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こんにちは。
質問というか呟きなのですが、暇なときに回答をお願いします。


新約聖書を最近読破し、ただただ圧倒されるばかりでした
私自身はキリスト教徒ではなく、文学として読んだに過ぎません。
そしたらもう、、今までのキリスト教のイメージが覆されました。
仏教が内面(精神)の宗教なのに対して、キリスト教は神という対象を持つ
外的な宗教だとばかり思ってましたが、全然違いました。
新約に書かれている内容こそ人間の、理性をもつ人間だからこそ
なりうる心の在り方なのではないかと思いました。
学問として見ると、非常に優れた書物ではないでしょうかね
ところが、キリスト教徒の方はこの内容を本当に理解しているのでしょうか?
拡声器を使って神が、神がと言ってるからおかしな事になるのではないですか
ただ信者を集めようとして、その時点で宗教という看板を掲げた
事業に成り変わってますよね。(これは前々からその他の宗教に対しても
感じていた事ですが・・)
イエスがせっかく律法をうまく(うまく、と簡単に一言で言いましたがここが一番
驚嘆した部分です)解釈して、それを世に広めようとしたのに
今日に存在するキリスト教はまったくの別物に思えてなりません。
これじゃあ信者にならないほうがよっぽど良いと思うのですが。
キリスト教というネームをただ広めたいだけですか?
信仰による愛の実践こそが最も大切なのではないですか

宗教でさえ本物でないから、これほど偽者ばかりが蔓延している世の中になったのですかねぇ
と、ふと思ってしまいました。
おっと話にまとまりがなさ過ぎるのでこれくらいにしておきます
ここまで長い長い駄文を読んで下さり、ありがとうございました。

A 回答 (6件)

 こんにちは。



 ▲ (ヨハネ福音1:16-18) ~~~
 ・・・
 16: わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

 17: 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

 18: いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば このくだりを参照して議論を始めますが

 ★ (趣旨説明欄) イエスがせっかく律法をうまく(うまく、と簡単に一言で言いましたがここが一番
驚嘆した部分です)解釈して

 ☆ とおっしゃるように キリスト・イエスにあっては 言葉で表わされたイマシメなる律法の問題ではなくなります。《うまく》それを超えました。
 と言っても 律法のモーセの以前の 信仰のアブラハムに戻ったというかたちであるとも言えるかと思います。
 言いかえると モーセの場合には あくまで一人ひとり個人にとって持たれる信仰が 共同体の存続のためにその集団としての行動(ないし社会生活)に直接につながる行動規範とされました。つまり 組織的な宗教の誕生です。
 アブラハムの場合には つねにおのれの心の中で これこれをむさぼってもよいかどうか考え悩み心を決めました。モーセの場合には すでに《きみよ むさぼるなかれ》といったイマシメとして表わされた言葉が 社会的に共有されるようになりました。



