これ何て呼びますか

 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中101~110件)

反対要素との比較を踏まえさせずに、


『真善美』は自己目的的な存在を展開させ得るのでしょうか?
http://kanauka.com/kakomon/db/h23t/002.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3% …
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この回答へのお礼

 ★ 真善美
 ☆ も主観によります。主観において決まります。そうして 出来るものならば・また出来るかぎり その内容を言葉に表わし 人びとのあいだで 互いの考えを明らかにして吟味・検討する。これが おこなわれます。
  
 その真善美なるものごとが
 ★ 自己目的的な存在
 ☆ であるかどうか? これも 主観がそう思いそう決めたときに 起きる現象であると考えられます。
 ということは 上に述べた広く人びとのあいだでの公開・吟味がのぞまれます。

お礼日時:2012/09/03 14:55

『他人の為ならぬ情け』さえもが性善説に起因しているのでしょうか?

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この回答へのお礼

 ★ 『他人の為ならぬ情け』
 ☆ ひとのためになるかならぬかは 一概にさだまりません。決められません。

 その《なさけ》と自分が思っている行為をおこなうとき やましさを感じたかどうか。まづは これによって 主観にとって善か悪かを 本人としては 判定します。

 主観も 勘違いやマチガイがありえます。
 また その情けなる行為を受けた人やそれを見ていた人であっても 勘違いやマチガイが起き得ます。

 ひとのためになるかならぬかは 一般論としては 決められません。


 ★ 性善説
 ☆ という呼び方は ここでしていません。

お礼日時:2012/09/03 14:50

滅ぶべき悪は存在していなかったのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7677745.html
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この回答へのお礼

 ★ 滅ぶべき悪
 ☆ ほろぶのは 悪のことですか? 参照サイトの質問は 《人類滅亡》のようですから ほろぶのは 悪ではなく じんるいのことですか?


 まづ悪とよぶ現象は起きると言っています。ウソ・イツワリに始まります。
 その見定めとしては そのウソ・イツワリに生理的心理的な反応としてのやましさを感じるということにあります。
 この悪を ひとはその意志行為としておこないます。
 やましさを感じるという点で――そのような自然本性としての能力があるという点で―― 意志の主体なる存在は 単なる現象ではないと見ます。
 その意味で 自然本性ないし存在を 善と見なします。

 一つひとつの悪なることについては そのことに気づくなら ひとは《われに立ち帰る》ものと考えられます。それは 善の状態だと見られます。

 けっきょくそうすると 悪は 善をその一部分において傷つけ損なうことではないか? 負の善ではないか? 
 
 だとすれば その善の損傷行為としての悪が心の内に顧みられたときには 初めの(元の)善なる状態が回復されたと いちおう 見なされると思われます。


 もし
 ★ ほろぶ
 ☆ という表現を用いなければならない事態が考えられるとすれば おそらくそれは ひとつに善なる状態として存在する自然本性ないしその中軸としての意志行為 これが みづからをまるまる損傷させること・つまり自死行為 これが考えられます。
 あるいはもうひとつに ほかの人の意志行為もしくはその存在そのものを損傷させるという行為 これも みづからの存在をほろぼす意志行為であると考えられます。

お礼日時:2012/09/03 14:45

善行の機会損失の累積は、


埋没費用の回収の為の悪足掻きを促しやすいのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%9B%E4%BE%A1% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD% …
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この回答へのお礼

 ★ 善行の機会損失
 ☆ 善行をすることができるときに それをしなかった。――それだけのことです。別に悪行をおこなったわけではない。


 ★ 埋没費用
 ☆ という考え方もありましょうが では 人間万事塞翁が馬という見方をすべて打ち捨てるということでしょうか?

