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 ブディズムの再生はあるか。

 ( a ) 《信仰》という一人ひとりの動態においてしかないのではないか?

 ( b ) 《神を信じない》つまり《無い神を信じる》つまり一般に《信じないと信じる》という類型の信仰を持つと確認することから 再出発することではないか?

 ( c ) なぜなら マハーワイローチャナ(大日如来)やアミターユス(阿弥陀如来)とそれぞれ名づけられた《神とその信仰》が やはり類型的に 上の無神論なる信仰と同等にあり得ていると考えられるから。

   *

 ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。

 |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|

 ○ 神道
 |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|

 ○ ヒンドゥーイズム
 |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|


 ○ ブディズム
 |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|

 |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|

 |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|

 ○ 聖書
 |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|

 |キリスト|無し|名を受け容れる|

 |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|
 
 ○ 西欧古典古代
 |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|

     *

 ( e ) 《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。

 ( f ) ブディズムは もし死んだのなら 葬送の儀礼をしておくとよいと考えられますか?

A 回答 (19件中11~19件)

 「空」は信仰の問題ではないと思います。



 この世の理を説明するために使われた言葉であって、“信仰”と結び付けると脱線してしまうのではないでしょうか。

 現代の彼のお坊さんは、この宇宙は絶対的観念態で、それが世界の相対的に物象心象の二現象となって現れており、それは本質が同一観念態の相対的現象なのである、と云っていますがこのことを釈尊は「空」と表現したんだと思います。

 語弊があるかと思いますが、“つかみ所が無い観念態”故に「空」と表現するしかなかったのでしょう。

 この「空」の捉え方の違いから、お互いの考えの枝分かれが始まるように思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ・・・それは本質が同一観念態の相対的現象なのである、と云っていますがこのことを釈尊は「空」と表現したんだと思います。
 ☆ そうですよ。そして そこまでは大方の理解は一致しているはずです。

 そのあと 《中核》は どうなのか? が問題です。

 何もない あるいは 有るとも無いとも何も言わない。ということでしたら それは 相対主義というひとつの思想です。
 突き詰めて行くと けっきょくふつうは無神論に行き着きます。つまり その無神をも 別の概念として《空》とよぶという見解もありうるわけです。
 単純にそのことを ここでは提案しています。

 でも そのことは――けっきょく《信仰》にまで行き着くという意味ですが―― はっきり言わなければならないことだと考えます。

 おそらく有神論――たとえば 梵我一如のアートマン――か あるいは 無神論か これらふたつの場合しかあり得ないと思いますが もし経験世界についての世界観として《空》を打ち出すとしたら 言ってみれば《信仰》の次元にかんしては その空でもないとしたら 《第三の道》としておのれの立ち場をはっきりと明らかにしていなければ その思想は活かされないでしょう。

 《相対主義》のままですと たとえば《善は悪 悪は善 何でもあり》といったのっぺらぼうの世界観に落ち入ります。声の大きい者がそのチカラにまかせてこの世を支配するといった思想です。

お礼日時:2012/07/09 21:20

 釈尊の教えを“脅し”と見るのは普通の人の“我”の反発心。


 “我”は己の保身が役目。
 でも、その“己”は“核”ではなくそれを取り巻く“殻”。

 釈尊は、“核”の存在を経の中に顕わしている。
 だから、釈尊に学ぶのならば“核”に目を向けなければならない。
 釈尊に帰れ、なんて主張もまま見受けられるように、ブディズムも捨てたもんではないと思います。

 ブディズムの解釈にずれがあるのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 釈尊の教えを“脅し”と見るのは普通の人の“我”の反発心。うんぬん。
 ☆ これは 次のわたしの発言について述べられたものと思います。

