性格悪い人が優勝

 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中91~100件)

正義のdefault値はアプリオリとして準備されてきたのでしょうか?


http://www.atmarkit.co.jp/fsecurity/special/88do …
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「(どの当事者意識にとっても、)自己の誕生は『善』である。


という意味を、此処では文章化されているのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%B3% …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ここでは 哲学の主題として真っ正面から問い求めるという姿勢ではありません。
 人間とは何か? その存在とは どういうことか? 善とは何か? 悪とは どういうことか? というふうな切り口ではありません。

 ただし悪とは何か? という問いは持っていて しかもこれをふつうの社会的な交通の場で・つまりコミュニケーションの場で どう捉えどう扱い 人に対してもどう対処するか? こういう切り口ですすめようとしています。

 すべての悪は ウソ・イツワリを《わたし》が・つまりわが意志が選択するところに始まると見ることにする。
 それは じっさいにどう捉えられるか? 胸騒ぎを感じるなどなどの《やましさ》をおぼえるところにある。つまり そのことによって《わたし》は 悪を悪とみとめる。のではないか?

 ならば このやましさをおぼえさせる何らかのハタラキが わが身もしくはわが心に起きる。
 やましさは 心にさからうところに生じる。
 ならば 心のあり方として 生まれついたそれ・つまり自然本性が 立ち帰るべき心の状態であろう。
 これを 悪でない心の状態として 善とする。

 もしこうだとすれば 悪を経験しなければ 《わたし》は自分の心なる善を知らなかったかも知れない。とは思われるものの 善なるハタラキは もともと心にあったであろう。

 かくて 《わたし》は しかるべきふつうの状態として存在する自然本性というあり方は 好ましく善であると見る。


 微妙なことですが
 《存在》は 善であるとか
 ★ 自己の誕生は『善』である。
 ☆ とかいうふうに 大きな主題に取り組むばあいの姿勢とは 少し違っています。

お礼日時:2012/09/05 06:27

こんばんはです。



☆☆☆
僕は、帰結主義をとらないにもかかわらず、
帰結主義になってしまった《感覚的・快感的善論》の原則なのですが、
~~~~
【おりじなる版】
 (α)自己に快・楽しいという感覚を与える対象、原因、行為は善である
 (β)自己および他者に、不快・苦しいという感覚をもたらすことは悪である。
   また、快(不快)、楽しいを感じさせる感覚器官・その機能の損傷行為も同時に悪である。
~~~~
とするべきか、修正して
~~~~
【リファイン版】
 (α’)自己に快・楽しいという感覚を与える
 (β’)自己および他者に、不快・苦しいという感覚を与えない。
    また、快(不快)、楽しいを感じさせる感覚器官・その機能を損なわない

 (α’)、(β’)の二条件を同時に満たすものが《善》である。
~~~~
とするべきなのか、どちらがいいしょうか?

矛盾を含まないという点では【リファイン版」の(α’)(β’)の方がすぐれている(実はこちらがオリジナル)。《悪》という言葉も使わないですむ。
しかし、これでは、「他の人間との関わり合いを持つな。持つときは、必要最小限にせよ」という結論になってしまう。エピクロスのような結論に達してしまう。

それで、
「人との交渉性を保つために、また、同時に、どんな快感・楽しいという個人の感覚を最大限肯定したい。(α)(β)で生じる矛盾は、話し合いで解決すればいい。この話しあいからも、交渉性が担保される」ということで【オリジナル版」の(α)(β)を出したわけです。
でも、【おりじなる版」は道徳臭が強くて、性に合わない。しかも、《悪》という言葉が出てくる。

別に、これで、どうこうしたいわけではないのですが、
bragelonneさんのご意見を聞きたいと思いましたもので。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 いわゆるフロイトの《快楽原則》は 広くスサノヲ人間語の世界〔の一環〕であり どうしても一度は顧慮せざるを得ないように思われます。

 ただしそれが 一人歩きすることもない。のではないか。単独分立することは むしろまれである。たいていは 事後的にでも一たんは おのれの意志行為として引き受けているかたちを取るものと思います。多少とも 責任がともなわれているのではないかというものです。


 ★ 【リファイン版】
 ☆ は 《善》が全体のものごとにわたっていて しかもその善を基礎として そこから悪の規定をも得て行くかたちであって こちらのほうが好きです。 
 問題は エピクロスがどうであると言って省みておられるように 人とのカカワリやマジワリという場面をも 定義の条件に入れているところ・・・ではないでしょうか?

 つまり
 ★ (β’)自己および他者に、不快・苦しいという感覚を与えない。
 ☆ とするときの《他者》問題です。
 自分の快不快・楽苦はわかりますが そして他者も自分のことについては分かっていますが その他者のことを別の人が どのようにして分かるか? 
 他者が そのつど快か不快かを申告してくれる?
 こちらが そのつど推測して判定する?
 つまりこちらの経験と推理によって その他者の感覚がどうであるかを判断する?


 いえいえ つまりは 
 ★ 話し合いで解決すればいい。この話しあいからも、交渉性が担保される
 ☆ という善悪観をめぐるコミュニケーション方策ということに帰結しましょうか。この【リファイン版】のほうにかんしてもです。
 
 それゆえ 言わばコミュニティーづくりが基本であり その過程そのものにおいて・つまり話し合い方式そのものが 悪の取り扱い方法となっている。
 こうではないでしょうか?

