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中国は19世紀頃、どうしてヨーロッパの科学技術を取り入れようとしなかったんですか? 中国は、他の国の事には全く興味がなかったんでしょうか。 日本は、ヨーロッパの技術を積極的に取り入れたから、今に至ってると思う面がありますが、日本が積極的になったのも、中国がアヘン戦争で負けたのを知ってるから、素直にヨーロッパの技術を吸収しようとしたんでしょうか? 当時中国が植民地になったのに対し、小さな日本がヨーロッパの植民地にならなかったのも不思議なんですが、どうしてでしょう? 中国は19世紀まではアジアの中で1番パワーがあったはずなのに、あっさりと日本に抜かされて、なかなか追いつけないという現実がどうして起こったか分かりません。 この2つの国の差は何なんでしょうか?

A 回答 (4件)

ご質問の中にいくつか誤解があるようです。



まず、一番大事なことは「中国が他国の植民地になったことはない」ということです。19世紀半ばからの一連の歴史の中で、属国であった越南(ヴェトナム)や朝鮮の支配圏を奪われました。また香港をイギリスに割譲したり(厳密に言えば割譲したのはいわゆる「香港」の中のほんの一部であとはイギリスが租借したものです)マカオをポルトガルに与えたり、台湾を日本に取られたりで領土の一部を失っていますがそれだけであり、中国本土の支配権は維持していますから、これを植民地であったとはとても言えません。

高校の教科書などでは「経済支配」とか「半植民地化」と書かれているはずです。なお、中国の半植民地化の進展については日清戦争により、巨大な賠償金(2億両:当時の清朝国家予算のほぼ3年分)を日本に支払うことがそのきっかけを作ったとも言えることを記憶してください。日本はその賠償金を原資として資本主義を発展させますが、逆に中国は欧米からの莫大な借款に苦しむことになります。

次の誤解は「ヨーロッパの科学技術を取り入れようとしなかった」わけではないということです。日中や西欧との科学技術の差はまず武器の差として現れますが、これは理解しやすくもあり(降伏するとか頭を下げるということとは無関係に)積極的に輸入しようとしていますし、また両国にそれだけの経済力もありました。すなわち、幕末期の日本で「和魂洋才」という言葉があったように、同時期の中国でも「中体西用」という言葉があり、積極的に西洋の技術や物を輸入しています。余談ですが、米国南北戦争(1861-65)で大量生産された武器は戦後に余剰兵器となって大量に輸出されますがその大口輸入元は日本と清国です。ただ、科学技術の輸入だけで近代化が進展し、経済発展するわけではありません。

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それでは日本と中国にこれだけ差がついた原因を説明しますと日中国家体制の違いとその変革の遅れが一番大きなものです。

ご存知のように日本は徳川幕府が各藩を支配している封建体制であったのが、西欧近代社会の優位性をもたらした憲法と議会政治という制度を明治維新という革命を通じていち早く導入に成功しました。

これに対して中国は皇帝専制体制であり、儒教を基本教養とする科挙によって役人を選ぶというように、政治の仕組みからすると完成された体制でありました。この仕組みがうまく出来すぎていたことと官僚層の腐敗の為にかえって体制変革の必要性を理解しにくく、理解した時には経済支配が進行していてもはや遅かったとも言えるでしょう。

そのまた一方で辛亥革命からの近代化の時期に19世紀から20世紀にかけての最先端流行思想であった「社会主義」を求める勢力も成長して1930年代には一大勢力となったために結果として内乱を助長・拡大したことも大きな原因でしょう。


日中の差を簡単に要約することは難しく、その考えられる要因の一つ一つを検証していくことは膨大な手間を必要とします。私が書いたのはごく大雑把なことだけですが、chiesyさんもさらに勉強することで理解を深めていただきたく思います。
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 科学技術と結びついた経済が重要だと


アジアで認識されたのは、日本の成功が
あったからです。

 また19世紀の中国は国内も安定して
いなかったので、科学技術を取り込む
余裕がなかったのでしょう。

 西洋の国々は敵国だったわけですから、
相手もわざわざ敵国に教えないし、
中国も敵国には聞けないとゆう状態だった
のだと思います。

 日本の開国は、簡単に言うアメリカの
無血戦争というか、攻撃こそなかったものの、
黒船に負けたわけで、事実上江戸幕府は
敗戦国政府ですから不平等条約を結ぶ
しかなった。
 アメリカにしてみれば、開国は日本の
植民地化と同じですから、貿易の中継基地
としての日本をいろいろと面倒みて
くれたわけです。

 江戸時代の日本人は、平賀源内さんの
ように目ずらしもの好きの人も多く、
刀職人など金属の加工技術を持つ人が
多くいた。
 そこに、黒船という西洋の最新技術に
負けた、国を守るためには科学技術が
必要という意識が芽生えたので、急速に
多くの人が学んでいったものと思います。


>この2つの国の差は何なんでしょうか?

1)日本のほうが国内が安定していた。
2)あっさりと軍門に下ったので、
 その後は西洋からいろいろ聞きやすい
 立場になった。
3)鎖国が長かったので、黒船という最新技術への
 衝撃が大きかった。

 という差ではないでしょうか?

中国など20世紀に入っても、西洋と日本の
領土戦争の舞台になっていましたし、
その後は国内に革命の嵐でしょ。
人民をまとめるだけで精一杯だったのでしょう。
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その国土を取りまく、そのときの世の流れがそうだっただけだと思います。



中国も元の時代、海外からも海外へも親交を深めていました(侵攻も)
当時地図を正確に描けない時代にもかかわらず、アフリカの地図もすでに入っていましたし、いろんな海外の情報や、中国ではめずらしい物産食品、新しい陶器鉄器の技術なども海外からのものだったはずです。

日本は海に囲まれていることや、鎖国と一般に言われている状態も一時期長くつづき、その後の明治あたりから急に西洋からの情報や技術を積極的に取り入れていったようなイメージがありますが、鎖国中ももちろん、あるいははるか聖徳太子の時代からも、海外からの情報や文化が入ってくるような素地はありました。仏教や景教(キリスト教といわれている)が入ってきたのもこの頃からです。

海外を見ると、現在のヨーロッパがまだ産業革命前は小国が混沌としており、それに比べてアラブの国々は当時はるかに優れたいろんな技術や情報を持っており、それがヨーロッパに伝播され、ヨーロッパが力をつけていった流れもありました。
コーヒーやコショウの栽培法は、アラブが起源と言われています。

一国としての現在もしくは今世紀の中国だけを見てしまうと、他の国との断絶や独自文化に固執した面が見えてしまいますが、どの国もどの土地も、大きな歴史の流れの中では、海外と交流を持つ時代もあれば、交流がまったく無くなったり自ら断ってしまう時期というのは、あるのだと思います。
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中国は欧米諸国の植民地時代と排他的な初期の共産主義が科学技術を遅らせた原因だと思います。



1.欧米諸国の植民地
   当然、植民地の科学技術が進むことを支配している国は望みませんよね。香港などはつい数年前までイギリスの植民地でしたよね。

2.初期の共産主義
   初期の共産主義は日米欧の資本主義と比べ競争原理はなく、資本主義の国と国交をほとんどしてなかった為に最新技術導入に大きく遅れをとりました。

日本へそれに比べ、アメリカの子分になり資本主義の一員になって朝鮮戦争・ベトナム戦争と経済発展のチャンスを得て急成長しました。
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