 ▲ (マタイ福音書 22:32) ~~~
 ・・・『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジプト記3:6)とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
 ~~~~~~~~
 ☆ ここでイエスは 《神は 死んだ者の神ではない》ことを言っているのでしょうが まさに見方を別に取れば アブラハムやその子や孫の一人ひとりにとっての神であると言っているとも受け取れます。そのあと 一族や共同体としての社会生活が問題となります。いくら倫理と言っても 集団とその規範は 存在にとって二の次です。倫理でさえ 個人の自由を目指したものだからです。
 アブラハムらにとってそれぞれ信仰は 《わたし》の内面における・《わたし》にとっての動態であって 社会の背景にしりぞいています。


 イエスはまさに この《わたし》にとっての神を指し示した(ヨハネ1:18)。〔だけである〕。個人に固有の《とき》としての・神とのあいだに成るわが心の《非思考の庭》に生きるなら――それが 信仰ですが―― 《めぐみ と まこと》があたえられるだのよと(ヨハネ1:16-17)。
 真理(まこと)を知ったからと言って どうなるものぢゃないという向きには すすんで こう言ったはすです。真理は きみたちを自由にすると。
 
 これでおしまいだと思います 聖書は。



 原始キリスト教と言いますか 初期のキリスト者たちは しいたげられていましたから 集団として組織宗教のかたちを採ったのでしょうが そのあとは要らないわけです。
 あるいはもっと言えば 《わたし》の心なる《非思考の庭》が 目に見える行動にかかわる倫理規範――律法――に取って代わられることは ほんとうには ないわけです。信仰の宗教化は 信仰そのものの自殺行為です。
 よってわたしはここに ローマ教会を初めとする組織宗教は すべてすべからく自己解体すべしと言い張ります。



 独り言にておこたえしました。うまく鐘の音はひびきましたでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かにイエスが望んでいたのは個人の尊重、
精神の解放のように思います。
その結果、今日のような混沌とした情勢になるのも
予期していたのでしょうね。
こう考えると、放任主義に近いのでしょうか。

確かにそれによって良き作用が生じる人も
いるとは思いますが、
そうでない人を感化できるほどの人数ではなかったという事でしょうか。
それでもイエスという人は、人間が持ちうる
理性や、愛といったものを強く信じ続けた人だと思います。

★あるいはもっと言えば 《わたし》の心なる《非思考の庭》が 目に見える行動にかかわる倫理規範――律法――に取って代わられることは ほんとうには ないわけです。

うーん・・・・・思わず唸ってしまいました
非常に考えさせられる一文です。
これこそ私が望むものなのですが・・
もちろん宗教がなくても、
自覚しているかどうかは別にしても
揺ぎ無い信仰(自我)を持っている人は良いですが、
多くはそうではありませんよね。
そういう人たちに是非、聖書の本質を考えてもらいたいのです。

なんかこう言うとマインドコントロールみたいですね( ̄∇ ̄)ゞ


鐘の音の余韻がまだ耳もとを去りません。

お礼日時:2012/07/08 19:06

残念ながら、伝統的キリスト教と言われている信者は、一般的に聖書に無知です。

一部の人は一定の聖書知識があったとしてもごく断片的なものにすぎない場合が少なくないのが実情です。しかし、ゴールはないものの、聖書全体を把握・理解することは可能です。イエスは次のように述べています。

(マタイ 22:36‐40) 「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。 [イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。 これが最大で第一のおきてです。 第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。

確かに私たちはモーセの律法の下にはいませんが、その精神は、
(1)神に対する愛
(2)人々に対する愛
に凝縮されており、そうした精神は新約聖書にも踏襲されています。

一例を挙げますと、マタイ5:21-22です。
(マタイ 5:21, 22) 「古代の人々に対して,『あなたは殺人をしてはならない。しかし,だれでも殺人を犯す者は法廷で言い開きをすることになるであろう』と言われたことをあなた方は聞きました。 しかし,わたしはあなた方に言います。自分の兄弟に対して憤りを抱き続ける者はみな法廷で言い開きをすることになり,だれでも言うまじき侮べつの言葉で自分の兄弟に呼びかける者は最高法廷で言い開きをすることになります。また,だれでも,『卑しむべき愚か者よ!』と言う者は,火の燃えるゲヘナに処せられることになるでしょう。

ここでイエスは、殺人という問題の根本原因が、その暴力的な行為そのものよりも深いところにあることを示しています。つまり、殺人者の心の中に育つ態度が根底にあるのです。もし、人々が敵意や怒りを抱き続けるままにしなければ、計画的な暴力行為はなくなるでしょう。この教えを当てはめるなら、どれほど多くの流血が回避されることでしょう。世界史も大いに異なったことでしょう。
この原則は人間関係など、より身近な所でも役立ちます。

ところで、コリンズ・コウビルド英英辞典は、キリスト教を、次のように定義しています。
“A religion that is based on the teachings of Jesus Christ and the belief that he was the son of God.”
