いちばん失敗した人決定戦

 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中41~50件)

>★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?


 ☆ ここで 
 ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで
 ☆ の部分が 違います。
 ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。
 ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>

 それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないものならなぜ『悪』という表現を使うのですか?

>★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?
 ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>

 その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか?

>あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。
 そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。 
 これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。>

 現象というのがわからないのですが悪意というのは 心理現象+物理的現象 である筈です。それを悪意が見られたという表現をすることをなぜ必死に否定しているのですか?

>悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。
 善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>

 ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷により引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?

 ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?
 普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような抵抗が>★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?
 ☆ ここで 
 ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで
 ☆ の部分が 違います。
 ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。
 ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>

 それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないとものなら『悪』という表現を使うのですか?

>★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?
 ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>

 その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか?

>あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。
 そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。 
 これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。>

 現象というのがわからないのですがこれが心理現象である筈です。それを悪意が見られたという表現をするわけですか?

>すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?
 善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。 
 けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。>

 あらたな別の存在が現われるわけではありません。というのならそれで結構ですがなぜ悪意が現れるのですか?

>悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。
 善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>

 ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷による引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?

 ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」とか「酷い行為」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?
 普通そういうのを悪意と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が悪意とか悪行とかそういうのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような意図なのですか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そもそもこの問い求めは ひとつにですが なぜわれわれは善と悪という言葉を持っているのか? この問いに始まっています。
 ゆえに
 ★ それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないものならなぜ『悪』という表現を使うのですか?
 ☆ というとき 先に《なぜ悪という言葉があるのか?》という問いを持ったということです。

 その結果 善および悪を くわしい本質論にまでは到らないかたちながら 経験事象を観察しつつ 《やましさ反応》に着目して それがないのが善 あるのが善の損傷すなわち悪 というふうに仮説した。ということです。
 したがって 初めから終わりまでぜんぶ仮説です。
 仮説が 一般に当てはまり そう捉えることに不都合がなければ ひとつの理論として持つことが出来るのではないか。いえ 理論というより 《悪は 存在しない》というひとつの認識 これを得ることができればよしとします。それが 常識になれば それで万々歳です。




 ★ 現象というのがわからないのですが悪意というのは 心理現象+物理的現象 である筈です。それを悪意が見られたという表現をすることをなぜ必死に否定しているのですか?
 ☆ 関連しています。
 悪意は 意志のそれとしてのあり方です。
 つまりそれとしての意志による選択が 悪意であり その選択つまり悪意を実行しようとするときに やましさ反応が出ます。よってその思いないし行為は 悪と呼ぶ。


 つまり 《悪》の定義のほうに焦点をあてているということです。悪意も関連しています。
 ただし 《悪意》が 別様にあるということではないと考えます。やはりあるのは 《善の損傷》という内容です。あるいは 生きること=ふつうに生きることとしての心に背くという意志 これがあります。これも 善の損傷です。これが 悪であり 意志の発動に焦点をあてれば 悪意となります。





