No.1ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
★ 1)・・・これが自分の限界なのだなと感じます。
☆ この《限界感》が 信仰の芽生えです。信仰です。
宗教は 信仰内容をわざわざ言葉にして表わしたものです。
宗教の起こりは 宗教としてではなく 個人の信仰としてです。そのあと 群れるようになった。あるいは群れにとって信仰内容をどう扱いどう活用するかの問題として起こった。
★ 自分を超えた視点で、神を捉えるなんていうことがあるんでしょうか。
☆ 《自分を超えた視点》そのものが 神の視点です。つまり 描き得ません。つまり 先ほどのわが限界の果てです。そこに信仰が芽生えます。
その内容を言葉にしておしえをつくり集団としての宗教としてしまうなら それは少なくとも教義・教祖・教団といった目に見えるかたちにおいて 限界の内側です。なぜなら 人間がそこで動いているのであり人間が運営しているに過ぎないからです。
神は 人間には捉えられません。しかも 《かみ》という言葉をじんるいは持っています。なぜか どの民族どの言語でも持っています。この仮りのしるしをとおして 信仰が成ります。仮りのしるしを 《かみ》という言葉だけにしておかないで 教義をも持つにいたったのが 宗教です。そこに神を閉じ込めたわけです。その神は 死んでいます。
>宗教の起こりは 宗教としてではなく 個人の信仰としてです。そのあと 群れるようになった。あるいは群れにとって信仰内容をどう扱いどう活用するかの問題として起こった。
群れにとって、どう扱いどう活用するかというところが大変参考になりました。
>この仮りのしるしをとおして 信仰が成ります。仮りのしるしを 《かみ》という言葉だけにしておかないで 教義をも持つにいたったのが 宗教です。そこに神を閉じ込めたわけです。
生きた神、死んだ神ということはよくわからないですが、教義をも持つにいたったのが宗教であり神を閉じ込めたのだという考え方は私にない視点で勉強になりました。
ご回答に感謝いたします。
No.10
- 回答日時:
参考までに、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7422217.html での質問で私yangmaskがNo.18とNo.19で回答している内容をご覧いただければと思います。その内容から、目に見えない神が存在することを証明することは可能だと私は考えています。ここで私が言う「神」とはすべてのものを造った造物主、創造者のことなのです。(どちらかと言えばキリスト教的な神ということです。) 創造者なる神は万物を造ったゆえに当然人間をも造ったのであり、それゆえ人間の「父親」と言うことができます。その父なる神は人間にメッセージを送っており、ご自分の真の姿が理解できるように手がかりを与えておられます。
正義を求める純真な心を持つ人たちは神を求めるゆえにその真の姿が理解できるように神ご自身が導きを与えます。逆に、不義を喜ぶ人々は彼らを戒める正義の神を望みません。ですから、各人の主観によって神がいるとかいないとか、どういう姿をしているとか意見が分かれるのは当然のことですが、本当に神を求める人は神に導かれその真の姿を理解できるでしょう。
ですから、神に祈り、その導きを求めることが必要だと思います。その導きなしで独力ではそれを理解することができないからです。
>ですから、各人の主観によって神がいるとかいないとか、どういう姿をしているとか意見が分かれるのは当然のことですが、本当に神を求める人は神に導かれその真の姿を理解できるでしょう。
神への見解が分かれるのは、真の姿を理解していないからですか!
神の素顔が複数見えるということは、神を理解していないということになるのでしょうか。自分で自分がわからなくなってきました。
No.9
- 回答日時:
こんにちは。
興味深いので、あまり責任の持てない回答ですが1.>自分を超えた視点で、神を捉えるなんていうことがあるんでしょうか
もし神を把握できたら、あなたが神を超えることような感じになるので、矛盾した設問だと思いました。
人の脳に、神を理解する機能があるとは思えないので。
2.>やはり、自分の主観に頼っていますか?
のところですが、
逆に考えて客観に頼る方法がありません。
今の物理でさえ、真の客観的事実を解き明かして無いし、ゴールに着くこともまずないと思います。
永遠の幻想の一種、かもです。
考えるんですが、客観的感覚は確かにありますが、客観的事実を知る人はいません。
人は一生客観に接触することはできないと思います。たぶん・・
それは見えてはいるが触ることはできないですし、
客観世界は全て間接的で、ダイレクトにタッチできるものは一つもなく、だからこそ死んだらこの世を去ることになるんですが。
逆に言うと、自分は客観的事物に直接干渉できてる、と思ってる人は、「自分は死ぬつもりはない」と思い込んでる人、死んでしまうという実感のない人とも言えますが。(人のことは言えませんが)
何一つあの世に持って行けないというのは、人は一生生きてる間に 真実、客観的事物に触れることは全くできてないことを指すと思います。それはある種の錯覚、とまで言うと言いすぎですが。
そして主観の方ですが、これは主観というより、自分という主体に頼る、というより主体として体験することになるんじゃないでしょうか?
