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 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中61~70件)

#73です。



> ★ 人類の誕生
 ☆ これらを善と見るか?
 ワタシの心に受け留めて やましさ反応が無く 自然本性とその生きることにつながっていると見るなら大きく善に入ると思います。 

仮説ではなく、人類の誕生 という既成事実について伺っています。
次のように質問を変えましょう。
人類の誕生という事実を、ブラジュさんの心に受け留めたとき、そこには、やましさ反応が無く 自然本性とその生きることにつながっていますか?

答えづらければ、次のように伺ってもいいでしょう。
獲物の骨から武器製造が閃いたのは猿(または人間)の自然本性だと思いますが、これは善ですか、悪ですか。
最初の猿(または人間)の場合についてです。
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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ 人類の誕生という事実を、ブラジュさんの心に受け留めたとき、そこには、やましさ反応が無く 自然本性とその生きることにつながっていますか?
 ☆ やはり自分の思いまたはおこない これらについて やましさ反応があるということになっていると思います。
 人類の誕生は ワタシの出来事ではないという意味です。

 ワタシ自身の誕生についてですか?
 意志行為ではないという意味で 答えが出ないように思います。
 ただし 誕生は それがあるから意志行為が出来ている。と考えるなら どうなんでしょう?
 これでも答えが出ません。



 ★ ~~~~~
 獲物の骨から武器製造が閃いたのは猿(または人間)の自然本性だと思いますが、これは善ですか、悪ですか。
 最初の猿(または人間)の場合についてです。
 ~~~~~~ 
 ☆ 《武器》というところが問題なのでしょうか?
 動物に対する武器としてみれば 生きることに付随することとして 善の前提事項であるように思います。
 人間に対するものとしては 悪でしょうね。相手の意志をないがしろにするということで 悪だと見ます。やましさ反応があると思います。

お礼日時:2012/09/11 00:01

#64です。



> ★ 砂地に楼閣を建てるのは好ましくない、と申し上げているわけですが
 ☆ 《やましさ反応》のどこが 《砂地》なのか。これを説明せよという応答です。
 もしくは 砂地でもかまわない。それを作業仮説とするだけだから。とも言っています。

《やましさ反応》が《砂地》だとは言っていないでしょう。
それが悪のリトマス紙たり得ることは、むしろ賛同すると述べているではありませんか。
投稿内容をきちんとお読みになっているのでしょうか。
闇雲に反発すればそのうち引きさがるだろうぐらいにお考えなのかもしれませんが、どうも見苦しさが露呈してきた感じですね。
「>もしくは 砂地でもかまわない」に至っては何をかいわんや、です。
砂地に建てることが明らかな建築について論ずるという無駄なことをする気はない、ということを述べてることぐらいおわかりでしょう。

> ★ 立地の目処がついた時点で、
 ☆ 《立地》の問題そのものを扱うのではなく 砂地としてであってもの生理的心理的なやましさ反応を取り上げ そこから善とそして善の損傷としての悪とを定義して それらを人間の行為について当てはめるなら 妥当な観察結果や検証結果が得られると言っています。

「生理的心理的なやましさ反応が、善の損傷としての悪」である、という点に関して反論してはいません。
ただ、それが「(全ての)悪は善の損傷である」という定義が導かれるはずはないでしょう、と申し上げているだけです。

> 悪は 善と同じようには存在するものではなく 善という存在の中身を損傷することとして起きている現象であるに過ぎない。つまり悪は 存在しない。

 こういう仮説法による議論であり これを問うています。

どうも頭が悪くて、おっしゃっている意味がよくわからないのですが、仮にそれが仮説法という議論なのだとすれば、それを論じて何になるのか、という疑問を呈していると申し上げても良いと思います。
うまいたとえではありませんが、たとえば下記のようです。
たとえば、ブラジュさんは人殺しの方法について論じようとしている。
人殺しの是非をさておいて、そんなことを論じて何になるのか、とわたしは言っている。
仮に人殺しが起きるということに限定して考えればよいのであって、それが善か悪かはどうでも良い、とブラジュさんは言う。
つまり、「>これを問うています」とのことですが、問う視点が違うんじゃないですか、とわたしは言っているわけです。
上の例は、厳密に言うと違うのかもしれませんが、斟酌してわたしの言う内容をご理解いただくことは可能でしょう。
表現不足を棚に上げてこう言うのも気が引けますが、重箱突っ込みは不毛の種ですからご配慮願います。

このへんでちょっと切り口を変えてお伺いしてみたいのですが、「2001年宇宙の旅」はご覧になったことがおありだと思います。
猿が、獲物の骨によって石などを砕けることを発見(創造)するシーンで人類(としての)誕生が象徴的に描かれていたと思いますが、(他の因子によってでも構いませんが)こうした人類の誕生という科学的事実自体を善と捉えていらっしゃるわけでしょうか。
他の例を挙げるとすれば、花の種が芽吹いて太陽に向かって伸びようとするエネルギーを善と捉えていらっしゃいますか。
こうしたことは河岸を替えて話したほうがたぶん良いと思うのですが、まあ、締め切るまでの暇つぶしとでもお考えください。
      
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この回答へのお礼

 どうも堂々巡りになって来ましたね。まづは ご回答をありがとうございます。


 人殺しの例は 分からないですよ。
 人殺しが 善か悪かはどうでもよい。というのは 話が違うように思う。
 問う視点が違うっていうところも では どう違うかが分かりません。




 ★ ~~~~~
 「生理的心理的なやましさ反応が、善の損傷としての悪」である、という点に関して反論してはいません。
 ただ、それが「(全ての)悪は善の損傷である」という定義が導かれるはずはないでしょう、と申し上げているだけです。
 ~~~~~~~
 ☆ 「(全ての)悪は善の損傷である」というのは あくまでワタシという主観にとってという意味ですよ。なぜなら 善の損傷として悪が発生したからです。それ以外では発生しないのですから。
 では 悪は 一人ひとり主観ごとに違うのか? この問いには答えていません。問い自体を建てないでいます。



