性格悪い人が優勝

 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中51~60件)

>『的が外れてる理由をなぜ言わないのですか?』>



・と補足要求してるんだから、まずそこを答えて下さい。


>『何回読んでも的を外れているとは思いませんがね。(まあ多少表現の違いは見当たりましたが・・・)どこが外れているんですか?』>

>ほんとうに分かりませんか?>

・分かりませんね。何回読み直しても、bragelonneが的を外すような言い回しをしてbragelonne が都合が悪くなったから、「ご自身(私)が的外れなことを言っている」という風な書き方をしてるとしかとれませんが?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 困りましたね。

お礼日時:2012/09/12 21:51

#77です。



>重ねて述べれば 善ないし悪を選択して実行することになる意志の座として基礎である。――

おそらく矛盾していると思います。
「基礎である」の主語はなんでしょうか。

> ★ 本性として備わっている道具の発明・発見には善も悪もない、
 ☆ 《道具の発明》という中立のコトがあるというのは まだ善悪論を始めていないことを意味します。つまり その中立の主題を取り上げて 《善も悪もない》と言ってもまだ話を始めることが出来てはいないのです。
 《主観》とあいまって初めて 善悪論が始まります。

意味不明の論理です。
「《道具の発明》という中立のコトは本性であり、これは善でも悪でもない」とわたしは述べているわけですが、この命題に関してはどのような見解をお持ちなのでしょうか。
ここが食い違いの大元なのですが、全くお答えになっておられませんね。
せっかく例を挙げた意味がありません。

>《好奇心》という抽象的なものは 中立です。具体的なものごとにつながっていないのですから 当然です。

ですから、本性というものは具体的なものごとにつながる目的で備わっているものではないのではないですか、と申し上げています。
好奇心は本性ではないのでしょうか。

> ★ 「善の損傷としての悪」と言えば、いかにも善が基本(本性)であるように思われますが、それは単に「悪」という認識が芽生えた際に、対立する概念としての善を想起した、というだけではないでしょうかね。
 ☆ これは 明らかに違います。少なくとも
 ★ 「悪」という認識が芽生えた際
 ☆ というその時点での認識の生じ方や内容について 明らかにしたうえでなければ 話が成っていません。
 どういう認識でしょうか?
 つまり 《善の損傷としてある》という認識ではないか? と言っています。

たしか、他の方もおっしゃっていたと思うのですが、《善の損傷としてある》ということ自体を否定しているわけではありません。
それを言うなら《(善が)悪の補修としてある》とでもいったことも同時に想定するのが自然でしょう、と言っているだけです。
砂地の上での論議は好かないのですが、「>どういう認識でしょうか?」とのことですので大雑把に申し上げると、何らかの可能性を自らの意志で無にしてしまうような状況を認識した際に、そうした感覚が発生するように思っています。
ただ、これは「何らかの可能性を自らの意志で無にしてしまわないような状況」が人間の本性としての善である、ということは意味していません。
その意味でも砂地なわけです。
お地蔵さんの前のおにぎりを食べてしまった子供が悪を認識した場合、お地蔵さんの前のおにぎりを食べてはいけないという善の損傷行為であることはわかりますし、また、その子が疚しさを感じたゆえ悪という認識が成立したのである、といったことはわかりますが、そのことから、その子供の本性は善だ、という結論を導くのは無理があるのではないでしょうか、ということです。
      
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 「基礎である」の主語はなんでしょうか。
 ☆ 自然本性です。また その中核としての自由意志を取り上げています。

 ★ 「《道具の発明》という中立のコトは本性であり、これは善でも悪でもない」とわたしは述べているわけですが、この命題に関してはどのような見解をお持ちなのでしょうか。
 ☆ これは 《道具の発明》をおこなう能力のことでしょうね。それは 自然本性としてそなわる特には知解の能力だと思います。
 よって
 ☆☆ 《主観》とあいまって初めて 善悪論が始まります。
 ☆ この主観は 意志です。何のためにその道具をつくるのか。あるいはその用い方。これらにかかわる意志の内容や方向性のことです。
 ですから 分かりやすいように表現するなら

