性格いい人が優勝

 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中121~130件)

#5です。



> ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

これは、善を為す場合でも同じではないかな、とわたしなどは考えますし、また、そうであるべきじゃないかとも。
堂々と善を為す人というのは大抵偽善じゃないかという気もしますね。
せめて顔を赤らめながら為すのであればまだ好感は持てますが。
赤らめずに済むのは、あくまで(お言葉は拝借すれば)自然本性にもとづいている場合だけでしょう。
つまり、善でも悪でもない場合です。
いずれにせよ、こうした未解決課題があることを放置したまま、
>( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。

と断定されても、そういうお考えなんですね、で終わってしまわざるを得ないのではないでしょうか。

>  ☆ むろん《根拠》と言っても 
 ☆☆(同上) 一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。
 ☆ ということです。つまりは この主観が共同性を持つという想定です。根拠は ありません。そういう自然本性だという想定です。つまりは 虚構です。

こうした論理を前提として、なにを論議できるものなのか、わたしの頭脳では理解不能です。

>いえいえ。そのとおりですよ。自然本性は 身と心から成り 心ないし精神には 記憶・知解・意志の三つの行為能力があり ぜんぶ善だという想定になりますが その善なる自由意志が おのれの善を損傷させることを 或る日どういうわけか おこなう。ウソをつく。イツワリをはたらく。等々。

記憶・知解・意志の三つの行為能力に善も悪も無い、と思う、とわたしは言っているのですが、「いえいえ。そのとおりですよ。」というのは、どういう意味で言っているのかさっぱりわかりません。
まあ、言いたいことはわかりましたから、これ以上ご説明は不要ですが、上で述べたように、そういうお考えもあるわけですか・・・としか言えないですよね。
わたしも同感です、と言えなくて申し訳ないのですが、そのような問題提起しかしておられないわけですから、それ以上発展しようがありません。

> つまりは この善なる自然本性とは別のどこかほかから悪がやってくるのではなく 善なる意志がみづからの善を傷つけることをおこなう。これです。

「意志がみづからを傷つけることをおこなう」と考えれば済むことだと思いますが。
「自然本性とは別のどこかほかから悪がやってくるのではなく」という点に異論はありません。
だからと言って、自然本性=善ということではなく、自然本性は善にも悪にもなり得る、ということなんじゃないですかね。
この考え方のほうがしっくりきますし、悪は存在しない、という新興宗教の呪文のようなことを主張する必要も生じないでしょう。

> ★ ただ、その推測に関して論じようとしているわけではなく、あくまで「自由意志は自然本性として善」という根拠が示されないとタイトルのようなご主張は無意味ではないか、ということを申し挙げているだけです。
 ☆ むしろ世の中に善と悪という言葉がある。この事実から出発しています。これらの語を定義しておこうという心つもりです。
 何なら 善と言わずに《中立中性》の自然本性と呼んでもよいわけです。その中立が おのれの中立をこわすことをおこなう。これを負ないしマイナスと呼んでもよいわけです。ただ 善および悪という言葉がありますから それを当てはめてひとつの世界観をかたちづくる。こういうわけです。

自然本性は善であるという前提は取り下げるということですか?

> ★ ~~~~
 > そうだとすれば 悪人はいない。悪人という独立した範疇があるわけではない。
 :
 悪が存在しない、と悪人はいない、は全く別の問題ですよ。
 ~~~~~
 ☆ そうですよ。だから 問題が別なものについても ひとつの結論をみちびくことが出来ると言っています。

悪は存在しないと規定してしまえば、悪人も当然存在しないでしょう。
どのように「ひとつの結論」に導くことができるわけですか?

> ★ ~~~~
 > つまり 見るからに根っからの悪人だと思われるにんげんも みなと同じく互いに同じ自然本性をそなえた存在として生まれて来ており 生きている。
 :
 これだけなら、上の私見とも関連するのですが、悪人だという認識自体が誤りである可能性が残されませんか。
 ~~~~~~
 ☆ これは ひょっとして勘違いをなさっているのかも分かりません。
 ★ 〔それとして独立した範疇としての〕悪人だという認識自体が誤りである
 ☆ と言おうとしているのです。

いえいえ、勘違いではありません。
「見るからに」という、その感覚自体が誤っている可能性があるのではないか、と言っているわけです。
おそらく、それじゃあ、同じことを言っていることになる、とおっしゃると思うのですが、それは違いますよ。
「見るからに根っからの悪人だと」いう認識を持った状態で、いくら、「みなと同じく互いに同じ自然本性をそなえた存在として生まれて来ており 生きている」と言っても、それは欺瞞的言辞にしかならない、ということを言ったわけです。
つまり、根っからの悪人というものなど存在しない。であるから、「見るからに根っからの悪人だと思われるにんげんが、みなと同じく互いに同じ自然本性をそなえた存在として生まれて来ており 生きている。」などと思ったり言ったりする人間は、自らのその傲慢さに気づく必要がある。
と言った文言になるんじゃないでしょうかね。

> ★ 《生きること そして ともに生きること》がなぜ善なのでしょうか、よくわかりません。
 ☆ これも自然本性からの 存在への拡大解釈と同じように 《生きることおよび共生》を善と見なしたという意味です。

そういうお考えを持つことは別に自由だと思います。

>《ともに生きる》ことは にんげんにとって ウソですか?
 《本性に対する制御》がなくても共生しうるというのは 想定され得ませんか?