訳:「イエス・キリストの教え、およびイエスが神の子であったという信条に基づく宗教」

著名なオックスフォード英英辞典もほぼ同様の表現を用いています。

つまり、他の方が回答されていますように、イエスの教えを学び、実践することが必要なのです。聖書を読むことは重要です。その際に、その教えの背後にある精神を見失わないようにしなければなりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

聖書の内容というのは
実践的であり、生かし方次第だと思います。
英英辞典は勉強になりました
おもしろいですね。

>その教えの背後にある精神を見失わないようにしなければなりません。
仰るとおりです!
これを聞いて、「種を蒔く人」のたとえの箇所を思い出しました
マルコの章のが一番好きです。

お礼日時:2012/07/15 08:55

No.4のお礼を読みました。

なるほど、確かに、たとえ周りに毒麦がはびこっていても、小麦のように、つまり純粋なクリスチャンの精神を保ちたいという点には同感です。では、イエス・キリストはどのようにして裁きの日に小麦と毒麦を選別するのでしょうか。何が基準となっていますか?

イエスの弟子たちが終わりの日のしるしについて質問した場面(マタイ24、25章)で、イエスは一連の答えを述べた最後に「羊と山羊を分ける」ことを話されました。その羊、つまりキリストに是認される人々(小麦に相当)について以下のように記されています。

「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい。わたしが飢えると,あなた方は食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなた方は温かく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました』。その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり,渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり,裸なのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。すると,王は答えて言うでしょう,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」。

「王」とはイエス・キリストのことです。さて、注目すべき点は最後の「これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです」という点です。逆に山羊(毒麦に相当)のような人々については「これら最も小さな者の一人にしなかったのは,それだけわたしに対してしなかったのです」と述べられています。つまり、「わたし(キリスト)の兄弟」に対して親切にし協力する人たちが是認を受け、羊とみなされるということになります。

では、今日、だれがキリストの兄弟ですか? マタイ7章15から20節にはその判断基準についてこうあります。

「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうに,あなた方はその実によってそれらの人々を見分けるのです。」

ですから、その「実」、つまりその行ないが聖書の基準にかなっているかどうかがそれを見分ける指針となることが分かります。それを見分けた人たちのことがゼカリヤ8章23節でこう預言されていました。

「万軍のエホバはこのように言われた。『その日には,諸国のあらゆる言語から来た十人の者が,ユダヤ人である一人の者のすそをとらえ,まさしくとらえてこう言う。「わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです」』」。

「ユダヤ人」とは文字通りのユダヤ人ではなく、霊的なユダヤ人または霊的なイスラエル人、つまり「キリストの兄弟たち」のことです。(ローマ2章28、29節、ガラテア6章16節など参照) その霊的ユダヤ人を見分けた「諸国のあらゆる言語から来た十人の者」つまり羊のような人々が集まってくることになっています。

ですから、自分が小麦または羊のようなものとして神とキリストに是認されるためには、まずキリストの兄弟たちを見分ける必要があるということができるでしょう。
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この回答へのお礼

再びのご回答ありがとうございます。

舌足らずな文を補足して頂いた形になりましたね
おかげさまで再認識する事ができました。

>ですから、自分が小麦または羊のようなものとして神とキリストに是認されるためには、まずキリストの兄弟たちを見分ける必要があるということができるでしょう。

そうですね。しっかりした目を、耳を、
炯眼をもって生きていきたいです。

お礼日時:2012/07/12 06:33

マタイ7章21から23節で、イエス・キリストご自身がこう言われました。



「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。」

このように、キリストを自分たちの「主」と唱える者たちすべてがキリストによって是認されないということは明白です。それらの者たちはキリストによる裁きの日に退けられ、処罰されることになるでしょう。

では、なぜ神とキリストはこのような「偽物」のクリスチャンたちを放置しておられるのでしょうか。その意義とは? 参考になる事例が旧約聖書の申命記13章1から5節にありましたので挙げておきます。