 ○ 《道具の発明》を実現する能力は 自然本性のうち特には知解という行為能力であり 《道具の発明》という中立のコトは 《善でも悪でもない》というよりは そのあとその人の意志の発動にかかわって 善でも悪でもありうる。

 となりましょう。



 ★ ~~~~
 ですから、本性というものは具体的なものごとにつながる目的で備わっているものではないのではないですか、と申し上げています。
 好奇心は本性ではないのでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ 石器というのは 案外 銅器鉄器が使われても役に立ったようで 推測を交えていますが 稲刈りに石斧が使われたとします。
 つまり 石斧という道具を発明した。
 ★ 具体的なものごとにつながる目的で
 ☆ 発明されたわけです。そしてそれは 自然本性のうちの知解能力を用いておこなったと考えられます。

 《好奇心》は たとえば稲刈りをもっと早く効率よくやれないかという内容でもありえます。このような具体的な志向内容にかかわって その主観とあいまって 善悪論が現われます。好奇心というそのもの自体は 中立でしょう。



 ★ それを言うなら《(善が)悪の補修としてある》とでもいったことも同時に想定するのが自然でしょう、と言っているだけです。
 ☆ それは おそらく《ひとつの善をおこなう》とき その《ひとつの善》にかかわっている事柄がほかにあって それが《過去に生じた悪》であったという場合がある。つまりしたがって善がその《悪の補修としてある》かたちになっている。ということだと見ます。

 石斧を無くして 隣のひとのそれを盗んで使った。悪だという自覚もあったし ある。
 この《悪を補修しよう》として 隣のひとにおわびし 斧を返し おわびのしるしをももらってもらう。
 これは 隣人との和解という善をおこなうことに付随している。という見方です。

 言いかえると 信頼関係がやぶれたので修復するという意味合いは現われていますが 信頼関係をもとに戻すというひとつの善をおこなう。これが 基本です。基軸です。

 《こわれた信頼関係》という悪が 初めにあって わづかにその修復をおこなうという善が 二次的に現われる。それだけだとすれば 悪も それ自体として存立していると言えないか? という問いは 成り立たないでしょうね。

 もとにもどすということと 損傷が初めにあったということとは 別でしょう。後者は 主観のやましさ反応仮説としては ない。と見るというものです。
 その仮説に無理にあてはめているだけではないかということでしたら 《やましさ反応》をどのように取り扱い位置づけるか? こういう問いが 同時に発生していると考えます。

 極端なことを言えば 《やましさ反応》仮説による善悪観と そして別様の理論構成による善悪観とが 両立するということも ありうるのかも知れません。
 ですが いまは この質問趣旨の検証を質問者としては 問い求めます。
 いえいえ けっきょく別様の仮説理論をどうぞとも言って来ました。



 ★ ~~~~
 砂地の上での論議は好かないのですが、「>どういう認識でしょうか?」とのことですので大雑把に申し上げると、何らかの可能性を自らの意志で無にしてしまうような状況を認識した際に、そうした感覚が発生するように思っています。
 ただ、これは「何らかの可能性を自らの意志で無にしてしまわないような状況」が人間の本性としての善である、ということは意味していません。
 その意味でも砂地なわけです。
 ~~~~~~~
 ☆ ちんぷんかんぷんです。



 ★ ~~~~
 地蔵さんの前のおにぎりを食べてしまった子供が悪を認識した場合、お地蔵さんの前のおにぎりを食べてはいけないという善の損傷行為であることはわかりますし、また、その子が疚しさを感じたゆえ悪という認識が成立したのである、といったことはわかりますが、そのことから、その子供の本性は善だ、という結論を導くのは無理があるのではないでしょうか、ということです。
 ~~~~~ 
 ☆ この場合の《本性》は 存在論のそれなのでしょう。わたしの言う自然本性は やましさ反応でやましいと感じたとしてもなおそのコトを選択して実行を欲するという悪がありそしてそうしない善があるというとき その選択を成す意志をそなえていると言っています。