目指しているものなのかもしれませんが、実際問題としてないものをあると言いくるめても、実質的な発展にはつながりませんよ。
生き抜くためには、同じ仲間の肉でも食べて飢えを凌ごうとするのが人間でしょう。
善とか悪とか、嘘とか本当とかいう問題ではありません。
善でも悪でも、嘘でも本当でもない、自然本性が属性として備わっているわけで、そこを無視して理想論をいくら述べてもむなしいだけでしょう。

> さもなければ 《自分が生きる》ことは 《他者を傷つけないではおこない得ない》と定義することになります。

この本質を覆い隠そうとすることから、かなり多くの問題がこじれてきたのでしょうし、こじれているし、こじれていくことでしょう。
『《自分が生きる》ことは 《他者を傷つけないではおこない得ない》』という動物としての、それこそ自然本性を十分に認識してはじめて、動物とは一線を画すことによって生まれた人類という種は何を目指していくべきであるのか、という問題に正対する基礎が築かれていくんじゃないでしょうかね。

> ☆ この《変革》に際しては 善悪の定義が基礎となると思われます。もし《悪》が《善》と互いに依存せずに存在するという定義から出発するなら 《変革》はありえないはずです。善でも悪でもよいから 社会の一部分ないし一定の部分の人びとに都合のよいように変更する。というだけになるはずですから。

善と悪が別物だとは言っていません。
むしろ、善と悪は自然本性の裏表である、と考えるのが妥当と思っています。

> ★ 個人個人の納得の積算
 ☆ が《悪は存在しない》という前提から成り立っていく。こう考えます。ううーん。《積算》は 取り除いたほうがよいでしょうか。主観の納得――の共同性――から成ると。つまり《納得》は それ自体が互いに共通であるというやはり想定に立つことになります。

納得に際して、悪が存在するか否かは関係ありません。
納得の欲するのはただ真理のみでしょう。

> なぜなら そうでないと《個人が生きること》には 社会性も共同性も(つまり 共生性も)ないという前提を立てなければならなくなります。

社会性・共同性というのは、動物としての本能的属性であって、アイデンティティに依存する「個」という認識を(幸か不幸か)獲得してしまった人間にとってみ、求めるべき最強の、あるいは全ての拠り所ではないでしょう。
たしかに、「>《納得》は それ自体が互いに共通である」に越したことはありませんが、絶対的なものではない、という意味です。

結局のところ、
自然界の自然本性と、人間としての(善としてのではなく)[自然]本性というものにギャップがあるんじゃないでしょうか。
さらに言えば、このギャップこそが人間を人間たらしめているものなのかもしれません。
強引に善を本性とすることは、おそらく誤謬につながるという予感があります。
    
  
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 強引に善を本性とすることは、おそらく誤謬につながるという予感があります。
 ☆ 《ウソ・イツワリを言うに際して やましさを感じることが 主観において確実であり しかもこの確実さが 人びと一般に共通である》と見ることは きわめて《強引》な理論設定ですが ここで《善を本性とする》わけではありません。
 自然本性は 善と悪とのいづれか(または両方)に割り振るとすれば 質問者の考えとしては 善である。という話の進め方です。

 そしてわたしの場合は
 ★ 自然界の自然本性と、人間としての(善としてのではなく)[自然]本性というもの
 ☆ というふうに二つの本性に分けることはしません。
 人間なら生まれつきそなわった存在のあり方を 自然本性と呼ぶ。そしてそこには 身と心うんぬんというふうに けっきょくすべての存在の実態が含まれます。
 別の見方では この自然本性は 《生きること》であり それ以上に《〔すでにそのチカラを与えられているかたちで〕生きていること》のことです。これを 言うとすれば――悪の定義を欲しているからには―― 善と呼ぶ。こういう出で立ちです。

 以上のことは 次のご見解と同じようだとも思えますが ただしその文章について必ずしもわたしが分かったというものでもありません。つまり あやふやです。 
 ★ ~~~~~
 社会性・共同性というのは、動物としての本能的属性であって、アイデンティティに依存する「個」という認識を(幸か不幸か)獲得してしまった人間にとってみ、求めるべき最強の、あるいは全ての拠り所ではないでしょう。
 たしかに、「>《納得》は それ自体が互いに共通である」に越したことはありませんが、絶対的なものではない、という意味です。
 ~~~~~~~~
 ☆ わたしに分かっていることは 《動物としての本能的属性》をことさら取り出さないし 自然本性を持ち出すときにことさらその要素として取り上げることもしない。ということです。
 善でも悪でもないことがらと言えば わたしがよく例に出すことは 《クルマが右側通行か左側か》や《食べるのは 箸でかフォークでか手でか》の選択判断のたぐいです。

 要するに 自然本性の一本で 善悪論をすすめています。

     *

 ★ ~~~~
 善と悪が別物だとは言っていません。
 むしろ、善と悪は自然本性の裏表である、と考えるのが妥当と思っています。
 ~~~~~ 
 ☆ このご見解が あいまいであり そのあいまいさは けっきょくのっぺらぼう史観へと導かれて行くのではないか? と言っています。
 善と悪との違いは おのが心におけるウソで無いかあるかだと見ます。やましさを感じないか感じるかだと。(善をおこなうとき 他人に知られることをおそれるその恥づかしさは やましさとは違います)。
 ですから 《裏表》の関係ではない。悪は 負の善として善を損傷させるものであり それもそのままオモテの出来事である。こう見ざるを得ないはずです。