 費用対効果という――その定量的な――考え方は 阿呆のそれです。

お礼日時:2012/09/03 07:51

真偽判定さえもがネストを構成していて、


価値は自律的にし得ないのではないでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9% …
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7677510.html
http://k-tai.impress.co.jp/cda/article/keyword/2 …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 価値は自律的にし得ないのではないでしょうか?
 ☆ まづ
 ★ 価値は
 ☆ というところは ひとつに意志行為の初めとしての《判断・選択および実行は》と読みかえられるように思いますし またひとつにすでに意志行為がなされたことについて《価値判断することは》とも読み得ます。
 いづれも おのれの意志行為です。

 ★ 自律的に
 ☆ これも 意外とあいまいだと思います。
 利害関係やチカラ関係から 〔あまり使いたくない言葉ですが〕他律的にコトをなさねばならなかった場合 これも けっきょくにおいては 《おのれの自由意志による意志行為》です。みづからの選択と判断による決定であり実行であるとなります。
 だとすれば 自律的か他律的かと言う規定は あまり意味を持ちません。

 ★ 真偽判定さえもがネストを構成していて、
 ☆ 《真偽》は 善悪と捉えてみれば けっきょく次のようなネスト構成と言うのでしょうか?

 ○ 自然本性(特には 中軸としての自由意志)という基礎の上に 行為としての(現象としての)善か悪かがえらばれ実行される。けれども その自然本性という基礎は どちらかと言うと 善である。
 したがって 善なる基礎の上に 現象としての善と悪とが生じて来る。

お礼日時:2012/09/03 00:08

よく分からないのですが、善や悪ではないという状態がこの世の中ではあふれかえっています。

そうすると善でも悪でもない状態を作ることは可能です。また善と善ではない状態を作ることも可能です。また悪と悪ではない状態を作ることもかのうです。そして善と善や悪ではない状態と悪を作ることも可能です。このように考えると、『悪は存在しない』というよりか『悪をなくすことは可能です』というのが本当の意味だろうと感じます。つまり悪を撲滅する事は可能だと言っているわけです。「善と悪は表裏一体」と主張する人もいますがそれは違います。「善と善ではないは表裏一体」になりますが悪というのはつくらなければ存在し得ない概念です。無論その逆もありえますが悪をなくすことは可能です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 『悪をなくすことは可能です』
 ☆ ちからづよい言葉であるように思います。

 ただし
 ★ 『悪は存在しない』というよりか『悪をなくすことは可能です』というのが本当の意味だろうと感じます。
 ☆ というときには 《悪は それとして現象するが 独立して存在するのではない》という命題を打ち出すことで 共生のためにはおのが悪についてはこれを生け捕りにしようと言っているかたちです。それを問うています。

 意志行為の本人が そうするという意味です。
 その場合には 
 ★ つまり悪を撲滅する事は可能だと言っているわけです。
 ☆ 微妙ですが たぶん社会的に他者に対するかたちにおいて《悪を撲滅する》という態度も姿勢も採らないと思います。
 思想や行動について マチガイを指摘したり批判をしたりすることはありますが 元の善なる自然本性に立ち帰って その善なる庭におのが悪をおさめる――生け捕りにする――方向を見ようとしています。




 ★ 「善と悪は表裏一体」と主張する人もいますがそれは違います。「善と善ではないは表裏一体」になりますが悪というのはつくらなければ存在し得ない概念です。 
 ☆ 見方を同じくします。
 悪は 善なる基礎から出ますが 出たかぎりでその現象としては 善と同じくオモテに現われていると捉えられると思います。

お礼日時:2012/09/02 23:55

こんばんはです。



☆☆☆
☆でも感性が 《わたし》の認識も意識もしないうちに そういう《 false 》の論理学的意味における偽を感じ取っていましょうか どうでしょうか?

◇経験的にいえば、ありえるのではないでしょうか。
あるとき、何の脈絡もなく、突然に何処からともなく訪れる《ひらめき》は感性的なものではないか、と、漠然と思いますので。
《勘》は違いますよ。《勘》は過去の経験や経験則に裏づけされていますので。

それまで結ばれていなかった脳の神経回路が、何故だか分からないけれど、ある拍子に突然、結ばれる、その回路ができる。それが《ひらめき》の正体だという考え方もあるのでしょうが、
「何故だか分からないけれど」に感性の関与・参画を認めてやろうじゃないかと....


☆☆☆
 ○ 実践論

 については 顧慮していただきましたか?