 善悪を決める意志は 基礎として善だと見るという仮説であり その意志の座としての自然本性は 善であろうと同じく仮説するというに過ぎません。

 やましさ反応で やましさをおぼえない場合の心のあり方 これを善と言っており 意志というその全体やその座である自然本性は やましさ無しの善と同じ地盤であろう。こう見て 作業仮説の検証をしている。それだけです。

お礼日時:2012/09/12 20:11

>つぎのやり取りをしっかりと読みなおして どうしてそれに対する応答として今回の回答が的をはづれているかを考えてみてください。

>

逆に質問です的が外れてる理由をなぜ言わないのですか?
的が外れているならその部分を述べればよいでしょう。なぜ述べられないのですか?
質問してるのはbragelonne 方ですよ、内容をしっかり書かなければいけないのはbragelonne の方でしょう。

何回読んでも的を外れているとは思いませんがね。(まあ多少表現の違いは見当たりましたが・・・)どこが外れているんですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ほんとうに分かりませんか?

お礼日時:2012/09/12 17:44

>すでに明らかにしています。


 ☆☆(No.59お礼欄) ~~~~
  ★ 自分が良かれと思ってとった行為が悪行になっている場合もあるから

です。
  ☆ 悪行になった時点で あるいは要するに自分の主観においてやましさ

反応を伴なって悪だと見なした時点で 悪とその行為が発生します。
 それだけのことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~>

 「悪とその行為が発生します」の根源の説明をしたんですよ?つまりその行

為の基を『どう存在』すると定義するかしないかの問題です。派生すことは前

々から言ってますしご自身で証明までしてます。なので派生した悪は隔離して

更正させなければならないわけです。「悪は存在するという例証をすれば 済むことです」と言っておいて「自分はそれは証明している」というのは意味が分からないのですが?分かるように説明していただけます?表現法として存在しないならその証明をしていただけますか?

>★ つまり『基なる善』を存在すると定義するならそれを『基なる悪』と替

えれば存在することになります。>
>☆ もしそうであれば 胸騒ぎをおぼえたりするやましさ反応は 善の場合

と同じく悪の場合にも 起こらないでしょう。>

それは『やましさ反応=悪』と定義するか否かの問題です。それをご自身が『やましさ反応≠悪』と思っているから存在しないということになるのではないかと思います。故についでですが主観から悪を消すことも可能です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 つぎのやり取りをしっかりと読みなおして どうしてそれに対する応答として今回の回答が的をはづれているかを考えてみてください。

 ★★ (ANo.79 teient) ~~~~~~~~~
 >悪は存在するという例証をすれば 済むことです>

 なにが済むのか知りませんが、no.69で

 「例えば肉食動物が居ますよね?小鹿を狙って捕まえて食べる。ある視点で見れば弱いもの虐めです。しかしそれは「食したい」という動物本来の遺伝的もしくは野生的な基となる善から来ているからでしょ?じゃあ基の善なる行為自体に悪行になりえる要素が含まれているという見方もできるでしょ」

 という例証を出しているのにそれでも分からないと?ならもっと分かりやすい例証だしましょうか?

