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 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中111~120件)

善悪を知る実を食して自己嫌悪に捕われ始めるのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7644599.html
http://okwave.jp/qa/q7676059.html
http://okwave.jp/qa/q7676023.html
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この回答へのお礼

 つづきます。

 善と悪を知る木から採って食べた。このことの解釈を示します。

     *

 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

      *

 このようであれば その自由意志の持ち主としてのにんげんは 祝福された。と考えられます。
 エデンの園における《それと気づかない場合の 〈聖なるあまえ〉》ではなくなったという意味です。

 もともと おそれは持たれていましたが 聖なるあまえのことに気づいてからは きよらかなおそれを持つに到った。こういう意味です。

 自己をほこらしく思うようになって行ったはずです。

お礼日時:2012/09/02 10:40

たとえ誰かによる認証が経由されていませんでしても、


善悪は自己目的(自己完結)的に働き掛けていくのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A1% …
http://k-tai.impress.co.jp/cda/article/keyword/7 …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 善悪が・・・はたらきかける
 ☆ ということはありません。《わたし》がその意志行為として 自己表現をおこない その中身として 自分の主観にとっての善もあれば悪もある。ということかと思います。

お礼日時:2012/09/02 01:44

#14です。



> ★ 自然界の自然本性と、人間としての(善としてのではなく)[自然]本性というもの
 ☆ というふうに二つの本性に分けることはしません。

とのことですが、わたしが述べたのは、ブラジュさんも後述しているように、
> 言いかえると すでに《動物とは一線を画して》おり すでに《何を目指していくべきであるのか、という問題に正対して》いる。

このように言い換えても構いません。あるいは、
> これが にんげんの自然本性です。動物とはちがいます。

ということなわけです。
ただ、
>悪という《善の損傷行為》

と規定してしまっていますが、悪となる行為が善に損傷的に作用することを認めてもよいのですが、善なる行為も悪に治癒的に働いているだけかもしれませんよ。
ブラジュさんは人間の自然本性=善という固定概念があるので、そこから色々な枝葉が出てしまいます。
悪というのは、なぞらえて表現するならば《自然本性の損傷行為》とするほうが適切ではないかと思います。
つまり、善すぎても悪すぎても、おそらく自然本性の損傷ということになるのではないか、というのが私の考え方であるということになるのでしょう。