◇あくまで現実世界の実践論としてですか、
わたしなら、より原始的な、快・不快、楽しい・苦しいという感覚レベルに落とします。
もちろん、個々人によって、事象や現象に対する快・不快、楽しい・苦しいは異なるでしょうが、それをもってひとまず善とする。
個々人による、その不断の検討と検証作業によって、よりよい世俗的善を追求できるのではないか、と考えます。

いわゆる犯罪行為や他者への迷惑行為は、他者に不快感、苦しみを与えるという意味での、感覚への侵害として否定されます。
麻薬や覚醒剤などの使用は、自身の感覚に対する侵害、もしくは、その損傷行為として否定されます。まして、他者に対しての勧誘・使用は論外です。

ちょっと《動物的善》理論ですか?
しかし、自分を相手におきかえるなどの、少しばかりの想像力を働かせれば、結構、いい線、いくのではないですか。

ただ、わたしは、ベンサムなどの快楽計算や最大多数の最大幸福という立場はとりません。
あくまでも個人の感覚が基本です。
快・不快、楽しい・苦しいという感覚の純化によって、当然、その純化の過程で思索などの作業は必要ですが、それによって世俗的善の向上をはかれるのではないか、と考えます。
《感覚の純化》は言葉として適切でないかもしれません。《高尚化》、これも違うような気が…
《感覚の大楽化》???
《感覚の深化》だろうか?
何か適切な言葉は、ありますでしょうか?



☆☆☆
☆bragelonneさんは、「いわゆる客観なるものは主観に内包されるものであり、(人間の認識において)純粋な客観は存在しえない」という立場をとっているのですね。

◇言葉が足りませんでした。
「いわゆる客観なるものは主観に内包される」は表象主義的な意味で用いました。
われわれが世界は、脳が心的空間内に再構成する世界像である。われわれが認識できるのは、心的空間内に再構成された世界でしかなく、われわれが客観とよぶものは表象のようなものである。その意味において客観は主観に内包される....
という意味です。
危ない、危ない、bragelonneさんの考え方を誤解するところでした。
質問をしておいて、よかった。


☆☆☆
☆この命題が 《客塵煩悩》の世界の真っただ中において どう作用するか? この問題だと考えます。往相還相の還相でしょうか。(理論的に乱暴な用い方だと思いますが)。

◇真宗の教義をほとんど知らないのですけれども、
《往相還相》の《還相》は、《往相》にすでに含まれているのではないでしょうか。と言いますか、《還相》を含まない《往相》はありえないのではないでしょうか。でなければ、(大乗)仏教にはならないと思います。
行ったきりじゃまずいでしょう、現実世界に戻ってこないと。
《非思考・非経験の庭》に行ったきりで現実世界に戻ってこなければ、この世界に実際に生きているということにならないでしょう。
たぶん、そのような存在は、生物学的にはヒトですが、人間ではないでしょう。