 ★ ~~~~~
 ・・・これを 悪となづけたというだけです。>

 ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷により引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?
 ~~~~~~
 ☆ このやましさ反応による善悪の定義なる仮説を提出しているのは わたしです。悪と名づけたことが 一般に人びとによっても受け容れられるかどうか それは いまこうして吟味・検証しています。
  やましさ反応としての生理現象が起きるなら それを引き起こした意志の発動は 自然本性のよき心根に反することだと捉えるから 善の損傷であり 名づけて悪である。と言っています。微妙に順序がちがうように思います。




 ★ ~~~~~~~~
 今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?
 普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《人間以前の状態にある人間》のことでしょう?
 そういう人間は 《早く死にたい》と言っているということでしょうね。あるいは すでに死んでいるということなのでしょう。
 そのような状態あるいは意志のあり方 これらを自分の考えにおいて 自由に貶(けな)してよいと思います。けなすことを 否定してはいません。

 そのことと 善悪観がどうなっているかとは 別の切り口になります。

お礼日時:2012/09/14 20:21

たとえ『繰り込み』が可能になっていましょうとも%、


アカウントの中にも隠れていませんね。
http://okwave.jp/qa/q7696258.html
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この回答へのお礼

 残念ながら 分かりません。

お礼日時:2012/09/14 05:56

#87です。



> ★ つまり、自然本性は善でも悪でもあり得る、とおっしゃっていますか?
 ☆ 《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》です。

自然本性というものは《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》ものである、ということですね。
ということは、自然本性自体に善なり悪なりの属性は備わっていない、ということは否定していないわけですね。
この質問で何を言おうとしているのかは別問題として、この点に関してだけ率直にお応えいただけますか?

> ★ この場合だと、(広義の好奇心の発露という意味で)ダイナマイトの発明自体に善も悪もないでしょう、とわたしは言っているわけです。
 ☆ 《主観》がかかわらなければ 善悪観は現われない。です。

同じことを言っていると思うのですが・・・。
「好奇心(本性)の発露としての、ダイナマイトの発明自体に善も悪もない」ということは否定なさらないのでしょう?

> ★ ブラジュさんは、人間は信頼関係を築くという善としての属性を本性として備えている、と強引に設定しているにすぎません。
 ☆ 《生きること》 これが 言わば善です。自分と相手がいる場合には 《ともに生きること》となりまう。むろんこれを損ねる悪もありえます。
 信頼関係は 生きることのために必要と見るからです。

いや、それはわかっていますよ。(そうした論理展開であるということわかっているという意味であり、おっしゃっている内容に賛同している、という意味ではありません。むしろ逆です)
その根拠を示さずに結論だけを述べているという意味で強引だと言っているわけです。
なぜに『《生きること》 これが 言わば善です』という断定が可能なのですか?

> ★ 最初から悪が存立している状況は容易に想定できます。
 ☆ この一文は 文脈の中で浮き上がっています。その例証がないからでしょう。

「最初から悪が存立している状況」というのは、あくまで「善の損傷」云々という解釈を加えるまでもなく、という意味です。
いくら例証を挙げても、それは、その基である善が損傷されたに過ぎない、とおっしゃるに決まっているでしょう。
コインの裏を見て、「これは裏ではない。表ではない面である」と主張する人に、どのような例証が可能でしょうか?(これもあくまで例ですので、コインという例自体に関して突っ込むのは勘弁してください。どうしてもの必要性があれば別ですが)

>  ひとつには やましさ無しなら――その特定の主観においてですよ―― 悪ではないのです。なら 善でも悪でもないこと(左利きか右利きかにかかわる事例を挙げました)をも含めて大きく善であると捉えます。不都合はないはずです。

やましさを感じるか否かで(その特定の主観における)全ての善悪を判定できる、ということになってしまいますが、果たしてどうでしょうか。
赤ん坊が(当然、やましさを感じることなく)核弾頭のスイッチを押したとしても悪でないことは確かですが、しかし、スイッチを押さないことが善だという理屈には至らないのではありませんか?
現段階ではあまり詳しく述べることができず申し訳ないのですが、わたしが一番気になっているのは、「善でも悪でもない」という概念を否定する方向に、ブラジュさんの質問は導いてしまう危険性があるのではないか、ということなんです。

いずれにせよ、善悪は相対的な価値観である、というのは、むしろ当然ですが、しかし、それは、あくまで現状分析にすぎないでしょう。
そこからの脱却を図るのが哲学の課題じゃないんですかね。
現状を追随分析して、それでお終いですか?
  
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~
 自然本性というものは《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》ものである、ということですね。
 ということは、自然本性自体に善なり悪なりの属性は備わっていない、ということは否定していないわけですね。
 ~~~~~~
 ☆ そうですが ただし気をつけなければならないことがあります。

 まづ やましさ反応からは遠い意志内容は 善と呼ぶわけです。これは 《生きること》を内容としていると考えられます。《生きること》を内容としているゆえ やましさ反応が起きるわけがない。というかたちです。
 だとすれば 自由意志なりこの意志の座としての自然本性なりは 《生きること》を共通の基礎としているはずです。その限りで 意志も自然本性も 善であると見ることになる。
 こういう見方です。





 ★ 「好奇心(本性)の発露としての、ダイナマイトの発明自体に善も悪もない」ということは否定なさらないのでしょう?
 ☆ 結論が同じであっても その推論が違う場合があります。
 《善も悪もない》と判断して そうなるのではない。ということを言いたいからです。
 つまり まだ善悪の判断をする以前の状態にあるのだから という筋道です。
 
 もっともその発明者においては その発明の段階において何らかの意志を持っていたかも知れません。破壊力のあるものをつくろうといった心つもりであれば ただしそうであっても その用途が決まっていないときには 中立なのでしょう。
 




