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 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中31~40件)

悪を善へと繰り込むと、非可逆圧縮で…!?


http://www.forest.impress.co.jp/lib/pic/piccam/p …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 大きく善の海の中で――ということは おのれの心の中で――自己にもその悪の芽はないかと探し出し 見つけたなら 主観的にでいいから とにかくそれを批判しその悪の起きる筋道をすでにおのれの中で根絶やしにし そのまま内的に棄てる。こうして
 ★ 悪を善へと繰り込む
 ☆ ならば 
 ★ 非可逆圧縮
 ☆ になろうかとわたしも考えます。

お礼日時:2012/09/15 21:34

分かり易い言い方があったので書きます。



(A)「ウソ・偽り発言をして、やましい気持ちになった、そのやましさ反応は基の善の損傷によって発生する現象である故に悪は存在しない」

(B)「ウソ・偽り発言をして、やましい気持ちになった、そのやましさ反応は基の善の損傷によって発生する現象である故に悪は存在する」

この(A)と(B)はどのように違うのでしょうか?
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この回答へのお礼

 (B)は 《悪》の定義がさだまっていません。

 (A)もそうですが 《ゆえに悪は存在しない》という部分の前の文には 悪は触れられていないので そのように《故に悪は存在しない》と言っても かまわない。定義が分からなくても 悪が善の対義語だということまでは分かっていると考えられるから。
 ただし 文(判断)としては おかしな意味内容となる。

お礼日時:2012/09/15 20:44

 どうでもいいんですけどまず私の回答に対して何か書いていただかないと『自分の理論の問題点を認めるがそれは認めたくない』という子供じみた自尊心としか見えませんよ



>はこぶるさんとのやり取りを見て あらためて考えてみるのも よいかも知れませんね。>

 はあ・・見てみましたが私と同じような『意味不明』という言語がでてますし、『土台が砂だ』とかも書いてありますね、まあそりゃそう思うだろうなと思いますよ?ご自身はまず回答者の補足質問にまともに答えず。間違えたなら『間違えた』、他の見解を理解したなら『理解した』、反証するなら補足質問から逃げない反証をなぜしないのですか?

>結果を保証することは できかねますが。>

いやまったくできてませんね。

>理論――と言いますか たんなる作業仮説ですが――の決定的な不備をつくことが 大事です。>

散々ついてきましたが、決め手となるような反証を書かれていない故に支離滅裂と言っているんです。 

>箸やペンを右手で持つか左手で持つかは その人がそのことを頭の中に想い描いても ことさらやましさ反応が現われるわけではありません。 と言いますか この点はもう少し微妙であって あとで考えると いまそのような結論に達しますが その前の段階では いろんな考え悩む過程を経ることもあります。 親が 右手で箸を持ちなさいと命じる場合もありましょうし 社会の中では 左利きであることが いくらか奇異に見られることも時にはあるからです。 でもこの問題は いくら考えても 右左の選択に合理的な是非ないし善悪の判定がくだされるとは思えません。たとえば これが《善でも悪でもない》場合の例です。>

<ですが このような場合の例は いまこの問い求めにとって 肝心要の問題だとは思えません。>

相当重要だと考えますよ。その問題に大してもし『もし』ですよ嫌悪感や罪悪感を感じたとした場合、ご自身の場合良心の損傷つまりご自身の言う『基の善の損傷』が引き金になっていると考えるわけですよね?それは否定しませんが、それに対して罪「悪」感、嫌「悪」感に置ける《悪》が脳の反応つまり生理的反応として何故《存在》するのかと聞いているわけです。

>少々不備でもかまわないわけです。>

不備だとその命題における哲学的解釈は得られないと思いますよ。「自分の理論賛同させよう的質問」になってるようにしか見えません。

>《悪は 存在しない》という命題を得るのに解いておかねばならない課題だとも思えません。>

 そんな事はないと思います。「悪が存在しない」というのはそういう考えもあるからそう見たほうが良いという意味で書かれたのであれば哲学とは言えません。哲学はもう少し真実味を帯びた内容を議論するものであって、賛成反対を問うものではありません。(まあちなみに私はあなたの考えに賛成ですが)

