太田久紀先生の書かれた仏教の『唯識論』を読んでいます。
結局、『人間の認識のしくみ』、『存在の空無性』、『私達の深層に潜在する利己性』などへの省察と自覚を深めていくことが大事だと書かれています。
『人間の認識のしくみ』や『私達の深層に潜在する利己性』については、本に書かれている説明で大体分かったのですが、『存在の空無性』については、全ての存在がやがて消滅して行くことは分かりますが、でも、存在している間は決して空無ではなく現に存在しているのですから、「依他起性」であるにしても、一応、それなりの存在形態で存在しているのだから、それを空無だと言われても、なんだかピント来ません。
「存在の空無性」とは「依他起性」のことを言っているのでしょうか?
それとも、もっと別のこと、例えば、本当に「存在自体が空であり無である」と言っているのでしょうか?
もし、「存在自体が空であり無である」と言っているのだとしたら、どうしてそう言えるのでしょうか?また、この事について、もう少し詳しく、分かりやすく解説している書物などがあれば、教えて戴けるとありがたく思います。
どうぞよろしくお願い致します。
No.1
- 回答日時:
すべての存在は空であり無です。
あなたも存在し机も存在しています。
しかし、それは幻なんです。
幻として存在していて実体がないんです。
仏教で言う諸法無我です。
色は存在しますか。あなたには色が識別できますが
色は存在しません。光の波長の違いがあって
それを目で捉えて脳に送って色だと判別しています。
つまり、脳が色というイメージを勝手に作っているだけなんです。
詳しくは「ものぐさ精神分析」を読むことを
お勧めします。
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1 …
この回答への補足
折角のご返事ですが、私には、仰っている内容が難しすぎて、良く分かりません。
存在が「幻」だと言うなら、その「根拠」を教えて戴きたかったのです。
なお、「色」のお話は、ネーミングの問題で、今私が問題にしている「存在論」ではなく、「認識論」のお話のように思います。
失礼致しました。
No.2
- 回答日時:
こんにちは.浅学ながら回答にのぞみます.
>本当に「存在自体が空であり無である」と
言っているのでしょうか?
◇いや,そうではないと思います.
生と滅を繰り返すがゆえに,無常である.
ということではないでしょうか.
参考になるかどうか保障はできませんが,
読んでみてください.
―――――――――――――――――
◇◇バガヴァッドギータより引用◇◇
この宇宙に二種の存在がある
それは必滅のものと 不滅のもの
物質界の万物は無常にして必滅であり
神霊界のものはすべて常住不滅である
これら二つのものを超越して
至高の大霊が実在する
それは至上我 不死不滅の主自身であり
宇宙三界に入って全てを支えている
◇◇引用おわり◇◇
―――――――――――――――――――
丁寧なご回答、ありがとうございます。
>生と滅を繰り返すがゆえに,無常である.
ということではないでしょうか.