 ★ ~~~~
 その根拠を示さずに結論だけを述べているという意味で強引だと言っているわけです。
 なぜに『《生きること》 これが 言わば善です』という断定が可能なのですか?
 ~~~~~~
 ☆ ひとつに それが 仮説法の議論の仕方だからです。 
 ひとつに 《生きている》のでなければ 意志を発揮することは出来ないからです。意志行為として 善悪が生じるというのに これが生じないようになれば 議論じたいが成り立ちません。
 そういう作業仮説の仕組みです。別にその本質が善であると哲学の議論をして《断定》しているのではありません。





 ★ コインの裏を見て、「これは裏ではない。表ではない面である」と主張する人に、どのような例証が可能でしょうか?
 ☆ コインの裏表というひと組みと 善悪というひと組みとが 同じように扱えると思っていますか?
 意味を成さない。として取り下げなさい。




 ★ ~~~~
 赤ん坊が(当然、やましさを感じることなく)核弾頭のスイッチを押したとしても悪でないことは確かですが、しかし、スイッチを押さないことが善だという理屈には至らないのではありませんか?
 現段階ではあまり詳しく述べることができず申し訳ないのですが、わたしが一番気になっているのは、「善でも悪でもない」という概念を否定する方向に、ブラジュさんの質問は導いてしまう危険性があるのではないか、ということなんです。
 ~~~~~~
 ☆ ひとつの目的は 《悪は存在しない》という認識が 人びとの常識になることです。
 ですから 《善でも悪でもないこと》という部分は――たしかにありますが―― 焦点を当てていないと捉えてください。




 ★ いずれにせよ、善悪は相対的な価値観である、というのは、むしろ当然ですが、しかし、それは、あくまで現状分析にすぎないでしょう。
 ☆ その過ぎないことだけで 《悪は 存在しない》と言えたら それでよいのです。

 ★ そこからの脱却を図るのが哲学の課題じゃないんですかね。
 ☆ どうぞご自由に取り組んでください。

 ★ 現状を追随分析して、それでお終いですか?
 ☆ そのとおりです。用を足すからです。

 

 

お礼日時:2012/09/13 22:04

>★ ご自身はどういう認識を『悪』と言っているのでしょうか?『やましさに発生した行為』=『悪』なんでしょうか?どの辺を悪と定義するかによって存在するか否かは変わります。


 ☆ その人が 或る思いあるいは行ないを頭に思い描いたとき 胸騒ぎをおぼえたとすれば それが やましさ反応である この反応があるということは――その人にとって―― 善の損傷であると見なす。こういうことです。>

 なるほど個人個人の話というわけですか

>あくまで 主観によって決まります。つまり悪がです。>

『悪』の定義が個人個人の話ならそうなります

>そのあと 相手があるおこないの場合などは 相手とのかかわりで どういう振る舞いとなって現われたかで また そのおこないについての見方は 決まって来ます。そのつど《主観》が 決めます。>

 個人個人の主観ということでいいですよね?bragelonneの主観のみではないですよね?
 
>★ しかし同じ実在する石を見てますよね?それを存在しないと言うのであれば
 ☆ そこに石があるという事態だけでは このやましさ反応の仮説では 悪かどうか決まりません。あくまで主観が決めます。主観の意志が作動するときに やましさを覚えるか否かで 決まります。きわめて独り善がりで自己満足的な決め方です。>

 石は例として出しただけで石があるという事態の話をメインにしている訳ではありません。

>《わたし》もしくは ワタシは それぞれその人のことです。やましさ反応を持つかどうかの具体的なその人のことです。
 ですから 善悪観は ヒトの数だけあります。きわめて勝手な決め方になっています。しかもこれが 持ちこたえるというから 不思議です。>

 持ちこたえるというのは全般的な法律とかそういうのですかね?それならno.48に書いた回答が解答の一部になっていると思います。

>やましさを覚えたなら その思いや行ないを悪と見止めますが その悪が 悪として存在しているとは 見ません。
 なぜなら やましさを覚えたゆえにそれは 善の損傷行為だと見るからです。ただ それをひと言で言えば 悪と呼ぶというだけのことです。呼び方があるから 実在するだろうというのは どうですかね。>

 ここも矛盾してしょうがないんですが 『やましさを覚えたなら その思いや行ないを』=(A) 『悪』=(C) 『と見止めます』 『その悪が』=(A) 『悪』=(C) 『として存在しているとは見ません』 というのが意味不明で支離滅裂な発言になっているように思うのですが?まず前提として『やましさを覚えたゆえにそれは 善の損傷行為だと見るからです。ただ それをひと言で言えば 悪と呼ぶというだけのことです。』というのはA=(Cの一部)ということですよね?それなのに『A=(Cの一部)でCと認めます。しかしA=(Cの一部)は存在しません』と書いてある。この辺がよくわからないのですが?