>つまり この作業仮説は どこが弱いか? どこが 理論として不備であるか? こういう視点で取り組んでみてください>

だから取り組んでいるじゃないですか・・・相当追い詰められているんですかね?完全に支離滅裂です。

 この作業仮説の弱いところを言えば定義論です。前々から例題を出していますが、ご自身の主張は「『車は存在しない』あるのは物質で作りあげれた動的乗り物であり、そこから派生したのが『車』という概念であって、ただそうやって呼んでいるだけだ」と言っているのと内容は違いますが意味は一緒です。それに対して私は「その通りだと思う否定する余地は無い」と思っています。しかし「それはちょっと見方を物質もしくは物理論を基準にした見方であって決して間違えてはませんが多少違和感がある」と言っている訳でして、それを説明反証してきてるわけです。それに意味不明な回答をするというのが子供の自尊レベルだといっているのです。
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この回答へのお礼

 ★ 散々ついてきましたが、決め手となるような反証を書かれていない故に支離滅裂と言っているんです。 ☆ これは そっくりお返しします。



  ○ ウソ・イツワリ

 これに戻ってください。やましさ反応という言い方で代表させて来ましたが そうですね
 
  ○ 生理的心理的なウソ・イツワリにかかわるやましさ反応

 こう言うようにしましょう。
 というのは やましさという言い方では部分的にピンと来ない場合があるようです。
 ウソ・イツワリと言えば そのウソをつくということを本人は知っているというおよそ普遍的な事実があるからです。
 
 やましさ反応は このウソから来る。こう捉えてください。


 そうすると 話が分かりやすい。
 たとえば右利きか左利きかの例を出した《善でも悪でもない》というばあい それは どっち利きであっても 《ウソはない》ということです。
 ただし だから善だとも言えない。いえ 右でも左でもどちらも善だと言えば それでもいいわけです。おそらくその場合は 右利きであることが どうして善であるなどと言うのか? 何で善悪の見方で それを捉えるのか? というツッコミが返って来ましょう。面倒だから 《善でも悪でもない》場合もあると言っておいたわけです。それだけのことです。


 その点でもう少し話を延ばすなら こうです。
 自然本性に じつは ウソをつくという片向きはあるわけです。
 片向きが出て来る素地は あるわけです。善とも呼ぶべき基礎においてもそのクセを持とうとするような片向きはあるわけです。
 クリナメンと言うのかどうなのか知りませんが 自然本性もそして精神も人間という存在も かなしいかな 移ろいゆくものであり朽ちてしまうものです。そのような状態から 生きることという基礎・基本の中からも それに逆らうような片向きが出て来ます。
 しかもその片向きをさらに欲する意志さえもが現われます。
 この段階になると ウソとなります。心に逆らうウゴキです。やましさ反応をともなう意志の――負の志向性です。


 ここが ややこしいのですが――というよりは 本質論=存在論として本格的な哲学の議論をしなければならないところですが―― ヒトと生まれてその自然本性の中には 何ごとも永遠不変のものはなく 朽ちて行く性質であるところへ持って来て その移ろいゆくこと自体を好くという性向もあるらしい。
 この朽ちるということを好んで積極的に欲するというウゴキも現われるらしい。
 この生きることに対する負のウゴキは 意志も精神も それは負でありウソだと知っている。
 しかもこのウソを欲する心の動きさえ現われる。



 移ろいゆくこと・朽ちること このこと自体は 生きることに対して負ではあるが 自然本性のふつうのあり方だとすれば わるいことではないであろう。言いかえると 生きることが よいことだとすれば それに逆らうことは よくないこと すなわち わるいことである。そうであるが 生まれて来た者が その生をまっとうしてやがて去って行くことに それ自体として《よくないこと・わるいこと》はない。
 けれども よくないことを積極的にわざとそのおのが意志によって選択し欲すること これは 積極的にわるいことである。と自然本性は 知っている。
 それは イツワリにおいてウソをつくことから始まるのではないか。その意味で ウソは 負のよいこと・つまり負の善・つまり悪である。というときには ウソをつくときに やましさ反応が伴なわれているとおのれが知っているからそう名づけるのである。