話が横道に逸れました。
たぶん《還相》になるのでしょう。
しかし、《往相》と《還相》は『不二の関係』としてとらえないといけないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 《往相還相》の《還相》は、《往相》にすでに含まれているのではないでしょうか。と言いますか、《還相》を含まない《往相》はありえないのではないでしょうか。でなければ、(大乗)仏教にはならないと思います。
 行ったきりじゃまずいでしょう、現実世界に戻ってこないと。
 ~~~~~~
 ☆ 往復切符は たしかに往きのときに帰りのことを念頭に置いています。

 ★ 《客塵煩悩、自性清浄心》
 ☆ この理論を究めるという方向にとどまるのではなく すでに何らかのかたちで究めたと想定して(もしくは みづからはいまだ渡り終えていなくても 他者を渡そうとする務めを優先させるかたちで)〔すでに〕その理論の応用を実践する。でしょうか。




 ★ 「いわゆる客観なるものは主観に内包される」は表象主義的な意味で用いました。
 ☆ イデアといった考え方は 採りません。



 さて 実践論ですが:
 ★ ~~~~~~~~
  ◇ あくまで現実世界の実践論としてですか、
 わたしなら、より原始的な、快・不快、楽しい・苦しいという感覚レベルに落とします。
 もちろん、個々人によって、事象や現象に対する快・不快、楽しい・苦しいは異なるでしょうが、それをもってひとまず善とする。
 個々人による、その不断の検討と検証作業によって、よりよい世俗的善を追求できるのではないか、と考えます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ たぶん いまひとつの焦点の当て方として違いがあると思いました。
 それは なぜ実践論かというその理由にあります。
 それは たとえばここでの回答者の つきのわぐまぐさんのお考えに現われていると考えます。
 ◆(回答No.12) ~~~~~
 だから、少なくとも本来的に良心の呵責を持ち得ない人というのは実際にいるんです。
 サイコパスで検索してみてくださいよ。
 ~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 人びとの中には 《もっぱら悪をのみおこなう》人間がいるのではないかという見解です。
 つまり 《悪とは何か?》にはっきりと答えなくてはならないというひとつの焦点です。

 ★ ~~~~
 いわゆる犯罪行為や他者への迷惑行為は、他者に不快感、苦しみを与えるという意味での、感覚への侵害として否定されます。
 麻薬や覚醒剤などの使用は、自身の感覚に対する侵害、もしくは、その損傷行為として否定されます。まして、他者に対しての勧誘・使用は論外です。
 ~~~~~~~
 ☆ そうなんですが・つまり《快不快等々》から始めてこのように悪の理論にもおよぶという行き方もありうると思うのですが 《悪とは何か?》の中の《悪の起源は 何か?》の問いには答えていないように思うのです。
 《快を妨げる。不快をあたえる等々》と定義できるかも分かりませんが そういう意志行為がそれぞれとして起こりうると言っているのだと思います。そういう起源についての説明なのだと思います。

 もしそうでしたら いま上に引き合いに出たサイコパスについては そういう意志行為をする場合があったりまたもっぱらそうする人間がいたりするのだという説明になるかと思うのです。
 それに対しては 善なる自然本性の中から その意志行為として みづからを・つまりその善を損なおうとする心の片向きも起こりうる。これが 悪であり それは あくまで善に帰属してその自己背反なるかたちとして起こるものだ。こういったたぐいの説明は 必要なのだと考えるのです。



 ★ あくまでも個人の感覚が基本です。
 ☆ なのではありますが
 ★ 快・不快、楽しい・苦しいという感覚の純化によって、当然、その純化の過程で思索などの作業は必要ですが、それによって世俗的善の向上をはかれるのではないか、と考えます。
 ☆ というように《善》の側から 悪をそのみづからである善の基礎の上に(基礎の中に)取り込み治めるという行き方もあり得ましょうが そうなのでしょうが この《取り込み 治め入れる》行き方は 悪に対してその悪の意志行為者をも取り込むようなかたちになりはしないか?

 ぎゃくに問うならば 悪に対しては その本人が みづからの自然本性にもとづいてその悪へと片向いたみづからの意志行為の軌跡を きちんと後からでも整理し これをみづからが治める。というかたちを取ったほうが よいのではないか? 
 善の側の純化・深化・強化というのであれば そのように本人の問題だという視点を打ち出したほうがよいのではないか?
 このように思いましたが どうでしょうか?

 * 本人の問題だというには 悪は存在しないという命題をはっきりと打ち出すとよいように思うという提案です。ゆえに現象としての悪には 積極的に取り組むことになると。

お礼日時:2012/09/02 23:44

No. 21です。

補足要求があるようなので、投稿してみます。

まず孟子の話は私が意図していた事ではありません。性善説という言葉は一般論です。孟子という言葉を出したのは、私の直後の回答者です。私は孟子に特に詳しくありませんから、その件はその方とお話ししてください。さて、

>《わたし》の精神は 他者の悪によっては 傷つくことはない。あり得ない。

これは変ですね。質問のbには「主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である」と書いてあります。ここであなたは外的に主観が「ねじ曲げ傷つけられる」事を認めているじゃありませんか。ところが今度は、他者の悪によっては傷つく事はないのだという。二つはどうやって両立する事なのですか。どうも場当たり的なへ理屈に思います。感心しませんね。

>★ 客観
 ☆ は 主観の中の或る種そのように呼びたいところの認識のあり方 に過ぎません。

これもへ理屈です。もともと客観という言葉は概念を整理するための言葉であって、実態があるかどうかは別の話です。客観的な善とは、たとえ完全に実践する事は出来ずとも、目指すべき目的を掲げているようなものです。