 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~
 さとりとは ブッダとブッダとでなければ分からないといった殺し文句・・・
 〔これは〕 ゴータマ・ブッダの犯罪だと考えます。おどしがついているからです。
 ~~~~~~~~~~~~

 たしかに今思うと舌足らずでしたし 《おどし》はあまり言っても無駄だとも思います。日蓮による他宗排撃などは 取るに足りぬとせねばならないことでしょうし ブッダが人びとのことを無明の中をさまようというように言ったりしても これもやはり取り扱う必要はなかったと思いかえします。

 犯罪だと言ったのは けっきょく《われはブッダなり》と先に言った者勝ちという様相を呈していると考えるからです。人気が高いのだから その説くところをまなばねばならないということになるだけだと見られます。
 〔だから わたしたちも《われはブッダなり》と言うということを提唱しています。その亡霊から離れ去るためにです〕。




 ★ 釈尊は、“核”の存在を経の中に顕わしている。
 ☆ その《核》が どこを探しても見当たらないというのが ここでの物言いです。

 《経》から 引いてみておきます。
 ▲ (《人を迷わすおしえ》) ~~~~
 師(ゴータマ・ブッダ)は答えた。
 ――マーガンディヤよ。わたくしはこのことを説く ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って 諸々の見解における〔過誤を〕見て固執することなく 省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。

 マーガンディヤがいった。
 ――聖者よ。あなたは考えて定説を固執することなしに 《内心の安らぎ》ということをお説きになりますが そのことがらを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?

 師は答えた。 
 ――マーガンディヤよ。見解によっても 学問によっても 知識によっても 戒律や道徳によっても清らかになることができる とわたくしが説くのではない。無見解・無学・無知識によっても 戒律や道徳を守らないでも 清らかになることができる とも説かない。それらを捨て去って 固執することなく こだわることなく 平安であって 変化的生存を願ってはならぬ。〔これが内心の平安である〕。

 マーガンディヤがいった。
 ――もしも 見解によっても 学問によっても 知識によっても 戒律や道徳によっても清らかになることができないと説き また無見解・無学・無知識によっても 戒律や道徳を守らないことによっても 清らかになることができない と説くのであれば それは 人を迷わすおしえである とわたくしは考えます。見解によって清らかになることができる と或る人々は考えます。

 師は答えた。
 ――マーガンディヤよ。あなたは〔自分の〕の見解にもとづいて尋ね求めるものだから 執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの〔内心の平安〕について微(かす)かな想いをさえもいだいていない。だからあなたは〔わたくしの説を〕人を迷わすものだと見なすのです。
  《等しい》とか《すぐれている》とか 或いは《劣っている》とか考える人 ――かれはその思いによって争うであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人 ――かれには《等しい》とか《すぐれている》とか 〔或いは《劣っている》とか〕いう思いは存在しない。
  そのバラモンはどうして《〔わが説は〕真実である》と論ずるであろうか。またかれは《〔汝の説は〕虚偽である》といって誰と論争するであろうか? 等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人は 誰と論争にかかずらうであろうか?
  住宅を捨てて 住所なくさまよい 村の中で親交を結ぶことのない聖者は 諸々の欲望を離れ 未来に望みをかけることなく 群集に対して異論を立てて談論をしてはならない。
  竜(修行完成者)は諸々の〔偏見を〕離れて世間を遍歴するのであるから それらを固執して論争してはならない。たとえば睡蓮や棘のある蓮が水にも泥にも汚されないように そのように聖者は平安を説く者であって 貪ることなく 欲望にも世界にも汚されることがない。
  ヱーダの達人は 見解についても 思想についても 慢心に到ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは行為によっても導かれないし 学問によっても導かれない。かれは執着の住所に導き入れられることがない。
  想いを離れた人には結ぶ縛(いまし)めが存在しない。知慧によって解脱した人には迷いが存在しない。想いと見解とを固執した人々は 他人と衝突しながら 世の中をうろつく。

 〔中村元訳:『ブッダのことば――スッタニパータ――』1958  第四 八つの詩句の章 九 マーガンディヤ(八三五-八四七)〕
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ここには《核》はないでしょう。そしてそのことは 言いかえれば ただカッコウをつけているだけだとも見られます。重ねて述べれば 中身はないということ これです。