 ★ 人類の誕生
 ★ 花の種が芽吹いて太陽に向かって伸びようとするエネルギー
 ☆ これらを善と見るか?
 ワタシの心に受け留めて やましさ反応が無く 自然本性とその生きることにつながっていると見るなら大きく善に入ると思います。 
 ただし 人間以外のことは ことさら善と言わなくてもよいと考えます。自由意志の有る無しの関係からです。





 ☆☆ 砂地でもかまわない。
 ☆ というのは 経験事象は すべて移ろいゆくものですから 善だと見ても それも相対的な経験世界の出来事である。という意味で《砂地》ということを言っています。建物じたいも 《砂地》なわけです。どんなしっかりした立派な立地でも《砂地》なわけです。一切が無常だという大枠をかければです。

お礼日時:2012/09/10 22:31

<☆☆(No.67お礼欄) 『悪を欲する意志が 善なる基礎にある。


 ☆ たとえば次の文章は 同じことを言っています。ほかにもあるでしょうが ひとつだけに例示をとどめます。
 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~
 見るからに根っからの悪人だと思われるにんげんも みなと同じく互いに同じ自然本性をそなえた存在として生まれて来ており 生きている。それは 善もしくは要するに《生きること そして ともに生きること》という基礎であり大前提のもとに 社会の中で生活している。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ よって
 ★ そうですか・・・意地もあるでしょうからそういうことにしときましょう。
 ☆ は 事実にもとづいた発言ではありません。>

 どうでもいいです。言っているなら言っているでいいですし、そこに対抗意識を燃やす気にはなりません。ご自身の子供のような自尊心と付き合う必要もないですからそこまでにしょうしょう。


>★ ~~~
 例えば肉食動物が居ますよね? 小鹿を狙って捕まえて食べる。ある視点で見れば弱いもの虐めです。しかしそれは「食したい」という動物本来の遺伝的もしくは野生的な基となる善から来ているからでしょ? じゃあ基の善なる行為自体に悪行になりえる要素が含まれているという見方もできるでしょ
 ~~~~
 ☆ 動物と人間とは違います。>

そりゃ違うけど似たりよったりの側面はあるでしょ?

>自由意志の有無によります。つまりは やましさ反応が起きても それを自由意志が無視して
>善の損傷としての悪を欲しこれを実行する。これが 人間の場合です。そのように説明して来ています。>

 そうですか?どこでそのような説明がなされたか記憶にありませんが、ご自身は常々「悪は存在しなくて在るのは善の損傷のみであり、その損傷により悪が派生するのみだ」という主張をしてそれは絶対みたいな表現だったように思います。ただそれは否定しないがそれだけの要素のみで悪が派生わけではないというのが私の主張で「なら反証してみろ」といわれたので反証し証明したわけです。

>いつどこで動物の話をわたしがしましたか? ええかげんにしなさい。>

してませんよw誰が動物のはなしをご自身がしたと言いました?

>★ それで分からないとかいうと私と比べると相当なバカとしかいいようがありません。もしそれは違うというならそれなりの反証をしめすなりなんなりして欲しいものです。
 ★ ~~~~~~~~
 事例をだすなら、エロDVDを購入したとしてそれが<やましい>と感じた人がいたとしましょう。(そう感じない人もいますがそれは置いておいて)エロいDVDを見たいがイヤラシDVDを見るのはプライドが許さないという基なる善から派生した行為ですよね?それが<やましい>と感じさせる要因だとすれば、エロDVDを見たいという基なる善と、エロDVDを見るのは恥だと感じる基なる善が葛藤して<やましい>と感じるというわけで、両方要素としてはあり得ると推論するのが自然だと思いますがね?なにか反論ありますか?
 ~~~~~~~
 ☆ いかに葛藤があろうと やましさ反応は それがあるか無いかです。>

むちゃくちゃな話のすりかえだな・・・「やましさ反応はそれがあるか無いかです」というやましさの有る無し質問ですか?