お礼日時:2012/09/04 22:45

#37です。



> 自然本性は 基本として――存在すること=生きることが わるいことではなく よいことだと見なすゆえ――善だととらえていますが 

全てが、この前提から始まっているために、ともかく理屈抜きでこの神を信じなさいという宗教と変わりない、と申し上げているわけです。
「よいことだと見なす」根拠が示されていません。
それを足がかりに救われる人もいるのであれば別に否定はしませんが、――存在すること=生きることは良いことでも悪いことでもないーという見解もあるわけですから、まず、それを否定することから始めないと・・・ではないでしょうか。
そうでなければ、実践面で共通の方便が出てくる可能性はありますが、それが根拠のあるものであるという確信が薄れてしまう結果になると思うわけです。

> この仮説が 《砂上の楼閣》であってもかまいません。よく機能すれば それでかまいません。
 機能するかどうかが問題です。

砂上であれば(あるゆえに)機能しないのではないか、ということを申し上げたつもりです。
無理やり機能しているように見せかけようとすれば姉葉氏のの二の舞です。

>  ユングという男 それに追随する河合隼雄という者 この人たちによると 神は その中身として 神(善神)と悪魔とが同等に存在するのだと言っています。
 そんなばかなことはあり得ません。
 善なる神と悪なる神とが 互いに同等に存在すると言うなら いったいふたりがたたかったなら どう決着がつくのか? ですから そのときには 善という言葉も悪という概念も 何もかも意味がなくなります。砂上の楼閣もいいところです。シャボン玉が飛んで こわれて消えたです。

ユングも河合隼雄も名前ぐらいしか知りませんが、この点に関して若干の感想を。
神というものはよくわかりませんが、いずれにしても、人間の本性に善も悪も無いとわたしは思います。
ただ、善を指向する属性は備えている。おそらく、本能の一部と引き換えに手に入れたのでしょう。この時点で本能を制御しなければ善を得ることはできない理屈になります。
それでも良いと[決心]した結果、人間という種に至ることになった。
これが善の指向は属性であるとする論拠です。(本性=善 ということとは全く違います)
この場合、闇雲な欲動としての本能が悪をもたらす、あるいはそれの根底にあると前提されていることになります。
しかし、闇雲な欲動がなければ人は生きていけない、ということもまた事実です。
この意味で、本性が善か悪かという以前に、人間はどちらも抱えているでしょう。
そこで、闇雲な欲動の制御が必要な場合とはどのような場合か、ということが問題になってくるのだろうと思います。
闇雲な欲動は、あるときは生のエネルギーであり、場合によっては悪をもたらすこともある。
その悪は善が変質したものでもないし、自然本性の流れで本能[的]部分が顔を出した、という構図。
うまいたとえとは言えないかもしれませんが、河は清流の場合もあり濁流となることもあるが、清流が河の本性と言うことはできない、といったようなことに近いと思います。
「>実践論として」は本当に難しいと思いますが、非常に興味深いテーマです。
種種の要素が絡み合うことになるでしょうが、わたしの中でもまだ纏まっていません。
     
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 微妙にかみ合っているようです。とまづは思います。

 ひとつこれまで気づかなかったことですが
 ★(あ) 本性が善か悪か
 ★(い) 人間の本性に善も悪も無いとわたしは思います。
 ☆ というときの《本性》ですが これはどうもここでわたしが《自然本性》という言葉で言っていることとは別のようですね。
 自然本性は そこに身と心から成る生物がいるという程度に捉えた人間の持って生まれついた状態や能力です。その奥のものを 《本性》と言っているようです。


 自然本性とは こうです。
 まづ 身と心です。身体と精神です。
 精神には 記憶と知解と意志との三つの行為能力がある。
 自然本性つまり身と心なる存在の中軸は 意志行為である。
 うんぬんと続きますが このとき

 このときそれにもかかわらず どう言いますか《存在》の本質とは何か? といった問い求めはしていないのです。
 つまり言いかえると その意味で《人間の本性とは 何か? それは善か悪か?》という主題を立てているわけではないのです。

 どうもここが違っているようです。





 このことは たとえば次の議論に反映されているでしょう。
 ★ ~~~~
 (う) この場合、闇雲な欲動としての本能が悪をもたらす、あるいはそれの根底にあると前提されていることになります。
 (え) しかし、闇雲な欲動がなければ人は生きていけない、ということもまた事実です。
 (お) この意味で、本性が善か悪かという以前に、人間はどちらも抱えているでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ つまりここから次のふたつの互いに矛盾するような内容が捉えられます。

 ★(い) 人間の本性に善も悪も無いとわたしは思います。
 ★(お) 〔この意味で、〕本性が善か悪かという以前に、人間はどちらも抱えているでしょう。

 ☆ (お)には《この意味で》という条件がつけてあるので だいじょうぶだと思われるかも知れませんが その条件とは《やみくもな欲動が必要不可欠だという意味で》だと思います。
 
 ★(え) しかし、闇雲な欲動がなければ人は生きていけない、ということもまた事実です。
 ☆ のごとくにです。ところが

 ★(う) この場合、闇雲な欲動としての本能が悪をもたらす、あるいはそれの根底にあると前提されていることになります。
 ☆ という規定(見方)もされています。すなわち 次のような矛盾になりますまいか?

