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鋭い質問と回答がありましたので、さらに掘り下げるために改めて質問したいと思います。

質問
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情報AとB

情報Aは発信源が特定されている根拠のある確実な情報です。
情報Bは発信源が特定されていない根拠に乏しい不確実な情報です。
AとBの情報が一致した、或いは相似性があった場合には
Bの情報はAに準じた情報として扱われます。
しかし、AとBの情報が一致する点がない、或いは正反対であった場合には
Aのみが取り上げられ、Bは消去されてしまう可能性があります。
いわゆる消去法による情報選択です。
そこで
消去枠におけるBの情報量が膨大な量となった場合を仮定すると
数少ないAはBに対して、どれ程の優位性を保ち得るのでしょうか?
検証お願いします。
必要があれば情報Cなるものを加えても構いません。
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回答
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情報Aにいくつかの根拠の上にあったとして、その根拠には、更に根拠が必要です。さらにその根拠にも根拠があるはずです。情報Aはこういったいくつかの根拠の上に成り立っているのだと思います。だから、情報Aを構成する根拠群のうちのどれか一つにでも誤りがあれば情報Aの根拠は簡単に崩れてしまうのではないかと思います。Bの方は、一つ一つの根拠は殆ど無いに等しかったとしても、それが膨大に集まってくれば根拠になると思います。一つ一つの情報の重要度は低いのでAに比べると打たれ強い情報だと思います。Aのピラミッド構造の根拠が崩れることと、Bの統計的な根拠が崩れることと、どちらがありそうなのか、という比較になると思いますので、Bの数が膨大になってくればAを疑う必要が生じると思います。
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私見としては・・・

公理という地盤を基に事実を組み立てていくのは理論上可能であるが
現実世界は公理の正しさが保証されているわけではない。
だから、疑いだせば「そもそも対象が存在するのか」という推論までいってしまう。
そこで、蓋然性というものを持ち出して、もっともらしいらしいものを確定し除き、絞り込んで推論してゆく。

別の見方をすると

目的により根拠の質をどこまで求めるのか決定される。

さらに別の見方をすると

ここでいう事実というのは、絶対的事実というものではなく、論理的に絶対的に正しい筋道をとっているかということではないのか?

つまり、「事実をもとに」と表現する場合、事実かどうかよりも論理的飛躍がないかという意味ではないのか?

A 回答 (9件)

元の質問に回答します。


元の質問
情報A=発信源が特定されている根拠のある確実な情報
情報B=発信源が特定されていない根拠に乏しい不確実な情報
情報Aと情報Bの情報が両立しないものであった場合、情報Bは誤った情報として扱われる可能性がある。
情報Aと整合する情報が少数で、情報Bと整合する情報が圧倒的多数である場合、情報Aはどのように扱われるか。
 
「根拠のある確実な情報」の内容によります。
情報A:私は釜石の東地区の大田二郎です。津波の時は長崎にいたので、私は無事でした。
情報B:石巻東区は全滅だそうだ。助かった人は一人もいないって聞いた。
情報Bが1万件あっても、情報Aの1件が優位です。
 
情報A:富士山周辺の観測データでは、特に異常はない。近日噴火の可能性はない。
情報B:富士山噴火の前兆が写真に写っていた。2012年富士山は噴火し世界は滅亡する。
情報Bの類を口にする人が千人で、情報Aが気象庁火山監視・情報センターなら、情報Aが優位です。
 
情報A:ネス湖に大型生物がいる。これが証拠写真だ
情報B:私はネス湖に行ったけれど、大型生物は見ていない
情報Bの類を口にする人が千人で、情報Aが特定の20人なら、情報Aが優位とは限りません。
UFOや、宇宙人情報に関しても、同様の傾向があります。
 
情報A:日本の旧石器遺跡は、A,B,C,D等です。発見された遺物がこれです
情報B:情報Aはインチキだ
情報Bの類を口にする人が百人で、情報Aが五千人でも、情報Aが優位とは限りません。
 
件数の大小や、示された物証や写真などをただ見ただけでは、情報Aの確かさが証明されたことにはならないこともあります。
新しい科学知見の多くは、それまで情報Aとされていることを否定するようなものであることも多いです。
情報源が明確でない、いつの情報であるか明確でない、根拠の確かさを立証するものが不足しているか怪しいと言うことも多いのです。
しかし、現実には、情報源、その根拠、いつの情報に基づくかなどは明らかにされずに、情報は流通します。
教科書に記載されている内容は、そうしたものの見本のようなものです。
新聞報道や科学雑誌も、ほとんどそうした根拠不明確なものです。
全部を疑ったら、何も進みません。 事実の確認は困難です。
通常、権威をベースに信用します。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