> 善と悪が別物だとは言っていません。
 むしろ、善と悪は自然本性の裏表である、と考えるのが妥当と思っています。
 ~~~~~ 
 ☆ このご見解が あいまいであり そのあいまいさは けっきょくのっぺらぼう史観へと導かれて行くのではないか? と言っています。
 善と悪との違いは おのが心におけるウソで無いかあるかだと見ます。やましさを感じないか感じるかだと。(善をおこなうとき 他人に知られることをおそれるその恥づかしさは やましさとは違います)。
 ですから 《裏表》の関係ではない。悪は 負の善として善を損傷させるものであり それもそのままオモテの出来事である。こう見ざるを得ないはずです。

仮にそうだとしても、曖昧でないことのみを以って真理とする根拠が導かれるわけではないでしょう。

>悪という《善の損傷行為》 これがわが精神を傷つけるのであり それ以外にひとの心を傷つけるものはない。と知っているからです。
 これが にんげんの自然本性です。動物とはちがいます。

それはそうでしょう。
自らの言動に対する疚しさという認識が悪と名づけられているものなわけですから。
そのことと、人間の自然本性が善であるということとは何の関係もありません。
疚しさを感ずるのは本性が善だからであるとお考えなのかもしれませんが、それは違います。
本性の一部として善という認識機能が備わっているからです。
本性の全てが善でできているわけではありません。

> 他者からは 身に傷をつけられ得ますし 社会的生命が兵糧攻めによっても断ち切られるところまで追い込まれることもあります。けれども 精神は他者からいくら悪をこうむっても みづからの悪が同調していないなら 傷つけられる気遣いはありません。

 そういう意味で 《ともに生きる》ことは ニンゲンにとってウソではなく 自然本性にふさわしく また善である。こう考えられます。

「そういう意味で」という意味がわかりません。
一番主張されたい点ではないかとも思いますので、ここに絞って解説いただければ幸いです。
わたしとしても、(結果として)揚げ足ばかりとる形になるのは不本意ですので。

> だとすれば 《悪人》というひとつの独立した範疇があるのではない。というもうひとつの結論をもみちびけます。共生できないのは むしろ おのれの悪選択という意志行為とであり その意味での悪人との共生のことであると。

「悪選択」と言えば済むことを、悪は存在しない、などと奇を衒ったようなことで丸め込もうとするからややこしくなっているだけなんじゃないですかね。
悪は存在しない、と仮定することによる有為性が全く見出せない、そのような質問から何も導かれないのではないですか、ということです。
いわしの頭(信仰宗教の呪文、よりはましでしょう)を持ち出すのは勝手ですが。

前の項で触れました、「そういう意味で」がどういう意味でなのか、に関連して新しい質問が出るようでしたら、そこでまたお会いするかもしれません。
とりあえず、今回はここまでとさせていただきます。
   
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「そういう意味で」という意味がわかりません。
 ☆ これは 《他者の悪が 自分の精神に傷をつけることはない》からには 《自分が生きることと 他者とともに生きることとが 善だと見なし得る》という意味で と言っています。その文脈です。

 ☆☆(No.14お礼欄) ~~~
  他者からは 身に傷をつけられ得ますし 社会的生命が兵糧攻めによっても断ち切られるところまで追い込まれることもあります。けれども 精神は他者からいくら悪をこうむっても みづからの悪が同調していないなら 傷つけられる気遣いはありません。


 そういう意味で 《ともに生きる》ことは ニンゲンにとってウソではなく 自然本性にふさわしく また善である。こう考えられます。
 だとすれば 《悪人》というひとつの独立した範疇があるのではない。というもうひとつの結論をもみちびけます。共生できないのは むしろ おのれの悪選択という意志行為とであり その意味での悪人との共生のことであると。
 ~~~~~~~~~



 ★ 「悪選択」と言えば済むことを、悪は存在しない、などと奇を衒ったようなことで丸め込もうとするからややこしくなっているだけなんじゃないですかね。
 ☆ 《悪選択》という行為から 悪という現象は起きている。ただし 悪選択をおこなうのは 善と見なすところの自然本性・その内の意志行為である。つまりは 悪がもとから悪として存在して 現象としても現われるということではない。と言っています。 

 ちなみに 善は 自然本性として――相対的で時間的なものに過ぎないわけですが―― 存在していると見なすわけで そのように存在しつつ そこからさらに現象としても現われる。というような構図です。


 ですから この時点で 悪は存在しないと言わないとすれば 善悪論を為す意味がなくなります。どうして
 ★ 悪は存在しない、と仮定することによる有為性が全く見出せない、そのような質問から何も導かれないのではないですか、ということです。
 ☆ となりましょうか? 

 重ねて述べるなら こうです。

 ○ 悪が 善と同じように 経験的な事態としてそこでそう見なす程度のことではありながら まづ存在しているとした上で その行為も為される――というのなら そうだというのなら 悪は 存在しつつそこから現象としても起こるというようなことになります。けれども 善はそうであるが 悪はそうではない。そうではなく悪は 善という存在の中から 現象としてのみ生じるのだと。

 ○ 悪は 善と同等の重みをもって並び立つものではない。と言っています。

 ○ 善である部分と悪である部分とがある自由意志から 好きなように善なる行為と悪なる行為とが 互いに同等に選択されおこなわれる――というわけではない。と言っています。

 ○ 悪を選択するばあいには 動悸がはげしくなるといった生理的な反応がともなわれる。しかるに 善を選択するばあいには これがない。
 このことは 意志行為を為すにあたって悪の場合は わが心に背くから やましさを覚えるのであろうと見られる。善の場合は そうではない。つまり わが心のおもむくところに逆らってはいない。と見る。