 そうだな・・・時速30km以内の車道で毎時30km以内の道路か知らずに40kmで走ったとしましょうか。そうするとその人は道路交通法違反という違反行為を行った事になりますが知らずにやった事であり40km位でいいだろうという気持ちで行った行為です。これは違法行為と知っていようがいまいが良かれと思って行った行為です。
 そうした場合、これは基なる善の派生より引き起こった違法行為に当たりますよね?あまり法律に詳しくないので詳細はしりませんが道路交通法違反である事は間違いないと思います。そうなると悪行と分からずに悪行になってしまっていた行為もあると考えられます。その場合基なる善の損傷ではないでしょう。よって基なる善の損傷『のみ』が悪の派生になるわけではない。
 知らず知らずに基なる善によって引き起こされ結果的に違法であったり「まずかった」ことであることは多大にありえる事項です。ただご自身の主張を否定しているわけではないので「まずかった」と感じる主観性というのは「違法行為はあまりよくないだろう」という気持ちを持った人です。もしそれを基なる善の損傷と称するなら基なる善の損傷が「まずかった」という認識に至るということになります。
 しかし違法行為としらず行った基なる善がなければつまり時速30km以上で走るのは違法だとしらないで行った行為が派生しなければ「まずかった」と認識しないわけです。
 なので基なる善から派生した現象が元にある事は事実ですし否定しませんが悪と思われる現象や悪でも善でもない現象、善行的現象、なんでも構いませんがそのような現象は必ずしも基の善の損傷『のみ』で派生したわけではないという意味であり、主観の感覚では損傷がなければそういう認識にはいたらないのも事実だろうと考えます。しかしそれは基の善から悪になりえる可能性を秘めている事になるわけだから『基なる善』を『基なる悪と』捉えても間違いではないことになりませんか?
 つまりご自身の定義で『基なる善』と呼ぼうが他の人が『自然本性』と呼ぼうが構いませんが、それが悪に変貌するのは損傷だけではなく『基なる悪なる要因』から派生してると表現することも可能だというわけです。ご自身が勝手に『基なる善』と定義しようがしまいが要は表現を変えれば幾らでも『基なる悪』とでも言えると言っているわけです。私がもしそれを表現するなら『要因と要素』と言いますがね。『存在と』いうのも曖昧で『ご自身の定義する存在』にあてはまっていなければ悪は無いことになりますが『存在』というのが私の概念でも他の人の概念でも『存在』という『定義をなせば』悪だろうがなんだろうが出てくるし、『なさねば存在しない』ということになります。が、もし『存在しない』と定義すると「基なる善が存在するだけだ」という存在も存在しないことになります。つまり『存在しない』なら『基なる善』だろうがなんだろうが『基なるなにか』すら存在しないことになります。わかりますか?つまり『基なる善』を存在すると定義するならそれを『基なる悪』と替えれば存在することになります。
証明しましたよ。

 ☆☆(お礼) ~~~~~~~~~~~
 すでに明らかにしています。
  ☆☆(No.59お礼欄) ~~~~~~~~~
   ★ 自分が良かれと思ってとった行為が悪行になっている場合もあるからです。
   ☆ 悪行になった時点で あるいは要するに自分の主観においてやましさ反応を伴なって悪だと見なした時点で 悪とその行為が発生します。
  それだけのことです。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





  ★ つまり『基なる善』を存在すると定義するならそれを『基なる悪』と替えれば存在することになります。
  ☆ もしそうであれば 胸騒ぎをおぼえたりするやましさ反応は 善の場合と同じく悪の場合にも 起こらないでしょう。
  悪も 生まれつきの志向性として存在するというのであればです。
  けれども やましさ反応は 悪の場合にこそ起こる。なぜ起こるのか? それを論証していません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2012/09/12 13:25

58



やましさだけが悪発生の契機かちがう
やましいかやましくないかであぶりだす悪は独善の逆である独悪とよべる、主観的悪
その他に客観的悪とか社会的悪とか社会悪とか状況的悪とか方法的悪とか法的悪とか悪徳とか、そういうの悪としてカウントしないか

はたからみてあいつ悪いことしてるなと思うとき客観的悪うまれてると思う
そのとき客観する側にやましさがない場合あると思う
例、インディアンとかヤノマミとか殺された、昔アボリジニハンティングが趣味的になされていたという
その殺した人らのやったことを悪いことだと思うとき、自分にはやましさはない、客観的に悪いとかんじる、殺された人々は不憫だし殺した方の心性が低い、思いやりない、と思う