データとそれをもとにした判断をわける必要があります。

お礼日時:2012/04/24 08:51

情報AとBの議論には、はじめから限界があります。

極めて客観的な視点から観ればBが如何に大量であっても全て直ちに排除されるからです。

まず、情報の受け手Zの存在が必要で、その情報の受け手の主観が議論されないと質問が正しく理解されないと思います。

ご質問者様の論理の飛躍というのは、客観的根拠に基づかない主観的判断のことではありませんか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

主観的判断というよりも思い込みという印象です。

お礼日時:2012/04/22 21:26

論理的であるかどうかの確認も、人間が行っています。


論理的に思考することができる人間が大多数であるとも言えません。
世界のほとんどの人が論理的な思考が実はできていない可能性だってあります。
「AならばB,BならばC、このときAならばC」という3段論法ですら、
地球人全員が何か勘違いしている可能性だってあります。
となると、「絶対に正しいことを絶対に証明、あるいは確認すること」は、
地球人である我々には、まず不可能といえます。
これはまず、間違いのないことでしょう。

そのうえで、状況に応じ、必要に応じ、情報の確かさを求めることになりましょう。

 たとえば、
 明日が雨かどうか。
 明日が長篠の合戦なら必死になって考えますが、今の私にとってはどうでもいいことです。
 天気予報が言っていることを、疑うなんて面倒なことは、この場合しません。

 しかし逆に、放射能による食料汚染に関する問題については、
 いろいろ情報を集め、自分なりに「おそらくこうだろう」と思うところがあります。
 このとき、私は自分の思考に対して、また専門家などの意見、各種資料に対して、
 情報の確かさ、論理性を追及しています。

つまり、「情報の正確さ」を絶対的に保証できない以上、
状況に応じて、それなりの正確さを追及することになる。

ということかとおもいます。

私たちは永遠に神の視点を手に入れることはできないがゆえにです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「AならばB,BならばC、このときAならばC」という3段論法ですら、
地球人全員が何か勘違いしている可能性だってあります。

詳しく聞きたいわけですが、またあらためて。

お礼日時:2012/04/24 08:46

ここでいう事実というのは、絶対的事実というものではなく、論理的に絶対的に正しい筋道をとっているかということではないのか?



○事実には絶対的事実はありますよ。例えば、地球上ではどこでもりんごは高いところから低いところに落ちます。これは、ニュートンやアインシュタインがどう数式を立てようが変わらない事実です。太陽が東から昇って西に沈むことも同じです。このように絶対的事実は、人がどのような公理を作ろうが無関係に存在するものです。
逆に、人が論理的に絶対的に正しい筋道を立てたとして作られた公理は認識力の拡大に伴い、崩れていくものです。ただ一つでも反証が見つかれば、その時点で公理は公理でなくなってしまいます。最近では、ハイゼンベルグの不確定性原理に反証が出てきて、実際の実験でも証明されてしまいました。物理学者はどういうかわかりませんが、アインシュタインの言う、神はサイコロを振らないということが正しくなってきました。
つまり、絶対的事実に基づかないどのような公理も定理も不確定でしかないということになります。
多くが信じる論証があるとされる情報が正しい情報というのは一般的な流れですが、正しさはそれ自体に絶対性を含むものですから、どのように多くが信じようが、絶対性を含まないものは時代の波間に消えていくものです。ソクラテスは無知の知とそれを呼びましたが、砂上の楼閣の頂点にいたとしても風で消えていくということでしょう。
つまり、もしかりに情報Aが絶対事実(真理)を含むものであれば、100万の異論Bがあれど、残っていくものということですし、逆に、そうでなければ、正しさを含む情報Bの一片により排除されるということかと。
情報は人知や信じる者の大小で取り扱うべきではなく、真理を含むかどうかで取り扱われるべきものと思います。
少なくともまっとうな哲学はそうありたいものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/23 12:22

目的により根拠の質をどこまで求めるのかが決定される、としましょうか。


これを無条件で使うのはいいんですかね?
まぁ、目的のためだしいいか。



絶対的ではないという前提で使われる『事実』の根拠とはなんでしょうか。
もちろん一般的には観測可能な蓋然性、斉一性をその根拠とするわけですが、
おっしゃるとおり、それすら"絶対的に"確かなものとはいえないですよね。
では何故、人間の社会はこれを正しいと認めるのか。


それは、目的により根拠の質をどこまで求めるのかが決定されるためです。


つまり、結論を出すため、という合目的性によって成立した
言語概念が『事実』であり、そもそもとして結論を出すための
合目的性によってのみ成り立ちうる概念なのですから、
『事実』とは性質としての合目的性、すなわち結論の導き手たる
公理としての性質を既に含意しているのです。