 ○ 善は それとしての基礎がある。この基礎が 悪には ない。悪の基礎は じつは 善〔なる自然本性〕であると見るわけです。

 よって 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだと。






 ★ 悪というのは、なぞらえて表現するならば《自然本性の損傷行為》とするほうが適切ではないかと思います。
 ☆ それでもいいですが その《ほうが適切》だとは言い切れません。

 悪は 自然本性が善であるというそのあり方にさからって――つまりそういう意味を持つ生理的な反応を見せつつ―― 選択されおこなわれるのですから。

 つまり 自然本性の損傷というのは 善の損傷だという意味がある。
 そのように 意志行為の主体である《わたし》は知っている。はっきりと心得ているということ。このことが 大事ですから。

 主観において 善が悪になったり 悪が善になったりすることはないわけです。からだが記憶しています。
 感性がむしろ身をも精神をも守ろうとしています。
 これを さもすぐれた推論であり英知でさえあると言わんばかりにあれこれ言い訳がましく 《悪を善だと言って誑し込む》のは じつは・じつに理性です。その意志行為です。
 
 善から悪が出る。そのようにしか悪は生じない。
 悪から悪が出るということはない。善だからこそ おのれである善を切り刻んで損傷させつつ 悪を生む。



 ★ 「悪選択」と言えば済むことを、悪は存在しない、などと奇を衒ったようなことで丸め込もうとするからややこしくなっているだけなんじゃないですかね。
 ☆ 悪選択だけではなく 《悪は存在しない》と明確に述べなければ話は終わらないわけです。でしょう?

お礼日時:2012/09/02 01:36

まず「主観的な善」とは聞き慣れない言い回しですが、何の事かと想像しつつ、質問を読みました。

ある人が「よかれと思ったこと=主観」を妨害する行為を問題とされているという事でいいでしょうか。こうした事態はいくつか想定出来ます。
(1)個人の信条が理由も無く、迫害される。
(2)よかれと思ってした行動が、無理解にさらされる。

二つは全く別の事です。(1)については、どう見ても加害者が悪いという事でしょう。しかし(2)については、常にそうではありません。よかれと思っていても、お節介であったり、常識を逸脱していたりする事があるからです。したがって、いくら「善」と当事者が言ったところで、まさに主観的であって、客観的に見れば「主観的な善」の正体が、実は悪だという事があり得ます。
こうしたパラドクスが起きる理由は、善悪の判断を主観的に任せるという事に限界があるからだと私は考えます。これについてはいくつか事例を挙げる事が出来ますが、例えばイラク戦争などは顕著な例でしょう。アメリカ側は「無限の正義作戦」などと正義を前面に押し出しました。だが、中東にも中東の主張する正義がありました。主観的な正義という時、正義は複数、並立する事になります。それらはお互いを譲らず、闘争し合う他ないのです。

私はこれが無意味だと考えています。そうではなく、法などの客観的な判断が必要ではないかと思います。無論、法も裁判官の判断という主観性があって運用されているものです。とはいえ、裁判官は日常生活で自らの好みも表明しないのですし、偏りがないように最大限配慮しています。何より、当事者ではなく、第三者として正義を判断しようとしています。したがって、これは人が出来るうる限り、最大限、主観から遠ざかっていると言えるでしょう。以上から、主観的な善は、善とは呼べないと私は考えます。善は客観的であるべきです。

さて、主観的な善について、私の考えは以上の通りです。ご質問にはもう一つ、現象としての悪という事が述べられています。私が理解したのは、質問者は実存と本質を分け、悪を実存とし、善を本質としているらしいということです。実際、gには「自然本性」という言葉が出ています。
しかし、これにはいくつかの点で納得できないのです。まずあらゆる物事は分析していけば、全て現象だという事が出来るでしょう。したがって悪のみが現象で、善のみが本性という仮説には理由がない事になります。
次に質問文では「やましさ」を感じる事が人の本質が善である根拠となっています。しかし、上述したように人の主観は常に善を探り当てられるとは限りません。また「やましさ」が根拠となるのであれば、逆に、悪を成す「喜び」を根拠に、悪こそ人間の本性という事もいいうるわけです。 論証は不完全と思います。
さらにfとgで説明されているのは、悪が現象で善が本性であると仮定した上で、悪が善に対してどのように働きかけるか?という過程です。しかし、両者の関係を説明するのは、論証において傍証というべきものでしょう。