>神の存在を感じる場所
と書かれてますが、祈りを見てもわかるように、神を見るのは集中が上がる時です。
なので、特定の場所というより、辛くなったりして集中が高まるタイミング、つまり場所より時間、時期、という感じがします。個人的に。
でも教会に行っていつも祈ってそこで集中が上がるなら、その場所ということにもなるのですが。
だからうまく言うなら、どの「場所」と言うよりも、集中が上がる「時」という感じです。
神はもともと、空間よりも時間よりだと思うので。
やや曖昧なのは、僕もよくわかってないので、参考意見程度です。
>主体として体験することになるんじゃないでしょうか?
元々神は把握できない、客観的事実を証明することはできない、と考えると宗教教義が何なのかわからなくなってきます。「体験」をキーワードに本でも読んでみようかと思いました。
>祈りを見てもわかるように、神を見るのは集中が上がる時です。
なので、特定の場所というより、辛くなったりして集中が高まるタイミング、つまり場所より時間、時期、という感じがします。個人的に。
場所より時間、時期というところ、あと神は空間より時間であるというご回答参考になりました。キリスト教徒の方でしょうか?
No.8
- 回答日時:
偶像崇拝を禁止する宗教をAとして、許容する宗教をBとして分けて考えます。
>自分を超えた視点で、神を捉えるなんていうことがあるんでしょうか。
Aはできないと、Bは法王に相当する者の公式見解を採用しなさいと述べると思われます。
>どのような場所で神の存在を感じますか。
Aは、そういう場所は偶像崇拝に繋がると述べると思われます。
>神はいないどころか、様々な顔を持っており、どれが本当の顔だか混乱してくるという場合はどうしていますか。
やはり、自分の主観に頼っていますか?
Aは主観に頼ることは偶像崇拝に繋がると、混乱するのは未熟だからと述べると思われます。
Bは法王に相当する者の聖地に関する公式見解を採用しなさいと述べると思われます。
個人的には、姿を想像しないで信仰を維持することって難しいとは感じません。
むしろ、梵天などの偶像を見る度に「このイメージはゴミになるな・・・・」と溜息がでます。
No.7
- 回答日時:
キリスト教徒です。
八十歳を過ぎたおじいさんの先生のクラスで、一年間、Acts(使徒言行録)を細かに教えていただき、もうすぐ終わりになろうとしたところで、偶然友人宅でピアノを弾いていらした方の紹介で、イコン製作にかかわることになりました。
小さな板切れに、聖書の物語や登場人物をアクリル絵具で描いてゆきます。
一作目は復活祭の前でしたので、ピエタ(死んだキリストに取りすがって悲しむマリア)を教えていただきまして、現在、待望の二作目に取り掛かりました。お願いして、使徒言行録の主役である聖パオロを教えていただいています。一年間、勉強してきた私の、パウロに対する尊敬と理解が、画面に溢れるよう、祈りながら、ひと筆一筆丁寧に塗り重ねてゆきます。
普通の絵画とは違って、最初に人型を黒く塗りつぶし、そこに、神からの恵みを象徴するように徐々に明るい色を塗り重ねてゆく、根気の要る過程です。
私はプロテスタントですが、イコン製作を教えてくださっているのは、東方カソリック教会の神父さんです。教会同士は、水と油で仲が悪いのです。私がパウロ、と呼び捨てにすると、咳払いをなさるので、聖パウロと言い直しています。
私がたまたま絵を描くことで、こうして機縁ができ、今まで学んできたことを、実際に画面に写せるのは、慮外の喜びですし、神の配慮を感じるのです。
健康で働けるのも、子供達が無事に育ったのも、夫との結婚がかろうじて続いているのも、感謝に値するのですが、こうして、全く宗派違いの神父さんやアイコン仲間に受け入れられて、自由に描かせていただいているのは、私達の間に、神への愛が存在するからだと思うのです。
質問者さんからは、あまりにも程遠い生活観で、お役に立たなかったらごめんなさい。
イコン製作が、最初に人型を黒く塗りつぶしてから、色を塗り重ねるというのは面白いですね。
キリスト教はコミュニティの宗教だそうですが、私は独りで学んでいて、教会に献金もできないので今は行っていません。面白いご回答ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
>1)宗教の聖典の解釈に限界を感じる時、これが自分の限界なのだなと感じます。
あなたの理解とか解釈に神がおられると思うんですか。
>人により、異なる神の姿を見て、異なる神を信じているように思えた時期もありました。
限界を標榜しながら異なる神の姿が見えたんですか。それも他人が神が見えるということですか。
>自分を超えた視点で、神を捉えるなんていうことがあるんでしょうか。
他人の神が見えるあなたなら自分の神を捉えることは簡単なはずです。
2)どのような場所で神の存在を感じますか。宗教機関という答えは勘弁してください。
机の上の一輪の薔薇に。床をはうゴキブリに。
解釈における神の存在という考え方はしていませんでした。
人それぞれが異なる神を見ているように感じるというのも、あくまで私の想像です。
>机の上の一輪の薔薇に。床をはうゴキブリに。
お見事!!