ここまではいいですよね?本題はここからです。

この絶対的事実ではない、合目的性事実をもとに論理を
展開した場合、常に『論理として正しい』とは限りません。
ここは注意しなければならない点であって、つまり
『事実を基に論理展開しても論理的飛躍が生じる場合がある』のです。


どういうことか。
事実は、その合目的性としての性質が故に、深刻な矛盾を
内包してしまうことがあるのです。

論理学では対立する2概念のうち片方が真・片方が偽の場合で、
それを同時に成り立たせる場合のみを矛盾と呼んでいます。
一般的に使われる『矛盾』よりは範囲が狭いのが特徴ですね。

両方真ならばどうなるか。部分的に対立が起きますが、
単純に母集団の違いとして(一般的な意味での)矛盾なく、認識可能です。
論理学でも矛盾とは呼ばず、(小反対)対当といいます。

解りにくいので例をあげると、全ての鳥は飛ぶ。一部の鳥は飛ばない。
これは矛盾です。
一部の鳥は飛ぶ。一部の鳥は飛ばない。(両方真)これが対当。


では対当する2概念があったとして、共に偽の場合、どうなるか?
事実が合目的性であるが故に、言語概念の不合理さが現出するのです。
論理学ではこれを反対対当と呼んだりします。

例として・・・

四角い円は丸い。
四角い円は丸くない。

という2つの『事実(ただし偽)』を基に正しい論理は導くことが出来ません。
この2つの命題は前提である言語概念の不明瞭さへの否定を必要とするのです。
そしてその否定の為の事実・論理は存在していないのですから。
よって、『事実を基にしても論理的飛躍が生じる』場合がありえるのです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

>この絶対的事実ではない、合目的性事実をもとに論理を
展開した場合、常に『論理として正しい』とは限りません。
ここは注意しなければならない点であって、つまり
『事実を基に論理展開しても論理的飛躍が生じる場合がある』のです。

伝達ミスなのでしょうか・・・
私が述べたかったのは、近似値である事実も事実間の関係性においては絶対的な正しさをもてるのではないか?ということです。

例えば、車にガソリン20Lをいれ、二日後に12Lになっていた。
原因は、消費された、タンクのヒビから漏れた、盗まれたなどいろいろ考えられます。
また、前提への懐疑として、完璧に20Lなのか、本当に入れたのかなどいろいろ考えられます。
しかし、事実間の関係性において「前提が正しいとするならば、タンク内のガソリンが8L減った」ということは絶対的に正しいといえるのではないでしょうか?

注意すべきは、事実が正しいのではなく、事実間の関係性を正しく表現したという点です。

ただ、こういう場合は「事実をもとに考えてください」という表現ではなく、「正しい筋道で、論理的飛躍をしないで考えてください」という方が誤解が少ないでしょう。

>『事実を基にしても論理的飛躍が生じる』場合がありえるのです。

事実かどうかと論理的飛躍が生まれるかはまったく無関係だと思います。
『事実を基にしても論理的飛躍が生じる』
『事実でないものを基にしても論理的飛躍が生じない』
どちらもありえます。

補足日時:2012/04/22 20:41
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事実とは、人間が合目的に認識しているものだということです。


だから事実と事実の因果関係も当然そうなります。
飛躍である、誤謬性を帯びているという「いじわる」は、
階級社会の言語的問題なのです。
どっちかっていうとそれが心配です。だいじょうぶ?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/23 12:25

A NO.5です。

いや、多分だいたいきちんと伝わっていますよ。
現実世界は公理の正しさが保証されているわけではない。
蓋然性というものを持ち出して、もっともらしいらしいものを確定し除き、
絞り込んで推論してゆく、という話なんですよね。
私の主張は、ここから論理展開の内にこそ絶対的な正しさがあるとするのは
矛盾を引き起こすし、それは絶対とは呼ばないって話です。



そもそも蓋然性とは何であるか。
論理学にも蓋然判断という言葉がありまして、『○○は××であろう』
という形を取ります。対立概念としては必然判断『○○は××である』
なんかがありますね。

お気づきでしょうか。蓋然性って実は推論であって、"絶対的に"正しくは無いんです。
もちろんこれは質問者さんの言葉の使用方法が悪いという意味では全くありません。
これを必然と言い換えても、後述の理由により絶対に正しいとは言えなくなるんです。



その理由とは。前提への言及が発生してしまうことです。
質問者さんもガソリンの例で前提の誤りの可能性を言及していますよね。
これが論理の展開においては、実は軽々しくできない、
全く深刻な重大事であるのです。


なんで前提に言及しちゃならんの?というと。
前提が正しいならば、とわざわざ言及したところで、
それは本当に正しいの?という疑義をも認めることになります。
前提が本当に正しいならば、と再設定したところで
それは本当に本当に正しいの?という疑義を抑えることができないのです。