 動物性は さらにご議論において伸びているようです。(いまわたしは 後ろから項目を拾ってお応えして来ていますが)。
 ★ 『《自分が生きる》ことは 《他者を傷つけないではおこない得ない》』という動物としての、それこそ自然本性
 ☆ もしいわゆる弱肉強食が 動物の世界の常識だとすれば この常識を動物は知らない。それについて何も考えない。あくまで本能で生き動き存在しています。
 ヒトにとっては 弱肉強食という現象についてまづ知っておりしかもヒトとしてどう考え生きるかを話し合ってあゆむ――というのが 自然本性だと考えられます。つまり そこではどうするか・どう生きるかについての意志行為が中軸となっているかたちにおいてです。
 言いかえると すでに《動物とは一線を画して》おり すでに《何を目指していくべきであるのか、という問題に正対して》いる。こうではないでしょうか? それが 意志による自由選択なる行為であり そこに善悪観がともなわれていると。
 そうして とどのつまりは こうです。《弱肉強食》は たぶん ニンゲン世界にもおこなわれているのでしょう。しかも そうでありつつ人は 弱肉強食を・また同じく弱肉強食の善悪視を超えている。その因果関係から自由である視点をすでに形成している。
 どういうことか?

 《他者を傷つけないでは 自分が生きることを おこない得ない》という・もしそうだとしたら動物性を ニンゲン知性は 屁とも思っていない。
 《他者を傷つける》ということ こんなことはどうでもよいと思っている。わが心・わが精神に傷がつくのは あくまで《わたし》がその自然本性なる心の善にさからって それを損傷させるという悪を選択しそれをおこなうときなのだと知っています。悪という《善の損傷行為》 これがわが精神を傷つけるのであり それ以外にひとの心を傷つけるものはない。と知っているからです。
 これが にんげんの自然本性です。動物とはちがいます。
 他者からは 身に傷をつけられ得ますし 社会的生命が兵糧攻めによっても断ち切られるところまで追い込まれることもあります。けれども 精神は他者からいくら悪をこうむっても みづからの悪が同調していないなら 傷つけられる気遣いはありません。

 そういう意味で 《ともに生きる》ことは ニンゲンにとってウソではなく 自然本性にふさわしく また善である。こう考えられます。
 だとすれば 《悪人》というひとつの独立した範疇があるのではない。というもうひとつの結論をもみちびけます。共生できないのは むしろ おのれの悪選択という意志行為とであり その意味での悪人との共生のことであると。
 

 おそらく次のご見解は 取り下げられることでしょう。
 ★ 悪は存在しない、という新興宗教の呪文のようなことを主張する必要も生じないでしょう。


 これでだいたいの論点はぜんぶ触れ得たと思いますが どうでしょう?



 

お礼日時:2012/09/01 01:32

動作主の行為が及ぶ相手達の立場から其の動作主の価値を鑑みた際に認識され得る『善悪』の事が、此処では主題に据えられているのでしょうか?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%82%AA
http://www.sannet.ne.jp/accesspoint/
http://avantgarde0721.gozaru.jp/100gai.htm
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 1. 善悪を主観つまり《わたし》が判断するということを 問題としています。

 2. 動作についてもそして思考ないしその表現されたものについても です。

 3. 悪と判断したそのこと それは・つまり悪は それとして現象していることに間違いはないでしょうが 果たして悪なるもの(悪なること)が存在していると言うべきか? どう見るべきか? これを問うています。

お礼日時:2012/08/31 23:02

#10です。



> ☆ と言うのなら じつは初めに《ウソ・イツワリ》があったと自覚しているということです。
> そのあと いわゆるポーカーフェイスで何も《やましさも後ろめたさも感じない》というに過ぎません。

だから、なんで何の根拠もなくそう言い切れるんですか?
実際に良心の呵責を全く持たないサイコパスという人々がいることが実証されています。
嘘だと思うならサイコパスでググってみてください。すぐに色々出てきます。

> 《重大な悪事をはたらく》のは その自然本性において善であるという意味で《善人》であるからだ。そうではないか?

???
世の中には善行を行うという言葉もあるんですが…。
あなたの理屈だと、《善行を行う》のは、自然本性において悪であるという意味で《悪人》であるからだ。となりますが。

> ☆ これは 《悪》を先に定義して その《悪でない場合》を《善》と定義したかたちです。それだけのことだと思いますが。

《悪でない場合》を《善》と定義する以上は、どうしても悪が存在することを前提として認める必要があるでしょと言っています。

(d)により、ウソつているということは悪であるといえますよね?:ウソ=悪
(e)ではウソ=悪を否定したものが善と言ってますよね?:Not悪=善
悪を否定するには、まず悪の存在を認めないといけませんよね?(存在しないものを否定しようがない):Not悪=悪は存在する
ということは善の存在を主張するには、まず前提として悪の存在を認めなければいけませんよね?:善=悪は存在する
以上により、(a)の悪は存在しないという主張は論理的に破綻すると言ってます。

> 主観の納得――の共同性――から成ると。つまり《納得》は それ自体が互いに共通であるというやはり想定に立つことになります。
> なぜなら そうでないと《個人が生きること》には 社会性も共同性も(つまり 共生性も)ないという前提を立てなければならなくなります。

???
誰もが共通の納得を持ちうるなら、文化や宗教の多様性もないはずだし、対立も発生しないはずです。
主観で納得できない部分を客観性や規律で埋め合わせることで世の中は回ってるんです。
納得できないけど従っている、自制しているなんてことはいくらでもあるでしょう。
社会性や共同性は客観性に基づく理性の賜物です。
自身の主観だけを拠り所とするのは幼児と一緒です。

> つきのわぐまぐさん。あなたは ご自身の主観において《良心の呵責を持つ》ことはないとお考えですか?
> あるいは 人びとの中にはそもそもその自然本性において《良心の呵責を持ち得ない》人がいるとお思いですか?