 ○(か) 人間に残る《やみくもな欲動としての本能》は 悪をもたらす要因である。
 ○(き) 人間の本性には 善も悪もない。


 善のことも 添えておきましょう。
 ★ ~~~~ 
 (く) ただ、善を指向する属性は備えている。おそらく、本能の一部と引き換えに手に入れたのでしょう。この時点で本能を制御しなければ善を得ることはできない理屈になります。
 ~~~~~~~~
 ☆ つまり善のほうは ここでは 《本性》ではなく《属性》であるということのようです。







 つまりあらためて整理してみます。
 まづ《人間の本質とは何か? その存在論そのものにおける本質として 善か悪か?》という哲学としての問いは立てない。という前提です。
 ですから
 ★ うまいたとえとは言えないかもしれませんが、河は清流の場合もあり濁流となることもあるが、清流が河の本性と言うことはできない、といったようなことに近いと思います。
 ☆ このことは 扱っていません。

 〔ただしちなみに たとえば ねむりねこさんから出されたその本質論としては むしろ《清流》が本質だというものです。

  ◇ 煩悩客塵 自性清浄心

 という理論のようです。《一切衆生 悉有仏性》という命題もありますね。〕


 そこで 次の命題を吟味します。 
 ★(け) 闇雲な欲動は、あるときは生のエネルギーであり、場合によっては悪をもたらすこともある。
 ★(こ) その悪は善が変質したものでもないし、自然本性の流れで本能[的]部分が顔を出した、という構図。

 ☆ まづたとえとして《清流が濁流になる》のなら 善が悪に変質すると言えそうですが これは ちょっと言ってみるだけにとどめます。

 問題は 要するに《悪》は 《生のエネルギー》でもある《闇雲な欲動》によってもたらされる。と言っている。
 もし《善》は 属性でしかないということでしたら けっきょく人間の本性は悪なのですか? 悪でありうるという可能性が本性なのですか?
 と問うかたちにもなります。

 だから 《やましさ》といった生理的心理的感覚反応を基準にして善と悪を――作業仮説として――定義することは 《本性》論からして現実的ではない。こういうご見解でしょうか?

 けれども次のように反論します。

 《闇雲な欲動》がはたらくと言うけれど そのときには それでも《動悸がはげしくなり顔が熱を持って赤らみ 言葉はしどろもどろになる》という謂わば善性の兆しのようなことが 同時に 起きて来る。と言えませんか?
 つまり 基礎は善であり その上に 欲動がはたらこうがほかの――あるとすれば――悪の要因が鎌首を持ち上げて来ようがそれらは 基礎の善に取って代わるのではなく 善の元で言わば善に仕え 負の善(つまり悪)として起こる。と言えませんか?

 こう言えたら まだわたしの作業仮説は 砂粒ではない。と言えましょう。

お礼日時:2012/09/04 22:07

no30からの補足です



☆ 微妙ですが たぶん社会的に他者に対するかたちにおいて《悪を撲滅する》という態度も姿勢も採らないと思います。

 そんなことはないでしょう。採る人は採る採らない人は採らないという話でしょ。まああくまでそれはbragelonne さんの勝手な偏見です。(おそらく・・・)ただ多い少ないの議論になるとわからないです。しかしたとえ今bragelonne の想像が近い統計が出たとしても必ずなんらかの手法やタイミングさえ間違えなければ悪を撲滅するという姿勢を採る人が増えると思います。ただ維持するのが難しいかもしれませんが・・・・・

>悪は 善なる基礎から出ますが 

 これはわたしも以前間違えましたが善なる基礎から出るというわけでもないです。つまり「善なる基礎から出る」というのは善から悪を導こうという意思のある人の作り話です。なぜかというと、例えば「悪となんとなく感じた」という導き方でも悪と決め付けることができるので実は相反的位置関係にあるのではなく悪を人間が勝手に決めているというのが私の最終結論でそれが覆ることはないと思います。
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この回答へのお礼

 ていえんとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ご見解について わたしはその同じ姿勢や立ち場からの批評や批判を述べているのではなく あくまで質問趣旨と照らし合わせての反応を明らかにしています。

 しかもこの質問趣旨は 哲学の問いとしてはいくらか特殊です。どう特殊かと言えば 善悪論をかかげつつ その善とは何か・悪とは何かをとことん究めるという方針ではないからです。
 実践論だと言っていますが 具体的にふつうのコミュニケーションの場で 悪と受け留めた行為の内容について こちらはどう認識しどう対処するか ここに焦点を当てています。
 きわめて横着な・或る種の仕方では邪道だと見られかねない行き方ですが それでもたとえば《やましさ》について一般にそれが負の善だと納得することが出来る程度には 自分の悪あるいはほかの人の悪だとこちらが受け留めたことについて こう考えこう対処したら けっこう納得ができるコミュニケーションが出来た。という結果を得たなら まづは成功だという行き方であり それに沿った問い求めなのです。



 たとえばこうです。
 ★ ~~~~
  ☆( h ) 微妙ですが たぶん社会的に他者に対するかたちにおいて《悪を撲滅する》という態度も姿勢も採らないと思います。

 そんなことはないでしょう。採る人は採る採らない人は採らないという話でしょ。
 ~~~~~~
 ☆ つまりこの( h )の命題は あくまで質問趣旨に沿った行き方における見方なのです。
 言いかえれば 別の行き方によれば 別の見方を持つ。こういうことです。当然のように そういうことなのです。

 だって たとえばいまの《やましさ》から悪を捉える仮説 これの当否や是非について ここでは問い求めたいし ご批判を寄せてくださいと言っているわけです。
 むろん たとえば はこぶるさんのご回答などのようにそうではなく この行き方じたいについて それはおかしい これこれこうぢゃないかというご見解を明らかにするご回答もあります。あり得ます。それはそれで やはり互いに情報交換をおこないます。

 ということなのです。



 ですから ていえんとさんも いやいや ぶらじゅろんぬクンの行き方やそこにおける見解は これこれこうだから 別の行き方を採るべきだというのでしたら その路線ではっきりとご回答ご批判を寄せていただきたい。そうでなければ いちおうこの行き方を認めた上で ここらへんは わかりづいらいよとか あそこらへんは どうも間違っているよとかいうふうに 述べていただくと分かりやすい。



 つまりたとえば 
 ★ 悪を撲滅する
 ☆ という考え方もその実行も おそらく広い意味での社会政策の一環としてのように実践することではないでしょうか?
 言いかえると 《撲滅する》悪と言うからには すでに何らかのかたちでその悪というものが だいたい一般的にも知られていて人びとのあいだに共通の理解が得られている。そこから出発するという見方であり行き方なのではないでしょうか? 覚せい剤撲滅キャンペーンのごとくにです。

 そういう見方・行き方とくらべるなら ここでの行き方は 多少とも哲学風ではあります。先に悪とは何かが決まっているとはしないわけです。あるいは 社会的な次元で麻薬の商売を悪として それにどう対処するかという出発点とは別の行き方を採っています。