この間の抜けた循環の最後に、前提が改変不能でかつ絶対的に正しい。異論は認めない!
とするならば、それは現実世界において正しさが保証されているわけではないはずの
公理の誕生であって、もはや論理の出番なんぞはなくなってしまう。

実のところ、前提の改変は、まったく論理展開の外側にある問題なのです。



A NO.5の合目的性云々は、なんで一般社会で蓋然性による判断が正しいとされるの?
という話です。それは人間社会においては合目的性によるものである
ということが一つ。同時に、合目的性における正しさは、未分類の領域のうちに
前提への言及のみで解決できる問題(偽と偽)が発生する可能性を排除できない。
展開に限定したところで、絶対的な正しさとは相容れない概念であるのです。

仮象における推論。それはもはや絶対的な正しさなんて代物ではなく、
流動的な人の間ににみ存在しうるものであるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

詳しく聞きたいわけですが、またあらためて。

お礼日時:2012/04/24 08:47

一般的にまともな報道機関は根拠のない(出処の確認できない)情報を報道することはありません。


Aはにゅーすになりますが、Bはまともには扱われず、いわゆる風評などとして疑問符つきで扱われます。

>情報Aを構成する根拠群のうちのどれか一つにでも誤りがあれば情報Aの根拠は簡単に崩れてしまうのではないか

この場合の情報A’とは情報そのものではなく、情報Aを他の情報で潤色したりして別のものに加工したものでしょうから、一緒くたには出来ません。いはば風評に近い異なった情報になってしまいますから疑われて当然です。

私見以下はよく内容趣旨がわかりませんが
>目的により根拠の質をどこまで求めるのか決定される。

当然のことです。

現実に社会において「事実」ほどいい加減なものはありませんん。絶対的事実なるものは存在しないといっていいと思います。人間の認識には常に限界があるからです。

事実は他人を説得できるだけの品質があればよく、論理的にそれらを構築し使用しなければならないのは当然で、いかにその結果が彼らの目的にかなわなくても、結果を無視して論理的飛躍に走るのは、けだし犯罪に近いことではないでしょうか。

そんなことが日本でも日常におこなわれていることは悲しいことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

詳しく聞きたいわけですが、またあらためて。

お礼日時:2012/04/24 08:48

引用されている質問で「根拠の根拠」の回答をした者です。


私は絶対に正しい事実というものを信じません。何かを信じなければ先へ進めませんから、それらしいと思うことは信じます。しかしだからといってそれを決して疑わないと予め決めるということはありません。疑う必要が生じた時に素直に疑えば良いのではないかと思います。何処までをどれだけ信じるかは各人の個性(信仰の自由?)として尊重されるべきものだと思います。
絶対に正しい筋道というのは、それがあるとすれば自明であるか機械的なものであって、情報を整理する為に多少の約に立つ道具の域を超えることは無いと思います。又、公理を前提にして推論する場合、少なくともそれが自問自答で無い場合には、私の公理と貴方の公理が本当に同じか、という疑いも残ると思います。暗黙の前提も推論に影響しているかもしれません。例えば機械に現実の問題を推論させようとした場合、どれだけの前提条件を如何に「選んで」機械に教えなくてはならないか、ということを考えると、その前提条件を選ぶ行為こそが推論の本質なのではないかという気さえします。人が親切にその問題に必要な情報を選んで教えてあげない限り、機械はフレーム問題に行き詰まって一歩も進めません。
何れにしても、少なくとも真実だと言われていることは、真実である可能性が非常に高いということはあったとしても、100%ということは無いだろうと思います。
情報AとBの話題に戻りますと、例えばこの場で回答されているようなものは典型的な情報Bだと思います。恐らく30年前の常識なら、このような情報が役に立つとは信じられなかっただろうと思います。私なら、情報源も責任の所在もしっかりしていて大手の出版社から出版されている不便な百科事典(死語?)よりも、Wikipediaを選びます。信憑性は自分で臨機応変に判断すれば十分だからです。
最後に、質問文の引用にある回答の「Bの数が膨大になってくれば」という部分で、言葉が足りなかった為に誤解を受ける可能性があると思いましたので少し補足させていただきます。Bの数が多くても、それが互いに関連性を持っている場合は、その数には何の意味も無くなります。Bが数の力を発揮するには、その出所が独立したものでなくてはなりません。これは現実には結構重要な制限になっていて、出所が独立でない為に数がいくら多くてもBが力を持たない場合というのも多いと思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

素朴な疑問から始めたのですが、フレーム問題に行き着きましたか・・・少し感動しました。
と同時に私が求めていたのはメタな作法=無知の知ではないかという気がしてきましたが
仕切りなおしが必要ですね。ひとまず締めます。

皆様、そのときはよろしく。

補足日時:2012/04/24 08:21
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