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仏教で善因善果という教えがありますが、病気になった人は行いが悪かったということになるのでしょうか?いつもそのことが疑問で答えがわからずにおります。
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてくださいませんでしょうか?
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

仏教って何百、何千代も前の前世まで全て引きずっているという考えですよね?


それをとやかく言っても何一つ始まらないと思います。
真実とこじつけの境目を見極めるだけでも相当な苦労を強いられそうな上に実りはほぼ皆無に思えます。
たとえ解ったところでそれは大切な事でしょうか?

逆境の原因を探ろうとする思いは、人を責め立てたり呪ったりする心の裏返し、そういう心が招く不毛の迷宮の場合もあると思います。
逆境の原因を突き止めるのが無価値だとは言いませんが、逆境にどう最善を尽くすかに比べたら実りゼロと言わざるを得ないほどの差が出る事が多いだろうと思います。

逆境の原因を探る前に、なぜそれを知りたいのかを探った方が案外光は近いかもしれません。
生意気に聞こえたらすみません。

この回答への補足

皆様いろいろ教えてくださいましてありがとうございました。
私の母は若いころから重い病にかかっておりきっと私の知らないところで病気になったことを悔やんで泣いているのではないかと思っています〔私がもし病気なら。。と考えたら〕
それを考えるに切なく、彼女が何をしたのかと思うばかりでした。
よく耳にする教えが私の勉強不足でなんか心のフックにひっかかり答えが見つからない状況が何年も続いたために今回質問させていただいたしだいです。
確かに原因を突き止めるのは意味のないことだという教えも知っていたのですが、なるほどそのように理解するものであるとは目からうろこでございました。
つまりはあまり深く考えないことがよいという理解でよろしいのでしょうか?〔あまりにざっくりした理解ですかね?〕日々是好日といいますか・・

補足日時:2011/12/28 04:17
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こんにちは。



私は私見を言ったのであって、仏教の教えを知りもしなければ当然それを伝えている訳ではありませんから、”教えてくださいまして”というのは受け取れません。

お母様のご病気は大変ですね。
でも、ご病気にも関わらずあなたの様なお子様に恵まれてお幸せでもあります。
空しく終わる可能性の高い原因究明よりは、今目の前にある手の中にある例え小さくても目立たなくても確かな幸せにフォーカスした方が遥かに実り多いと思うのです。
だから、「あまり深く考えない事」”原因探り”に関してはそれで良いと思います。
すぐに解る原因であれば、突き止めてそれを正せば良いのですが、明確に解らない事を探ってもこじつけなのか事実なのかすら解らないのですから。

日々是好日。
これはかなり奥が深いというかレベルが高いというか、とにかくとてもとても重要な事だと思います。
もしあなたが原因究明ではなく、今目の前にある、手の中にある小さな幸せを大切に思い続けるなら私はあなたには堅固な幸せが待っていると保証したい位「堅い道」だと思います。
日々是好日。
これだけでも徹底していれば地球上でかなりレベルの高い人間であると言えると思います。
私もこれからもがんばります。
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全知全能の「神」の存在を考えた場合、だれかの病気もケガも、死さえも、神の積極的な意志の下で(あるいは消極的な黙認の下で)発生している現象と考えざるをえません。



 それに逆らう(治療することも)神の意志に反する、との考えも成り立つ(むしろ、そう考えるのが自然)と思います。


 しかし、仏様は万能ではありません。

 だから如来にも何体かあるのだし、救いもらしを防ぐために仏のほかに、千手観音だの、羂索観音だの、さまざまな存在を認めています。

 また、仏教は、病気もケガも死も、仏の意志とは関係ないところでおきる現象としてとらえているはずです。

 そうでなければ、こらら諸仏の「救う」という発想は出てきませんから。

 自分の意志でケガをさせておいて、「救う」というのはおかしいでしょ。救うくらいなら、最初からケガをさせなければいい。

 殴ってケガをさせた当人が、被害者を病院に送って行っても人命救助とは言わないです。

 救った、と言えるのは、その不幸とは無関係の、責任のない存在です。

 「輪廻」という考えもそうです。

 仏さえ、そこから脱出するためには努力が必要だったのです。決して、仏の意志で輪廻させているのではありません。

 たしか、釈迦も仏になるまで7回は輪廻しているはずです(前身で梵天から仏教の手ほどきを受けている)。

 そのくらいですから、仏様も、輪廻の途中でのことについては感知できません。

 その時その時で、努力するしかない、と考えているはずです。

 その方便の一種として、「いま努力すれば、現世だけでなく、来世にもいい報いがある」という、積極的な意味合いで、善因善果ということを言うだけだと考えるべきです。

 実際に前世にどうしたかは、仏様だってどうしようもないことですので、我々凡愚にはわからないことどうしようもないことですので、考える必要のないことだろうと思います。

 気に病む必要はまったくありません。
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【善因善果】


善い行いには、「安楽な果報」があるということ。
[広辞苑(第六版)]

「病気になった」コトが、全て「悪い行いが原因」と考えてしまうのは、あまりにも短絡的な考え方だと思います。

「例え話」を書くなら。
世の為、人の為に一心不乱に働き、体調を崩して病気になり、亡くなった人がいたとします。
しかし、この人は、亡くなる前に、
「俺は、満足出来る生き方、働きをしたと思う。
今死んでも、何も悔いは無いよ・・・」
と、安楽な表情を浮かべて永眠したとしたら、それは、「本人にとって善果」では無いのでしょうか?。

勿論、
「何も、あんなに、身体を壊すまで働かなくてもいいのに・・・」とか、
「もう少し、自分の体を大切にすれば良かったのに・・・」
と言う様な批判は、家族や他人から「有って当然」です。

行いが「善い」か「悪い」か?。
これは、仏教の場合、他の命を「救う」か、「損ねる」かで判断します。
その時代、その時代での「法律」に従った「善悪」とは、少し違うのです。
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