殺人者の存在と行為を分け、殺したことを悪とみなし、自他をいためる時やましく、いためることを悪いと思うように、他者の殺人行為について悪いことだなと、やましさもなく思う
やましさよりも、殺されたのかわいそうだなとか、殺すのは人性や心性が劣っているなとか思う、嫌悪感、軽蔑、憐れみ、恐怖感など、やましさの他にも悪事認識の際にそういうのがやましさよりも強く伴いうる、状況的悪、人間調和の壊れた不快さを嗅ぐ

殺し手に共感し人殺しをする自身を思い描いてやましさを感じるというこじつけ可か
思いやりに欠いた他者を思いやって共感し自分が思いやりに欠いたことをするさまを空想してやましがったり
そこにやましさはないかと探せばやましさ見つけられる
心理発達過程で恥・疑惑・罪悪感(やましさ・善悪判断能力)の獲得は、自律・意志・自発性・決意(自由意志・選択能力)の獲得と同期(幼年期)
心が発達してて退行やマヒがなければ悪事にたいし善悪判断でき、悪さのシテが人ならその人に感情移入し思いやってやましいと感じることもできる

無自覚に社会ルールやぶり迷惑かける例、体についたウイルス知らぬ間にまき散らして歩くとか
無知や無自覚でも客観的には悪い、あとで本人きづいて悪かったなやましいと思う前から客観的には悪い

やましさなく人をいためたり殺したりするとき、自由意志から逃げ良心マヒして忠実に人殺しをする兵士とか、区分された人の群のこちら側だけを大事にして、向こう側へのひろい慈しみをもたず、向こうにいる他者の心身を傷つける

他者や状況から圧を加えられて、それで青少年や大人が無力感にとらわれ、わざと自虐もしてたら自己責任で、良心でもって無力感脱する自助努力して無力感ベースの暮らしから有力感ベースの暮らしへ移行すること大切

心を他者や状況に圧倒的に傷つけられることある、例、軽くてptsdとかか圧倒的な暴力、こちらの自由意志や良心や気骨や言葉や思考や脳機能を喪失させるほど、強い暴力行為、それされて精神機能が低まり無力な方に移行したら、心を他者に傷つけられた例になる、自己責任ややましさはないと思う

圧倒的な暴力行為のシテがやましさ抱えて暴行するは主観的にも客観的にも悪で、洗脳や病や精神的環境でシテの良心・思いやりが弱いかなくなっていると、主観的には悪じゃないからやましさもなく、人間性は欠いていて、でも人間で客観的には悪いことをするし、された側は精神性に欠けた人間に心身を損ねられるだろう

生成的というのは合気道とか旬の料理とかアドリブみたいな全的な流れ使いのこと、苦手
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 あいっうーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ★ やましいかやましくないかであぶりだす悪は独善の逆である独悪とよべる、主観的悪
 ☆ そうですよ。おっしゃるとおりです。
 初めから言っていると思いますが すべては主観の問題です。独り善がりの自己満足としての善とそれにさからう悪とです。

 ただし ヒトには 共通感覚(センスス・コムニス)があって やましさ反応も おそらく誰もに共通でありましょうし 基本的なかたちとしては 《生きること そしてともに生きること》が 善の中核を成すと思います。
 でも ここで取り扱っていることは あくまでワタシの主観における善と負の善とです。



 ★ その他に客観的悪とか社会的悪とか社会悪とか状況的悪とか方法的悪とか法的悪とか悪徳とか、そういうの悪としてカウントしないか
 ☆ これは いま上で見た主観としての善および悪という規定(自覚)からすすんで 相手のある場面や要するに社会という場でそれではどのように善ないし悪を取り決めるかの問題になると思います。
 主観の領域から 社会の場面へと話の舞台を移します。そのときの取り決め(法律など)の問題だと思います。

 おそらく《生きること およびともに生きること》を中核とした善は そのあとただちに《〔生きることへの〕おのが意志をとうとぶこと。互いにとうとぶこと》という内容を基本とすると考えます。
 ですから その意志を 自分のものであれ他人のものであれ ないがしろにすることは 善にさからうことだと定義されて行くものと思います。