 言いかえると
 ★ ~~~~~
  >悪は 善なる基礎から出ますが 

 これはわたしも以前間違えましたが善なる基礎から出るというわけでもないです。
 ~~~~~~~
 ☆ というように悪の起源についての問い求めじたいは ここでの実践論においても おこないます。

 この主題については ご回答をもらっています。 
 ★ ~~~~~
 つまり「善なる基礎から出る」というのは善から悪を導こうという意思のある人の作り話です。なぜかというと、例えば「悪となんとなく感じた」という導き方でも悪と決め付けることができるので実は相反的位置関係にあるのではなく悪を人間が勝手に決めているというのが私の最終結論でそれが覆ることはないと思います。
 ~~~~~~~~
 ☆ ただし 微妙なのですが いまひとつかみ合わないと思えることは 質問趣旨としてのたたき台には やはり《やましさ》なる生理的心理的反応による悪の定義をかかげているからには それとの兼ね合いにおいて ご見解をのべていただくか それとも まるっきり初めから主題の立て方がちがうのだという物言いを明らかにして自説を展開していただくか。いづれかひとつ。こう考えるのです。

 ★ 例えば「悪となんとなく感じた」という導き方でも悪と決め付けることができるので
 ☆ と言われても ここで焦点は 《やましさ》を感じるならその思いや行動は 悪である。つまり悪だと本人の主観は 思っている。という出発点をたたき台にしていますので それとの兼ね合いをはっきりと示していただきたい。
 このような質問者ののぞみではあります。どうでしょう?

お礼日時:2012/09/04 12:11

当事者意識を欠いた無邪気な誤りは、純粋な悪なのでしょうか?

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この回答へのお礼

 ここでの《悪》の定義は こうです。
 《わたし》がその当の意志行為について やましさを覚えるかどうか 覚えたなら悪とみなす。です。

お礼日時:2012/09/03 23:27

非経験・非思考の善とは『(償却対象の)徳』…!?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E3%82%AD% …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 1. ここで扱う《善》は 経験世界におけるものごととしてのそれです。

 2. 《徳》は 善なる意志行為とかかわっていると見られますが ことさら徳という観点で 善ないし悪を ここでは扱っているものではありません。

 3. 徳は 意志行為の結果ないしその行為の蓄積としてのような状態を言うのでしょうから。つまり ここでは 結果ではなく 意志行為が発進するときの事情を分析し 善ないし悪の実際はどうかと問い求めています。

お礼日時:2012/09/03 22:46

こんばんはです。



☆☆☆
この《感覚的善論》《快感的善論》は、
「快感をその判定条件にすると、....」
と、僕の頭の一部が、僕の本意とは関係なく、勝手に作り上げた代物です。
はっきり言って、この《善論》は帰結主義になっています。
他者との関係においては、
意志が具体的な行為として現われ、その行為が他者にどのような感覚を与えるかが善悪を決定し、その結果が動機や意志の善悪を決める仕組みになっています。

まず、最初にそのことを申し上げておきます。

やっぱ、感覚や快感を《善性》に絡めると、帰結主義になってしまうのかなぁ~


☆☆☆
 以前わたしは 或る夏に涼しい感じで 冷奴ばかりを食べていました。ところが この経験は あとでたたりました。冬でも夏でも もう豆腐を見ると――それほどひどくはないのですが―― どうも食べたいとは思わなくなったのです。
 つまり 快不快を感じる対象は まったく同一の豆腐でした。
 こういう問題はあると思いますね。

====
感覚の対象になるのは、「○○○の条件で」と詳細にその状況が記述される、冷や奴です。
《冷や奴》一般ではありません。
或る夏(のある時)に美味しいと思った冷や奴と、いま、眼の前にある冷や奴とは別な存在であるということになります。
こう換言した方がいいのかもしれません、
『感覚の対象は、その状況をもすべて含んだ冷や奴である』と。
「その状況が異なれば、感覚として、たとえ同一製法・同一素材で作った冷や奴であっても、その味が違ったものになる。違う刺戟、情報として感得されるのだ」
と、(α)(β)の原則を作り出した、僕の頭は申しております。

 ★ ~~~~
 たとえば、bragelonneさんとわたくし・ねむりねこが一緒に仲良くお菓子を食べていた。
 最後に残った一個のお菓子をどちらが食べるべきなのか?
 ~~~~~~
 ☆ 同一の対象に対しては つねに同じ程度の快を感じるという前提は 必ずしもつねには当てはまらないと思うのです。或る時は 感覚的善をおぼえたが また或る時には 快を感じずしたがって善でもなかったという場合があると思われるのです。

====
の質問にも、上の回答で答えていると思います。
さらに続けると、
感覚がそうである以上、善を感じる対象もその状況をすべて含むんだものとなるであろう。そして、語ることができるのは、一つ、一つ、異なる現象が善であるかどうかである。

『すこしずるい論法ですが、「次回、同じケースでは自分が食べられる」という期待があるので....』
で、
《ずるい》とあるのは、同一と思われる対象に対して受ける快感が違うことを前提としているからであり、期待は「次回、同じケースでは、いまと同じ快感を受けられるであろう」という希望的推測程度である。だから、《ずるい論法》なのである。

この《快感的善論》を作った私の頭の一部が、そう申しております。


☆☆☆
 ぢゃあ 《やましさ》についても 同じような問題があるのではないか?
 どうでしょう?
 わたしが思うにですが これについての例外というべき事例と言いますかは それこそ例外として扱ってもいいほどなのではないでしょうか?
====
感覚の対象は、その状況をすべて含んだものであり、どれひとつをとっても、それと同じものはない。どうして例外的な事例がありえようか。



☆☆☆
 つまり 《快不快 楽しい苦しい》がその感覚そのものにおいて人びとのあいだで共通であるということ。
~~~~
前述の通り、冷や奴一ついとつをとっても、それから受ける(快の)感覚は、その都度その都度、異なります。
まして、《快不快 楽しい苦しい》という感覚が共通であることを前提としていません。
ただ、生物としてのの脳や感覚器官の機能の共通性から、ある程度は似たものになるとは思います。と同時に、それは刺激や生理的情報レベルの話なのかなとも思っています。

~~~~
 ★ 《共感対象者の拡大化》
 ☆ ということがらをめぐってです。
 すなわち 《動悸がはげしくなる・赤面・ろれつが回らなくなる》等々の《やましさ》は それぞれの主観において ただちに(一次的な場面において)共同性を持っていなければならないのだと考えるのです。
~~~~
その行動をとるに対して、ある種の《やましさ》《後ろめたさ》を感じた場合に、
自分が他者に見せる、あるいは、他者が自分に見せる、《動悸・赤面etc》などの生理的反応の共通性は、
ヒトという種に共通な身体(脳を含む)の構造・機能としての先天的共通性のほかに、文化などの環境的要因の共通性に起因すると、考えています。
《主観の共同性》や《共感》に根拠をおいていません。