 生きることを善とすれば 悪はその善に逆らっておのれの意志によってさえ起こされ現われる。のであるが その悪というもの自体が どこかに初めにあって 出て来るのではない。それが現われるのは 善の損傷行為としてである。善が存在しなければ 悪は現象することはない。なぜなら ウソに始まるからである。ウソという反抗性のもの・負のものは 初めにそれとして存在するもの・いわば正のものがなければ 現象しないから。

お礼日時:2012/09/15 20:40

>☆ 胸騒ぎをおぼえるなどのやましさ反応が 一般に ひとにはある。

自分の意志が しかも自分の心にさからう選択をすると その反応が起こる。
 このことの一般性だけで勝負ということです。
 誰もが《悪と思う》というよりは その反応があると 実質的に《善の損傷》であると捉え――なぜなら 要するにウソ・イツワリだということです―― これを《悪》と呼ぶ。ということ。これが 仮説の中身です。>

 <誰もが《悪と思う》というよりは・・・>という事は「誰もが悪と思うかどうかわからないが」と同義ということですね。
 <その反応があると 実質的に《善の損傷》であると捉え――なぜなら 要するにウソ・イツワリだということです(A)―― これを《悪》と呼ぶ>とすると「Aは物理的な現象であるが―これを《悪》と呼ぶ」と言ってるのと同義ですよね?そうするとこの視点というか基準は『「物理的な現象だけだ」という事を誇張して《悪》と呼んでるだけだ』と言いたいわけですよね?まあその基準からしてみれば正しい発言だと思います。

>☆ それが 生まれつきの心のあり方であろうと思うからです。
 自然本性として ふつうのあり方であろうと。
 その認識を持つことが 目的です。>

その認識をご自身が持っているのになんで質問したんですか?

>★ bragelonneさんの理論の逆を言えば「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさ反応と呼んでいるだけだ」とも言えますよね?
 ☆ 順序がぎゃくでしょう。生理的反応は 事実の問題です。悪と呼ぶのは 言葉の使い方の問題です。善の損傷という認識ないし自覚が それらをつなぎます。>

>順序がぎゃくでしょう。>

 だから逆に言えばと言っているのに・・・なんで激情するんだか・・・

>生理的反応は 事実の問題です。>

 そりゃそうだ。じゃあ言い方を変えましょう。「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさと呼んでいるだけだ」というのは?

>悪と呼ぶのは 言葉の使い方の問題です。>

まったくその通りですが

>善の損傷という認識ないし自覚が それらをつなぎます。>

つないでしまうなら《悪》が派生する可能性を肯定している事にまりませんか?

>★ もしそうでないならbragelonneさんの定義の押し付けになりませんか?
 ☆ あたらしい定義は つねにそうです。>

 あたらしい定義は哲学的には常に議論され精査されていくものです。それを放棄して『俺の定義だからそれは覆らん』と端っから固めてしまう行為というのがbragelonneさんの定義の押し付けではありませんか?と言っています。

>★ なので普通に生きる事に背く=悪とは限らないのではないかと前々から言っているわけですが、なぜそこは認められないんですか?
 ☆ 主観におけるやましさ反応を基準にして定義をするというのみです。>

<あるいは 生きること=ふつうに生きることとしての心に背くという意志 これがあります。これも 善の損傷です。>と言っていて<やましさ反応=善の損傷の一部>と定義してるんだから<主観におけるやましさ反応を基準にして>話を進めています。なんでそのような支離滅裂な表現をするのですか?
 ということで<ひとつの思惟や行動の結果 あらたに善あるいは悪が生じたというのは 定義とは別の話>にならないでしょう。