↓
「空」や「無」が、そういう事を指しているという事なら、納得できます。
「バガヴァッドギータ」は友人に勧められて買ってはあるのですが、少し読んであとは積読になっていました。
この際、もう一度、じっくりと読んでみようかと思います。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
「存在とは突き詰めれば無である」という言明に対する
最大の抵抗感は、『だって、このように有るじゃないか』
という感覚的な実感によるものである。
しかし、冒頭のような結論に到達した人間も、決して
世の中に反逆しようとした訳ではなく、その「自然な
実感としての存在感」をより正確なものにしようとした
結果なのである。
1つには、そうした「存在感」の実体が、“自分とは
独立した外的な物体”ではなく、感覚器官表面での
量子相互作用パターンに過ぎない(五感の相関した
経験の蓄積に於て、聴覚や視覚パターンなど先行感覚
に対して「味覚や痛覚といった生理的な感覚」が結び
つけられた(遠くに至った時にどういう生理的感覚が
得られるか)にものが、空間的広がり)。
そうした仮説的な時空的において、原点であるべき
感覚主体が有限な広がりを持つ事で、仮説的相補分化
(=先入的本質性の無さ)が明らかとなる。
2つ目は、それに対して、そうした“感覚により描か
れる存在性は、「認識性とは独立した外的な実体」を
なぞったもので、『外的な実体』はその向うにある”
という反論がある。
しかし、その「外的な実体」を正確に分析すると、
量子論の不確定性原理に行き当たり、本来「存在」の
意味する“位置と運動量”、“質量と時点”といった、
性質を兼ね備えたものではなく、例えば運動量を完全
に確定すると、その「性質」に実体を与える「位置」
が無限不確定になる(どこにあるか不明)、即ち、
「存在=有限な性質を兼ね備えた実体」というものは、
対象の本質を確定せず、階層現象的な表面をいい加減
に捉える事で派生するものなのだ(ここにも認識性が
介在する)。
確かに目の前の「コップ」は存在するようだが、その
コップという物体自体は存在せず、珪酸などの分子の
並び方(並び方によっては石にもなる存在)に過ぎず、
その分子は更に珪素や酸素といった原子の並び方、
原子は素粒子の‥‥といった階層現象化のくり返しの
果てに、量子=不確定性原理のみに還元される。
このように、我々の日常的実感の、いわゆる「素朴唯
物論」は、相対性理論が我々の日常レベルの運動では
ニュートン力学で近似できるようなものに過ぎない、
というのと同様な結論に至るのである。
ご回答、ありがとうございます。
仰っている事は理解出来ますが、納得までは行きません。
確かに、「外的な実体」を正確に分析すると、素粒子の組み合わせに行き着くのでしょうが、でも、それら素粒子の結び付き方いかんで、様々な違った物質が出来あがり、実際に存在しているのですから、素粒子が結び付いた結果として現に存在している物質は、それらを構成する素粒子と同じとは言えないと思うのです。
仮に、いつかは消滅するとしても、消滅するまでの間は、現に存在しているのですから、それが無であるとは、とうてい思えません。
「空」や「無」の定義にもよりますが、・・・。
また、「存在感」の実体が、“自分とは独立した外的な物体”ではなく、感覚器官表面での量子相互作用の結果だと言うところまでは理解出来ますが、その相互作用の結果を受領する目に見えない何物かが存在しているから、その刺戟が認識されるのではないかと思えるのです。
ありがとうございました。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。
帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。裏があるから表があり、裏生ずるが故に表が生ずる。裏無ければ表も無し、裏が滅せば表も滅する。何故なら、裏も表も固有の実体として存在しているものではなく、依他起性によって成り立つ概念だからです。
仏教は物体が存在しないと説いているのではなくて、概念は実在するものではないと説いているんです。無常も縁起も、我々が様々な概念という迷妄を抱いているから相対的に生じる真理なのであって、迷いの無い所に真理が生じる事はありません。これを「無」の一言で表している訳です。実際には仏教すら相対的・依他起的なものなんですよ。
あらゆる存在には実体が無く、空であり無です。でも、この事を正確に解説している書物など有り得ません。何故なら、空や無を概念として捉える事も、正確に表現する事も出来ないからです。もし本当に知りたいなら、書物によって知識を得るのではなく、自分自身で真実を見極めなければならないのです。
丁寧なご回答、ありがとうございました。
>空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。
⇒なるほど。
>仏教は物体が存在しないと説いているのではなくて、概念は実在するものではないと説いているんです。
⇒「概念は実在するものではない」というのは、分かります。
>迷いの無い所に真理が生じる事はありません。
⇒?
>あらゆる存在には実体が無く、空であり無です。
⇒「実体」がないことを「空」とか「無」とかと表現しているのですね?
