくて曖昧でした。
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この回答へのお礼

 了解しました。

お礼日時:2011/11/12 12:54

美のとらえ方。


個人個人違うのでは。
千利休は、茶道で詫び、寂びとして朝顔一輪みたいにとらえたけど。
織田信長は黄金の茶室。弟子の織田有楽斎は華やかだったそうです。

お茶は、人と人の出会いが大切であり、偶然の出会い(一期一会)を思いやり、おもてなしの心で迎えることが本質なので、全てはそのための演出なので、相手が喜んでくれれば自分の気持ちがあればいいのではないですか?私は、癒しの空間を楽しむことだと思いました。

足利義満の金閣寺は、権力の象徴です。それに対して、銀閣寺は、そうでないでしょう。
何故違うかと言えば、四季のせいではないでしょうか。春、夏、秋、冬全て違う。おまけにお月見なんかもあるし、豊臣秀吉の桜の宴も有名。
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この回答へのお礼

 てふてふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。たとえば茶道を例に出せば その話題が出たから しゃれた応答を返すといった芸にとぼしいのが 質問者のわたしです。
 主題として立てたなら その問い求めには心の態勢が出来て進めて行きますが 利休と出たかたちで まだどのようにその主題に入って行けばよいのか 迷っています。(音楽に手が出ないのと同じように 茶道にもしり込みします。きっかけか もしくは見通しが持てたら そのときには足が軽くなり動きも軽やかになるかとも思うのですが)。


 ★ 金閣寺
 ☆ が出たところで まづは ちらっと次のように言ってしまっているところを見直します。

 ☆☆(No.25お礼欄) ~~~
  存在感は どちらかと言うと 枯れたワビサビのほうに不易の美としては 感じられるものかも知れません。金閣寺は それが達成されて もう美はおしまいであるといった感じを与えるのではあるまいか?
 それを見て わが存在ないしその《わたし》を しみじみと味わうというものではないように思われます。巨大古墳や奈良の大仏の系譜ですね。
~~~~~~~~~
 ☆ 考えてみますと 絢爛豪華なほうの美を好むという人びとには 失礼な言い方だったかと反省します。
 そういう華やかな雅びの美のほうには どこかヒケラカシがあるであろうというのは それほど間違った見方ではないと思いますが・つまり
 ★ 足利義満の金閣寺は、権力の象徴です。
 ☆ であろうと思いますが
 いづれにしましても 侘び寂びのほうにも 過去の何らかの事件についてそれを根に持ってしまっているとか その今の境遇に不満たらたらの生活を送っているとか そういうドラマもあってそれを隠しているということも考えられます。

 ということは みづみづしい息吹きを引き出されて みづからの存在を――ほかの人びとと同じ存在として――知りこれを自覚するといった不易の要素を持つ美については・その意味で 本質としての美については けっきょくその見てくれとしての華やかさや枯れたすがたといったことは たしかに見てくれであって うわべの事であるに過ぎない。こうも考えられます。
 中身で勝負であるということになりましょうし その中身も しかも 流行だけに終わらない何か――これが 不易の本質であろうと思われ―― この何かが欲しい。ということになるでしょう。

 金閣寺にも銀閣寺にも 大仏にもお地蔵さんにも 黄金の茶室にも街のカフェにも 人それぞれにひょっとしたら《萌え》を感じて うつくしいと思うところがある。ということかも知れません。ワビサビかミヤビか どっちかに限るということはないのだと。

 ★ ~~~~~~
 お茶は、人と人の出会いが大切であり、偶然の出会い(一期一会)を思いやり、おもてなしの心で迎えることが本質なので、全てはそのための演出なので、相手が喜んでくれれば〔という〕自分の気持ちがあればいいのではないですか? 私は、癒しの空間を楽しむことだと思いました。
 ~~~~~~~~
 ☆ この《癒しの空間 あるいはその時間 を楽しむ》ということには つねに言わば心の泉が感じられている。それが チカラないしそのハタラキとしての美であるのではないか?