 だから ゴータマ氏は 人びとの同情を買い 大勢の弟子たちをともない得た上で そのほんとうには内心にある心の大きなシコリを直してもらいたかった。けれどもその《ええカッコウしい》ぶりは とうとう直らなかった。
 かれの慰霊にとりくまねばならないと思う人は 今でもそうしましょうし いや それはただの亡霊だと見る人は もう《唯我独尊》のままにして放っておきましょう。

お礼日時:2012/07/09 08:20

お早うございます。



>ブディズムの再生はあるか<
 これは、日本人は望んでいないと思います。

私は、この部分を仏陀の教えは正しいけれども、誰も理解できないと訂正しておきます。
仏陀の教えは、中道なんです。虚無主義の教えにも見えますが違います。
また、蛇使いが蛇を操るのは、音ではなく、振動による恐怖からです、(何故なら、蛇には耳がありません)蛇は、脊椎動物の最も単純化した生き物です。同じように、理性が無くなり怒りに満ちた人間は、操り安いのです。人は、この怒りを、全身のエネルギーと勘違いします。これも間違いです。
たぶん、仏陀が教えたかったのは、生命の繋がり(思いやり)、自然治癒力、中道、「空」等だと思います。個別指導的教えです。 
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この回答へのお礼

 てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 初めに前回のわたしの応答について おぎないます。
 ☆☆(No.6お礼欄) ~~~~
  ★ ( f )元々、日本の仏教は、葬式で親族を癒すのが目的、先祖の霊に感謝し自分の無事を報告するのが目的ですから、十分その機能は果たされていると思います。
  ☆ この情況について ブディズムは死んでいるとここでは言っています。ブディズムじしんの葬送の儀式をおこなったほうがよいかも知れません。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 遺された家族などの人びとを葬送の儀式で癒すということ これは ブディズムひとりのよくするところではないはずです。たまたま歴史的ないきさつによって 日本では 仏教式の葬儀が広くおこなわれているだけの話です。
 つまり 葬式仏教には ブディズム独自のよさは見当たりません。こういうことではないでしょうか?


 それと同じ趣旨で 次のご指摘が持ち出されているものと思います。
 ★ たぶん、仏陀が教えたかったのは、生命の繋がり(思いやり)、自然治癒力、中道、「空」等だと思います。個別指導的教えです。 
 ☆ すなわちこれらは――つまり《生命の繋がり(思いやり)、自然治癒力》は――ブディズムの専売特許ではないはずです。
 ★ 中道、「空」等
 ☆ は ですからここでひとつの提案のごとく言うように 非思考という概念のもとに信仰という生活における――背景のようなこととしての――動態として捉えないと なかなかその良さが活かされないのではないか? こう問うています。

 信仰の動態――そしてこれは あくまで生活の背後にしりぞくと見ますが――において活かされないならば 中道は 両極の真ん中を採るという中庸とさほど変わらないでしょうし 空は単なる観念論としてあり続けるかまたは虚無主義に落ち入るかでしかないと思われます。 


 ★ また、蛇使いが蛇を操るのは、音ではなく、振動による恐怖からです
 ☆ うんぬんとあるこのくだりは 感性や理性が 感性の発動や理性の成果に対してそれぞれ対処するというのも じつは 理性や感性を大きくつつむ全体としての境地の問題である。と言おうとされているのかも分かりません。

 ひとの存在の全体は 人格とも言えますが そう言っても何のことだか分かりにくいと思いますので 《境地》という言葉を用います。
 そして この境地こそは 信仰のもたらす存在形式だと思われます。
 信仰は 非思考の庭というほどに 理性も感性をも超えています。しかも理性および感性の発現にかかわるものと見られます。

 非思考の庭なる動態こそが――ほとんど目には見えませんし 意識もそのつど確認するときに現われるのみだと思いますが それでもそういうかたちで・つまりは 生活日常の背後において―― 《わたし》という存在をあれこれと みちびくほどのはたらきをしている。こう考えます。
 ★ 音や振動
 ☆ をも超えたけっきょくヒラメキに発すると見られます。(雲をつかむような話ですが)。
 
 ですから 何とか雲をもつかめるように表現しようと思って考えることは

 ○ 音や声を聞いたように思ってそちらへ理屈抜きで甘えて行きつつ しかもじつは 聖なるあまえとして活きている。
 ○ 振動による恐怖のようでありつつ じつは きよらかなおそれをいだいている。

 というような実際であり現実のことです。






 ★ ~~~~
  >ブディズムの再生はあるか<

 これは、日本人は望んでいないと思います。

 私は、この部分を仏陀の教えは正しいけれども、誰も理解できないと訂正しておきます。
 ~~~~~~
 ☆ 要するにと言いますか ブディズムは つねにひとを煙(けむ)に巻くすべを心得ています。そして てふ_てふさんを初め 誰でもと言っていいほど そのすべをからだで知っています。
 さとりとは ブッダとブッダとでなければ分からないといった殺し文句です。そのたぐいの弁明を集めたものが――いちいち日本人ならそれを参照しなくても―― あたまの中に刻まれているということではありませんか?