>この事を正確に解説している書物など有り得ません。何故なら、空や無を概念として捉える事も、正確に表現する事も出来ないからです。もし本当に知りたいなら、書物によって知識を得るのではなく、自分自身で真実を見極めなければならないのです。
⇒うーーーむ。
難しいですが、自分自身で真実を見極められるよう、さらに勉強していきます。
近いうちに、座禅に取り組もうかなと考えております。
ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
#3の者です。
>目に見えない何物かが存在しているから、その刺戟が
>認識されるのではないかと思えるのです。
それが誰しもが感じる普通の感覚ですから、ご心配いりません。
そこにあるのは、因果律の問題です(感受が結果ならば原因
あるはず)。
しかし、そこに潜在的に生じるのは「時間の流れとは何か」
=存在だけではない先入物の発生です。
しかし、その時間が、存在と共に対発生するものだとすれば、
一石二鳥です。
全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、
無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」に於て、その無限の闇に認識体の
仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を想定すれば、
相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説
の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのです自我仮説が
虚構の時間軸となり、空間の絶対化=無限不確定性を相補的に
分担(経験の蓄積による現象表面的定性化)する)。
それは、因果律的に過去から未来へと連続するのではなく、
認識によって宇宙が生じる=自我(感受表面=現在=光速)から
過去(時間的流れ=記憶=過去=超光速)と未来(空間的広がり
=予測=未来=光速下)が対発生しているという事なのです。
我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、
「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の
感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験
(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がり
は発生しているのです。
量子(光子)相互作用は、原理的には、瞬間作用とされます。
「静止」している(無の不確定性無限の潜在としての)自我仮説性
の方が、光速で移動(プランク定数の収束の時系列化)する事で
無の闇は、相対的な光の風になります。
四次元時空を記述する式において時間項にはC(光速)が掛けら
れています=時間は光速で過ぎる。
自我仮説の相補としての、時空仮説に対する無の射影なのです。
相対性理論の四次元時空の式において、時間項は虚数になって
おり、ゆえに空間軸と時間軸の等距離点に“ゼロの面”ができます。
それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下
の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。
そして超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用=二乗
において負=過去(時間的反転)と等価になるのです(自我仮説
(時間の流れ)と時空仮説(空間的広がり)の相補分化が、過去
(経験=時間)と未来(予測=空間)の相補分化につながる)。
その認識体による大ざっぱな認識=階層現象表面的定性化に
おける非光速性に基づく時空仮説に対する、無の射影が量子=
エネルギーなのです。
即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補
として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という
無の射影として、存在は生じていると言えるのです。
何回も丁寧なご回答、ありがとうございます。
私も、昨年来、相対性理論や量子力学に興味を持ち、「図解雑学 相対性理論」(佐藤健二監修、ナツメ社)を読み、今は「図解雑学 よくわかる量子力学」(夏梅誠・ニ間瀬敏史著、ナツメ社)や「はじめての<超ひも理論>」(川合光著、講談社現代新書)などを読んでいる途中です。
なので、量子論に関するお話は、ある程度理解できるのですが、残念ながら、貴方様の仰っておられること、全てを正確に理解できるところまでは至っていません。
そこで、お願いなのですが、私もpsytex様と同じ様な理解・認識に至りたいと思いますので、そのためには、どういう本を読めば良いか、具体的な書籍名などを、お教え戴けると大変有難く思います。
なにせ、私は、物理学などは高校で習った程度で、いきなり高度な内容だと理解出来ないと思いますが、少しずつ前進して行ける様な読み物があれば、何冊でも、順次、勉強して行きたいと思いますので、ご教示の程、どうかよろしくお願い申し上げます。
No.6
- 回答日時:
《一応、それなりの存在形態で存在している》こと,例えば「我有り」ですが,これを「我無し」とするのに抵抗がある素人が回答させていただきます。