 つまり 相手の話を聞かない。話を聞かないどころか 話をさせない。あるいはけっきょく話をする存在であることを抹殺する。これらなどは 他人に対してにしろ自分に対してにしろ 悪だと取り決められるということではないでしょうか?
 そしてしかも たとえばこれらの事例においても 最初の独り善がりの主観的悪が・つまりはその《やましさ反応》が 素朴に出発点として活きていると思われます。




 ★ ~~~~
 はたからみてあいつ悪いことしてるなと思うとき客観的悪うまれてると思う
 そのとき客観する側にやましさがない場合あると思う
 ~~~~~~
 ☆ つまり
 ★ その殺した人らのやったことを悪いことだと思うとき、〔* その思う〕自分にはやましさはない
 ☆ という問題。これは

 ○ 《自分にやましさは〔その殺人行為を自分はおこなっていないのですから〕 ない》ということと そして《もし自分が殺人をあたまに想い描き仮りにも実行しようと思ったときには 自分の中で胸騒ぎがしてやましさをおぼえる》ということとは 別です。両方が 同時に成り立ちます。

 ☆ つまり つねに善悪は――ここでは―― 主観的な特定のワタシの勝手な感覚にもとづくそれらです。この《わたし》が特定されていなければ 実際の善悪論は決まらないという性格の議論です。
 しかも先ほど例で考えたように この狭い独善的な善悪観から 一般の善悪・是非・当否を取り決めるオキテ(法律)も だいたいは みなの意見を寄せ合って決めて行くものと思います。



 ですから 主観における善悪観とそしてほかの人びとの主観がどういう善悪観を持ったかとは 別です。しかもただし その善悪観の内容じたいは それほど違わない。違わないにもかかわらず 実際にその悪行なら悪行をおのれの意志として選択し実行した者とそうでない者とは 《やましさ反応》の有無によって分かれます。そういうことだと見ます。つまり
 ★ 殺人者の存在と行為を分け、殺したことを悪とみなし、自他をいためる時やましく、いためることを悪いと思うように、他者の殺人行為について悪いことだなと、やましさもなく思う
 ☆ というようにです。第三者は やましさもなく 当事者たちの事件について思う。これは そのとおりでしょう。

 つまりなおも同じく もし実際に自分の頭の中に想い描くだけでも 自分が意志をはたらせようというときには やましさ反応が現われる。つまり
 ★ ~~~~
 殺し手に共感し人殺しをする自身を思い描いてやましさを感じるというこじつけ可か
 思いやりに欠いた他者を思いやって共感し自分が思いやりに欠いたことをするさまを空想してやましがったり
 そこにやましさはないかと探せばやましさ見つけられる
 ~~~~~~~
 ☆ というようにです。




 そうして次のようにおっしゃるとおり このやましさ反応は 麻痺することもあるようです。その点も確認します。
 ★ やましさなく人をいためたり殺したりするとき、自由意志から逃げ良心マヒして忠実に人殺しをする兵士とか、区分された人の群のこちら側だけを大事にして、向こう側へのひろい慈しみをもたず、向こうにいる他者の心身を傷つける



 そこから脱出するには ひとつには:
 ★ 他者や状況から圧を加えられて、それで青少年や大人が無力感にとらわれ、わざと自虐もしてたら自己責任で、良心でもって無力感脱する自助努力して無力感ベースの暮らしから有力感ベースの暮らしへ移行すること大切