>河童とか麒麟とかあるいはアンパンマンとか そう呼んでいるから みな実在しているのだよとは言わないでしょう。>

 確かにいいません。そはなぜかというと『架空の存在だ』=『実在していない』と実在化してるから実在していないと思い込んでいるだけです。もしそれを言うなら《主観》が『この世の中主観が認識した現象しか存在しない。だから自分が空を飛ぼうと思えば飛べるんだ!「それ自分よ飛べ!」』と念じて飛べますか?飛べないでしょ?なんでかというと重力という存在が存在するからです。飛べないということは飛べない何かが実在してないと説明がつかないでしょ?ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?

<その悪というそれ自体の存在は どこにもない。こういう話です。>

そういうなら『存在』の定義をはっきりさせないと話が前に進んでいかないと思います。

<いつも いちいち善の損傷と言っていたのでは めんどうです。だから ひと言で 悪と言います。それだけのことです。>

だから『善の損傷』=『悪』もしくは『善の損傷』=『悪の一部』なんでしょうよ?

>人の通るところに石を置いておくとか 石を人に向かって投げるとか そういう考えや行ないを頭の中に想い描いたとき やましさを覚えるはずですから それは その人にとって悪となります。そして そのとき実在することと言えば 何でしょう?>

石をぶつけるというやましさです。

>石というモノはあるのだから そのおこないも同じようにあるということになりますか?>

 行った場合「ある」・・・というか「行った」ということになると思います。しかし「行っていない」場合「行っていない」といことになると思いますが何を言わんとしてるのか今一分からないのですが・・・?

>そこにあるのは 他人の意志や自由を阻んでやろうというその人の心つもりです。これは 悪という言葉で呼ばれますが 実在するのは 意志をないがしろにすることや 相手の自由を妨害するということ>

妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?

>つまりは《善の損傷》です。ただこれを 悪とも呼ぶというだけです。悪が存在するわけではありません。>

『善の損傷』=『悪とも呼ぶ』=『悪が存在するわけではありません。』
存在の可能性を否定するなら善の損傷は悪と呼べないのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 ★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?
 ☆ ここで 
 ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで
 ☆ の部分が 違います。

 ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。

 ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。




 ★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?
 ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。

 あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。

 つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。

 もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。



 そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。
 
 これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。

 すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?
 善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。
 
 けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。

 善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。


 

お礼日時:2012/09/13 21:35

>★ ・読み直して分かったのですが、bragelonne が言いたいのは現象の認識が『悪』としない限り『悪』は存在しないという意味ですかね?☆ そういうことでしょう。



 まあそういうことなら当たり前です。パンチを人に向けずに誰も居ないところでパンチしただけならそれはただのパンチであり暴行にはなりませんw。がパンチを食らった人を警察官が見かけたら最低「暴行行為」という認識で捉えて手錠かける位するでしょう(真ともな警察官ならばの話ですが・・・)しかしbragelonne の悪という定義がわからないのでその行為が善悪にあてはまるのか善でも悪でもないものに当てはまるのか分からないという疑問があります。私が不当にパンチ食らったら「犯罪行為」と認識しますがね、ご自身はどういう認識を『悪』と言っているのでしょうか?『やましさに発生した行為』=『悪』なんでしょうか?どの辺を悪と定義するかによって存在するか否かは変わります。

>★ 現象の認識が『悪』としない限り
 ☆ というくだりは 一般のひとにはわかりづらいと思います。>

 ・・・・確か似たような定義を1年か2年位前に定義づけたことがあって私が作った定義と同じなんですが・・・まあそれは置いておいて、>★ 現象の認識が『悪』としない限り☆ というくだりは 一般のひとにはわかりづらいと思います。>なぜわかり難いと思いますか?それはその現象そのものが実在しているからなんですよ。実在を認識するから存在するという表現でも変ではないんですよ。あと『悪』は一回置いておきますが暴行なり犯罪が引き起こったのを認識した人がいたとしましょう。そうするとその時点で暴行なり犯罪が引き起こっているという事実(実在)を否定できないのではないかと思うわけです。つまり石という実在は日本語を知っている人なら『石』になりますよね?しかし『石』という語をしらない英語を公用語としていて日本語を公用語としていない人からしてみると『stone』なんですよ、それは認識ですが実際に『石』は存在すると言いますよね?しかし英語を公用語としていて日本語を公用語としていない人からしてみると『stone』なんですよ。しかし同じ実在する石を見てますよね?それを存在しないと言うのであれば『悪』という定義をキッチリbragelonneさんが示さないと質疑応答にはなりませんよと言っているんですよ、前々から。まずそこハッキリさせましょうよ?