だから、少なくとも本来的に良心の呵責を持ち得ない人というのは実際にいるんです。
サイコパスで検索してみてくださいよ。
Wikipediaから一部抜粋します。

===
サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け容赦なく我が道だけを行き、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽くした人を後に残していく。良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念も無く、社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。
(中略)
北米には少なくとも200万人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいると、犯罪心理学者ロバート・D・ヘア(en:Robert D. Hareは統計的に見積っている。

連続強姦殺人犯、シリアルキラー(連続殺人者)や、重度のストーカー、常習的詐欺師・放火魔、カルトの指導者の多くがサイコパスに属すると考えられている。

特徴
・良心の異常な欠如
・他者に対する冷淡さや共感のなさ
・慢性的に平然と嘘をつく
・行動に対する責任が全く取れない
・罪悪感が全く無い
・過大な自尊心で自己中心的
・口達者
===

それで、こういうサイコパスについて、あなたはどう思われるんですか?

> ☆ たぶん 《ウソ・イツワリを犯すときやましさを感じる》という主観は 誰にも共通であると推し測られましょう。

上記の通り、全然推し測られません。。。

> ☆ それでもいいですよ。というのは われわれは物心がついてからすでに多少とも悪にそまっていますから そういう順序で説明してもかまいません。

こう言っておきながら、

> 実際は 定義の仕方において 順序を悪を先にし善をあとにした。だけのことです。先に定義した悪が さきに存在しているとは 言っていません。

こういう結論になる意味がわかりません。。。
繰り返しになりますが、悪を先に定義し、悪でない場合を善と定義する以上は、どうしても悪が存在することを前提として認める必要があるでしょと言っています。

> ☆ と言っても どこかでへそが曲がって推論がその別の違う線路に入ってしまっただけなのでしょう。

これだけトンチンカンな理屈を並べて立てておきながらひとのことをへそ曲がり呼ばわりする方が、よっぽどへそ曲がりだと思いますが。。。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 個々にお応えしてまいります。
 ★ 実際に良心の呵責を全く持たないサイコパスという人々がいることが実証されています。
 ☆ という事実について それはおかしいことだと思うのではないでしょうか? 一般の人びとは。
 つまり それは 自然本性としてそうであるのではないだろうという含みが そこに見られませんか?
 もともとは そうではないであろうという見方――良心がはたらくという見方――が持たれているからではないですか?

 その程度の主観の共同性でよいという意味でもあります。 
 過半数の人びとあるいは三分の二ほどの人びとが 同意すればそれでよいと考えます。
 理論を最後まで証明することが目的ではなく 社会の安寧と生活の自由が実現することを目指すには それでよいという意味です。


 ★ 《悪でない場合》を《善》と定義する以上は、どうしても悪が存在することを前提として認める必要があるでしょと言っています。
 ☆☆(趣旨説明欄) ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。
 ☆ つまり《悪という 現 象 》と言っています。その現象と同じではない場合=すなわちへそ曲がりではない(やましさを感じるのではない)場合 その心のありかまたあり方があるはずだ それは 善だ。という定義の仕方です。

 善は 心のほうです。悪は へそ曲がりの現象です。



 ★ 誰もが共通の納得を持ちうるなら、文化や宗教の多様性もないはずだし、対立も発生しないはずです。
 ☆ 存在するのは《生きる そしてともに生きること》としての善であり この善を損傷させる意志行為が 負の善として起こり これを悪と呼ぶ。そういう現象が 善なる自然本性の中からも出て来る。――こういった見方についての納得が得られればよいという意味です。
 悪という現象が起きると言っているのですから 多様性が現われ しかも単なる多様性ではなく 悪としての社会行為ないし社会現象も生じるということです。




 ★ それで、こういうサイコパスについて、あなたはどう思われるんですか?
 ☆ すでに触れましたが もしそれが直らないものだとすれば それは 器質の欠陥だと考えます。 
 そうでない場合の悪つまり あたかも究極の悪とも言うべき悪については 

 【Q:究極の悪とは――存在について――】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4708484.html

 を質問して問いました。悪が存在しないだけではなく 究極の悪もあり得ないと ひとつの結論づけをしました。それは 善なる自然本性という器をまるまる消してしまった状態はないであろうという見方です。観想のような結論ですが。

 


 あとは 同じ疑問が重ねて問われていますので ここまでです。

お礼日時:2012/08/31 21:04

#3です.



私自身,この質問の言明は間違っていると考えています.

この場に於ける,質問者さんによる「善」と「悪」の明確な定義が成されておらず,一般通念としての「善」と「悪」を論ずることになる為,人により,考え方が限りなく有り,その結果,際限なく議論は続き,万人が納得する一定の結論は出ません.

よって,私は,これ以降の議論を中止します,

悪しからず・・・.  ご了承を・・・.  さようなら.
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この回答へのお礼

 ★ 悪しからず・・・.  ご了承を・・・
 ☆ いえ。悪しくあります。ご了承はできかねます。

 お手上げ とでも ひとこと書いて去ればよいのです。


 ★ 私自身,この質問の言明は間違っていると考えています.
 ☆ なら その理由説明ができるはずです。
 小学生から やり直しましょう。へへっ。

お礼日時:2012/08/31 15:30

> ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。

うそ・いつわりのことです。

うそ・いつわりだけが悪で、それ以外は悪ではないんですか?
ならば金品を強奪したり、人を殺傷したりしてもうそ・いつわりさえせずに堂々と偸盗、殺生をはたらいたことを自慢していれば悪ではないことになりますね。
随分と危険な思想ですね。

> このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

やましさや後ろめたさを感じないのが悪なのでは…?
重大な悪事をはたらく人間ほどこうした感覚を持ち合わせていないのは自明です。
後ろめたさなんて感じていては大したことできませんから。
実際、世の中には良心の呵責という概念を全く持ち合わせていないサイコパスと呼ばれる人々が存在します。
重大な悪事をはたらくのは往々にしてこのような人々ですが、あなたの理屈では彼らは善人ということになるんでしょうか?
少なくとも一般の感覚、社会通念ではこういう人々をこそ悪人と呼びますので、それに異を唱えるつもりならそれなりに強力な根拠が必要です。

> ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。

ここで、(d)に従うとウソ=悪と読み替えられますね。
ウソ=悪と読み替えると、悪でない心のあり方=善となりますね。
ということは、まず悪の存在を前提としないと善が存在し得ないということになるので、この時点で論理が破綻しますね。

> 一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。

主観によって決めてしまうと、上記のような主観として良心の呵責を持ち得ない人は悪人として裁くことができなくなりますね。
恐ろしい世の中になってしまいますね。

> そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。
>
> ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

あなたの論法では逆のことを言ってることになります。
すなわち、あなたはうそ・いつわりが悪であり(d)、悪でないあり方を善と呼ぶ(e)としていますので、それに従うと、善は悪が減少していくにつれ現れるに過ぎないと逆のことをいっていることになります。

(g)も(f)と同様に矛盾しています。

> ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

以上を踏まえると、あなたの論法に従えば結論は逆になっちゃいますね。
善は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。と。

とりあえず全体的に根拠不明瞭、論理破綻、矛盾のオンパレードで全く話になりません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~
  > ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。

 うそ・いつわりだけが悪で、それ以外は悪ではないんですか?
 ~~~~~~~
 ☆ 悪が何に《発する》か? と言えば 《心のへそ曲がり》だと言い そのへそ曲がりとは 《うそ・いつわり》のことだと説明したものです。

 というのも
 ★ ならば金品を強奪したり、人を殺傷したりしてもうそ・いつわりさえせずに堂々と偸盗、殺生をはたらいたことを自慢していれば悪ではないことになりますね。
 ☆ といった例の場合にも
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 ( d ) 〔悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。〕このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということです。

 すなわち
 ★ うそ・いつわりさえせずに
 ☆ と言うのなら じつは初めに《ウソ・イツワリ》があったと自覚しているということです。
 そのあと いわゆるポーカーフェイスで何も《やましさも後ろめたさも感じない》というに過ぎません。
 ポーカーフェイスと言えば すでにそこでは《もともとの事実やほんとうの心をいつわっている》という意味を含んでいます。

 ★ やましさや後ろめたさを感じないのが悪なのでは…?
 ☆ つまり 感じているけれども そこを 心にさからって 突き抜けて行こうとするもうひとつの意志 これのことです。

 ★ 重大な悪事をはたらく人間ほどこうした感覚を持ち合わせていないのは自明です。
 ☆ と見るだけではなく もともとはどうであったかの問題です。哲学ですから。

 ★ ~~~
 実際、世の中には良心の呵責という概念を全く持ち合わせていないサイコパスと呼ばれる人々が存在します。
 重大な悪事をはたらくのは往々にしてこのような人々ですが、あなたの理屈では彼らは善人ということになるんでしょうか?
 ~~~~~
 ☆ 《重大な悪事をはたらく》のは その自然本性において善であるという意味で《善人》であるからだ。そうではないか? という問いです。
 にんげんの善は かなしいかな 相対的な善であるに過ぎない。という意味です。みづから朽ちることさえあると。

 逆に言えば 善のほかに《悪なるもの》がそれとして独立して存在しており その悪なることをもっぱらおこなう者として悪人が やはり善人とは別に独立して存在している――というようなことはあり得ないのではないか? こう問うています。

 ★ ~~~~
 ・・・
 ウソ=悪と読み替えると、悪でない心のあり方=善となりますね。
 ということは、まず悪の存在を前提としないと善が存在し得ないということになるので、この時点で論理が破綻しますね。
 ~~~~~~
 ☆ これは 《悪》を先に定義して その《悪でない場合》を《善》と定義したかたちです。それだけのことだと思いますが。

 ★ 主観によって決めてしまうと、上記のような主観として良心の呵責を持ち得ない人は悪人として裁くことができなくなりますね。
 ☆ これについては 趣旨説明欄にて委細をつくせなかったうらみがあります。これまでのやり取りでは 次のように触れています。
 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~
 主観の納得――の共同性――から成ると。つまり《納得》は それ自体が互いに共通であるというやはり想定に立つことになります。
 なぜなら そうでないと《個人が生きること》には 社会性も共同性も(つまり 共生性も)ないという前提を立てなければならなくなります。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということですが 別の説明の仕方をすれば こうです。

 ○ つきのわぐまぐさん。あなたは ご自身の主観において《良心の呵責を持つ》ことはないとお考えですか? あるいは 人びとの中にはそもそもその自然本性において《良心の呵責を持ち得ない》人がいるとお思いですか?

 ☆ たぶん 《ウソ・イツワリを犯すときやましさを感じる》という主観は 誰にも共通であると推し測られましょう。
 それに もしそうだとしたなら 《悪つまり悪行》に対しては その悪つまり《善の損傷行為》であることを指摘しそれはおのれの意志を傷つけ同時に相手の意志をないがしろにする行為であるから もとの心に立ち帰りなさいと言えばよい。そういう《さばき(捌き・仕分け)》になるはずです。
 そうしないし そういうものの見方をしないから すでに
 ★ 恐ろしい世の中になってしまいますね。
 ☆ であるし すでになってしまっていますね。という問いです。


 ★ ~~~~~~~
 あなたの論法では逆のことを言ってることになります。
 すなわち、あなたはうそ・いつわりが悪であり(d)、悪でないあり方を善と呼ぶ(e)としていますので、それに従うと、善は悪が減少していくにつれ現れるに過ぎないと逆のことをいっていることになります。
 ~~~~~~~~~
 ☆ それでもいいですよ。というのは われわれは物心がついてからすでに多少とも悪にそまっていますから そういう順序で説明してもかまいません。