また、
私がここで提出した《共感》は、
相手の感情を感じとれる能力ではなく、
「相手と感情を共有したい」という欲求、または、その欲求を引き起こす(脳また心の)機能・能力のことです。
相手の感情、そのものを、感性であれ何であれ、感じとれると考えていません。
ただ、相手の見せる表情や仕草、言葉や叫び声などの情報、そして、経験からそれを推測するだけです。したがって、誤解も起こります。
そして、《共感対象者の拡大》は、「感情を共有したい」とおもう対象者の拡大の意味です。



☆☆☆
 この《共感対象者の拡大化》は はじめのひとりの主観における《感覚的善論》がけっきょく
 ★ 個別的事象しか扱えない感覚を立脚点にしているので
 ★ アビダルマ的な煩瑣体系
 ☆ とたとえるのでしょうか 判例集のごとくそのつど・その個別の《快不快》事件を集め整理し そのうえで ほかの人びとのやはり主観にとっての善か悪かの判定と対応させて行かねばなりません。と思いますが どうでしょう?

=====
普遍を扱えず、個別的事象しか扱えない感覚を立脚点にしているので、
《判例集のごとくそのつど・その個別の《快不快》事件を集め整理》するようなことになると思います。
ただ、この《感覚的・快感的善理論》は、冒頭で述べた通り、帰結主義です。
なので、行為者の意志や動機は、自己と相手に与えた結果で、その善悪性が判断されることになります。
というよりも、意志や動機の《善・悪》性はどうでもよくなっています、この理論では。

帰結主義ですから、サイコパスは、議論を待たず、アウトです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ はっきり言って、この《善論》は帰結主義になっています。
 ★ やっぱ、感覚や快感を《善性》に絡めると、帰結主義になってしまうのかなぁ~
 ☆ なるほど。そして それは 《関係性》に焦点を当てているとも見られますね。
 つまり
 ★ ~~~
 他者との関係においては、
 意志が具体的な行為として現われ、その行為が他者にどのような感覚を与えるかが善悪を決定し、その結果が動機や意志の善悪を決める仕組みになっています。
 ~~~~~~
 ☆ たぶん やっかいです。ひとりの主観で決めることですが ほかの人間の主観がからんでいますから。



 ★ ~~~~
 「その状況が異なれば、感覚として、たとえ同一製法・同一素材で作った冷や奴であっても、その味が違ったものになる。違う刺戟、情報として感得されるのだ」
 と、(α)(β)の原則を作り出した、僕の頭は申しております。
 ~~~~~
 ☆ もしこうでしたら 快不快のものごとは 一つひとつが全部ちがっているということになりませんか? 判例集をつくるにも 同じ事例というものがない。ということになりませんか?


 あぁ えぇ。そのとおりに帰結されていました。
 ★ 感覚がそうである以上、善を感じる対象もその状況をすべて含んだものとなるであろう。そして、語ることができるのは、一つ、一つ、異なる現象が善であるかどうかである。
 ☆ つまりすべてのことがらが 一回きりの事象であるとなるようです。

 ★ 感覚の対象は、その状況をすべて含んだものであり、どれひとつをとっても、それと同じものはない。どうして例外的な事例がありえようか。
 ☆ その観点からすれば そう帰結されましょう。
 《やましさ》の問題としては さまざまな事例がやって来ようとも 主観が生理的心理的にどう反応するかという一事に収斂します。やましさを感じたら 悪であり そうでなければ 善である。これは きわめて単純に決まります。



 ★ ~~~~
 ・・・
 自分が他者に見せる、あるいは、他者が自分に見せる、《動悸・赤面etc》などの生理的反応の共通性は、
ヒトという種に共通な身体(脳を含む)の構造・機能としての先天的共通性のほかに、文化などの環境的要因の共通性に起因すると、考えています。
 ~~~~~~
 ☆ おそらく《文化的地域的な要因による後天的な共通性つまり実際には差異性》は 《先天的共通性》とはだいたい区別することが出来ると思われます。
 人種や民族あるいは文化によって 赤面するという生理反応が異なるということはないはずです。わづかに面の皮が厚くなって鉄面皮という事態が現われているといった違いだけだと思われます。



 ★ 《共感対象者の拡大》は、「感情を共有したい」とおもう対象者の拡大の意味です。
 ☆ おそらくは 広い意味での仲間をつくり その人びとのあいだのコミュニケーションにおける言わば善の深化によって 善の基盤を固めて行く。これをとおして 悪に対処する。こういう行き方であるように受け取ります。

 《悪は存在しない》という掛け声のばあいは 一人ひとりその内面においてみづからに問うて行こうと言っています。



 ★ ~~~~
 ただ、この《感覚的・快感的善理論》は、冒頭で述べた通り、帰結主義です。
 なので、行為者の意志や動機は、自己と相手に与えた結果で、その善悪性が判断されることになります。
 というよりも、意志や動機の《善・悪》性はどうでもよくなっています、この理論では。
 ~~~~~~ 
 ☆ すなわち 言わば仲間をつくりこれを広げ そこでのコミュニティーとしての《善》を深め 悪があればこの《コミュニティー善》なる土壌の中に絡め取る。といった行き方ではないか。
 ★ 意志や動機の《善・悪》性はどうでもよくなっています
 ☆ という意味が そうではないか? つまりやわらかい大枠としての善がかたちづくられて行く もしくは醸し出されて行く。その中で 悪は生け捕りにされる。

 それと対比するうえでは 《やましさ》仮説としては あくまで《ひとりの人の主観の内で 悪なる意志行為から もとの自然本性の状態へと立ち帰る》 これをもっておのが悪を生け捕りにする。こういった情況でしょうか どうでしょう?