>○ 《悪》は存在しない ~~~~~
 1. ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える、つまりそれを悪とよぶ。
 2. このように悪を定めたかぎりで 悪という現象が起こるわけですから 定めていない場合には 悪が起きる起きないとは いちおう別である。(つまり 別様の定義や理論において起きていると捉えられるかも知れないけれど この《やましさ反応》の仮説とは 別である)。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ と言っています。>

 と言われると『ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える』=『悪』というわけですよね(bragelonne の勝手な定義ですが・・・)?ならその「ワタシ」というのは誰を指すんですか?bragelonne さんですか?まあ誰でもいいですが、もしその定義を『悪』と捉えるなら『悪』は実在しているという事になりませんか?していないというのであればその反証を

> ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性
 ☆ これは 言っていません。そういう別の見方――倫理規範としての行き方――があるかも知れませんが やましさ反応仮説とは別です。そうではなく 《冷汗が出たり 行動があやふやになったりする》そのやましさ反応で 悪を決めます。主観的にです。もし
 ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性
 ☆ の部分を 《エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応》と言いかえ
 また
 ★ エロDVDが見たいという自然本性が派生して
 ☆ という部分を そうですね 《自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき》というふうに言いかえましょうか。>

>つまり○ 自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応。この感覚をおぼえた。
 ☆ ということだと見ます。ということですが?>

 その『この感覚をおぼえた。』のであればそう感じる側が『悪』という反応として実在したわけだ?それを実在しないと言うのであれば「『石』なんてないあるのは『石と認識した私』だけだ!」という矛盾を孕んでませんか?と補足要求しています。つまり『石』自体が勝手に認識して決めた定義であるわけだから『石』=『石の認識』になるわけだから『悪』=『ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える』ならば『やましさ反応を善の損傷と捉える』という現象は実在してないんですか?と聞いています。
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この回答へのお礼

 ★ ご自身はどういう認識を『悪』と言っているのでしょうか?『やましさに発生した行為』=『悪』なんでしょうか?どの辺を悪と定義するかによって存在するか否かは変わります。
 ☆ その人が 或る思いあるいは行ないを頭に思い描いたとき 胸騒ぎをおぼえたとすれば それが やましさ反応である この反応があるということは――その人にとって―― 善の損傷であると見なす。こういうことです。


 あくまで 主観によって決まります。つまり悪がです。
 そのあと 相手があるおこないの場合などは 相手とのかかわりで どういう振る舞いとなって現われたかで また そのおこないについての見方は 決まって来ます。そのつど《主観》が 決めます。


 
 ★ しかし同じ実在する石を見てますよね?それを存在しないと言うのであれば
 ☆ そこに石があるという事態だけでは このやましさ反応の仮説では 悪かどうか決まりません。あくまで主観が決めます。主観の意志が作動するときに やましさを覚えるか否かで 決まります。きわめて独り善がりで自己満足的な決め方です。


 道徳や倫理規範でまた法律でこれこれこうだと決まっているから それは悪だ いや悪ではないという問題ではありません。
 《わたし》の主観が――それも やましさ反応の有る無しが――決めるのです。




 《わたし》もしくは ワタシは それぞれその人のことです。やましさ反応を持つかどうかの具体的なその人のことです。
 ですから 善悪観は ヒトの数だけあります。きわめて勝手な決め方になっています。しかもこれが 持ちこたえるというから 不思議です。


 やましさを覚えたなら その思いや行ないを悪と見止めますが その悪が 悪として存在しているとは 見ません。
 なぜなら やましさを覚えたゆえにそれは 善の損傷行為だと見るからです。ただ それをひと言で言えば 悪と呼ぶというだけのことです。呼び方があるから 実在するだろうというのは どうですかね。
 河童とか麒麟とかあるいはアンパンマンとか そう呼んでいるから みな実在しているのだよとは言わないでしょう。






 ★ その『この感覚をおぼえた。』のであればそう感じる側が『悪』という反応として実在したわけだ?
 ☆ 《悪とよぶコトとして実在した》とまでは言えましょう。
 ところが そのコトは 《善の損傷》であるというのが その実質的な中身なわけです。悪とは呼んでいるけれど その悪というそれ自体の存在は どこにもない。こういう話です。


 いつも いちいち善の損傷と言っていたのでは めんどうです。だから ひと言で 悪と言います。それだけのことです。


 石と悪とは 別でしょう。

 人の通るところに石を置いておくとか 石を人に向かって投げるとか そういう考えや行ないを頭の中に想い描いたとき やましさを覚えるはずですから それは その人にとって悪となります。そして そのとき実在することと言えば 何でしょう? 