>それが決まるまでに小さな反応がいくつかあるということかも知れませんが>

わかってくれましたか、しかし小さいか大きいかというのは今一まとまっていません。

>決まるのは ひとつだけです。むろんその人にとってです。それだけのことです。>
>★ なにか反論ありますか?>

『決まるのは ひとつだけです。むろんその人にとってです。それだけのことです。』意味が分からないのです。?

 あえて最終結論をだすなら、悪いことと認識できていてその行為を行いたいという基なる善がある人が行う悪とご自身が仰る何か要因がありその要因ゆえに有る意味悪い意味でキチガイになる場合もあるというおのが私の結論です。
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この回答へのお礼

 これは 答える必要がないと判断しました。

お礼日時:2012/09/10 21:26

イデアの有無は相対的なのでしょうか?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC% …
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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ イデア
 ☆ は 心の眼にみえる概念や理念のことだと思います。魂と言っていても 要するに身と心のその心のことです。つまり 精神です。

 精神と身体とに分けて 精神の世界は あたかも天上の世界にも通じているというようなことを言うのだと思います。
 問題は その天上の世界も 地上に生活するワタシの 特には精神の緑野のことにほかなりません。

 つまりは 人間の精神は 経験世界に属し むろん相対的なものです。かなしいかな うつろいゆくものだと言わねばなりません。
 これを超える場は わづかに《非思考の庭》だと捉えています。

お礼日時:2012/09/10 00:27

エラーは改善の為の必要悪なのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7685999.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 もしワタシが やましさを感じたなら ワタシにとって悪だと思ったということになります。

 特に《必要悪》と思わなくても 我れに還り あやまちをただせばよいと思います。

お礼日時:2012/09/10 00:19

>★ 『悪を欲する意志が 善なる基礎にある。

』というなら私の言ってることを受け入れたということですか?
 ☆ きちんと表現し得ていなかったのかも知れませんが 初めからそのようです。受け容れるも受け容れないもありません。>

そうですか・・・意地もあるでしょうからそういうことにしときましょう。

>★ しかし『悪は存在するか? 善と同じように存在するか?』と聞かれれば存在すると答えざるおえないです。
 ☆ ですから その有効な反証が挙がれば この質問趣旨としての仮説は くづれます。>

 私の回答で崩している事に気がつかないというのは「自分の理論が完全に正しいんだ」という意地ですか?それともある意味無能なのでしょうか?まあそれはしりませんが分かりやすいように例を出しましょう。例えば肉食動物が居ますよね?小鹿を狙って捕まえて食べる。ある視点で見れば弱いもの虐めです。しかしそれは「食したい」という動物本来の遺伝的もしくは野生的な基となる善から来ているからでしょ?じゃあ基の善なる行為自体に悪行になりえる要素が含まれているという見方もできるでしょ
 
>★ 私が推測するところ それ以外の心理〔* すなわち《悪は存在する》をみちびくところの事例〕もあるという推論を論証するまで確信があります。無論100%ではありませんが結構自信はあります。
 ☆ 是非 お示しください。>

上記で示したのでそれでいいでしょう。それで分からないとかいうと私と比べると相当なバカとしかいいようがありません。もしそれは違うというならそれなりの反証をしめすなりなんなりして欲しいものです。

>★ 損傷を受けたりやましさを感じたりするところから派生する悪行なるものは存在するでしょうが、そうでない場合もしくは その程度が主な要因で無い場合があると言っているわけです。無論実証したわけではありませんので100%とは言いません。
 ☆ 是非 実証してください。>