お礼日時:2012/09/03 23:22

#23です。



補足にお答えいただいたので再度投稿させていただきます。
色々おっしゃいますが、論理的整合性に乏しいとですよね。ご自身でもお気づきのはずでしょうから、原点に戻ってご質問の文からひとつだけ指摘させていただきたいと思います。
> ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはず

なのは当然ですが、なぜ、
>それを 善と呼びます。

という断定が可能なのか、という点に関するご説明が全く無いと思います。
それが無いまま論を進めていくのは、砂上かもしれない地に楼閣を建てるようなものではありませんか?
砂遊びの邪魔をするつもりはないのですが、砂であることに気づいておられないような気もします。
あるいは、砂であることを隠して土地を売ろうとしている悪徳不動産屋のようにも見えます。
建物の性能をいくら吹聴されても、下が砂では・・・という感想を持つ人が多いのではないでしょうかね。
そこで提案ですが、せめてモデルルームを見学させる手配をなさってみては、つまり、実際的な例を挙げてみるのが一番いいと思うのですが。
誰しも性能の良い家に住めるに越したことはないわけですから、地面も大丈夫、砂じゃありませんよ(または、砂でも大丈夫)と納得させるのが一級建築士としての腕の見せ所じゃないでしょうか。

#16さんのお礼欄で述べておられますが、
>善が腐って来る。そのとき 負の善 つまり 悪 こちらのほうへ片向いて

行くわけではなく、自然本性が腐ってくるから、その(腐るという)状態を負に傾いて行くと表現し、それを悪と定義するだけなんじゃないですかね。
まあ、それは視点の問題にすぎないわけで、それをここで論じようとは今のところ思いませんが、しかし、少なくとも、それを前提にして、その先の何かを論じようとする、その姿勢はいかがなものか、という印象を受けるわけです。
また、論点をしっかり打ち立てていただいた際に、改めて参加の栄誉に浴したいと思います。
    
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 > ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはず
 :
 なのは当然ですが、なぜ、
 >それを 善と呼びます。
 :
 という断定が可能なのか、という点に関するご説明が全く無いと思います。
 ~~~~~~
 ☆ これは 一方で《ウソをつく心(意志) またはウソをつくのではない心があるという事態》と 他方で《この世には 善という言葉が用いられている事実》とを取り上げて ひとしいと思われる要素をつなげた。ということです。そういうたぐいの《断定》です。


 ★ ~~~~
 >善が腐って来る。そのとき 負の善 つまり 悪 こちらのほうへ片向いて
 :
 行くわけではなく、自然本性が腐ってくるから、その(腐るという)状態を負に傾いて行くと表現し、それを悪と定義するだけなんじゃないですかね。
 ~~~~~~
 ☆ 自然本性は 基本として――存在すること=生きることが わるいことではなく よいことだと見なすゆえ――善だととらえていますが その内の自由意志は じつはその善にさからうことも出来るということです。ですから 善にさからう意志行為または単にそのような漠然とした思い これによって 朽ちるし 腐る。
 これは 自然本性の内の善が腐るわけです。特定しようと思えばです。


 ★ ~~~~
 ・・・しかし、少なくとも、それを前提にして、その先の何かを論じようとする、その姿勢はいかがなものか、という印象を受けるわけです。
 ~~~~~
 ☆ この問い求めは 理論が多少不備でも実践として有効で有益であればよしとするものですが その意味は こうです。
 要するに
 (1) 世に言う善と悪とは どういう意味合いなのか?

 (2) 特に《悪》とは 何か? なんで悪があるのか? ほんとうに悪は存在しているのか?

 (3) 世にある悪に対してどう向き合うのか? 悪をどう扱えばよいのか?

 (4) 実践論として 試行錯誤の過程をすすんでみよう。

 こういった出で立ちです。
 それには 《悪は存在していない。むしろ善という基礎から出て来るに過ぎない。それは 善を損傷させる行為のことである》という作業仮説を得たのだが どうか? と問うています。

 この仮説が 《砂上の楼閣》であってもかまいません。よく機能すれば それでかまいません。
 機能するかどうかが問題です。

 ですから この仮説に対する最大の批判は 《悪は 善と同じように 存在する》という議論だと思います。それが 説得的であれば 砂上の楼閣ですらなく 初めからまぼろしであったとなります。

 そのことについて 少し触れます。
 ユングという男 それに追随する河合隼雄という者 この人たちによると 神は その中身として 神(善神)と悪魔とが同等に存在するのだと言っています。
 そんなばかなことはあり得ません。
 善なる神と悪なる神とが 互いに同等に存在すると言うなら いったいふたりがたたかったなら どう決着がつくのか? ですから そのときには 善という言葉も悪という概念も 何もかも意味がなくなります。砂上の楼閣もいいところです。シャボン玉が飛んで こわれて消えたです。

 そういう事情もあって 悪とは何か? を明確にしたい。ただし ここでは実践論として問い求めるという姿勢です。理論の精緻化を目指すのではありません。仮説が機能するかどうか。これを 考えようとしています。どうでしょう?
 

お礼日時:2012/09/03 22:36

こんにちはです。



☆☆☆
《感覚的善論》の原則として以下のものを考えてみました。

(α)自己に快・楽しいという感覚を与える対象、原因、行為は善である
(β)自己および他者に、不快・苦しいという感覚をもたらすことは悪である。
   また、快(不快)、楽しいを感じさせる感覚器官・その機能の損傷行為も同時に悪である。

この原則は矛盾を含んでいます。
たとえば、bragelonneさんとわたくし・ねむりねこが一緒に仲良くお菓子を食べていた。
最後に残った一個のお菓子をどちらが食べるかべきなのか?
bragelonneさん、ねむりねこ、共々、それを食べたい。
 (α)を満たすためには、それを自分が食べなければならない。
 しかし、それでは(β)に抵触してしまう。
この矛盾をどのように解決するか?