<その結果としの状態を捉えて その人がどう思うかが その話の中身となります。>ならbragelonneさんがどう思うかの話の中で議論されるのはおかしいでしょう。

<やましさ反応を起こさなければ 広く取って 善でしょう。>広く取って悪くないということなんじゃない。

>★ ~~~~~~
 前々から補足要求してますがなんで自然本性のよき心根に反することが必ずしも悪とはならないんではないかと思います。相当たる自信もありますし、証明もしてきましたから「反証してみろ」とは言わないで下さい面倒くさいだけです。
 ~~~~~~
 ☆ こういう対応が出て来るのなら もうやめましょう。>

 自分は私の質問に<あなたとのやり取りを 初めから 読み直してみてください。ぜんぶ答えています。>と唾を吐き捨てるように答えておいて<こういう対応が出て来るのなら もうやめましょう。>は無いでしょう。反証してますから見てくださいよ。



>あとは 見ていません。>

見てくださいまた支離滅裂な発言されちゃたまりませんからね。

>★ ~~~~~~~~
 今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?
 普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《人間以前の状態にある人間》のことでしょう?
 そういう人間は 《早く死にたい》と言っているということでしょうね。あるいは すでに死んでいるということなのでしょう。
 そのような状態あるいは意志のあり方 これらを自分の考えにおいて 自由に貶(けな)してよいと思います。けなすことを 否定してはいません。>

 ちょっと意味が分かりませんでしたが別にその行いを行った人の対処法を聞いているわけではなくて、そのような行為なども悪意があったり、悪行となっていいたりするのではないでしょうか?(無論現象学や物理学の視点で言っている訳では在りません。ここは重々言っておきますが違いますよ)

>そのことと 善悪観がどうなっているかとは 別の切り口になります。>

 ならないと思います。それを加害者側は悪意が出たと感じるでしょうし、被害者側は悪意を感じる人がいると思いますがそれを加害者からしてみれば『虐めて楽しい』とか『殺人はスリルがあって残酷で面白い』と感じる人もいるでしょう。被害者(もしくは被害者に共感する)側からしてみれば『最低な行為』『残酷な行為』『卑怯極まりない連中』『異常者』などと捉える人もいるわけでその一部に『悪意』『悪行』と捉える人も居るのではないかという話です。そうなると『悪行』や『悪意』などが派生したという風に主観もしくは他の共感できる人などは感じてもおかしくないわけだから主観性や共感性の観点で行けば『悪行が行われた』と捉える事が出来るのではないでしょうか?それを『無い』と断定するのは見解が足りないのではないでしょうか?と言っているわけです。つまりご自身の視点は現象学物理学を中心に絶対軸にしているので『無い』となっているのではないでしょうか?(無論それを否定している訳ではありません)と説いています。
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この回答へのお礼

 はこぶるさんとのやり取りを見て あらためて考えてみるのも よいかも知れませんね。
 結果を保証することは できかねますが。





 理論――と言いますか たんなる作業仮説ですが――の決定的な不備をつくことが 大事です。

 

