プロが教えるわが家の防犯対策術!

「何のために生きてるの?」と聞かれて「幸せを感じるため」と答えるのが気恥ずかしいです。
しかしこれは私にとっての確固たる生きる理由に他ならないのも事実です。
「幸せを感じる」を言い換えるとしたらどんな言葉があるでしょうか。
お堅い感じの言葉でも、くだけた感じの言葉でも結構です。

また最近、景色が綺麗だったり食べ物がおいしかったりといった些細なことに幸せを感じるようになったのですが、昔はそういう人を見るとなぜか「子供っぽい人だなぁ」という印象を受けていました。しかし実際に自分が子供だった頃は、そういった類の幸せを感じることはほとんどなかったような気がします。それならばどうしてそのような人達に子供っぽいという印象を受けてしまっていたのでしょうか。

A 回答 (6件)

「何のために生きてるの?」という問いの立て方自体が


間違っているように思います。
人間はこの世に目的を持っておぎゃあと産まれるわけではないのです。
ただ「生への盲目的な意志=無明」をエネルギーとして、
後付けで目的やらを仮想的に導入しているに過ぎません。

さて、質問者さんはささいな事に幸せを感じるとありますが
景色(視覚刺激)や食事(食欲)など、わりと動物的なレベルで
幸せを感じるので子供ぽいように思われるのではないでしょうか。
例えば景色の感動が絵画や写真、映像の芸術表現に昇華されていたり
美味しい食事に感動して、自分で作ってみて人にふるまうなどしたら
発展があり大人ぽいように思います。
また子供の段階では、それらの幸せを当たり前に思い
如何に有難いかよくわかってないので感動することは
少なかったのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

確かに生まれる瞬間は生と死の二択から生を選んでいるのとは違うような気がしますね。
しかしその後、知恵をつけることで死という選択肢にも気付く時が来ると思うのですが
それでもなお生を選ぶ人が多いのは本能によるところが大きいということなのでしょうか。
本能的に選んだ生にそれらしい理由をつけて納得しようとしているということでしょうか。

>動物的なレベルで幸せを感じるので子供ぽい
なるほど確かに!とてもしっくりきました!

お礼日時:2012/04/04 18:06

「何のために生きてるの?」



という設問が悪いですね。

目的があって、その目的を達成する手段があります。
これは連鎖しますが、「生きる」という目的に到達した時点で終点なんですよ。

ですから、「生きる」ことを手段に貶めて、その目的を問うことには意味がないです。

まあ、「意味のないことを論じるのが哲学」とも言えますからイイんですけど、、、。


蛇足ですけど、「幸せを感じるために生きる」という命題が真と仮定すると、幸せを感じることのできないものは生きる意味がないという結論になってしまうから、このような想定問答は回避した方が良いのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

世の中には自ら死という終点(生と死を同列の終点として扱うかどうかはよくわかりませんが)を選ぶ人がいるのも事実ですよね。
この先幸せを感じることができそうにないとみてのことか、ほかの要因があるのか私にはわかりませんが。

お礼日時:2012/04/04 18:07

「人生を通算した精神的充足量の最大化」です。


その『充足量』を決める関数は以下の通り;

生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」に
コントロールする認識力×達成度×それを感受する認識力

人の社会化において、その自己の生命性の社会的拡張の
認識の育成を怠り、自己チューなまま他律的に社会行動を
とらせる“馬車馬の目の前のニンジン”として、お金や地位、
虚栄心が発達したのです。
その社会において「大人になる」とは、そうした「目隠し」に
よって、本当の現実が見えなくなる(社会的二次情報が
“現実”になる)事を意味するのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど「精神的充足」ですか。
「幸せ」よりもそれっぽく聞こえていい感じですね!
そして回答者様は確固たる理論のようなものを自分の中にお持ちのようですね。
私もそういうものを得たいものです。

お礼日時:2012/04/04 18:05

価値観は様々です。



質問者様の仰る通り幸せを感じる為…も有るのです。

もう1つは自分の周囲若しくは社会又は1人でも多くの方々と幸福感を共存し安心、希望、夢、目標、生き甲斐を共有し明るく楽しく爽やかに生きてる事それ自体が楽しい。心から生きてて良かったと思いを共存出来る様に自分が出来る限りの努力をする。人の幸せの為に生きるのも又1つの何の為…ではないでしょうか?…、

死んでては出来ない!生きてるからこそ出来る事を精一杯する為…、
と言っても、何の為…すら考えない、自覚しない人達も多い事も残念な事実ですね。

人間は成仏する(死ぬので無く仏の境涯に成る)為に生きてるとも言えますね。
答えに成ってませんか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

他人を幸せにすることが自分の幸せにもつながるものだという認識でした。
より多くの人が回答者様のような考えを持ってくれればいいなと思っています。

お礼日時:2012/04/04 18:04

歳を取って、死を身近に感じるように


なったからではないでしょうか。

死を間近に想うと、生きているだけで幸せを
感じることが出来ます。
花の美しさがよく解ります。
風のささやきに幸せを感じます。



三日とろろ美味しゆうございました。
干し柿、餅も美味しゆうございました。
おすし美味しゆうございました。
ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。

巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。
喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。

往復車に便乗させて戴き有難ううございました。
モンゴいか美味しゆうございました。」
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そこにある幸せに気付いていきたいものです。
お風呂に入れることに感謝。
ご回答頂けたことに感謝。

お礼日時:2012/04/04 18:03

さまざまな経験の蓄積が人間の感性を磨き、デリカシーが豊かになったのではないかしら、


と思います。
子供だった頃は単純に大まかに物事を分類して考えていたのかもしれません。
幸せを感じる~感受性が豊かになった。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうやら小さな子供の「おいしいー!」とかそういうのとは違いそうですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/04 18:02

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す