>★ 何より、当事者ではなく、第三者として正義を判断しようとしています。
 ☆ もしそのように成るとするのならば 一般市民であってもいくらか努力すれば そのように成れましょう。しかもそれは 当事者どうしが たがいに《悪は存在しない》という命題から出発し それぞれの意志行為がどこで善の道から逸れたか 悪の道にどこで入ったか これらを互いに探し出して行くなら おおむね共通の理解が得られ やがて解決の道も見つけられましょう。

一般市民が第三者として臨むのなら、争う当時者らを調停する事は出来るかもしれません。これは認めますし、私自身、法律は一つの顕著な例として出したのみです。専門職と一般人に垣根を設けるつもりはありません。
しかし私はもとより当事者同士が調停できるとは述べていません。むしろ明確に、それは無理だと書いています。主観をぶつけ合って愚かしい闘争が起きるだけです。この点について、上記は答えになっていません。

>ところが悪は この存在するところの善から派生する現象であるに過ぎない。こう言っています。

可能性の問題で言えば、逆も然りです。性悪説というものもあります。私はあなたの書いている事が、論理として弱い(つまり哲学的な真に達していない)と言っています。

>たぶんそのときには よろこびだけではなく やましさをも感じているでしょう。同時に感じていましょう。

それは確実ではありません。感じていてほしいという質問者の期待表明としか読めません。

>見え透いた批判をして来たものですね。と反批判されることが分かっていて 早々と のなめさんになってしまったのですかね? さといことですね。

一つはっきりしておきます。侮辱を受ける謂れはありません。私から見れば、せっかく投稿してあげたのにこのように言われるのですから、不愉快です。これは悪ではないのですか。恥知らずのみが、悪ではないと答える権利を有しているかもしれません。
ここから振り返れば、

>たぶんそのときには よろこびだけではなく やましさをも感じているでしょう。同時に感じていましょう。

とは、あなたが、ご自身に対して言うべき事かもしれません。

これにて私は失礼します。というのも、これ以上話していると、あなたの悪意に感化されて、私も暴言を吐いてしまいそうだからです。私から見れば、実に無駄な闘争です。そもそも、あなたに悪意がないと確信する理由がないのです。また悪意がないのなら、単に愚かなだけかもしれないが、私は愚かな人とも話したくないのです。
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この回答へのお礼

 ここまでは 《悪意があると完全に分かるまでには到っていなかった》から そして《愚かなだけだとも確信をもってまだ判断してはいなかった》から 投稿をした。こういうことですね。

 今回 検討しなくてはいけないかも知れないと思ったことは
 ★ 性悪説というものもあります。
 ☆ この一文です。それだけです。





 ★ まず孟子の話は私が意図していた事ではありません。性善説という言葉は一般論です。孟子という言葉を出したのは、私の直後の回答者です。私は孟子に特に詳しくありませんから、その件はその方とお話ししてください。
 ☆ この発言は つぎの回答内容とは 相容れないほどの内容だと考えます。
 ★★(回答No.21) ~~~~
 このように(* この内容は省きます)みていけば、質問者はアプリオリに 善を本質と定めているのではないかという疑念を生じます。
 質問者は性善説を信じているのかもしれません。
 そしてこのように内実を検討していけば、質問はいわば、 性善説を支持するか否かを問うているだけの単純なものであって・・・ 
 ~~~~~~~~

 この件だけを出します。のでこの件について反省なさるところがあって 再考されるようでしたら あらためてご投稿をお寄せくださるよう願っておきます。

お礼日時:2012/09/02 20:53

こんにちはです。



☆☆☆
> ★ 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。
 ☆ ただしこれは 語源辞典をしらべたのですが どちらも《あざむく・だます》を共通としているようですが ご説明願いますか? 違いについてです。

~~~
○”lie”は、自己と他者を(結果として)だますという意味で使いました。
 善意・悪意を心的側面をまったく含まず、結果として、”善悪”を判断するという、まあ結果論的善悪論です。
 《やましさ》という《生理的・心理的反応》を”善性”の根拠にすると、道徳の根拠を結果に求める、帰結主義的なものになるのではという危惧の念をもったもので。