以下同文

>やましさ反応によって判定する悪は あくまで主観における知覚および認識だということにも留意してもらって 反証を挙げていただくと 話は早いと思います。>

 だからやましく感じるというのはその生理的反応なんでしょ?それが基なる善から派生したのであればやましさなる要素を基なる善が可能性として持っていることになるでしょ?人間の遺伝という言い方があると思いますが・・・
 事例をだすなら、エロDVDを購入したとしてそれが<やましい>と感じた人がいたとしましょう。(そう感じない人もいますがそれは置いておいて)エロいDVDを見たいがイヤラシDVDを見るのはプライドが許さないという基なる善から派生した行為ですよね?それが<やましい>と感じさせる要因だとすれば、エロDVDを見たいという基なる善と、エロDVDを見るのは恥だと感じる基なる善が葛藤して<やましい>と感じるというわけで、両方要素としてはあり得ると推論するのが自然だと思いますがね?なにか反論ありますか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆(No.67お礼欄) 『悪を欲する意志が 善なる基礎にある。』
 ☆ たとえば次の文章は 同じことを言っています。ほかにもあるでしょうが ひとつだけに例示をとどめます。
 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~
 見るからに根っからの悪人だと思われるにんげんも みなと同じく互いに同じ自然本性をそなえた存在として生まれて来ており 生きている。それは 善もしくは要するに《生きること そして ともに生きること》という基礎であり大前提のもとに 社会の中で生活している。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ よって
 ★ そうですか・・・意地もあるでしょうからそういうことにしときましょう。
 ☆ は 事実にもとづいた発言ではありません。



 ★ ~~~
 例えば肉食動物が居ますよね? 小鹿を狙って捕まえて食べる。ある視点で見れば弱いもの虐めです。しかしそれは「食したい」という動物本来の遺伝的もしくは野生的な基となる善から来ているからでしょ? じゃあ基の善なる行為自体に悪行になりえる要素が含まれているという見方もできるでしょ
 ~~~~
 ☆ 動物と人間とは違います。
 自由意志の有無によります。つまりは やましさ反応が起きても それを自由意志が無視して善の損傷としての悪を欲しこれを実行する。これが 人間の場合です。そのように説明して来ています。いつどこで動物の話をわたしがしましたか? ええかげんにしなさい。
 ★ それで分からないとかいうと私と比べると相当なバカとしかいいようがありません。もしそれは違うというならそれなりの反証をしめすなりなんなりして欲しいものです。




 ★ ~~~~~~~~
 事例をだすなら、エロDVDを購入したとしてそれが<やましい>と感じた人がいたとしましょう。(そう感じない人もいますがそれは置いておいて)エロいDVDを見たいがイヤラシDVDを見るのはプライドが許さないという基なる善から派生した行為ですよね?それが<やましい>と感じさせる要因だとすれば、エロDVDを見たいという基なる善と、エロDVDを見るのは恥だと感じる基なる善が葛藤して<やましい>と感じるというわけで、両方要素としてはあり得ると推論するのが自然だと思いますがね?なにか反論ありますか?
 ~~~~~~~
 ☆ いかに葛藤があろうと やましさ反応は それがあるか無いかです。
 それが決まるまでに小さな反応がいくつかあるということかも知れませんが 決まるのは ひとつだけです。むろんその人にとってです。それだけのことです。
 ★ なにか反論ありますか?