~~~~
その時は、その矛盾を解決するために、お互いに話しあい、智慧を出し合えばいいのですよ。解決策を模索すればいい。そのために、知性や理性というものがある。

お菓子を割って、それぞれがその一方を食べるという、矛盾の解決策もあるでしょう。
あるいは、今回はbragelonneさんが、そして、次回の同じようなケースでは、ねむりねこが食べるという約束をして、この矛盾を解消するというのもあるでしょう。すこしずるい論法ですが、「次回、同じケースでは自分が食べられる」という期待があるので、(α)と(β)の条件をなんとかクリアーできるものと考えています。

▲(α)において、「他者に快....」をあえて善にしなかったのは、
「人間には、共感の能力が備わっている」からです。
他者の快感を共感できるのか、という問題はありますけれども、「楽しい」は共感できるのではないか?
そばにいる人が楽しそうにしていれば、自分まで、なぜか、楽しい気分になることはよくあります。
悲しそうにしていれば、こちらも何だかblueな気分になる。その悲しみを除去、和らげたい気分になる。
家族や友達、恋人が、美味しそうに何かを食べているのを見れば、しあわせな気分になる。
他者は楽しそうに何かを行なっているが、自分にはその行為がどうしても楽しく思えない。好奇心もあるでしょうが、「どうして楽しいのか」を質問したくなる。他者とそれを共感したい、という思いが、その背景にあるでしょう。
人間の脳には《共感》機能が備わっているので。
《共感》できる対象者の拡大、《他者の楽しさ》を《自己の楽しさ》にまで拡大する、これが《感覚的善論》のめざすべき一つの大きな目標です。そして、最終目標になる、のかなぁ~



☆☆☆
この理論では、ご指摘の通り、サイコパス、特に先天的に脳機能の障害を有したサイコパスをうまく扱えません。例外的事例として、その都度、扱うしかないのでしょうね。
原則(β)に反すると、切り捨てることもできるのですけれども、
(刑)法的にはともかく、
倫理・道徳としては、善の欠如としてではなく、《(感覚的)善の顛倒》や《逆立ちした善》として扱うしかないような気がします.....



☆☆☆
○以前は快感をもたらした対象なのに、今は快を感じない。
つまり、ある時は善、そして、ある時は、その否定としての《非善》となっている。
(α)に抵触するのではないか?