と同時、
人間、動機として悪意はまったく全く含まなかったけれど、結果として、その約束を破るという形で《うそ》をつくことがあります。
この時、《善性の損傷》はあるのか否か?
動機を重視するのなら、《善性の損傷》はない。だが、結果に重きをおくのならば、《善性の損傷》はある。
bragelonneさんの、この問題についての立ち位置を知りたかったもので。


○”false”は、論理学的意味、つまり、ある公理・前提から論理的に導かれる命題の”真偽”の”偽”の意味で用いました。感情的な面を排除したかったので、論理学で使う”false”という用語をあえて選択した次第です。

《やましさ》を感じるのなら、人間には先天的にその普遍的判断基準が備わっていやしまいか。
それはアプリオリに与えられた、もしくは持っている原則、公理と言える代物ではないか。
ならば、人間の行為としての《過ち》は、その人間の「論理操作の過ち」や「論理適用の過ち」に還元できやしまいか、などと思ったもので。
公理主義とでもいいましょうか、理性主義とでもいいましょうか、そんなところです。

例によって、「理性・悟性なるものを信じすぎですよ」とbragelonneさんに笑われちゃうのでしょうが、はい。



☆☆☆
弁証法のように、
 善(正)⇔悪(反)
ととらえ、この対立・矛盾構造を解消する〈何か〉(合)はないものでしょうか?
その〈何か〉は〈非思考・非経験の庭〉で成立する〈神(もどき)〉になるのでしょうか?
それとも、
bragelonneさんがここで取りあげた〈自然本性(の善性)〉がそれになりうるものなのでしょうか?



☆☆☆
 (13) ★ ~~~~~~~~~~~
  ☆(a)悪は存在しない。

 「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」
 ということになるのでは、というのが率直な疑問です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この反論についても 主観が何をもとめているか ここに焦点を当てるかたちで なお持ちこたえ得て行くものと考えます。上のご見解は あまりにも《客観的》すぎましょう。実践論を構成しがたい。と思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

僕としては、最終的には、善悪の存在、どちらも否定したい気分ですね。
善悪、すくなくとも、この現象世界における善悪は、どちらも人間が(概念として)つくったもの。
龍樹のように、
 《世俗諦》として、ひとまず、現実世界での善悪の存在を認めつつ、
 《勝義諦》として善悪の存在を否定、捨て去る、もしくは超越する。
根拠は、内なる《神》、《自性清浄心》です。
人間が本来的に持っているかもしれない、《こころの清浄性》に期待を寄せる、
というのは、あまりに楽観的ですかね。

《客塵煩悩、自性清浄心》
人間の悪性を《こころのお客さんとしての塵・汚れ》(客塵煩悩)としてひとまず実在視し、その防悪性・防悪作用をもって(心の)善性を定義する。
どのみち善悪は《相依的な概念》ですから、
悪に傾き易い人間という存在を考えると、こちらの方が素直に思えるのですけれども、駄目ですかね。
善悪、どちらにバイアスをかけるか、重点をおくか、その視点・立ち位置の違いで、
この問題に関しては、結局のところ、
bragelonneさんとわたくし《ねむりねこ》は同じ立場ではないか、という気もするのですが....
bragelonneさんの提唱の《非経験・非思考の庭》、おそらくそこにおいては、善悪(の対立構造)は完全に消滅し、その意味において人間の思考における概念としての善悪の両方を否定するということになるのでしょうから。


☆☆☆
今回のテーマとは離れますが、
bragelonneさんは、「いわゆる客観なるものは主観に内包されるものであり、(人間の認識において)純粋な客観は存在しえない」という立場をとっているのですね。
遅まきながら、
「イエスが なぜキリストか。」
で、このことに気づきました。
失礼ですが、
bragelonneさんは、もっと素朴なというか、シンプルな主観⇔客観構造の立場をとっていると思っておりましたもので....ポリポリです。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 昼寝して起きたところです。あたまがぼけていなければよいのですが。きのうは 大忙しでしたが きょうは閑散です。

 ○ 実践論

 については 顧慮していただきましたか?