 ★ 誰も理解できない
 ☆ この一文にひとはなすすべを持たないで来ました。《和を以って貴しと為せ》といった殺し文句と同じようなものです。ひとを黙らせる飛び道具です。
 この《おろかなならわし》に目覚めませんか? さもないと永遠に日本人は 沈黙の民になってしまいます。
 ゴータマ・ブッダの犯罪だと考えます。おどしがついているからです。
 われわれのあたまの中で たとえ蜘蛛の巣が張っていても いまだになお刷り込まれている観念の(あるいは そうとすれば DNA としての)導水路である。

 
 ゴータマくんよ。あんたは どれだけ世間に対する恨みつらみがあったのか?
 それだけの弟子たちに囲まれそれぞれあたたかい助言を受けても まだまだ こころはやわらぎも やすらぎも得られなかったのか?
 世間との和解が 死んでも死にきれず 成らなかったのか?
 その亡霊よ やすらかにねむりたまえよかし。

お礼日時:2012/07/04 09:48

こんばんは、ブラジェロンさん。



( a )かもしれませんが、「故きを温ねて新しきを知る」ということもありますので。昔の人の思想は、誰にとっても大事ではないでしょうか?また、人は「十人十色」でありますので、宗教を必要としない人や、真言に縋りたい人もいるのは当然ではないのでしょうか?

( b )とは言っても、人間には寿命があります。まして、生まれたばかりの赤ん坊は、人としての知識も経験もない状態ですので「教育」の他に「道徳」としての教えも必要かと思います。それが、今の社会の中で幸せに生きて行く手助けになると思います。「習わぬ経は読めぬ」「門前の小僧習わぬ経を読む」ということだと思います。

( c )( d )については、ブラジェロンさんの引っ掛け質問ですね。
日本の神は、昔から神道ですよ。仏教は災いを癒すために輸入されただけだと思います。日本人は、ブディズムの神々はあまり知らないと思います。ギリシャ神話の神々と同じ程度です。仏陀が日本の神々の一人として加わったのではないでしょうか。キリストも同じだと思います。

( e )これはあまり根拠のない話ですが、予知夢や虫の知らせ、あるいは、霊的体験になると思います。

( f )元々、日本の仏教は、葬式で親族を癒すのが目的、先祖の霊に感謝し自分の無事を報告するのが目的ですから、十分その機能は果たされていると思います。

>ブディズムの再生はあるか<
これは、日本人は望んでいないと思います。神国(八百万の神がいる国)である日本になんでブディズムやその神々が必要なのでしょうか?
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この回答へのお礼

 てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ( a )かもしれませんが、「故きを温ねて新しきを知る」ということもありますので。昔の人の思想は、誰にとっても大事ではないでしょうか?・・・
 ☆ たぶん 《新しき》は 何も出て来ないでしょう 信仰の問題として捉えないかぎり。

 ★ ( b )とは言っても、・・・「教育」の他に「道徳」としての教えも必要かと思います。
 ☆ 《倫理規範は 愚の骨頂》という質問を挙げたくらいです。
 《不妄語戒》を言って何になりますか? ウソをつかないひとはいますか?