これはいったいどうしてなのか,『私達の深層に潜在する利己性』というキーワードで,分かったような気がします。「我無し」とすれば自己が滅んでしまいます。利己性が「我無し」と認識することを拒んでいるのだと思いました。
およそ全ての認識が自他の関係である限り,あらゆる存在形態には必然的に利己性が伴います。自己が滅んで利己性が滅び,全ての認識が滅んで全ての存在形態が滅びます。
しかし,全ての存在は滅ぶのであるから空無であるとは,私も合点がいかぬところです。なぜなら,私が滅んでも他人がその存在を認識するであろうし,人類が滅んでもなお存在するものの可能性を否定することはできないからです。
ところが,「人は自他の関係でしか認識できない」(『私達の深層に潜在する利己性』)とあるがまま見据えますと,それを超越した場合の認識による存在はいったいどのようなものであるかという問いが生まれます。その問いに答えて「存在の空無性」が言われるのだと思いました。
すなわち,自他の関係でしか認識できない限り,その関係で認識しないのであれば,何も認識されないであろうということで,「存在は空無である」と言うことです。言いかえると,利己性から逃れると「存在は空無となる」と言うことです。利がなくなるのは惜しいことですが,同時に害もなくなるので,その面で有益と言うことでしょう。
No.7
- 回答日時:
#5の者です。
>どういう本を読めば良いか、具体的な書籍名などを、
>お教え戴けると大変有難く思います。
申し訳ありません。
中学生の頃、アインシュタインによる、「空間の重力ポテン
シャルは負エネルギーで、物体は正エネルギーだから、
全宇宙のエネルギーの総和は常に0である」という指摘に
インスパイアされて、「無からの相補分化」の宇宙論を考え
始めて、疑問に従って読んだ数百冊の量子論や天文学、
最近は超弦理論の本の少しずつが役に立ったので、どれか
1冊を挙げる事はできません(最近は日経サイエンスや
岩波の科学の拾い読みが多い)。
常に好奇心を持っていれば、自分の考えの至らぬ所を
自己顕示や自尊心のために糊塗することなく、“今一番
知りたい事”が湧いてくるはずです。
それについて記した本が、一番役に立つ本です。
とりあえず、入門という意味では、本屋のブルーバックスの
棚に行って、片っ端から開いてみましょう。
その中で『面白い』と感じたものが、「それ」です。
私がここに記述した内容は、言葉で覚える知識ではなく、
目に見えている全てのものの“感じ方”であり、日常の感受
の中に不断に反映できなければ「意味」はありません。
僕の孤独な30年を、僕の文章の手助けであなたが何年に
縮められるか分かりませんが、少なくとも僕の文章だけや、
何冊かの本だけによってではありません。
何回も、丁寧なご教示、ありがとうございます。
>常に好奇心を持っていれば、自分の考えの至らぬ所を・・・、“今一番知りたい事”が湧いてくるはずです。それについて記した本が、一番役に立つ本です。とりあえず、入門という意味では、本屋のブルーバックスの棚に行って、片っ端から開いてみましょう。その中で『面白い』と感じたものが、「それ」です。
↓
そうですね。常に好奇心を失わないようにして、求めて参りたいとと思います。
>私がここに記述した内容は、言葉で覚える知識ではなく、目に見えている全てのものの“感じ方”であり、日常の感受の中に不断に反映できなければ「意味」はありません。
↓
私も、全く同感です。
いろいろと、ご教示、ありがとうございました。
これからも勉強して参ります。
No.8
- 回答日時:
唯識の周縁部について少し聞きかじったことのある者です。
私も以前に太田久紀著『唯識三十頌要講』を読みましたが、難解な『唯識三十頌』の注釈書が多い中で、本書は比較的分かりやすかったのを思い出します。
質問者さんがお読みになったのは、もしかして『唯識の読み方』でしょうか。
>『存在の空無性』については、全ての存在がやがて消滅して行くことは分かりますが、でも、存在している間は決して空無ではなく現に存在しているのですから、「依他起性」であるにしても、一応、それなりの存在形態で存在しているのだから、それを空無だと言われても、なんだかピント来ません
「全ての存在」が「現に存在している」にもかかわらず「空無」だというのは、単にわれわれが「全ての存在」が「現に存在してる」かのように信じ込まされているだけということだと思います。
実際に、『唯識三十頌』の冒頭(第一頌)には、「由仮説我法 有種々相転 彼依識所変 此能変唯三」(仮のものに囚われ、われわれはまるで自分や世界が実在するかのごとくに盲信している。この自分や世界はいろんな現象の形を取って、われわれの周囲で生起している。いずれもわれわれの心識が転成することで生じる。この原動力である識はただ三種のみである。)と説かれていますから。
われわれが何となく実在しているかのごとくに思い込んでいる自分や世界にしても、確たる実質性、実体性に裏付けられているわけではなく、やはり「由仮説我法」ということでしかないわけです。
そして、こういう認識の虚妄性を中観派の龍樹菩薩のように、「色即是空 空即是色」と一刀両断するよりも、説一切有部(一種のスコラ哲学?)にも通じる、一種の方便としてのロジックを活用し、認識の迷妄の有り様や仕組みについて、より明解に分析しようとしたのが瑜伽行派唯識なのではないでしょうか。
>「存在の空無性」とは「依他起性」のことを言っているのでしょうか?