 実際は 定義の仕方において 順序を悪を先にし善をあとにした。だけのことです。先に定義した悪が さきに存在しているとは 言っていません。



 おそらく 持つに到った疑念については ご自身の胸に聞くとよいでしょう。
 ★ とりあえず全体的に根拠不明瞭、論理破綻、矛盾のオンパレードで全く話になりません。
 ☆ と言っても どこかでへそが曲がって推論がその別の違う線路に入ってしまっただけなのでしょう。たぶん。ね。

お礼日時:2012/08/31 15:25

質問文を纏める作業は簡単に捗っていますでしょうか?



比較対象 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7673062.html
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この回答へのお礼

 意味が取れません。

お礼日時:2012/08/31 14:45

ベストアンサー選択は必要悪なのでしょうか?

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この回答へのお礼

 ★ ベストアンサー選択
 ☆ これは 何も選択しないこともありえますから 問いとしてどうかと思います。

お礼日時:2012/08/31 14:44

必要悪は偽善でしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7666328.html?rel=inn …
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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ 必要悪
 ☆ の例としては 個人の信仰から発しているにもかかわらずその個人の良心・信教の自由を〔社会生命にかかわるような外形的なかたちで〕侵しうる集団としての組織としての宗教 これが ひとつあります。

 信仰――わが心なる非思考の庭――を言葉に表わしたとえば《むさぼるなかれ》というオシエとする・そのことによって 非思考における自由を 思考や規定における規範的な(規範を遵守せよという命令と化する)不自由を強いる宗教 これが 必要悪だと考えます。




 あるいは 国家 これも必要悪だと見ます。もともと社会は 一階だけの平屋建てだと考えられるからです。一階だけでも指導者は出てもよいわけです。屋根に上がってもかまいません。けれども二階は必要がありません。

 どうしても高いところにのぼりたい――アマアガリしたい――というそれはそれは優秀な人びとは 一階だけの社会形態の時代に 世の中をたばねさせてくれ おれたちの知力と実力を活かすようにしてくれたまえと言って聞かないので 人びとは これに《くにゆづり》した。
 そこまで言うのなら おまえさんたちは 人格も知識もずば抜けて優秀なのだから いっぺん国を経営してみたまえと言って 社会に第二階をつくってやって まかせました。

 これが あだのもと。
 一階の人びとのためにしっかりとはたらいたときは よかった。そうでないときには もうふんぞり返ってしまって 手がつけられない。

 アマテラス普遍語――つまりは アマテラス科学語およびアマテラス人格語――は それとして普遍というからには 重要なことであるが それだけでは どうにもならない。かえって その普遍語を万能の道具としてしまって そこここにほころびが出て来る。

 スサノヲ人間語――あやまちうる・けれども幅広く深く大地に根づいた基礎としての人間語―― これをおろそかにしては 何もならない。

 この意味で アマテラス普遍語の一辺倒から成る国家という社会形態は スサノヲ人間語の善をすでに損なっていると見られるからには 悪である。
 いまただちにどうにかすることも出来ない――国際関係という問題・したがって安全保障という問題もあるとするなら ただちに解体することも出来ない――なら 必要悪である。





 このふたつの実例としての
 ★ 必要悪は偽善でしょうか?
 ☆ いいえ。偽善ですらない。悪である。と考えます。

 アマテラス普遍語――それは オシエとして宗教にもかかわっています――は それとして重要ですが それの単独分立したすがたは それ自体において スサノヲ人間語という自然本性なる善をないがしろにするかぎりで すでに悪です。偽善ですらありません。

 宗教および国家 これは けっきょく互いに手を携えて悪の道をすすんでいると言うべきでしょう。政教分離なる取り決めと国際連合という隠れ蓑とで かろうじて 悪の度合いをうすめようとしているようです。



 必要悪は 悪です。偽善ですらありません。つまり 胸に手をあててかえりみれば心にやましさ・うしろめたさを感じるはずです。
 そのときの心ないし意志 この善なる心ないし意志そのものが しかもこの善を損傷させる悪の行為を 自由に おこなっています。

 よって人びとの心をあわせれば 容易に これらの必要悪をときほぐして行けましょう。悪は それじたいとして存在するのではないと見られるから。

お礼日時:2012/08/31 10:34

建て前は偽善になり得ませんでしょうか?