お礼日時:2012/09/10 00:16

>そうおっしゃるなら ことは 《自由意志》の問題であるようです。


 自由意志とは何か? について まづ次のような物語において捉えています。
 ○ (エワとアダムの自由意志論) ~~~~
 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
 わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
 夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。
 もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。
 そういう意味でも 表現は自由なのだ。
 このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。
 ~~~~~~~~~~>

>つまり ウソをつかない自由とウソをつく自由とをふくむ自由選択をおこなう意志のことです。
 しかも総じて『この意志は 自然本性の中にそなわっており』>

と自ら私の言っている事を肯定してるじゃありませんか?なにが違うんですか?

>自然本性は ワタシが生きることとほぼ同じ動態でもありますから 言うとすれば 善です。
 善から 意志自由によって 善と悪とが生じる。こういう見方です。>

まあこれは否定しませんけどね
 
>なぜなら ウソは ウソをつかないという意志に『さからって』現われると見るからです。それが やましさ反応です。>

「さからいたい」と思った気持ちはその善なる自由意志から発せられた現象でしょうよ?

>心のまっすぐな状態としての意志そしてその善とは別の――別様にみづからの基礎を持つ――悪という意志があるのではないか?
 この問題に帰着するかと考えます。
 人が赤面するというのは そう思ってそうするのではなく 思わずそう成るのだと見られます。
 自分が理性によってか操作して赤面するのではないと見られます。
 その意味で 生理的反応と言っていますが これが では何故起きるのか?
 ひとつにこの問題から 生理的反応に見られるようなチカラが自然本性にははたらく。このことをもって 生きることないしそれとしての善 これが 存在としての基礎であろうと見ている。こういう意味です。>

まあその辺もあまり私は否定してません。それが基なる善かどうかを気にしてる人もいるみたいですが ようは主観における自然本性の表れをご自身は基なる善と言っているわけですよね?

>そしてこの究極の善悪論としては ここでは問い求めずに いま仮説した内容を 具体的に実際の社会におけるそれぞれの場面に当てはめて 差し障りがなければ いちおう仮説がとおるのではないかという議論です。>

どうだろうね?統計学的な問題は私の感知するところではありませんが、そのような仮説が当てはまる場合とそうでない場合(当て嵌っているとは言いがたい場合)があると思いますよ?

>★ やましさ反応があろうがなかろうが「殺して快楽を得たい」という願望はご自身の仰る基なる善からきたのではないのですか?
 ☆ やましさ反応があるということは 悪は善の損傷としてのみ起きるということだと見ます。>

だからそれがそれ『のみ』とは言いがたいと言っているわけです。無論程度の差はあると思いますし ご自身がその心理に当てはまっていて それ以外に当てはまっていないと感じているのかもしれませんが私が推測するところ それ以外の心理もあるという推論を論証するまで確信があります。無論100%ではありませんが結構自信はあります。
 
>★ これも同じく生理的反応を感じたとしても、『虐めたい』という欲求そのものはご自身の定義でいけば基なる善なのでしょうよ?
 ☆ やましさ反応については 同じことが言えると思います。
 ★ 『虐めたい』という欲求そのもの
 ☆ これは 確かに自由意志から生じる。こう捉えます。基礎なる善から生じるということです。>

やっぱりそうでしょう。

>ということは 善としての光が まっすぐすすむだけではなく 曲がるということだと たとえではなると思います。>

曲がると認識するのは傍観者や受動者であり曲がった本人は曲がっていない事になりませんか?無論認識ができるか否かは別としてです。

> 善なる基礎に その善であるみづからを損ねる片向き これがある。
 善みづからを損ねる傾きを 欲する善なる基礎つまり自由意志 これがある。
 つまり 悪を欲する意志が 善なる基礎にある。>

『悪を欲する意志が 善なる基礎にある。』というなら私の言ってることを受け入れたということですか?

>では 悪は存在するか? 善と同じように存在するか?>

多数少数はしりませんよ、しかし『悪は存在するか? 善と同じように存在するか?』と聞かれれば存在すると答えざるおえないです。
もし無いとするするなら快楽殺人も虐めも世間的に良くない行為というのを皆しないでしょう。つまりその『基が同じ』と言っているだから、その派生が悪行なのか善行なのか悪でも善でもないものなかのどれかに当てはまるわけですよ。
無論ご自身の言っている事を否定しているわけではないわけですから損傷を受けたりやましさを感じたりするところから派生する悪行なるものは存在するでしょうが、そうでない場合もしくは その程度が主な要因で無い場合があると言っているわけです。無論実証したわけではありませんので100%とは言いません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 『悪を欲する意志が 善なる基礎にある。』というなら私の言ってることを受け入れたということですか?
 ☆ きちんと表現し得ていなかったのかも知れませんが 初めからそのようです。受け容れるも受け容れないもありません。

 ★ しかし『悪は存在するか? 善と同じように存在するか?』と聞かれれば存在すると答えざるおえないです。
 ☆ ですから その有効な反証が挙がれば この質問趣旨としての仮説は くづれます。
 
 ★ 私が推測するところ それ以外の心理〔* すなわち《悪は存在する》をみちびくところの事例〕もあるという推論を論証するまで確信があります。無論100%ではありませんが結構自信はあります。
 ☆ 是非 お示しください。

 ★ 損傷を受けたりやましさを感じたりするところから派生する悪行なるものは存在するでしょうが、そうでない場合もしくは その程度が主な要因で無い場合があると言っているわけです。無論実証したわけではありませんので100%とは言いません。
 ☆ 是非 実証してください。
 やましさ反応によって判定する悪は あくまで主観における知覚および認識だということにも留意してもらって 反証を挙げていただくと 話は早いと思います。

お礼日時:2012/09/09 22:31

まず1~5については何も否定しないし『悪』という定義をご自身がなさったという見方です。

そこはあまり否定しないしむしろ賛同する部分が多いです。

>6. あるのは――つまり存在すると思われるのは―― この悪が何ものかに逆らうというときの何ものかのほうである。>

 なぜ逆らうときの何ものかの方を存在すると言って、逆らう側の方を存在しないとするわけですか?そこが矛盾してませんか?と聞いています。

>8. 善は ワタシという存在であると同時に その思いやおこないとして現象でもある。>

 現象であり存在するというのはその逆に「悪を行いたいという気持ちが沸いてくるのはワタシという存在であると同時に その思いやおこないとして現象でもある。」と捉えることが出来るのではないでしょうか?

>10. 意志が どういうわけか その善の損傷を 善よりも欲して選択する。>

 ご自身の理論でいけばしないことになりませんか?何故善しかないのに善の損傷を欲するのですか?おそらくまた違った基の善の行いが基の善の損傷をともなってでも行いたいという基の善の違いにより引き起こるから基の善を損傷してまで違う基の善の行為を行いたいのではないでしょうか?
 そうなれば基の善の損傷を引き起こすそれとは違う基の善の欲求が存在する事になりませんか?ならば基の善の損傷のみで悪行を行うという理論は悪行の理論の中のある要素の一部(もしくは側面)ということになりませんか?
 よって>11. 悪は 善が存在するようには 存在しておらず 善の損傷として現象するのみ>ではないという証拠なりえる。

>12. ★ 快楽殺人
 ☆ を頭の中に想い描いたとき 殺人というおこない(また思い)について やましさ反応があってしかるべきだと見ます。>

 やましさ反応があろうがなかろうが「殺して快楽を得たい」という願望はご自身の仰る基なる善からきたのではないのですか?

>13. ★ 虐めが悪いことだと認識しつつ楽しいと感じて虐める行為
 ☆ も同じく 《悪いことだ認識》する前にすでに そのイジメを想い描いたとき 生理的な反応としてやましさをおぼえるものと考えます。>

 これも同じく生理的反応を感じたとしても、『虐めたい』という欲求そのものはご自身の定義でいけば基なる善なのでしょうよ?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうおっしゃるなら ことは 《自由意志》の問題であるようです。

 自由意志とは何か? について まづ次のような物語において捉えています。

 ○ (エワとアダムの自由意志論) ~~~~
 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
 わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
 夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 

 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。
 もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。
 そういう意味でも 表現は自由なのだ。
 このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。
 ~~~~~~~~~~