No.5
- 回答日時:
1)宗教の限界とは自分の解釈の限界なのでしょうか
○そうですよ。いくら頭で古い聖典を理解しようとしても限界はありますよ。限界があるからただ信じなさいというのも実は方便ですが、方便であってもそれを信じるしかないですね。
でも限界は超えることができることも事実なんですね。これはおそらく特別な人だけなんでしょうね。
遠い遠い昔に経験したことが心の奥の奥にあれば、聖典の言葉がその金線に触れると本当の意味がわかるのですね。その記憶がない場合は限界は越えられませんね。
何千年に一度とはいえモーゼも釈尊もイエスも何度も生まれているのですね。その時を見逃さなかったものだけが、心の奥の奥に金線を持っているということですね。「仰光の徳」といいますね。
イエスはかって「生きて神を見る者は幸いである。永遠の王冠が頭上を飾るだろう。」と言いましたが、この王冠こそが金線ですね。
でも歴史的には、その時、ほとんどの人が生きている神を無視か石を投げるのですね。後代に聖典をいくら読んでもわからないのですね。その繰り返しですね。例えば、神は見えないものと信じきっている人もたくさんいますね。4000年前も2000年前も現代も同じですね。
仏教では天台ちぎが仏典をどこまで読んでもわからない。そこで願を立てるのですね。それが「この身、千貫の岩に砕かれようが、鷲に目を食いちぎられようが、ライの病になろうが、仏陀と同時代に生まれたい。」ですね。つまり直接学びたい。それほどの思いがないと神を生きて見ることはできないし、聖典の意味もわからないのですね。
つまり、「宗教の限界とは自分の解釈の限界」になるのですね。
限界を超えるには「生きて神を見ること」ですね。いつの時代でも必ずご本人たちか代理人が一人は出ていますからその人に巡り合うかどうかですが、まあ難しいことなのでしょうね。だから、ただ信じるしかないのですね。
2)やはり、自分の主観に頼っていますか?
○ 主観しかないですね。1)と同じく、金線があるかどうかですね。
>つまり直接学びたい。それほどの思いがないと神を生きて見ることはできないし、聖典の意味もわからないのですね。
生きて神を見るかどうか、かなりの思いと、心の奥の金線(琴線?)が重要である。。。。
代理といえる人に巡り合うのは難しいから信じるしかないのですね。
No.4
- 回答日時:
1)限界とは、直面した壁を何時までも超えることができない場合であって、壁に直面したからといってすぐにそれが限界ではありません。
Take Your Time! 人生長いですから、”限界は見えない”と考える方がポジティブですね。2)神の存在を感じたことはありません。人生の不条理を考えるたびに神の不在を感じます。
確かに、やや悲観的な人間です。
>人生の不条理を考えるたびに神の不在を感じます
言われてみれば、そうかもしれません。しかし、今更ながら「不在」となると今迄の道程は何だったのかとなるので、後へ引けない状態です。
No.3
- 回答日時:
理詰めの回答が出たところで、“情詰め”の回答を試みます。
内容は小学生レベルで至って低いのが、はずかしいけど。
宗教といえば普通、神やほとけの世界の事を指しますが、その神やほとけは「善」の象徴と言えます。
人の心は喜怒哀楽の感情と共に、なぜか善悪の理的な心理も現れます。
善も悪も心に現れると言うことを、神も悪魔も心に住んでいるのだと思えば、人の心の「良心(優しさとか)」と言うものは、神の心が自身の心に反映したものと言えます。
そうすると、自分の好ましいほうの心、「良心」を信じる事が神を信じる事になるはずで、でもそう簡単に自分の「良心」を信じる事なんてムリ。そんな教育は受けてきてないから。
それに「良心」と言っても、人によって大きさや内容はさまざまなので、それぞれが「良心」を育てる必要がありますし、 そうして段々に「良心」が好ましく育ってくれば、徐々に自分を信じられる様になって来るものです。
宗教に接する時は自分の好ましいほうの心、を足場として学ぶことが大事かと思います。
そして自分の好ましいほうの心に従う事が、神の心に叶うのだと思える様になりましょう。
>宗教に接する時は自分の好ましいほうの心、を足場として学ぶことが大事かと思います。
そして自分の好ましいほうの心に従う事が、神の心に叶うのだと思える様になりましょう
はっきりと、こう言われたのは初めてです。
ご回答ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
「宗教の聖典の解釈に限界を感じるのが自分の限界」と
いうよりも、自分の認識力の限界において、宗教に依存
するのである。
何やら全知全能の神が「エイヤッ!」と天地創造したので
あれば、奥深い量子論による不確定性ゆらぎによる宇宙の
起源について頭を悩ます必要もなく、神の定めたモラルに
従って済むのであれば、世界に拡張した自己の社会生命
性の自覚化における反エントロピーとして生きる意味に
ついて洞察する必要もない。
日常的なセンスの延長で、世界観や価値観が完結する
のでとても楽である。
>自分の認識力の限界において、宗教に依存するのである。
洗脳という人がいますが、依存しているのでしょうか。
>神の定めたモラルに従って済むのであれば
それだけでは済まない、確かにそうかもしれません。宗教を勉強してから、考える事が増えたような気がします。
宗教で楽になる人って完全に依存している人でしょうか?
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