 箸やペンを右手で持つか左手で持つかは その人がそのことを頭の中に想い描いても ことさらやましさ反応が現われるわけではありません。

 と言いますか この点はもう少し微妙であって あとで考えると いまそのような結論に達しますが その前の段階では いろんな考え悩む過程を経ることもあります。
 親が 右手で箸を持ちなさいと命じる場合もありましょうし 社会の中では 左利きであることが いくらか奇異に見られることも時にはあるからです。
 でもこの問題は いくら考えても 右左の選択に合理的な是非ないし善悪の判定がくだされるとは思えません。
 たとえば これが《善でも悪でもない》場合の例です。

 ですが このような場合の例は いまこの問い求めにとって 肝心要の問題だとは思えません。少々不備でもかまわないわけです。
 《悪は 存在しない》という命題を得るのに解いておかねばならない課題だとも思えません。



 つまり この作業仮説は どこが弱いか? どこが 理論として不備であるか? こういう視点で取り組んでみてください。

お礼日時:2012/09/15 14:54

たとえ2階席に座していましょうとも、徳積みのイニシャルコストは…!?


http://twitter.com/torisoboro14/status/262735518 …
http://kanauka.com/kakomon/au/h23t/021.html
http://www.atmarkit.co.jp/fnetwork/rensai/iprt02 …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。善悪観を問い求めるというとき ここでは 
 ★ 徳積み
 ☆ という概念は かかわっているようで まったく関係ないです。

 もしかかわらせようと思えば こういうふうです。
 ふつうに自然本性のあり方としての心にしたがって生きるとき 世のシガラミの中にあって その中身――つまり一般に善のおこないもあれば悪のそれもあって過程として成り立っているその中身――を自分もその身に浴びているが そして心においてもその中身のうちの特に社会力学上きわめて有力なむしろ悪の部分に対して 屈せざるを得ないときがあるのだが 
 そのようであるのだが それでも ふつうの心のあり方に沿って――ということは 悪を受け留めつつそれに従わざるを得ない場合も経験しつつ しかもその悪の部分をおのれの心の海の中におさめつつ海の全体としては ふつうの自然本性にしたがって――生きつつあるとき
 そうであるとき 何ならその行き方を《徳のある心》だと言うとすればよいでしょう。
 
 それを《積もう》としておこなっているわけではありません。 
 まして 《コスト》を考えることはありません。

 一階も二階も 同じです。

お礼日時:2012/09/15 06:16

#98です。



> ★ ~~~~~
 「たしかにあるもの」に焦点を当てないことによって得られる「>《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になることが目的、というわけですか。
 達成されると、どんな良いことがあるのかわかりませんが、仮に(良いことが)あったとして、「たしかにあるもの」がある以上、いつかはそれに焦点が当たるわけです。
 いわしの頭でも信心できればそのことで幸せになる人がいるとは思いますが、いわしの頭の出所は問うな、あるいは、問わないという立場での論議である、ということですね。
 ~~~~~~~~
 ☆ ひとつの例示によって 反証すれば それで済むことです。くだくだと言うべきことではありません。