 ★ ~~~~~
 圧倒的な暴力行為のシテがやましさ抱えて暴行するは主観的にも客観的にも悪で、洗脳や病や精神的環境でシテの良心・思いやりが弱いかなくなっていると、主観的には悪じゃないからやましさもなく、人間性は欠いていて、でも人間で客観的には悪いことをするし、された側は精神性に欠けた人間に心身を損ねられるだろう
 ~~~~~~~~
 ☆ ここでは 《心身を損ねられる》に注目します。
 身体は あいにく損傷を受けます。心は トッサの場合に何が何だか分からずに戸惑うことがありますが 相手の悪に同調しなければ 損ねられることはないと思います。
 思わず相手に調子を合わせて その意味で悪に同調したという場合 あとでそのことに気づけば そのときただちに心の損傷は 癒えます。と思います。



 ★ 生成的というのは合気道とか旬の料理とかアドリブみたいな全的な流れ使いのこと、苦手
 ☆ 分かりました。つまりは 相手やその場の情況が あたかも自己生成するかのように流れを そうっと変えさせる。つまり 自己修正するように話や情況の流れを持って行く。ことですね。
 軌道修正係りとでもいう役目ですね。

お礼日時:2012/09/12 10:21

閑話休題


    • good
    • 0
この回答へのお礼

 なんかピンと来ません。

 趣味の問題だと思います。

お礼日時:2012/09/12 00:56

>悪は存在するという例証をすれば 済むことです>



なにが済むのか知りませんが、no.69で

「例えば肉食動物が居ますよね?小鹿を狙って捕まえて食べる。ある視点で見れば弱いもの虐めです。しかしそれは「食したい」という動物本来の遺伝的もしくは野生的な基となる善から来ているからでしょ?じゃあ基の善なる行為自体に悪行になりえる要素が含まれているという見方もできるでしょ」

 という例証を出しているのにそれでも分からないと?ならもっと分かりやすい例証だしましょうか?

 そうだな・・・時速30km以内の車道で毎時30km以内の道路か知らずに40kmで走ったとしましょうか。そうするとその人は道路交通法違反という違反行為を行った事になりますが知らずにやった事であり40km位でいいだろうという気持ちで行った行為です。これは違法行為と知っていようがいまいが良かれと思って行った行為です。
 そうした場合、これは基なる善の派生より引き起こった違法行為に当たりますよね?あまり法律に詳しくないので詳細はしりませんが道路交通法違反である事は間違いないと思います。そうなると悪行と分からずに悪行になってしまっていた行為もあると考えられます。その場合基なる善の損傷ではないでしょう。よって基なる善の損傷『のみ』が悪の派生になるわけではない。
 知らず知らずに基なる善によって引き起こされ結果的に違法であったり「まずかった」ことであることは多大にありえる事項です。ただご自身の主張を否定しているわけではないので「まずかった」と感じる主観性というのは「違法行為はあまりよくないだろう」という気持ちを持った人です。もしそれを基なる善の損傷と称するなら基なる善の損傷が「まずかった」という認識に至るということになります。
 しかし違法行為としらず行った基なる善がなければつまり時速30km以上で走るのは違法だとしらないで行った行為が派生しなければ「まずかった」と認識しないわけです。
 なので基なる善から派生した現象が元にある事は事実ですし否定しませんが悪と思われる現象や悪でも善でもない現象、善行的現象、なんでも構いませんがそのような現象は必ずしも基の善の損傷『のみ』で派生したわけではないという意味であり、主観の感覚では損傷がなければそういう認識にはいたらないのも事実だろうと考えます。しかしそれは基の善から悪になりえる可能性を秘めている事になるわけだから『基なる善』を『基なる悪と』捉えても間違いではないことになりませんか?
 つまりご自身の定義で『基なる善』と呼ぼうが他の人が『自然本性』と呼ぼうが構いませんが、それが悪に変貌するのは損傷だけではなく『基なる悪なる要因』から派生してると表現することも可能だというわけです。ご自身が勝手に『基なる善』と定義しようがしまいが要は表現を変えれば幾らでも『基なる悪』とでも言えると言っているわけです。私がもしそれを表現するなら『要因と要素』と言いますがね。『存在と』いうのも曖昧で『ご自身の定義する存在』にあてはまっていなければ悪は無いことになりますが『存在』というのが私の概念でも他の人の概念でも『存在』という『定義をなせば』悪だろうがなんだろうが出てくるし、『なさねば存在しない』ということになります。が、もし『存在しない』と定義すると「基なる善が存在するだけだ」という存在も存在しないことになります。つまり『存在しない』なら『基なる善』だろうがなんだろうが『基なるなにか』すら存在しないことになります。わかりますか?つまり『基なる善』を存在すると定義するならそれを『基なる悪』と替えれば存在することになります。