 ★ ○ ”false”は、論理学的意味、つまり、ある公理・前提から論理的に導かれる命題の”真偽”の”偽”の意味で用いました。感情的な面を排除したかったので、論理学で使う”false”という用語をあえて選択した次第です。
 ☆ これは どうでしょう? つまり 生理的心理的反応において どうでしょう? 中身として入っているかも知れないのでしょうか? ただしたぶん分からないでしょうね。
 でも感性が 《わたし》の認識も意識もしないうちに そういう《 false 》の論理学的意味における偽を感じ取っていましょうか どうでしょうか?

 ★ ~~~~~~
 《やましさ》を感じるのなら、人間には先天的にその普遍的判断基準が備わっていやしまいか。
 それはアプリオリに与えられた、もしくは持っている原則、公理と言える代物ではないか。
 ならば、人間の行為としての《過ち》は、その人間の「論理操作の過ち」や「論理適用の過ち」に還元できやしまいか、などと思ったもので。
 公理主義とでもいいましょうか、理性主義とでもいいましょうか、そんなところです。
 ~~~~~~~
 ☆ これは 何とも分かりません。つまり すでに生理的心理的な感性としての《やましさ》なる反応に含まれているとなれば そういう《いつわり》の問題だと 実践において言えると思われます。含めてもらってよいと考えます。



 ★ ~~~~~
 ○ ”lie”は、自己と他者を(結果として)だますという意味で使いました。
 善意・悪意を心的側面をまったく含まず、結果として、”善悪”を判断するという、まあ結果論的善悪論です。
 ~~~~~~~~
 ☆ これは おそらくその結果を《わたし》が知った時点で 生理的心理的反応をどう起こすかにかかっていると考えます。
 一般に 意識していなかった中身や意図していなかった結果内容についても その行為を《わたし》がおこなったのなら その結果を知った時点で 大きくわが意志行為であったと見なして引き受けることになると考えるからです。
 満員電車でとなりから押されてとなりの人にぶつかったとき 結果として大きくこの出来事をわが意志行為としてのごとく引き受けて ごめんなさいとあやまります。そういうたぐいだと見ます。

 言いかえると 初めには生理的心理的な《悪》としての反応はなかった。結果的に その反応を過去にさかのぼって持つに到る。こういうことかと考えます。



 ★ 《やましさ》という《生理的・心理的反応》を”善性”の根拠にすると、道徳の根拠を結果に求める、帰結主義的なものになるのではという危惧の念をもったもので。
 ☆ いえ。《善性の根拠》ではありません。やましさを感じない・やましさから自由である思いや行動の内容については 善だと見なすという取り扱いです。単なる言葉の定義ですと言ってもよいくらいの実践論です。
 また この善として捉えた思いや行動を オシエとしてまた規範として取り扱うことはありません。倫理の問題を すでに生理的心理的反応の中に含むと言わざるを得ませんが それの規範化ないし道徳化は あり得ません。絞りかすみたいになっているものを もう扱いません。