 ★ ( c )( d )・・・仏陀が日本の神々の一人として加わったのではないでしょうか。キリストも同じだと思います。
 ☆ ブッダにかんしては おそらく現状ではそのままおっしゃるとおりのようなものなのでしょう。つまり 死んでいます。
 キリストにかんしては 一方でまったくそれと同じ情況だと言わねばならない側面があるのでしょうね。それと同時に 泣いても笑ってもその奴隷状態を突き抜けるチカラが そなわっています。キリストには。心配要りません。

 ★ ( e )これはあまり根拠のない話ですが、予知夢や虫の知らせ、あるいは、霊的体験になると思います。
 ☆ 主観内面におさまる話に限るなら それでも 或る種の信仰体験に属しましょう。そこから何を得て来るかでしょう。広く《霊的体験》なら その主観はひかりかがやくものが得られるかも分かりません。


 ★ ( f )元々、日本の仏教は、葬式で親族を癒すのが目的、先祖の霊に感謝し自分の無事を報告するのが目的ですから、十分その機能は果たされていると思います。
 ☆ この情況について ブディズムは死んでいるとここでは言っています。ブディズムじしんの葬送の儀式をおこなったほうがよいかも知れません。
 
 すなわち
 ★ ~~~
  >ブディズムの再生はあるか<
 これは、日本人は望んでいないと思います。神国(八百万の神がいる国)である日本になんでブディズムやその神々が必要なのでしょうか?
 ~~~~~
 ☆ ブディズムよ 静かにねむりゆきたまえ。

お礼日時:2012/07/01 22:23

 ・・・・・私も頑張って、、、、、



 ブディズムは死んではいません。
 十分生きています。いや生き続けています。
 生き続けているからこそ、ブラジュロンヌさんはこのように、いつまでも“こだわって”しまいたくなるのでしょう。

 それは“反発心”の現れ。
 なぜかと云えば、したり顔をする一部の不遜な“信者”がいる故に。
 その者どもは財産を蓄え裕福な暮らしをし“したり顔”をし、純な人たちを導いているつもりでいる。(怒)

 と、思えばブディズムを生かし続けているのは純な人たちだと思う。
 だとすれば、ブラジュロンヌさんに文句は無い筈。

 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ したり顔をする一部の不遜な“信者”
 ☆ 《信者》と言えば 《信仰》にのっとっているとなるようですから それとしての(見るべき)展開がありうると思われますが ただ これまでの《信心》ですとかのあり方にかんしては 必ずしもきちんとした内容が明らかにされておらず またきちんとした方向が示されているとは思われないように見られます。

 いづれにしましても たぶんこの《一部の不遜なしたり顔》が ほかのふつうに勤勉な信徒たちをあらぬ方向にみちびいているかも分かりません。
 
 言いかえると たしかにそうおっしゃるのでしたら 控えめにして生活実態として《生きている》のかも分かりません。
 そしてこの場合 おそらくほとんど文章などとしてのかたちでは 生きているものはないのではないか? と勘繰られてしまうのですが そのあたりのことは どうでしょう?

 ブディズムの――《信仰》の視点から整理した――サイト・マップは 出来ていないのではないでしょうか?



 いまのところ きわめて大雑把な話として述べていますが 
 ★ 十分生きています。いや生き続けています。
 ☆ ということでしたら こちらの勇み足であるだけではなく ただ誹謗中傷しているだけにもなります。
 あやまらなければなりませんが 要するに いまのままですすんで行ってよい。というお考えなのですね?

お礼日時:2012/07/01 00:31

今晩中に目を通しちゃったよ。


「そんなの」の中身は「私は生きている」これだろう。
批判はもっともだよ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ ブディズムの再生はあるか。

 ★ 「そんなの」すなわち「私は生きている」は ありゃしねー。
 ☆ をとなえることによって 再生するということでしょうか?