 つまり ウソをつかない自由とウソをつく自由とをふくむ自由選択をおこなう意志のことです。
 しかも総じて この意志は 自然本性の中にそなわっており 自然本性は ワタシが生きることとほぼ同じ動態でもありますから 言うとすれば 善です。
 善から 意志自由によって 善と悪とが生じる。こういう見方です。
 
 なぜなら ウソは ウソをつかないという意志にさからって現われると見るからです。それが やましさ反応です。






 心のまっすぐな状態としての意志そしてその善とは別の――別様にみづからの基礎を持つ――悪という意志があるのではないか?
 この問題に帰着するかと考えます。

 人が赤面するというのは そう思ってそうするのではなく 思わずそう成るのだと見られます。
 自分が理性によってか操作して赤面するのではないと見られます。
 その意味で 生理的反応と言っていますが これが では何故起きるのか?

 ひとつにこの問題から 生理的反応に見られるようなチカラが自然本性にははたらく。このことをもって 生きることないしそれとしての善 これが 存在としての基礎であろうと見ている。こういう意味です。

 そしてこの究極の善悪論としては ここでは問い求めずに いま仮説した内容を 具体的に実際の社会におけるそれぞれの場面に当てはめて 差し障りがなければ いちおう仮説がとおるのではないかという議論です。






 ★ やましさ反応があろうがなかろうが「殺して快楽を得たい」という願望はご自身の仰る基なる善からきたのではないのですか?
 ☆ やましさ反応があるということは 悪は善の損傷としてのみ起きるということだと見ます。
 
 ★ これも同じく生理的反応を感じたとしても、『虐めたい』という欲求そのものはご自身の定義でいけば基なる善なのでしょうよ?
 ☆ やましさ反応については 同じことが言えると思います。
 ★ 『虐めたい』という欲求そのもの
 ☆ これは 確かに自由意志から生じる。こう捉えます。基礎なる善から生じるということです。
 ということは 善としての光が まっすぐすすむだけではなく 曲がるということだと たとえではなると思います。
 そのヘソ曲がり これも 善なる基礎に存在したのではないか?――ここに焦点があります。

 わづかに へそを曲げる場合には やましさ反応が起きる。という事態に注目をしている。というように ここまで来れば 堂々巡りになるのかも知れません。


 善なる基礎に その善であるみづからを損ねる片向き これがある。
 善みづからを損ねる傾きを 欲する善なる基礎つまり自由意志 これがある。
 つまり 悪を欲する意志が 善なる基礎にある。

 では 悪は存在するか? 善と同じように存在するか?
 
 