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 わたしの考えですが
 ★ 偽善
 ☆ は 特に問題としません。ウソのであっても 《自然本性を活かして生きる。またともに生きる》という善であれば 問題はないとさえ捉えます。

 もっとも イツワリの善であった場合つまり そのひとつの行為が善であったとしてもそのあとにつづく関連して付随する行為が 約束を破られるなどといった事例として 善ではなかった――というのなら まったくの問題です。

 ということは 偽善は オモテだけのこととしてであっても善であるなら・そしてそのことが続いて守られるのなら 問題にする必要はない。(つまり そのウソとしてのイツワリが 本人にあたえる精神衛生上の問題は 本人じしんの問題であるという捉え方になります)。

 ところで
 ★ 建て前
 ☆ というのは ウラでどう思っていたとしてもオモテでは ともかく善である。という場合を言うとすれば うえの偽善の問題と同じだと考えます。

 建て前は それがつねに善だとは限らないとすれば いまは限る場合について見たということになります。
 (ホンネが悪でタテマエは善だという場合です。そのぎゃくの場合は オモテでつまりタテマエが 悪なのですから 論外になります)。



 ★ 建て前は偽善になり得ませんでしょうか?
 ☆ それが――まづその人の主観において〔その人の心にさからわないというかたちでの〕善であり しかものちになってもそのことが裏切られないとすれば―― そのタテマエも偽善も 特には問題としない。こういう行き方もありえると考えます。

 それではやりきれないという向きは その偽善者の心にまで分け入って――そうするかどうかは いわば趣味の問題ですから自由に声をかけてやって―― メンタルヘルスのケアをしてやるということも考えられます。

お礼日時:2012/08/31 10:06

#4です。



自由意志が自然本性として善であることの根拠が示されないまま、それを傷つけるものが プラスαと言っても意味がないのではないでしょうか。
傷つける意志自体も、共に自然本性である、というのがわたしの推測なので、余計、そう思ってしまいます。
ただ、その推測に関して論じようとしているわけではなく、あくまで「自由意志は自然本性として善」という根拠が示されないとタイトルのようなご主張は無意味ではないか、ということを申し挙げているだけです。

>いかに自然本性といえども にんげんとその存在にかんすることでは すべて相対性の世界にあるからには その本性としての自由意志も 相対的な能力でしかない。

とおっしゃりながら、
>すなわち もともと善でありつつ・またどこまでも善でありつつ それと同時にそのみづからの善性をそこなう行為

というものを想定なさっているということが、わたしにはよく理解できません。
善悪自体が相対的な価値観であると考えれば済むと思うのですが。

> そうだとすれば 悪人はいない。悪人という独立した範疇があるわけではない。

悪が存在しない、と悪人はいない、は全く別の問題ですよ。

> 善なる存在とそれにそなわった本性をそこなう行為 この意志行為を どういうわけか すすんでおこなう人も なかには いる。こういう見方であり 世界観の一端だということになります。

善なる存在、はどのように定義されていますか。
それが示されなければ、単に、ご自分に都合の良い者が善であるという価値観しか見えてこないでしょう。

> つまり 見るからに根っからの悪人だと思われるにんげんも みなと同じく互いに同じ自然本性をそなえた存在として生まれて来ており 生きている。

これだけなら、上の私見とも関連するのですが、悪人だという認識自体が誤りである可能性が残されませんか。

>それは 善もしくは要するに《生きること そして ともに生きること》という基礎であり大前提のもとに 社会の中で生活している。

《生きること そして ともに生きること》がなぜ善なのでしょうか、よくわかりません。
百歩譲ってそれが善だとして、「ともに生きる」なんてことが本当にできますか、本性として。
本性ではないからこそ、それを目指すのであって、あくまで本性に対する制御が必要になるのではないか、と思われます。
仮に進化という言葉を人間に適用できるとすれば、その過程が進化なのでしょう。

> 《善も悪もない》と規定すると そこからは のっぺらぼうの世界観しか出て来ない。のではありませんか? 

《善も悪もない》と規定しているわけではなく、《(人間の本性は)善でも悪でもない》と言っているだけです。

>つまり実際には 善は悪 悪は善というような メリハリの消えたのっぺらぼうの社会哲学のことです。そこでは 思想や行為の有効・無効についての判断に関係なく ただただ社会力学上のチカラ関係によって コトは決まる。ということになりませんか?

「>思想や行為の有効・無効」ということも善や悪の定義によって違ってくるのだと思います。
「>社会力学上のチカラ関係によって コトは決まる。」というのは、ある意味での真理でしょうが、であれば、その社会力学を変革していくしかないでしょう。
社会力学というのは、おそらくですが、個人個人の納得の積算であって、少なくとも、「悪は存在しない」といった無根拠の命題を取り入れる仕組みにはなっていないと思います。

まあ、こうしたことを言えるのもブラジュさんの質問があればこそなわけで、偉そうな表現になっていたらごめんなさい。
質問の形に疑問を持っての投稿ですので、それ以上潜り込むのは、また場所を改めてということにしたいと思っています。
    
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この回答へのお礼

 つづきましてです。
 
 ★ 自由意志が自然本性として善であることの根拠が示されないまま、それを傷つけるものが プラスαと言っても意味がないのではないでしょうか。
 ☆ そんなことはありません。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~ 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ むろん《根拠》と言っても 
 ☆☆(同上) 一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。
 ☆ ということです。つまりは この主観が共同性を持つという想定です。根拠は ありません。そういう自然本性だという想定です。つまりは 虚構です。

 ★ 傷つける意志自体も、共に自然本性である、というのがわたしの推測なので、余計、そう思ってしまいます。
 ☆ いえいえ。そのとおりですよ。自然本性は 身と心から成り 心ないし精神には 記憶・知解・意志の三つの行為能力があり ぜんぶ善だという想定になりますが その善なる自由意志が おのれの善を損傷させることを 或る日どういうわけか おこなう。ウソをつく。イツワリをはたらく。等々。