 したがいまして
 ★ ~~~
 美のとらえ方。
 個人個人違うのでは。
 ~~~~~~
 ☆ であると同時に――すなわち 音楽か美術か 美術でも 絵画か建築物かその空間かあるいは何々か そしてしかも 枯れた美か華やかな美かなどなどに応じて 個人差があると同時に―― 美の中身としては或る程度の共通のものが見出されるのではないか。とも考えられて来たのですが どうでしょう?

 

お礼日時:2011/11/12 12:53

そうですね、西洋の美と日本の美の違いですね。



かなり難しい質問ですね。
私は、あまり歴史には詳しくないもので、個人的な意見になりますが。
西洋は、やはり古代ローマの彫刻からではないでしょうか。
神と人間を忠実に力強く、躍動感あるように再現し、まさに当時の人間の生き方がすぐ其処にいるかのように伝わってきます。当時の哲学者が目に浮かびますね。
神のもとで生きる人間の喜びが伝わってきます。それが、今のピカソまであると思います。
個人的には、印象派のモネの睡蓮の絵に惹かれます。(日本人だから。)

日本の場合は、仏教彫刻から始まりますね。運慶、快慶、薬師三尊、奈良の大仏等思い浮かびますね。其れに、水墨画、そして、書道。
やはり、日本の四季が諸行無常と結びつき、お寺、庭園の美、まさに空間としてとらえた動的自然の美ですね。
庭の池の鯉、滝、枯山水、盆栽等凝縮された美ですよね。
何より、動的なものだととらえています。俳句、短歌にも必ず季語が入っていると思います。
そして、封建社会で抑圧された庶民にも、園芸、浮世絵、芸能などで受け継がれました。
それらが、本音、建前の文化や思いやり文化が生まれる原因になったのかもしれません。

さらに、究極の庶民の楽しみが漫画(動的絵)になったのかと思います。
今の引きこもりは、現代の出家ともいえるかと思います。
何しろ、アメリカの黒船(ペリー)により、士農工商が逆転し。
さらに、第二次世界大戦の敗戦で、地主、家族、が解体し、アメリカの資本主義に変わり。
今、TPPにより、ますます、ヒエラルキー化が進んでいます。
日本は、自然災害(地震)の多い国ですので、天地がひっくり変わることをみんな分かっているんですね。
だから、諸行無常の対策として思いやりや詫び、寂びにより国民は生き延びてきたのではないでしょうか?
ほとんど、根拠のない私の意見です。
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この回答へのお礼

 てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まづ お断りしなければならないことには
 ★ さらに、究極の庶民の楽しみが漫画(動的絵)になったのかと思います。
 ☆ これについては 前回にも
 ★★(回答No.26) ~~~
 庶民は、士農工商と言う身分制度や今の地方に繋がる小国に閉じ込められることにより、自分達も寺小屋、温泉、園芸等でエントロピーを小さくする方法をしたのではないでしょうか。
 それが、今の引きこもり漫画文化と繋がるのでは。
 ~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ というふうに書いておられますが この漫画文化――アニメもふくまれましょうか――について どう捉えてよいのか 考えたこともなかったので まだうまくお応えしかねています。アニメは見ませんし そもそも今のように流行する前に わたしは若いときを過ごしています。

 ★ 引きこもり
 ☆ じたいについては やはりお上との関係があろうかと考えています。お二階さんと言っていますが。実際に接する相手としては 上司ですね。ガミガミ電波を発するとき 下にいる者は それをアース役となって受け留めたり処理しなくてはならなかったりする。これを嫌いこれを避けるようになった結果のひとつであるのではないかと。
 たしかに 引きこもった部屋に居る者にとって 漫画やアニメは 一つの好都合なものだとは見られます。

 雅びとしての華やかな美に対して たしかに侘び寂びの枯れた美は――初めは 没落貴族が始めたとしても―― 一般に庶民の生活に無理なく入って来ましょうし 楽しむようにもなるでしょうね。


 ★ ~~~~~
 日本は、自然災害(地震)の多い国ですので、天地がひっくり変わることをみんな分かっているんですね。
 だから、諸行無常の対策として思いやりや詫び、寂びにより国民は生き延びてきたのではないでしょうか?
 ~~~~~~~
 ☆ なるほど地震と台風は 人びとの生活態度のあり方に影響を及ぼしたでしょうね。そういう影響としての諸行無常に対して対策を立てなくてはならない。侘び寂びの生活様式が 思いやりあるいは助け合いとつながっているとすれば 生活としての美でもあるかも知れません。



 ★ ~~~~~
 何しろ、アメリカの黒船(ペリー)により、士農工商が逆転し。
 さらに、第二次世界大戦の敗戦で、地主、家族、が解体し、アメリカの資本主義に変わり。
 今、TPP により、ますます、ヒエラルキー化が進んでいます。
 ~~~~~~~
 ☆ つまりは 民主主義が入って来たおかげで 戦後何十年かまでは 人びとは欧米に追いつくために努力し国も繁栄することになったが 同じ民主主義のもとで アメリカ資本主義経済によると 高度に成長した段階にあっては いわゆる格差経済がすすんで行くという。民主主義に逆行するかたちとなる。
 ・・・いまこの主題について扱う余裕がありません。あしからずご了承ください。


 あと西欧の美ですとか そして日本の美術史ですとかに触れておられますが うまくまとめられずにいます。美が 主観の中でいったいどういうハタラキをしているのか? こういう細かい点にいまは注目しています。そのゆえでしょうか。
 そして お応えは そういったところになりましょうか。

お礼日時:2011/11/12 00:24

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