 ★ ~~~~~~~
 と同時、
 人間、動機として悪意はまったく全く含まなかったけれど、結果として、その約束を破るという形で《うそ》をつくことがあります。
 この時、《善性の損傷》はあるのか否か?
 動機を重視するのなら、《善性の損傷》はない。だが、結果に重きをおくのならば、《善性の損傷》はある。
 bragelonneさんの、この問題についての立ち位置を知りたかったもので。
 ~~~~~~~~
 ☆ これまで考え説明して来ましたが それによれば つねにその内容を知った時点でどういう反応をするか。ここで決定されると考えます。何らかのかたちで
 ★ だが、結果に重きをおくのならば、《善性の損傷》はある。
 ☆ と見ると思います。




 ★ ~~~~~
 僕としては、最終的には、善悪の存在、どちらも否定したい気分ですね。
 善悪、すくなくとも、この現象世界における善悪は、どちらも人間が(概念として)つくったもの。
 龍樹のように、
  《世俗諦》として、ひとまず、現実世界での善悪の存在を認めつつ、
  《勝義諦》として善悪の存在を否定、捨て去る、もしくは超越する。
 根拠は、内なる《神》、《自性清浄心》です。
 人間が本来的に持っているかもしれない、《こころの清浄性》に期待を寄せる、
 というのは、あまりに楽観的ですかね。
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 ☆ きわめて乱暴に言えば 実践論というのは 《世俗諦》のみです。
 ★(☆ 編集しました) 現実世界での善の存在と悪の現象をみとめる
 ☆ ということ。この認識がいかに仮りのものごとであったとしても そのシャボン玉としての《善の存在および悪の現象》をあつかいます。

 言いかえると こうです。

 ○ この世俗諦として捉えた現実の生活世界における《善および悪》という言葉が 人間の存在論からして どのように用いられているのか? これの探求です。

 そのとき人によっては そのおのが心なる《非思考の庭》において神がいだかれていることはあり得ます。
 つまり逆に言えば その神がどのような名前の神であるか あるいはその属性と言いますか中身として《こころの清浄性》を捉えているか否か ほかにもどういう属性があるかどうか これらに――実践論としては――いっさいかかわりなく 善悪論を展開してそこから共通の理解が得られれば目的を達する。こうなると思います。

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 善は 《わたし》の生理的心理的反応として おのれ(=善)を自覚しおのれに背くもの(=悪)をも識別するというかたちが 《わたし》の自然本性において活きている。
 よって 善は存在の基礎を自然本性に持つようだが・そしてまた現象としても生じるが 悪はその存在の基礎をどこにも持たない。ただ現象として起きるのみ。しかも その悪は 善なる自然本性の中から 特には中軸としての意志行為において起きると見られる。
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 ☆ こういうひとつの結論を得たと言って問うています。




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 bragelonneさんとわたくし《ねむりねこ》は同じ立場ではないか、という気もするのですが....
 bragelonneさんの提唱の《非経験・非思考の庭》、おそらくそこにおいては、善悪(の対立構造)は完全に消滅し、その意味において人間の思考における概念としての善悪の両方を否定するということになるのでしょうから。
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 ☆ ここでは 《善悪の彼岸》は扱わない。こうなると思います。
 ぎゃくに言うと それをも扱うかたちの信仰ないし思想からも 大いに《世俗諦》の現実世界観を 善悪論のかたちで展開して欲しい。こうなると考えます。
 だって キリストのキの字ももう出さない時代へ向けてですから。

 ★ 《客塵煩悩、自性清浄心》
 ☆ この命題が 《客塵煩悩》の世界の真っただ中において どう作用するか? この問題だと考えます。往相還相の還相でしょうか。(理論的に乱暴な用い方だと思いますが)。
 




 ★ bragelonneさんは、「いわゆる客観なるものは主観に内包されるものであり、(人間の認識において)純粋な客観は存在しえない」という立場をとっているのですね。
 ☆ いえ。《純粋な客観》が存在してもかまいませんし それを人間が認識しうるという説が出されてもかまわないと思います。
 問題は その客観も 《わたし》の主観におさまっているものだと見ることにあります。どうでしょう?

 * 《事実そのままの認識》という意味で《客観》という言葉を用いることはあると思います。それは 言ってみれば そういう客観があると想定して用いているのだと考えます。
 つまりその意味での客観は じつは誰の主観の中にもあり得ない。(人が世界のすべてを知ることはないと思います。つねに未知を残すと思います。よって)あり得ないけれども ありうると想定して用いているのだと思います。作業仮説としての概念・用語なのだと。

お礼日時:2012/09/02 15:35

何らかの他者達との関わりから乖離した純粋な無邪気さには、


確かに悪意が伴なっていないのかも知れませんが、…。

http://zubazubanews.blog.so-net.ne.jp/2012-08-07-2
宇宙の某エンジニアが作り出した生命体達があのエイリアンへと進化…!?
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この回答へのお礼

 つづきます。
 
 ★ 何らかの他者達との関わりから乖離した純粋な無邪気さ
 ☆ は 糸の切れた凧のようなものです。いくら純粋であっても ほとんど意味がありません。
 
 カカワリがあってこそ マジワリを持ってこそ にんげんです。

お礼日時:2012/09/02 10:42
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