このようにみていけば、質問者はアプリオリに 善を本質と定めているのではないかという疑念を生じます。質問者は性善説を信じているのかもしれません。そしてこのように内実を検討していけば、質問はいわば、 性善説を支持するか否かを問うているだけの単純なものであって、知的な意味での哲学というよりむしろ、人生哲学という経験を問うものであり、同時に宗教的であるといえます。
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この回答へのお礼

 早くものなめさんになっちまったさん ご回答をありがとうございます。

 先に《性善説》との異同をたしかめます。
 孟子のそれとは ふたつの事柄で違っています。ただし自然本性が 悪ではなく善だということでは たぶん同じだと思います。

 ● (ヰキぺ:性善説) ~~~ 
 § 四端の心

 (あ) 孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする説である。
 
 《善の兆し》とは、以下に挙げる四端の心を指す。なお「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。

 1.惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
 2.羞悪…不正を羞恥する心
 3.辞譲…謙譲の心
 4.是非…善悪を分別する心

 (い) 修養することによってこれらを拡充し、「仁・義・礼・智」という4つの徳を顕現させ、聖人・君子へと至ることができるとする。端的に言えば、善の兆しとは善となるための可能性である。


 (う) 人には善の兆しが先天的に具備していると孟子が断定し得たのは、人の運命や事の成否、天下の治乱などをあるべくしてあらしめる理法としての性格を有する天にこそ、人の道徳性が由来すると考えたためである。

 (え) しかしこの考えは実際と照らし合わせた時、大きな矛盾を突きつける。現実においては、社会に悪が横行している状態を説明できないからである。
 (お) こうした疑問に対し、孟子は以下のように説明する。悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち ひとつに(お)の
 ● 悪は人の外に存在するものである
 ☆ とは この質問では言っていません。それどころか 悪は存在しないと言うのですから 根本的に違います。

 もうひとつは (あ)の《善の兆し》についてですが その四つのうち
 ● 2.羞悪…不正を羞恥する心
 ☆ これが 《やましさ・うしろめたさ》に似ていますから微妙ですが ほかの三つは 《ウソ・イツワリ》起源説とは趣きを異にしていると言わなければならないでしょう。
 しかもこの《羞悪・羞恥》についても じつは すでに《不正を》と言っていますから すでに心の外に出てしまったあとの表現や出来事のことを言っているのではないかと考えられます。《ウソとその際の動悸のはげしさ・やましさ》なる見方とはやはり異なる。こう見るのです。

    *

 この性善説が どちらかと言うと すでに社会において相手のいる場での表現や行動を初めから扱っているのとちょうど同じように 回答者さんも 《主観が捉えた善》が表現=外化されて 相手がどう受け取りどう反応するかというような段階において 議論を展開しておられます。