お礼日時:2012/09/09 15:37

>質問1・その『存在』とはなんですか?


 ~~~~~~
 ☆ 人もしくは《わたし》が生きているというそのこと これは 大きく捉えれば現象ですが>

《現象》と言っている以上「よくない事が派生する現象」と定義した時点で存在として現れる可能性があるということでになるのではないでしょうか?

>それ以上分析しても その分析結果は いま・ここに生きている《わたし》にとっての情報となることでしかありません。《わたし》が 中核となって 居ります。
 分析結果としてのモノのことを 《わたし》という人間存在とは別のこととしうると考えます。意志行為の有無が 違いです。意志を 心とも言います。>

そう考えると悪行もその自由意思で行う行為であれば『存在しうる』となるわけですよね?無論『無くす事も可能』と前々から言っていますがそういうことですよね?

>よって この《わたし》なる動態は――たしかに何もかもが移ろいゆく現象でありつつも―― ひとつの《存在》だと言えるのではあるまいか?>

ということでまんまと自分で現象が派生する可能性を定義したわけだ

>つまりは 《やましくない》善は この生きることないしその存在にそのままつながっている。と見る。つまり 善は基礎としてあるか または基礎にもとづいて善がある。と見ることになります。
 つまりは 悪は この基礎なる善としての心にさからうかたちで 善の損傷として しかもわが心に現われる。ウソをつくというかたちで 初めには現われる。
 と見るとき この悪は それ自身としての基礎はない。基礎はなく 善という基礎の上に現われるものだ。よって 悪は 善が存在するようには 存在していない。
 こういう推論で 問うています。>

まあそういう<やましい>感じという意味ではその通りだと思われます。

>★ つまり私がいいたいのはご自身が仰っているのは「石ころは存在するが石ころが転がるという現象はあっても石ころが転がるということ自体存在しない在るのは石だけだ」と言っているようなものだと言っているわけです。
 ☆ 1. 石ころは 欠けて行きます。欠けるという変化は 現象であろうと言っています。
 2. 石は 仮りにそのように石として集まったモノなのでしょうが それとして 言うなれば存在しています。
 3. むろん 石ころが その元のすがたのまま ときを経て行くこともあります。それは 存在であると同時に その推移として現象です。
 4. ただし石ころは ダジャレのごとくなりますが 意志がありません。この意志は 人間のものです。そこが違いますが だいたい上のようだと思います。>

現象や変化をより肯定した感じがしますね、ならばその「まずいだろう」とか「やべ~な」という感覚そのものの定義を変化と捉えれば存在するわけで
それを基が違うから基は存在しないでしょと言っているのと同じことで要は石という物質があるが転がるのは傾斜が発生したからに他ならず基の転がっていない状態に転がるという状態は派生していないというのを主張しているのであって、その至極当然の事を「悪行」「よくないだろう行為」が派生する可能性は存在しないという主張にはなり難いと思います。

>* 善の損傷行為というかたちの定義に合わない内容を もし《悪》が持つとなれば 話は違って来ます。この仮説はくづれます。

今回それを崩そうと思います。ご自身おっしゃる基からなる善の損傷による悪の派生は否定しませんが、基なる善から派生した生き方もしくは行為そのものに「悪い行為を行う」という現象がそんざいするからです。一例に快楽殺人というのがありましょう。また虐めが悪いことだと認識しつつ楽しいと感じて虐める行為もまた善の損傷から派生したものではなく基なる善から派生した行為と捉えられると以前私は論調したわけです。つまり善の損傷から派生した行為『のみ』が悪を派生させてるわけではないと言っているのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 次の一文に問題は集まっているように思います。
 ★ ご自身おっしゃる基からなる善の損傷による悪の派生は否定しませんが、基なる善から派生した生き方もしくは行為そのものに「悪い行為を行う」という現象がそんざいするからです。
 ☆ こうなりましょうか。
 1. 生きている《わたし》 これを存在とよぶ。

 2. ワタシは考えたりおこないを行なったりする。これは 意志行為である。

 3. 意志行為をおこなうとき 生まれつきそなわった能力として もしそれがおのが心にさからうことであるなら 胸騒ぎがしたりして《やましさ》としての生理的心理的反応が現われる。

 4. やましさをおぼえる思惟や行動を 《悪》とよぶ。

 5. それは 先に定義したからと言って ワタシなる存在の中に悪なる部分としての存在があるというわけではない。

 6. あるのは――つまり存在すると思われるのは―― この悪が何ものかに逆らうというときの何ものかのほうである。それは 《やましくない》心のあり方であり これを善とよぶ。

 7. とすると 善は ワタシが生きているというそのことにもとづいてある。もしくは 生きること自体が 善だと考えられる。わが心に逆らわないあり方として。
 
 8. 善は ワタシという存在であると同時に その思いやおこないとして現象でもある。

 9. 悪は 存在する善から その善をそこなうような思いや行ないとして 意志によって 生じる。

 10. 意志が どういうわけか その善の損傷を 善よりも欲して選択する。

 11. 悪は 善が存在するようには 存在しておらず 善の損傷として現象するのみである。



 ★ ~~~~
 一例に快楽殺人というのがありましょう。また虐めが悪いことだと認識しつつ楽しいと感じて虐める行為もまた善の損傷から派生したものではなく基なる善から派生した行為と捉えられると以前私は論調したわけです。つまり善の損傷から派生した行為『のみ』が悪を派生させてるわけではないと言っているのです。
 ~~~~~
 ☆ ですから これらの場合にも 《やましさ反応》は通って来ているはずであり 悪ならば 反応があったはずです。