と言うよりも、「全ての存在」があたかもそれ自体の実質性・実体性に裏付けられて「現に存在している」かのようにわれわれが信じて疑わないことを、唯識では《遍計所執性》(=虚妄分別性)と呼び、さらにこういう分別そのものが実は「依他起性」(因縁性・因果性)に規定、支配されているだけと唯識は説いているということではないでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
>質問者さんがお読みになったのは、もしかして『唯識の読み方』でしょうか。
↓
そうです。
>われわれが何となく実在しているかのごとくに思い込んでいる自分や世界にしても、確たる実質性、実体性に裏付けられているわけではなく、・・・。
↓
No.4.のご回答:『空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。』と同じことを仰っておられるんでしょうか。
確かに、「私」という存在は、単なる肉体ではないし、精神作用も、肉体に属する感覚器官に依存している部分については、肉体が滅びればなくなってしまうので、これも、永遠不滅の実体とも思えません。
そう言う意味では、「存在には実体が無い」という考え方は、頷けないこともないと思います。
しかし、「輪廻転生」のことを考えると、輪廻転生して行く主体は何か、それこそ「私自身」ではないか、とも思えます。
あわせて、第八識「阿頼耶識」について考える時、それは、肉体的・物質的なものに依存していない、ある意味「力」のようなものと考えられるので、肉体が滅んでも存在し続けるのではないかとも思え、これが輪廻転生して行く主体であり、これこそが「私」ではないのかと考えたりもしています。
だから、「私」という存在は、「物質的な実体がある訳ではない」と言う意味では「空」であり「無」であるけれど、物質に依存しない第八識「阿頼耶識」が「私」なのではないかと思えるのですが、この考えは、おかしいでしょうか?
第八識「阿頼耶識」のことを真に理解していないだけ、という事なのでしょうか?
No.9
- 回答日時:
No.8ですが、再回答させていただきます。
>No.4.のご回答:『空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。』と同じことを仰っておられるんでしょうか。
はい、中観派の説いた「無自性」と同じことです。
ここから、『般若心経』では「空即是色」と、つまり「空≠無」と説いているわけです。
唯識派は、全ての存在が「無自性」であるにもかかわらず、われがあり、世界があるとわれわれを妄想させる原因・理由について、分かりやすい具体例を駆使し、より論理的に説こうとしたのではないでしょうか。
>「輪廻転生」のことを考えると、輪廻転生して行く主体は何か、それこそ「私自身」ではないか、とも思えます。
はい、『唯識三十頌』の第五頌では「私自身」のことを、「是識名末那 依彼転縁彼」(この識を末那と呼ぶ。阿頼耶識が転成して末那識となり、かつ阿頼耶識をも対象とする)と説いています。
要するに、末那識にはおのれが阿頼耶識に依るとの自覚がなく、cogito ergo sum.(われ考える、故にわれ在り)という虚妄に固執している我執そのものということになります。
なお、唯識と輪廻転生の関係については以下が大いに参考になると思います。
ただし、この主人公は作中では末那識から脱却できない、つまり認識(我執)の亡者として設定されています。
輪廻転生は人の生涯の永きにわたつて準備されて、死によつて動きだすものではなくて、世界を一瞬一瞬新たにし、かつ一瞬一瞬廃棄してゆくのであつた。
かくて種子は一瞬一瞬、この世界といふ、巨大な迷ひの華を咲かせ、かつ華を捨てつつ相続されるのであるが、種子が種子を生ずるといふ相続には、前にも述べたやうに、業種子の助縁が要る。この助縁をどこから得るかといふのに、一瞬間の現行の熏に依るのである。
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。(三島由紀夫『豊饒の海』第三巻「暁の寺」)
この回答への補足
すみません。
kadowaki様の、ご回答を読み直してみて、新たな疑問が出てきました。
それは、「私という存在には実体がない」と言いながら、「輪廻転生の主体はある(例えば、マナ識や阿頼耶識など)」と言うのは、矛盾しているのではないか、という疑問です。
何故なら、輪廻転生の主体があると言うなら、それこそが「私」の実体ではないか、従って、「私という存在には実体がない」とは言えないと思うのです。
この両者の関係は、どう考えたら良いのでしょうか?