言い訳が通用しなくなると、こうした居直りセリフを吐く、というパターンが常態化しているようですね。
まあ、それもいいでしょうが、そうおっしゃる以上、先に「《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になると、どんな良いことがあるのか証明するのが質問者としてのマナーでしょう。

> 《善でも悪でもないこと》は 《悪ではない》ことがはっきりしています。だから 《悪は 存在しない》という命題にことさらかかわるものではありません。

それはわかりました。
ただ、この論理の場合、《善ではない》ことは、なぜはっきりしていないのかが不思議だというだけの話です。まあ、どのように考えようと人の勝手ですから、もう説明は不要ですが。
一連のこうした論理に対して「げげげ」と返しても良かったのですが、エチケットとして、
「 見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。」と言ったわけです。
ですから、至極適切、且つ紳士的な対応であって、
> ☆ こんなことを言うために わざわざ 回答を一件ものしたのですか。げげげ。

の「こんなこと」というのは、日本語の使い方を誤っていることになるでしょう。
いずれにしても、きりが無いので今回はこのへんで。
  
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~
 エチケットとして、
 「 見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。」と言ったわけです。
 ~~~~~~
 ☆ このやり取りは どうやら見解の相違に互いに合意するというところまで来たようだ ここらへんで互いにおけるそれぞれあらたな見解の進展を俟つというかたちで ひとまづ終えましょう――というのが エチケットです。

お礼日時:2012/09/15 06:06

 3回もとちってしまいましたがそれはさておき。

お礼に書かれている内容に対しての個人的な見解です。


>《やましさ反応》に着目して それがないのが善 あるのが善の損傷すなわち悪 というふうに仮説した。ということです。したがって 初めから終わりまでぜんぶ仮説です。>

bragelonneさんのということですね。

>仮説が 一般に当てはまり そう捉えることに不都合がなければ ひとつの理論として持つことが出来るのではないか。>

 これも微妙ですよ。動揺とかそのような心の動きを『悪』と一般人が思っているというわけですか?そう思う場合とそう思わない場合があると思いますよ?まあ統計を取らなければ分からない話ですし、ここは私が感知するところではありません。

>いえ 理論というより 《悪は 存在しない》というひとつの認識 これを得ることができればよしとします。それが 常識になれば それで万々歳です。>

なんで常識にしたいんですか?なにが目的なのですか?

>《悪は 存在しない》というひとつの認識>

 まあそのような認識は現象学や物理学の視点でいけばそういう事になりますが、主観から見た場合必ずしもそうならないのではないかというのが私の主張です。

>悪意は 意志のそれとしてのあり方です。
 つまりそれとしての意志による選択が 悪意であり その選択つまり悪意を実行しようとするときに やましさ反応が出ます。よってその思いないし行為は 悪と呼ぶ。>

 逆に言えば「悪と言う行為はやましさ反応がでます。よってその悪ないし悪意もしくは悪行はやましさ反応と呼ぶ」と表現できますよね?bragelonneさんの理論の逆を言えば「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさ反応と呼んでいるだけだ」とも言えますよね?

>つまり 《悪》の定義のほうに焦点をあてているということです。悪意も関連しています。>

 悪の定義とすればwikiでは『悪(あく)とは、文化や宗教によって定義が異なるものの、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である。』です。また『日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と称されている。鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。元々は「悪源太義平」にみられる「突出した」の意をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である』と書いてあります。《定義》というのがご自身の勝手な《定義》であるならそれはbragelonneさんの主観的感性が入らざるえないです。それを《定義》とした場合私も含め他の人が《悪》の定義をした場合、それも正しいという事になりませんか?もしそうでないならbragelonneさんの定義の押し付けになりませんか?