 12. ★ 快楽殺人
 ☆ を頭の中に想い描いたとき 殺人というおこない(また思い)について やましさ反応があってしかるべきだと見ます。

 13. ★ 虐めが悪いことだと認識しつつ楽しいと感じて虐める行為
 ☆ も同じく 《悪いことだ認識》する前にすでに そのイジメを想い描いたとき 生理的な反応としてやましさをおぼえるものと考えます。

 14. 自分の――心に合った――意志にしろ他人の意志にしろ その意志をないがしろにすること これがやましさをおぼえさせる行ないだと見ます。

 15. ワタシの意志は 自由意志と呼ばれるごとく わが心の善なる内容に反して やましさをおぼえつつも すべてに逆らって けっきょく善の損傷としての悪をも欲し これを選択し 実行にもおよぶ。ことがある。

 16. そのとき《快楽》と感じるか あるいは 元のやましさを感じなくなるか これは 人間の行為にとってのクセの問題です。習慣という現象のおそろしさです。

 17. ふと 元のやましさ反応を思い出し われに還り 心に逆らわない自由意志を発揮することが出来る場合もありますが そのまま気づかずに おのが主観における善と悪との区別についても分からなくなる場合があります。

 といった見方になりますが どうでしょう。

お礼日時:2012/09/09 12:50

ご自身が仰ることはよくわかるし、それを100%否定しようとしてるわけじゃないんだけど10~20%無理のある理屈を述べているのでそこを指摘してるだけなのですよ



その10~20%というのは

>よって 善は 存在しておりまたそれとして現象する。>

質問1・その『存在』とはなんですか?

>悪は 善と同じようには存在しておらず>

ここはわかります。が未だご自身の仰る『存在』の意味が私には理解できません。

>存在する善に逆らってそれを損なうというかたちで初めて現われる。のではないか?>

『存在』を飛ばせばその通りではなかいと思います。

>だから悪は 現象としては 善の損傷として現われるが>

主観的にということですよね?

>悪というものとして存在しているわけではない。>

質疑1・ここは『だから悪は 現象としては 善の損傷として現われるが』と矛盾している、なぜその矛盾を正当化しているんですか?正当化しているなら正当化するなりの根拠を掲示願います。

>こうです。これが
 ★ 石ころは転がるが石ころが転がるという事はないと言ってるの同じです。
 ☆ か?>

例えが悪かったかな?言い方間違えましたか・・・つまり私がいいたいのはご自身が仰っているのは「石ころは存在するが石ころが転がるという現象はあっても石ころが転がるということ自体存在しない在るのは石だけだ」と言っているようなものだと言っているわけです。

ここが10~20%違和感があった部分です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 ★ ~~~~
  >よって 善は 存在しておりまたそれとして現象する。>

 質問1・その『存在』とはなんですか?
 ~~~~~~
 ☆ 人もしくは《わたし》が生きているというそのこと これは 大きく捉えれば現象ですが それ以上分析しても その分析結果は いま・ここに生きている《わたし》にとっての情報となることでしかありません。《わたし》が 中核となって 居ります。
 分析結果としてのモノのことを 《わたし》という人間存在とは別のこととしうると考えます。意志行為の有無が 違いです。意志を 心とも言います。

 よって この《わたし》なる動態は――たしかに何もかもが移ろいゆく現象でありつつも―― ひとつの《存在》だと言えるのではあるまいか? 基礎として成っているというような意味です。

 つまりは 《やましくない》善は この生きることないしその存在にそのままつながっている。と見る。つまり 善は基礎としてあるか または基礎にもとづいて善がある。と見ることになります。

 つまりは 悪は この基礎なる善としての心にさからうかたちで 善の損傷として しかもわが心に現われる。ウソをつくというかたちで 初めには現われる。

 と見るとき この悪は それ自身としての基礎はない。基礎はなく 善という基礎の上に現われるものだ。よって 悪は 善が存在するようには 存在していない。
 こういう推論で 問うています。



 だいたい この説明で今回は よろしいのではないでしょうか?



 ★ つまり私がいいたいのはご自身が仰っているのは「石ころは存在するが石ころが転がるという現象はあっても石ころが転がるということ自体存在しない在るのは石だけだ」と言っているようなものだと言っているわけです。
 ☆ 1. 石ころは 欠けて行きます。欠けるという変化は 現象であろうと言っています。

 2. 石は 仮りにそのように石として集まったモノなのでしょうが それとして 言うなれば存在しています。

 3. むろん 石ころが その元のすがたのまま ときを経て行くこともあります。それは 存在であると同時に その推移として現象です。

 4. ただし石ころは ダジャレのごとくなりますが 意志がありません。この意志は 人間のものです。そこが違いますが だいたい上のようだと思います。



 * 善の損傷行為というかたちの定義に合わない内容を もし《悪》が持つとなれば 話は違って来ます。この仮説はくづれます。

お礼日時:2012/09/09 09:13
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