 つまりは この善なる自然本性とは別のどこかほかから悪がやってくるのではなく 善なる意志がみづからの善を傷つけることをおこなう。これです。


 ★ ただ、その推測に関して論じようとしているわけではなく、あくまで「自由意志は自然本性として善」という根拠が示されないとタイトルのようなご主張は無意味ではないか、ということを申し挙げているだけです。
 ☆ むしろ世の中に善と悪という言葉がある。この事実から出発しています。これらの語を定義しておこうという心つもりです。
 何なら 善と言わずに《中立中性》の自然本性と呼んでもよいわけです。その中立が おのれの中立をこわすことをおこなう。これを負ないしマイナスと呼んでもよいわけです。ただ 善および悪という言葉がありますから それを当てはめてひとつの世界観をかたちづくる。こういうわけです。


 ★ ~~~
 ・・・
 とおっしゃりながら、
 >すなわち もともと善でありつつ・またどこまでも善でありつつ それと同時にそのみづからの善性をそこなう行為
 :
 というものを想定なさっているということが、わたしにはよく理解できません。
 善悪自体が相対的な価値観であると考えれば済むと思うのですが。
 ~~~~~~
 ☆ これは こうです。《どこまでも善でありつつ》というのは 相対性を超えるという意味ではなく どこかで善が善の反対物(つまりやはり悪)に変身するといった見方にはならない。想定じょうにしか過ぎないけれど そうはならない。というためのものです。


 ★ ~~~~
 > そうだとすれば 悪人はいない。悪人という独立した範疇があるわけではない。
 :
 悪が存在しない、と悪人はいない、は全く別の問題ですよ。
 ~~~~~
 ☆ そうですよ。だから 問題が別なものについても ひとつの結論をみちびくことが出来ると言っています。


 ★ 善なる存在、はどのように定義されていますか。
 ☆ この《存在》は 自然本性のことを言いかえています。少々拡大解釈ですが おそらくそうなるはずです。《中立》と言ってもいいという見方もあるという考え方において。


 ★ ~~~~
 > つまり 見るからに根っからの悪人だと思われるにんげんも みなと同じく互いに同じ自然本性をそなえた存在として生まれて来ており 生きている。
 :
 これだけなら、上の私見とも関連するのですが、悪人だという認識自体が誤りである可能性が残されませんか。
 ~~~~~~
 ☆ これは ひょっとして勘違いをなさっているのかも分かりません。
 ★ 〔それとして独立した範疇としての〕悪人だという認識自体が誤りである
 ☆ と言おうとしているのです。

 ★ 《生きること そして ともに生きること》がなぜ善なのでしょうか、よくわかりません。
 ☆ これも自然本性からの 存在への拡大解釈と同じように 《生きることおよび共生》を善と見なしたという意味です。

 ★ 百歩譲ってそれが善だとして、「ともに生きる」なんてことが本当にできますか、本性として。
 ★ 本性ではないからこそ、それを目指すのであって、あくまで本性に対する制御が必要になるのではないか、と思われます。
 ☆ これは 思いがけないところで 見解の相違が出ました。
 どうでしょう? ウソ・イツワリという出発点を判定の基準としてみて どうでしょう? 《共生》は たとえば家族を除いて 社会一般のそれは 自然本性に反していますか? 《ともに生きる》ことは にんげんにとって ウソですか?
 《本性に対する制御》がなくても共生しうるというのは 想定され得ませんか?


 ★ 仮に進化という言葉を人間に適用できるとすれば、その過程が進化なのでしょう。
 ☆ 進化は進化で すすむのでしょうね。それが《中立》のことだとも思われます。そうしますと やはり《ひとは おのれがかわいいですから 自分が生きること および ほかの人びととともに生きること》は どちらかと言うと 《善》という言葉をあてはめたほうがよいと考えられます。《共生》もです。
 さもなければ 《自分が生きる》ことは 《他者を傷つけないではおこない得ない》と定義することになります。


 ★ 「>思想や行為の有効・無効」ということも善や悪の定義によって違ってくるのだと思います。
 ☆ 善や悪の定義は 善をそこなう悪の行為には やましさがともなうということ これによります。だとすれば――少なくとも その主観においては―― 有効かそうでないかの判定は 出来るようになる。のではないでしょうか? 少し《定義によって違ってくる》というその内容を把握しかねていますので とんちんかんなことを言ったかも知れません。

 ★ 「>社会力学上のチカラ関係によって コトは決まる。」というのは、ある意味での真理でしょうが、であれば、その社会力学を変革していくしかないでしょう。
 ☆ この《変革》に際しては 善悪の定義が基礎となると思われます。もし《悪》が《善》と互いに依存せずに存在するという定義から出発するなら 《変革》はありえないはずです。善でも悪でもよいから 社会の一部分ないし一定の部分の人びとに都合のよいように変更する。というだけになるはずですから。

 ★ 社会力学というのは、おそらくですが、個人個人の納得の積算であって、少なくとも、「悪は存在しない」といった無根拠の命題を取り入れる仕組みにはなっていないと思います。
 ☆ もし上の《変革》が必然的に必要になるというのであれば 《悪は存在しない》という世界観とは別の見方考え方を提出することが 大事だと考えます。それまでは この質問趣旨の見方が 候補になると思いますが どうでしょう?
 ★ 個人個人の納得の積算
 ☆ が《悪は存在しない》という前提から成り立っていく。こう考えます。ううーん。《積算》は 取り除いたほうがよいでしょうか。主観の納得――の共同性――から成ると。つまり《納得》は それ自体が互いに共通であるというやはり想定に立つことになります。
 なぜなら そうでないと《個人が生きること》には 社会性も共同性も(つまり 共生性も)ないという前提を立てなければならなくなります。


 たくさんの事柄で絡みとして残っていますので いまいちどご回答をよろしくどうぞ。

お礼日時:2012/08/30 23:32

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