◇これは矛盾ではありません。感覚をもたらす対象が異なっているからです。以前快感をもたらした対象と、今は快を感じない対象は同一なものではないからです。
感覚の対象は、記述的なモノ(物質的存在という意味ではない)です。
○○の時、△△△の場所で、□□□の条件下で....
と、状況を詳細に記述されるべきモノです。
快・不快、楽しい・苦しいの感覚は、まったくもって個別的なモノしか扱えず、普遍を扱えません。
普遍は、理性とか悟性よばれるものの領域、範疇なので。

~~~
と突っぱねてもいいのですが、これでは、あまりに動物的。個別しか扱えない。
その対象は、たしかに、その感覚を引き起こす作用・能力は有しているが、実際に人間が感じる快・不快等の感覚はその他のさまざまな要因の相互作用で成立する。そのさまざまな要因が、今と以前とでは異なっているからである、とします。

この《感覚的善論》は、心・物質を含む現象存在の詳細な分析に向かいそうですね。個別的事象しか扱えない感覚を立脚点にしているので、当然といえば当然の結果なのですが、
アビダルマ的な煩瑣体系になりますね。
その都度、その都度、発生する具体的(快)感覚とその対象を集め、それに帰納的処理を施せば、《快の深化》をはかれるのではないか、と、漠然とした期待をいだいていたのですけれど、期待薄です。

▲つまり、《快の深化》には、何か前提となる哲学・価値観が必要ということです。
感覚としての刺激の強さにではなく、《快の永続化》あるいは《永続する快》に根拠を求めるべきか?
《アタラクシア》??
僕としては、世俗的善の到達点は、最終的に《肉体的快楽》を放棄し、精神的平安をめざす、《アタラクシア》でもいいのですけれども、これではちょっと。世俗善としては敷居が高いですし、それ以上に、他者との関係性が失われてしまう。現実社会での《生きた》善にならない。

とりあえず、
(γ)《共感対象者の拡大化》を《快の深化》の前提になる価値観とします。
これなら、サイコパスの問題もなんとかクリアーできそうですし、倫理的一面も出てきます。
ただ、この原則の安易な適用は、《最大多数の最大幸福》につながる可能性があり、排除の論理に使われる危険性もはらんでいるのですけれども。


☆☆☆
(α)(β)の善の対象は、人間の意志的行為のみに限定してもよかったのですけれども、
この道徳論は、動物的感覚を立脚点にしているので、
快感をもたらしてくれた、美味しいお菓子にも《善》の存在を認めました。



☆☆☆
ただ、この(α)、(β)、(γ)の原則は、《美》をうまく扱えません。
《美》は快感をもたらしてくれるモノなので、《善》と考えられるのですが、
問題は《醜》です。
《みにくく》て、《不快感》を与えるものは、《悪》なのか、《善》の欠如としての《非善》なのか。
全体としてではないにしても、《醜》であるから、その点においてのみは《悪》なのか。
とくに、これを人の容姿に適用した場合....
新たな、克服すべき問題を投げかけてきます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。さらに問い求めはつづきます。

 注目したのは 次のくだりです。
 ★ ~~~~~~~
  ▲ つまり、《快の深化》には、何か前提となる哲学・価値観が必要ということです。
 感覚としての刺激の強さにではなく、《快の永続化》あるいは《永続する快》に根拠を求めるべきか?
 《アタラクシア》??
 僕としては、世俗的善の到達点は、最終的に《肉体的快楽》を放棄し、精神的平安をめざす、《アタラクシア》でもいいのですけれども、これではちょっと。世俗善としては敷居が高いですし、それ以上に、他者との関係性が失われてしまう。現実社会での《生きた》善にならない。

 とりあえず、

 (γ)《共感対象者の拡大化》を《快の深化》の前提になる価値観とします。
 これなら、サイコパスの問題もなんとかクリアーで きそうですし、倫理的一面も出てきます。
 ただ、この原則の安易な適用は、《最大多数の最大幸福》につながる可能性があり、排除の論理に使われる危険性もはらんでいるのですけれども。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 前半は たしかにそのとおりなんです。
 生理的心理的な感覚反応は 倫理的な意味合いがすでに含まれていると思いますし ひょっとしたら 論理的な真偽をめぐる意味合いもかかわっているかも知れないということでした。ただしあくまで主観に起こる感性を問題にしているのであって 倫理規範の問題ではない。道徳を目指すものではなく 道徳にかかわるものですらない。(道徳は すでに規範化していますから)。

 しかも
 ★ 共感〔ないし 主観の共同性〕
 ☆ のことは じつは 大いに気にしているわけです。《やましさ》なる感覚が どれだけ 人びとに共通であるのか? これには 多少とも理論としても提出しているからには 神経質なほど気がかりでいるわけです。

 そういう問題からでしょうか
 ★ (γ)《共感対象者の拡大化》を《快の深化》の前提になる価値観とします。
 ☆ なる理論項目が提出されています。

 そこであらたな問題は ずばり身もふたもないようなことを言いますが
 ★ 《共感対象者の拡大化》
 ☆ ということがらをめぐってです。
 すなわち 《動悸がはげしくなる・赤面・ろれつが回らなくなる》等々の《やましさ》は それぞれの主観において ただちに(一次的な場面において)共同性を持っていなければならないのだと考えるのです。
 つまり 《快不快 楽しい苦しい》がその感覚そのものにおいて人びとのあいだで共通であるということ。
 なるほどその感覚じたいとしては 共通ですが それをきちんと《善・不善(悪)》に仕分けしたとき その結果が 人びとのあいだでおおむね〔という言い方もおかしいですが〕同じである。ということでなくてはならない。
 
 この《共感対象者の拡大化》は はじめのひとりの主観における《感覚的善論》がけっきょく
 ★ 個別的事象しか扱えない感覚を立脚点にしているので
 ★ アビダルマ的な煩瑣体系
 ☆ とたとえるのでしょうか 判例集のごとくそのつど・その個別の《快不快》事件を集め整理し そのうえで ほかの人びとのやはり主観にとっての善か悪かの判定と対応させて行かねばなりません。と思いますが どうでしょう?


 すなわち
 ★ ~~~~
 ○ 以前は快感をもたらした対象なのに、今は快を感じない。
 つまり、ある時は善、そして、ある時は、その否定としての《非善》となっている。
 (α)に抵触するのではないか?
 ~~~~~~
 ☆ の問題です。つまりは
 ★ 以前快感をもたらした対象と、今は快を感じない対象は同一なものではないからです。
 ☆ という解法は 不十分だと思うからです。
 以前わたしは 或る夏に涼しい感じで 冷奴ばかりを食べていました。ところが この経験は あとでたたりました。冬でも夏でも もう豆腐を見ると――それほどひどくはないのですが―― どうも食べたいとは思わなくなったのです。
 つまり 快不快を感じる対象は まったく同一の豆腐でした。
 こういう問題はあると思いますね。

 ★ ~~~~
 たとえば、bragelonneさんとわたくし・ねむりねこが一緒に仲良くお菓子を食べていた。
 最後に残った一個のお菓子をどちらが食べるべきなのか?
 ~~~~~~
 ☆ 同一の対象に対しては つねに同じ程度の快を感じるという前提は 必ずしもつねには当てはまらないと思うのです。或る時は 感覚的善をおぼえたが また或る時には 快を感じずしたがって善でもなかったという場合があると思われるのです。


 ぢゃあ 《やましさ》についても 同じような問題があるのではないか?
 どうでしょう?
 わたしが思うにですが これについての例外というべき事例と言いますかは それこそ例外として扱ってもいいほどなのではないでしょうか?
 

 すなわち
 ★ ~~~~
 (α)(β)の善の対象は、人間の意志的行為のみに限定してもよかったのですけれども、
 この道徳論は、動物的感覚を立脚点にしているので、
 快感をもたらしてくれた、美味しいお菓子にも《善》の存在を認めました。
 ~~~~~~
 ☆ と説明されるような事情 これをめぐって 若干ちがってくる。のではないか?
 ウソをついてそれがバレるのではないかとおそれ冷や汗をかくというのは 多少とも倫理にかかわっています。そしてそれは つねにそうだと言えると思われます。
 そうしてそれゆえ ひとりの人間の主観が ほかの人びととのあいだにも 共通していると言えることになる。
 こういう問題ではないでしょうか? 






 ★ ~~~~~
 ただ、この(α)、(β)、(γ)の原則は、《美》をうまく扱えません。
 《美》は快感をもたらしてくれるモノなので、《善》と考えられるのですが、
 問題は《醜》です。
 ~~~~~~~
 ☆ この主題については あんがい簡単です。
 問題は 美にしろ醜にしろ もっと露骨に言えば美人にしろ不細工にしろ それを取り扱うときあるいはまたそれについて発言をするとき どう扱えばよいか・どう言えばよいかをめぐって 自分はやましさを感じるかどうか これを基準として 善ないし悪を決めればよい。これです。
 美と快感 醜と不快感といった対応のことではなく やはり意志行為としてわが心に忠実か逆らうかの問題ですから どう扱うか・どう発言するかという局面に変わって行っている。と考えられるのです。




 ★ サイコパス
 ☆ については まだあたらしい見解は考え得ていません。

お礼日時:2012/09/03 16:31
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