>ただし 《悪意》が 別様にあるということではないと考えます。やはりあるのは 《善の損傷》という内容です。>

 これも以前述べましたが《善の損傷》のみ(「>別様にあるということではない>」と述べているので)が《悪》であるとbragelonneさんが突き通しているだけであり議論や質疑応答になっていないと考えます。

>あるいは 生きること=ふつうに生きることとしての心に背くという意志 これがあります。これも 善の損傷です。これが 悪であり 意志の発動に焦点をあてれば 悪意となります。>

 では「普通に生きる事に背いたが故に善になったもしくは悪でなくなった、という現象もありえるのではないかと反証できるわけです。」なので普通に生きる事に背く=悪とは限らないのではないかと前々から言っているわけですが、なぜそこは認められないんですか?

>☆ このやましさ反応による善悪の定義なる仮説を提出しているのは わたしです。悪と名づけたことが 一般に人びとによっても受け容れられるかどうか それは いまこうして吟味・検証しています。>

 吟味・検証しているということは以前のbragelonneさん反応にしてみると変化しましたね

>やましさ反応としての生理現象が起きるなら それを引き起こした意志の発動は 自然本性のよき心根に反することだと捉えるから 善の損傷であり 名づけて悪である。と言っています。微妙に順序がちがうように思います。>

 前々から補足要求してますがなんで自然本性のよき心根に反することが必ずしも悪とはならないんではないかと思います。相当たる自信もありますし、証明もしてきましたから「反証してみろ」とは言わないで下さい面倒くさいだけです。

>★ ~~~~~~~~
 今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?
 普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《人間以前の状態にある人間》のことでしょう?
 そういう人間は 《早く死にたい》と言っているということでしょうね。あるいは すでに死んでいるということなのでしょう。
 そのような状態あるいは意志のあり方 これらを自分の考えにおいて 自由に貶(けな)してよいと思います。けなすことを 否定してはいません。>

 ちょっと意味が分かりませんでしたが別にその行いを行った人の対処法を聞いているわけではなくて、そのような行為なども悪意があったり、悪行となっていいたりするのではないでしょうか?(無論現象学や物理学の視点で言っている訳では在りません。ここは重々言っておきますが違いますよ)

>そのことと 善悪観がどうなっているかとは 別の切り口になります。>

 ならないと思います。それを加害者側は悪意が出たと感じるでしょうし、被害者側は悪意を感じる人がいると思いますがそれを加害者からしてみれば『虐めて楽しい』とか『殺人はスリルがあって残酷で面白い』と感じる人もいるでしょう。被害者(もしくは被害者に共感する)側からしてみれば『最低な行為』『残酷な行為』『卑怯極まりない連中』『異常者』などと捉える人もいるわけでその一部に『悪意』『悪行』と捉える人も居るのではないかという話です。そうなると『悪行』や『悪意』などが派生したという風に主観もしくは他の共感できる人などは感じてもおかしくないわけだから主観性や共感性の観点で行けば『悪行が行われた』と捉える事が出来るのではないでしょうか?それを『無い』と断定するのは見解が足りないのではないでしょうか?と言っているわけです。つまりご自身の視点は現象学物理学を中心に絶対軸にしているので『無い』となっているのではないでしょうか?(無論それを否定している訳ではありません)と説いています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ これも微妙ですよ。動揺とかそのような心の動きを『悪』と一般人が思っているというわけですか?そう思う場合とそう思わない場合があると思いますよ?まあ統計を取らなければ分からない話ですし、ここは私が感知するところではありません。
 ☆ 胸騒ぎをおぼえるなどのやましさ反応が 一般に ひとにはある。自分の意志が しかも自分の心にさからう選択をすると その反応が起こる。
 このことの一般性だけで勝負ということです。
 誰もが《悪と思う》というよりは その反応があると 実質的に《善の損傷》であると捉え――なぜなら 要するにウソ・イツワリだということです―― これを《悪》と呼ぶ。ということ。これが 仮説の中身です。



 ★ ~~~~~
 >いえ 理論というより 《悪は 存在しない》というひとつの認識 これを得ることができればよしとします。それが 常識になれば それで万々歳です。>

 なんで常識にしたいんですか?なにが目的なのですか?
 ~~~~~~~
 ☆ それが 生まれつきの心のあり方であろうと思うからです。
 自然本性として ふつうのあり方であろうと。
 その認識を持つことが 目的です。(この問い求めとしては)。