「預言者または夢見る者があなたの中に起こってしるしや異兆を見せ,『あなたの知らなかったほかの神々に従って歩み,それに仕えよう』と言って示したしるしや異兆がそのとおり真実になったとしても,あなたはその預言者の言葉にもその夢を見た者にも聴き従ってはならない。あなた方の神エホバは,心をつくし魂をつくしてあなた方の神エホバを愛しているかどうかを知るために,あなた方を試みておられるのである。あなた方は,あなた方の神エホバに従って歩み,これを恐れ,そのおきてを守り,その声に聴き従い,これに仕え,これに固く付くべきである。・・・」

確かに、神とキリストの是認を得ることのできる「本物のクリスチャン」になる過程で、彼らは様々な「試み」に遭うことになっています。それで、この「偽物」が放置されている理由の一つとして彼らを「ふるい」にかけるためであると言うことができるでしょう。

その「試み」については、使徒ペテロがペテロ第一1章6から7節でこう説明しています。

「このことをあなた方は大いに歓んでいます。もっとも,現在しばらくの間,やむをえないことであるにしても,あなた方はさまざまな試練によって悲嘆させられてきました。それは,火によって試されながらも滅びてしまう金よりはるかに価値のある,あなた方の信仰の試された質が,イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなるためなのです。」

本物のクリスチャンはこのように「試み」によって、金属が純化されるかのように精錬され、その過程を経てようやく神とキリストの是認を得る者となれるのです。

ですから、本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンがおり、それは今のところ両方とも存在することが許されているのです。その点をイエス・キリストは小麦と雑草の例え話で説明されました。マタイ13章24から30、36から43にありますのでご参照ください。

結局、それら偽物のクリスチャンが存在することは神とキリストのご計画のうちであるということです。使徒パウロがコリント第二13章8節で下のように言ったとおりです。

「わたしたちは真理に逆らっては何も行なえません。ただ真理のためにしか行なえないのです。」
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

マタイ13章は感銘を受けたのでよく覚えています
でも刈り入れの時まで待つのではなく、
なんとか現世で良い種に変えたいものですね。

毒麦の種子が溢れている今日だからこそ
それに流される事のない自我を強く持ちたいと思いました。

お礼日時:2012/07/11 04:30

”キリスト教というネームをただ広めたいだけですか?


信仰による愛の実践こそが最も大切なのではないですか”
      ↑
どんな宗教でも、戒律は立派なのです。
オウムだって、おそらく戒律は立派だと思います。
宗教が大きくなって、金が儲かるようになると
布教したり、お布施を採ったり、力尽くで押しつけたり
するようになるのです。

ましてキリスト教というのは一神教ですから、信者は
その教えが普遍的であると考え、それを他にも押しつけ
ようとする傾向が強くなるのです。

それは社会主義だって同じ事です。
内容は立派なのに、実際の人間に当てはめてみると
独裁と貧困しか産まないようになるのです。

儒教もしかりです。
儒教の教えも立派ですが、現実の社会に適用しようとすると
それは、身内の利益を図るだけになり、汚職が蔓延したり
するのです。

どんなに素晴らしい宗教や教えであっても、現実の人間世界
に適合しかいモノはクソです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

やはり宗教も道具と一緒で、使い方次第ということでしょうか

表向きは綺麗ごとを並べ立てて、内容が伴ってない
ところなどはキャッチセールスとなんら差異はないですね。

お礼日時:2012/07/08 09:58

キリスト教といいながら、「ええっー!?」ということは


本当に多いですね。いい例が米国の裁判の時に
聖書に手を当てて「嘘偽りのないことを誓います」とか
いうシーンです。ブッシュ大統領などがいい例で
キリスト教といいながらどれだけ武力行使したのでしょうか!?
「大量破壊兵器が隠されている」そのような大義名分でイラクに
膨大な戦力を投入し、攻撃し破壊しました。しかしながら
結果はどうだったでしょうか?大量破壊兵器など出てきません
でした。大勢の市民が巻き込まれて死亡。儲かったのは米国の
武器産業だけでした。
聖書を読めば「隣人愛」とか「平和主義」が感じられますが
実際はどうでしょうか?ブッシュ大統領に象徴されるように
全く平和主義ではありません!まさに現代のキリスト教は
偽物のキリスト教と言わざるをえません!
それにキリスト教と言ってもなになに派、○○派などとその派
だけでも数知れずあり、どこの派も自分の主張だけが正しいと
唱えています。本当のキリスト教とは何か!?
この答えは、神のみぞ知るというくらいむずかしいですね!

一つ言えることは、お金の要求やツボの販売の強要や指導者や
教祖と言われる人がいい家に住んでるとか献血はダメとか
合同で結婚式を挙げるとか同性婚を認めるとかいうのは
偽物のキリスト教であるということです。
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この回答へのお礼

さっそくのご回答ありがとうございます。

たしかに歴史を振り返ると、宗教の空しさが
浮き彫りになりますね。
人が宗教を生み出したのに、それを実践できる強さがなかった
という事でしょうか
いや、逆に考えるとそのように弱き存在だからこそ
宗教というものが生まれたのですかね

お礼日時:2012/07/08 09:39

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