 ★★(回答No.1) 仏教は死んで再生するのだよ。
 ☆ 再生と言えば いちど死ぬのがふつうであろうけれど どうも《人間》が死ぬということのようだ。

 まるで分からない。
 比喩なら その比喩を言えば だれでも回答を寄せたことになる。
 武士道とは死ぬことと見つけたり。

 ですから その中身をしっかりと述べないと どういうことなのか 分からない。

お礼日時:2012/06/30 23:57

死にまい進する苦行の果てに何らかの自覚を得ると言うのはどこでもいっしょjなないかな。


本格的な信仰じゃないけど寓話のように聞いた昔の人もそうだったし、私もそうだ。
ほかの方法は知らない。
特に自分ばっかりは良い思いをしようとするほど死が差し迫るようだ。
私はそういうタイプじゃないし逃げるよりも向き合ったよ。

ところで返事は明日の晩に確認するよ。
おやすみなさい。
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この回答へのお礼

 自分の言いたいことを書き込んで回答となると思うのは あまりにも浅はかである。

お礼日時:2012/06/30 23:35

文学してみたよ。




君が存在を認めている事実は虚像である。
真実とはお釈迦様の無の信仰のみにある。
君がそれを悟るためには、お釈迦様に等しく無を悟る事のみであり、それは死を通過することだ。
すなわち君の信仰を殺し、それによって自らも死に、しかるのち無の信仰に転生するのだ。


君が存在を認めている事実は虚像である。
真実とは自らの神への信仰のみにある。
君がそれを悟るためには、人類の野蛮な伝統にのっとって、虚像の無を悟る事のみであり、それは死を通過することだ。
すなわち君の現在の信仰を殺し、それによって自らも死に、しかるのち心の通ったの信仰に転生するのだ。

人によっては受けが良いだろうと言う言い回しであんまり意味が無いんだけどね。
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この回答へのお礼

 ★ 虚像の無を悟る事
 ☆ ちゃんちゃら おかしい。
 《虚像》は 虚像であり 虚像でしかない。《虚像である》ことは 必ずしも《無》ではない。


 いったい何を言っているのか。

お礼日時:2012/06/30 23:33

他でまだ募集中の質問と重なるのでもしかしたら規約違反かもしれない。


とりすがりに動揺するとますます自覚するのだが、「語る言葉は無いから無である」しいて語るとすれば、どうしても「そんなもんありゃしねー」になる。
受け止めては「そんなもんありゃしねー」だけをかみしめる事になる。

そしてうってつけの憎まれ口がこれだ。

君が存在を認めている事実は虚像である。
真実とはお釈迦様の無の信仰のみにある。
君がそれを悟るためには、お釈迦様に等しく無を悟る事のみであり、それは死を通過することだ。
すなわち君の信仰を殺し、それによって自らも死に、しかるのち無の信仰に転生するのだ。

仏教は死んで再生するのだよ。

この回答への補足

 ★ 他でまだ募集中の質問と重なるのでもしかしたら規約違反かもしれない。
 ☆ あちらは ゴータマ・ブッダそのひとに焦点を当てています。
 
 ここでは その後の修正あるいはあたらしい展開 つまりマハーヤーナ・ブディズムやあるいは日本における展開などをふくめての問題です。

 あるいは さらに言えば それらぜんぶをまとめて そのあと どういうまったくあたらしい展開へとみちびけばよいか。これを考えます。

補足日時:2012/07/01 00:13
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この回答へのお礼

 あまりにもわかりづらい。

 ★ どうしても「そんなもんありゃしねー」になる。
 ☆ この《そんなもん》が 何を言っているのかが皆目分からない。

お礼日時:2012/06/30 23:31

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