 石というモノはあるのだから そのおこないも同じようにあるということになりますか?

 そこにあるのは 他人の意志や自由を阻んでやろうというその人の心つもりです。これは 悪という言葉で呼ばれますが 実在するのは 意志をないがしろにすることや 相手の自由を妨害するということ つまりは《善の損傷》です。ただこれを 悪とも呼ぶというだけです。悪が存在するわけではありません。そう呼んでいるだけです。
 

お礼日時:2012/09/13 14:52

>あなたとのやり取りを 初めから 読み直してみてください。


 ぜんぶ答えています。>

・読み直して分かったのですが、bragelonne が言いたいのは現象の認識が『悪』としない限り『悪』は存在しないという意味ですかね?
 それならその通りだと思います。否定する要素はないです。

 わたしの言っているのは自然本性の捻じ曲がり損傷のみが<やましさ>に転ずるというところがそれだけとは言いがたいと言っているわけです。エロDVDで説明しましたがエロDVDが見たいという自然本性が派生して『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性が損傷して引き起こった反応だと考えます。つまりやましさというのは『自然本性の派生+自然本性の損傷』なのではないかと思うわけです。
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この回答へのお礼

 ★ ・読み直して分かったのですが、bragelonne が言いたいのは現象の認識が『悪』としない限り『悪』は存在しないという意味ですかね?
 ☆ そういうことでしょう。
 ★ 現象の認識が『悪』としない限り
 ☆ というくだりは 一般のひとにはわかりづらいと思います。

 ○ 《悪》は存在しない ~~~~~
 1. ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える、つまりそれを悪とよぶ。

 2. このように悪を定めたかぎりで 悪という現象が起こるわけですから 定めていない場合には 悪が起きる起きないとは いちおう別である。(つまり 別様の定義や理論において起きていると捉えられるかも知れないけれど この《やましさ反応》の仮説とは 別である)。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ と言っています。



 ★ わたしの言っているのは自然本性の捻じ曲がり損傷のみが<やましさ>に転ずるというところがそれだけとは言いがたいと言っているわけです。
 ☆ 分かっています。例証をどうぞと言っています。
 なお精確には やましさ反応は 自然本性としての心に逆らって へそを曲げその反抗心のようなもののほうを自由意志が欲するとき 起きるという説明です。起きたら 心としての善を損傷させる行為だと見る。これを 悪と呼ぶと。

 次が 例示のようです。


 ★ ~~~~~~~~
 エロDVDで説明しましたがエロDVDが見たいという自然本性が派生して『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性が損傷して引き起こった反応だと考えます。つまりやましさというのは『自然本性の派生+自然本性の損傷』なのではないかと思うわけです。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ まづ
 ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性
 ☆ これは 言っていません。そういう別の見方――倫理規範としての行き方――があるかも知れませんが やましさ反応仮説とは別です。
 そうではなく 《冷汗が出たり 行動があやふやになったりする》そのやましさ反応で 悪を決めます。主観的にです。

 もし
 ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性
 ☆ の部分を 《エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応》と言いかえ
 また
 ★ エロDVDが見たいという自然本性が派生して
 ☆ という部分を そうですね 《自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき》というふうに言いかえましょうか。

 つまり

 ○ 自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応。この感覚をおぼえた。

 ☆ ということだと見ます。ということですが?

お礼日時:2012/09/13 11:14

原罪を特定のアドオン群が取り除けましょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7694027.html
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この回答へのお礼

 わっかんねえよ。

お礼日時:2012/09/13 08:50

たとえ対照勘定の様なセットへの監査を外部に委託しませんでしても、


価値による拘束からの解脱が維持されるのでしょうか?
http://kanauka.com/kakomon/au/h23t/002.html
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この回答へのお礼

 つづきますね。

 ★ 監査
 ★ 価値による拘束

 ☆ このふたつは 別のことですよね。
 監査――つまりこの場合は 外部によるだけでなく 自己による監査――をしなくても 《価値による拘束》から解脱するかどうかの課題があると思います。
 監査したからと言って――きちんとマチガイが指摘され修正されたからと言って―― 価値へのこだわりが それぞれの人において なくなるわけではない。
 あるいは 価値へのこだわりは 初めからなかったかも知れない。