 ★ ~~~
 (1) 個人の信条が理由も無く、迫害される。
 (2) よかれと思ってした行動が、無理解にさらされる。
 ~~~~~
 ☆ No.14のお礼欄でわたしは 次のようなことを述べました。

 ○ 《わたし》の精神は 他者の悪によっては 傷つくことはない。あり得ない。自分もその同じ悪に同調しないかぎり 精神ないし自然本性が損傷を受けることはない。わが精神が傷つくのは わたし自身が悪を選択しこれを実行したときである。そのように自業自得の場合のみである。

 つまり はっきり言って うえの(1)(2)とものご指摘は お門違いである。こう申さねばなりません。
 いくら《主観における善》だと言っても 《ウソをつくとき 顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったり 様子がおかしくなったりする》という経験事例を捉え そこでそうなれば善なる心にさからっているのだから その事例は 負の善であり これを悪と呼ぶ。とのみ言っているに過ぎないのですから。

 外の景色は どうでもよいのです。
 ぎゃくに言えば 外の情況にかんしては 《悪は存在しない。悪人は それとして独立するかたちでは 存在しない》という命題をもって対処する。こう言っているわけです。

 ★ 主観的善は 主観的正義だ。
 ☆ という意味合いのご指摘・ご批判がありましたが この質問趣旨に対しては 無意味です。

 ★ 客観
 ☆ は 主観の中の或る種そのように呼びたいところの認識のあり方 に過ぎません。これも無意味です。なぜなら たとえば裁判によって悪行がさばかれたとしましょう そうしても 悪は だとすると存在していると見ているか それとも 存在するかどうかはどうでもよいとして あとは法律という取り決めにもとづき揉め事を解決するということの一辺倒になるかだと見ます。つまり 
 ★ 知的な意味での哲学というよりむしろ、
 ☆ ただただ声の大きい側がたいてい早いもん勝ちになるという社会力学上の落としどころによって成り立った社会を 少々は法律という取り決めがあるのだから それを都合がよいときには使おうと言っているに過ぎないでしょう。
 《客観》や《裁判官》という救世主にゆだねようなどという上品な力づく哲学ではないでしょうか。

 ★ 何より、当事者ではなく、第三者として正義を判断しようとしています。
 ☆ もしそのように成るとするのならば 一般市民であってもいくらか努力すれば そのように成れましょう。しかもそれは 当事者どうしが たがいに《悪は存在しない》という命題から出発し それぞれの意志行為がどこで善の道から逸れたか 悪の道にどこで入ったか これらを互いに探し出して行くなら おおむね共通の理解が得られ やがて解決の道も見つけられましょう。
 この実践哲学しかない。という帰結を得ることさえ出来ます。あなたの上品な客観哲学では おそらくシコリを残しましょうし いつまでも揉め事が絶えないでしょう。

     *

 ★ 悪のみが現象で、善のみが本性という仮説には理由がない事になります。
 ☆ 善は ひとが生まれつき備えた自然本性があり その身と心や 心の意志行為やを言うというとき この自然本性は ヒトというひとつの現象ですが その限りで(人為や人工ではないという点において) 存在であるとも言い得ましょう。
 ところが悪は この存在するところの善から派生する現象であるに過ぎない。こう言っています。
 むろん 善も 存在の次元ではなく 表現ないし行動の平面では それも現象です。ところが 悪は その現象であるのみであって 存在の次元はない。こういう仮説です。善に従属していると。言わば先験的悪はないと。


 ★ また「やましさ」が根拠となるのであれば、逆に、悪を成す「喜び」を根拠に、悪こそ人間の本性という事もいいうるわけです。
 ☆ 《よろこび》を感じるなら その事柄は 《人間の本性》であるということでしょうか?
 たぶんそのときには よろこびだけではなく やましさをも感じているでしょう。同時に感じていましょう。そういう成り立ちについては 本性とは言わないのです。

 見え透いた批判をして来たものですね。

 と反批判されることが分かっていて 早々と のなめさんになってしまったのですかね? さといことですね。

お礼日時:2012/09/01 18:09

真贋を見分け得る鑑識の能力は、いつの時点で開花するのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7626379.html
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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ 真贋
 ☆ には モノのそれと そして人間をめぐるそれとがありますか? 
 前者は 措いておきます。

 ニンゲンについての真贋を問うて その《鑑識の能力》がいつどのように開花するか?


 おのれの意志行為のすべてについて まづ 真贋ないし善か悪かをわざわざしっかりと判定するように訓練するとよいでしょう。
 24時間体制で実施するのですよ。

 あの水は ちょうど油をそそいだように潤滑油ともなってくれましょう。
 まづは 三年ほどでしょうか。

お礼日時:2012/09/01 15:32

善悪の絶対的な価値判断の基準は存在し得ましょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7673422.html