 ★ bragelonneさんの理論の逆を言えば「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさ反応と呼んでいるだけだ」とも言えますよね?
 ☆ 順序がぎゃくでしょう。生理的反応は 事実の問題です。悪と呼ぶのは 言葉の使い方の問題です。善の損傷という認識ないし自覚が それらをつなぎます。





 ★ もしそうでないならbragelonneさんの定義の押し付けになりませんか?
 ☆ あたらしい定義は つねにそうです。



 ★ なので普通に生きる事に背く=悪とは限らないのではないかと前々から言っているわけですが、なぜそこは認められないんですか?
 ☆ 主観におけるやましさ反応を基準にして定義をするというのみです。
 ひとつの思惟や行動の結果 あらたに善あるいは悪が生じたというのは 定義とは別の話です。その結果としての状態を捉えて その人がどう思うかが その話の中身となります。やましさ反応を起こさなければ 広く取って 善でしょう。




 ★ ~~~~~~
 前々から補足要求してますがなんで自然本性のよき心根に反することが必ずしも悪とはならないんではないかと思います。相当たる自信もありますし、証明もしてきましたから「反証してみろ」とは言わないで下さい面倒くさいだけです。
 ~~~~~~
 ☆ こういう対応が出て来るのなら もうやめましょう。

 あとは 見ていません。

お礼日時:2012/09/15 06:03

#93です。



瑣末なことにはいちいち反応しないでおきますが。
> ☆ ひとつの目的は 《悪は存在しない》という認識が 人びとの常識になることです。
 ですから 《善でも悪でもないこと》という部分は――たしかにありますが―― 焦点を当てていないと捉えてください。

「たしかにあるもの」に焦点を当てないことによって得られる「>《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になることが目的、というわけですか。
達成されると、どんな良いことがあるのかわかりませんが、仮に(良いことが)あったとして、「たしかにあるもの」がある以上、いつかはそれに焦点が当たるわけです。
いわしの頭でも信心できればそのことで幸せになる人がいるとは思いますが、いわしの頭の出所は問うな、あるいは、問わないという立場での論議である、ということですね。

> ★ 現状を追随分析して、それでお終いですか?
 ☆ そのとおりです。用を足すからです。

見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。
  
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 瑣末なことにはいちいち反応しないでおきますが。
 ☆ これは 
 
 ○ 瑣末なことは この際 議論として捨てますが

 とでも表わすべきでしょうね。エチケットとして。そのように書かないと もったいぶっているかたちです。いくらでも反論があるんだぞと言っていることになります。
 あるんなら 書けばいいではないか。と言いたくなります。
 あなたは 心理学が専門ぢゃなかった?



 ★ ~~~~~
 「たしかにあるもの」に焦点を当てないことによって得られる「>《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になることが目的、というわけですか。
 達成されると、どんな良いことがあるのかわかりませんが、仮に(良いことが)あったとして、「たしかにあるもの」がある以上、いつかはそれに焦点が当たるわけです。
 いわしの頭でも信心できればそのことで幸せになる人がいるとは思いますが、いわしの頭の出所は問うな、あるいは、問わないという立場での論議である、ということですね。
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 ☆ ひとつの例示によって 反証すれば それで済むことです。くだくだと言うべきことではありません。

 《善でも悪でもないこと》は 《悪ではない》ことがはっきりしています。だから 《悪は 存在しない》という命題にことさらかかわるものではありません。





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 > ★ 現状を追随分析して、それでお終いですか?
 ☆ そのとおりです。用を足すからです。
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 見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。
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 ☆ こんなことを言うために わざわざ 回答を一件ものしたのですか。げげげ。



 

お礼日時:2012/09/14 22:15

no.96です。

たびたびすみません。上文変になったので書き直します。

>★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?
 ☆ ここで 
 ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで
 ☆ の部分が 違います。
 ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。
 ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>

 それはまったくもってその通りだと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないものなら『悪』という表現を使うのですか?

>★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?
 ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>

 その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか?

>すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?
 善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。 
 けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。>

 「>あらたな別の存在が現われるわけではありません。」というのならそれで結構ですが、それでなぜ悪意が現れるのですか?

>悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。
 善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>

 ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷により引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?

 ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」とか「酷い行為」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?
 普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような意図があるのでしょうか?
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この回答へのお礼

 ★ それでなぜ悪意が現れるのですか?
 ☆ 光も曲がると知ってしまったから? というわけでもないかな。

お礼日時:2012/09/14 20:26

すみませんno95の回答途中編集かさなったので書き直します。



>★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?
 ☆ ここで 
 ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで
 ☆ の部分が 違います。
 ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。
 ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>

 それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないとものなら『悪』という表現を使うのですか?

>★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?
 ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>

 その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか?

>あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。
 そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。 
 これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。>

 現象というのがわからないのですがこれが心理現象である筈です。それを悪意が見られたという表現をするわけですか?

>すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?
 善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。 
 けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。>

 「>あらたな別の存在が現われるわけではありません。」というのならそれで結構ですがなぜ悪意が現れるのですか?

>悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。
 善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>

 ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷による引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?

 ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」とか「酷い行為」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?
 普通そういうのを悪意と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が悪意とか悪行とかそういうのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような意図があるのでしょうか?
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この回答へのお礼

 おおむね お応えしていると思います。

 その項目じたいを取り上げていないところがありますが 悪意だとか 現象だとかの説明としては ほかの項目についてのお応えで 説明していると思います。

お礼日時:2012/09/14 20:23
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