 ・・・

お礼日時:2012/09/13 08:47

#84です。



> ★ 「基礎である」の主語はなんでしょうか。
 ☆ 自然本性です。また その中核としての自由意志を取り上げています。

ということは、
「> つまり生きるという意味では善であり そして現象としての善悪の選択がなされる意志の座として基礎である。重ねて述べれば 善ないし悪を選択して実行することになる意志の座として基礎である。(#77お礼欄)」という文の意味は、
「つまり生きるという意味では善であり そして現象としての善悪の選択がなされる意志の座として基礎である。自然本性とは、善ないし悪を選択して実行することになる意志の座として基礎である。」
ということになります。
自然本性が善でも悪でもないことをご自身でお認めになっていることになります。

> ○ 《道具の発明》を実現する能力は 自然本性のうち特には知解という行為能力であり 《道具の発明》という中立のコトは 《善でも悪でもない》というよりは そのあとその人の意志の発動にかかわって 善でも悪でもありうる。

つまり、自然本性は善でも悪でもあり得る、とおっしゃっていますか?

> つまり 石斧という道具を発明した。
 ★ 具体的なものごとにつながる目的で
 ☆ 発明されたわけです。そしてそれは 自然本性のうちの知解能力を用いておこなったと考えられます。

#77でも述べたことですが、獲物の屍骸の中に、細くて長く堅い骨の一振りを見つけたとき、一匹の猿が、「こりゃ何かに使えるかも・・・。使えそうだ・・・」と感じた。
それが好奇心という本性でしょう、ということです。
叩いて音を出すためか、仲間と遊ぶためか、獲物を狩るためか、仲間をしばくためか、という目的が浮かぶ以前に好奇心が頭をもたげる。
鉱山の発掘に寄与するか、戦争の道具にするかを考えずにダイナマイトが発明されたのと似ているといえば言える。
この場合だと、(広義の好奇心の発露という意味で)ダイナマイトの発明自体に善も悪もないでしょう、とわたしは言っているわけです。

> 《こわれた信頼関係》という悪が 初めにあって わづかにその修復をおこなうという善が 二次的に現われる。それだけだとすれば 悪も それ自体として存立していると言えないか? という問いは 成り立たないでしょうね。

食い違いが浮き彫りになっていてわかりやすいですね。
少なくとも、この論理は成立しません。
「信頼関係」は本性ではない、という点が大きな違いです。
信頼関係が築かれれば善ですし、信頼関係が築かれない状態は悪と仮定するとわかりやすくなるでしょう。
最初から悪が存立している状況は容易に想定できます。
ブラジュさんは、人間は信頼関係を築くという善としての属性を本性として備えている、と強引に設定しているにすぎません。
あくまで論理上の筋について言っています。
その内容の是非についてここで今論じるつもりは特にありません。

> 極端なことを言えば 《やましさ反応》仮説による善悪観と そして別様の理論構成による善悪観とが 両立するということも ありうるのかも知れません。
 ですが いまは この質問趣旨の検証を質問者としては 問い求めます。
 いえいえ けっきょく別様の仮説理論をどうぞとも言って来ました。

わかりました。
悪は存在する、ということについて説得力のある見解を展開しないのであれば、他人の質問にケチをつけるな、というわけですね。
まあ、それはある程度認めます。しかし、
> 善悪を決める意志は 基礎として善だと見るという仮説であり その意志の座としての自然本性は 善であろうと同じく仮説するというに過ぎません。

とおっしゃるわけですから、
「>善悪を決める意志は 基礎として善だと見る」と仮説する根拠を教えてください、と言いたくもなるでしょう。
それ無しに、「>その意志の座としての自然本性は 善であろう」と言われてもなあ・・・、という感じでしょうかね。

> やましさ反応で やましさをおぼえない場合の心のあり方 これを善と言っており 意志というその全体やその座である自然本性は やましさ無しの善と同じ地盤であろう。こう見て 作業仮説の検証をしている。それだけです。

「>やましさ無し」が(必ずしも)善だとは特に思いませんので、最初から食い違いがあるということのようですね。
ただ、悪の際にやましさ反応が起こる場合【も[しばしば]ある】とは思いますし、「やましさ無し」に戻そうとする営為は善と思います。
だからといってやましさの無い状態が特に善ということにはならないのではないか、つまり、それは単に自然本性であるだけで、ということです。
いずれにしても、多様に発展する課題を含んだ面白いご質問でした。
以前からの懸案事項とも関連するため、ほとん整理がつかないままで、今回はこんなところではないかと思います。
因みに、わたしのような俗人はせこくて、現実社会で明日からでも実践できる哲学でなければ意味がないだろう、と思ってしまいますが、それにしても、やはり確信的な根拠は必須ですね。
       