もし、よろしかったら、再度お教え戴けると有難く存じます。
No.10
- 回答日時:
No.8、9です。
>それは、「私という存在には実体がない」と言いながら、「輪廻転生の主体はある(例えば、マナ識や阿頼耶識など)」と言うのは、矛盾しているのではないか、という疑問です。
>何故なら、輪廻転生の主体があると言うなら、それこそが「私」の実体ではないか、従って、「私という存在には実体がない」とは言えないと思うのです。
より正確に言えば、「輪廻転生の主体は実体としてあるのではなく、あくまでも阿頼耶識に依る(規定された)末那識(我執という迷妄)としてある」ということかと思います。
このように、自我意識(末那識)も《依他起性》を免れ得ない以上、やはりこれを実体(実在)と見なすことはできないわけです。
でも、この煩悩にまみれた「私」(自我意識)を機縁として、ほかならぬ「私」の《依他起性》を悟り得るのみならず、究極の悟りとしての《円成実性》(=真如)に至る可能性が開かれているとしたら、こういう唯識の教えには、《煩悩即如来》という、いわゆる如来蔵思想がまぎれもなく内在していると言えるのではないでしょうか。
何回も、私のために、ご回答下さいまして、本当に、ありがとうございます。
心より、感謝申し上げます。
>より正確に言えば、「輪廻転生の主体は実体としてあるのではなく、あくまでも阿頼耶識に依る(規定された)末那識(我執という迷妄)としてある」ということかと思います。
このように、自我意識(末那識)も《依他起性》を免れ得ない以上、やはりこれを実体(実在)と見なすことはできないわけです。
⇒
1.末那識ではなく、阿頼耶識なら《依他起性》ではないと思うので、阿頼耶識こそが「私」である、とは考えられないのでしょうか?
それとも、阿頼耶識も《依他起性》なのでしょうか?
2.私は、「存在」のあり方としては、「物質」のような存在のほかにも、例えば「引力」などのような「力」も、物質的な実体はなくても現に存在していると言えると思うので、物質ではない阿頼耶識も、立派に存在していると言えると思うのですが、・・・。
それとも、私の勉強不足であって、実は「力」も何らかの物質に依存している《依他起性》なのかなぁ。
3.こうなってくると、「実体」の定義にもよるような気がしてきます。私は、物質でなくても、先程述べた「力」なども、現に存在しているのだから、これを「実体」と呼べると思っているのですが、仏教では物質だけを「実体」と考えていて、「力」や「阿頼耶識」などは、存在していても、これを「実体」とは言わないだけのことなのでしょうか?
4.でも、そうなると、輪廻転生する主体(=「私」)が阿頼耶識であると認めながら、仏教では阿頼耶識を「実体」とみなさないばっかりに、阿頼耶識を本質とする「私」に「実体」がないと言っているだけみたいな気がしてきます。
そうなると、「実体」を物質以外のものも含めて広く解釈すると「私」には「実体」がある事になるが、「実体」を物質だけに限定して狭く解釈すると「私」には「実体」がない事になる。
それは詭弁でしかないように思われます。
どんどん疑問が湧いてきて、すみません。
もう一度、しっかり、唯識の本を、正確に読み直す必要があるのかも知れませんが、良く分かりません。
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