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この回答へのお礼

 つづきです。

 ★ 善悪の絶対的な価値判断の基準は存在し得ましょうか?
 ☆ もしこの問いに 素直に正面から ただし簡潔に(ということは 乱暴にということですが) 答えようと思えば こうです。

 いまこうして問うているところの《相対的な善と そしてその善が損傷を受ける(いえ つまり みづから傷つける)という意志行為の悪》 この議論で 《善悪の絶対的な価値判断》の問題は 用が済みます。後者は 問わなくてよいという意味にもなります。

 理由説明は 保留します。

お礼日時:2012/09/01 15:24

某イエス氏の肖像画の修復の失敗が報道で有名になりましたが、


あの失敗にも悪意が反映されていなかった、
という意味で性善説が此処では主張されていますのでしょうか?
http://www.advertimes.com/adobata/article/9437/w …

修復を手伝ってあげて下さいませ。
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この回答へのお礼

 つづきます。


 非思考の庭なる信仰の次元と そして思考の緑野なる経験行為の地球面とは 別です。

 後者の平原では なんでもご自由に です。(その自由には 答責性がともなわれています)。

 失敗も悪意すらも ぜんぶ――経験平面では―自由です。屁の河童です。

お礼日時:2012/09/01 15:19

唯物史観論者達によっても察知され得ましょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7674447.html
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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ 唯物論
 ☆ は じっさいには信仰の議論です。唯心論を有神論として 唯物論はあたかも唯心論の対極のごとくして無神論です。《無い神》を受け容れるという信仰の一形態です。

 その歴史への応用は・つまり唯物史観は 人によってそれぞれです。なぜなら 信仰(非思考の庭)の次元から 思考の分野に降りて来ているからです。経験科学ないし経験思想なのですから 理論や見解は 人さまざまでしょう。

 それと 《悪》のもんだいは どういうつながりで?

お礼日時:2012/09/01 15:16

当事者意識に基づく判断の基準には、悪意が含まれていないだろう、


という仮説に関する質問なのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%AA% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A1%E8%A0%A3

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。


 つまり かなしいかな。人間の善は 相対的な善なのであり そうでしかなく ときに朽ちることも出来る。
 じっさいに心や気持ちが腐るという言い回しがありますが 身も心も・つまり特に精神のあり方が――それは くせ=片向きとして―― 朽ちるし 腐って来る。善が腐って来る。そのとき 負の善 つまり 悪 こちらのほうへ片向いて行きます。それは ウソ・イツワリに始まります。

 うんぬんと問うています。

補足日時:2012/09/01 15:07
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ニンゲンの意志行為には おのが心にさからってでも――その心のおもむくところとしての主観にとっての善を損なってでも―― その善のマイナスのかたちを想い描きこれをじっさいにおこなうということがある。
 これは この負の善を 悪と呼ぶとすれば・つまりそういう定義を持つのですがそうだとすれば 《悪は 善の損傷行為として現象はしているが 悪そのものとしては存在していない》のではないか? と問うています。 
 
 存在するのは 善のほうのみだ。それは 生まれつきの人間存在のあり方としての自然本性のことに当てはめて捉える。

 ですから 《悪意》が起きるのは この善なる自然本性のうちの意志行為として おのが心に背いて為す《善の損傷行為》におけるその意図を言っていると規定することになります。

お礼日時:2012/09/01 15:03

「事前に全て察知(指名?)する」なんて、無理だ。

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「事前に全て察知(指名?)する」
 ☆ たぶん《全て》を《全体として》に代えると あんがい予知することは出来るのかも知れません。推測としてという意味ですが。

 言いかえると それは むしろ一つひとつの部分を残らずすべて知るというのではなく そうではなく 〔むしろ〕そのコトに臨む《わたし》の態度のことを言っているのかも知れません。

 だとすると 果ては 心意気のようなことになってしまうかも知れません。それだけのことかも知れません。

 でなければ 予知は無理です。とわたしも思います。

お礼日時:2012/09/01 07:06

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