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 自然本性が善でも悪でもないことをご自身でお認めになっていることになります。
 ☆ 善および悪は やましさ反応にしたがって その意志選択の内容について言っています。その本質が善だだとか悪だだとかというのではなく 善と呼び悪と呼ぶというふうにです。
  
 そのあと 善または悪を選択する意志またはその意志の座としての自然本性 これは それら自身が存続していないことには 善悪の選択や実行が出来ない相談なのですから 善悪なる行為をなすことの基礎でもある。
 つまり この意味でも《生きること》が 存在や基礎と地続きであると見られる。
 そうして およそこの《善悪の全体》を捉えて言うときには この生きることや意志や自然本性が 基礎であり それは言うとすれば 善であろう。と見ています。


 
 ★ つまり、自然本性は善でも悪でもあり得る、とおっしゃっていますか?
 ☆ 《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》です。



 ★ この場合だと、(広義の好奇心の発露という意味で)ダイナマイトの発明自体に善も悪もないでしょう、とわたしは言っているわけです。
 ☆ 《主観》がかかわらなければ 善悪観は現われない。です。



 ★ ブラジュさんは、人間は信頼関係を築くという善としての属性を本性として備えている、と強引に設定しているにすぎません。
 ☆ 《生きること》 これが 言わば善です。自分と相手がいる場合には 《ともに生きること》となりまう。むろんこれを損ねる悪もありえます。
 信頼関係は 生きることのために必要と見るからです。

 ★ 最初から悪が存立している状況は容易に想定できます。
 ☆ この一文は 文脈の中で浮き上がっています。その例証がないからでしょう。


 ★ 「>善悪を決める意志は 基礎として善だと見る」と仮説する根拠を教えてください、と言いたくもなるでしょう。
 ☆ これは 今回の冒頭で説明しています。《生きること》関連は すでに説明していると思うのですが。



 ★ 「>やましさ無し」が(必ずしも)善だとは特に思いませんので、最初から食い違いがあるということのようですね。
 ☆ ひとつには 《主観》が発動してこそ善悪観が現われるということ。これに留意してください。
 ひとつには やましさ無しなら――その特定の主観においてですよ―― 悪ではないのです。なら 善でも悪でもないこと(左利きか右利きかにかかわる事例を挙げました)をも含めて大きく善であると捉えます。不都合はないはずです。
 ひとつには ここでも 例証をなすべし。さもなければ ケチをつけているに過ぎない。

 このくだりでは さらに書いてありますが これまでと同じだと見なします。






 ★ 因みに、わたしのような俗人はせこくて、現実社会で明日からでも実践できる哲学でなければ意味がないだろう、と思ってしまいますが、それにしても、やはり確信的な根拠は必須ですね。
 ☆ 《悪は 存在しない》という認識がもたらす実践を知るべきでしょう。
 《確信的な根拠》うんぬんは 《主観》をとおして初めて善悪観が現われるという説明を 最後まで留意しないままだったことに起因しましょう。やましさ反応は うむを言わせない事態です。

お礼日時:2012/09/13 02:01

>困りましたね。



 困ったということは今のところ私の補足要求に答えられる理由を書けないということですね。どうします?答えられないんですか?困りましたね?何回読んでもご自身は支離滅裂な発言が多いですし、意味不明です。ご自身もう少し素直に答えたらどうでしょうか?


質問文を借りると

>(g)自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。>

これと

>ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。>

という文章の意味も不明なんですよ。(g)に『~状態のことも 悪と呼ぶ。』と書いて置いて最後に『ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。』と書いてあるのも今一つピンと着ません。
 
 補足質問1・『ならば悪は存在しない』と表現するのは分かりますがどのような悪が存在しないのか?
 
 補足質問2・『その名で呼ぶ現象がある』で『ある』と書いてあるのに『存在しない』となるのか?
 
 補足質問3・主観として良かれと思って行動する行為が自然本性なら、なぜ自然本性が(ご自身の定義で言えば『自然本性=基なる善』故に)損傷するのか?

ここを分かりやすく詳しく説明してください。
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この回答へのお礼

 あなたとのやり取りを 初めから 読み直してみてください。

 ぜんぶ答えています。









 あなたの文章が支離滅裂であることを指摘しようとは思いません。

お礼日時:2012/09/13 01:30
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