証明しましたよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 すでに明らかにしています。
 ☆☆(No.59お礼欄) ~~~~
  ★ 自分が良かれと思ってとった行為が悪行になっている場合もあるからです。
  ☆ 悪行になった時点で あるいは要するに自分の主観においてやましさ反応を伴なって悪だと見なした時点で 悪とその行為が発生します。
 それだけのことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~





 ★ つまり『基なる善』を存在すると定義するならそれを『基なる悪』と替えれば存在することになります。
 ☆ もしそうであれば 胸騒ぎをおぼえたりするやましさ反応は 善の場合と同じく悪の場合にも 起こらないでしょう。
 悪も 生まれつきの志向性として存在するというのであればです。
 けれども やましさ反応は 悪の場合にこそ起こる。なぜ起こるのか? それを論証していません。

お礼日時:2012/09/12 00:54

ご自身が道筋を外しておいて、しかもそれ沿った答えをだしてその返答が



>議論の筋道をはづれましたよ。という意味です。>

 悪い意味での自己中心的にも程がありますね。子供じみた捨て台詞しか吐けないということは私の答えを正しいといっているもどうぜん。子供みたいな意地は張らないほうがいいと思いますよ?みっともないですから。素直に返答していれば真の筋道も受け入れられたかもしれないのにそれを意地張って抵抗しているうちはまともな質疑応答とはいえませんよ。
 説教終わり。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 悪は存在するという例証をすれば 済むことです。

お礼日時:2012/09/11 21:40

#74です。


お応えいただきありがとうございます。

> 意志行為ではないという意味で 答えが出ないように思います。
 ただし 誕生は それがあるから意志行為が出来ている。と考えるなら どうなんでしょう?
 これでも答えが出ません。

本性の伴わない誕生はあり得ませんから、本性に関しても答えが出ない、つまり、善か悪かという思考の対象とはなり得ない。
このように考えるのが自然だということになりませんか。

> ★ ~~~~~
 獲物の骨から武器製造が閃いたのは猿(または人間)の自然本性だと思いますが、これは善ですか、悪ですか。
 最初の猿(または人間)の場合についてです。
 ~~~~~~ 
 ☆ 《武器》というところが問題なのでしょうか?
 動物に対する武器としてみれば 生きることに付随することとして 善の前提事項であるように思います。
 人間に対するものとしては 悪でしょうね。相手の意志をないがしろにするということで 悪だと見ます。やましさ反応があると思います。

そうですね。
《閃いた》というところにも着目していただきたいのですが、この場合、「長くて堅くて、何かに活用できそうだ」という閃きを指しています。
つまり、本性として備わっている道具の発明・発見には善も悪もない、ということでしょう。
あるいは、人間の本性たる好奇心に善も悪もない、としたほうが適切かもしれませんが、まだ、そこまで述べる段階ではないと思います。

いずれにせよ、「動物に対する武器」として道具を発見するのが人間の本性であり、それは善である。
その善が損傷した形として「人間に対する武器」として活用することがあり、それを悪と呼ぶ。
と考えても良いのですが、やはり不自然に感じます。
「善の損傷としての悪」と言えば、いかにも善が基本(本性)であるように思われますが、それは単に「悪」という認識が芽生えた際に、対立する概念としての善を想起した、というだけではないでしょうかね。
つまり、「ゆえに善が本性」という結論は早計ではないかと思うわけです。
(砂地の上では泥仕合になりがちなので)河岸を変えて論じるほうが妥当なような気もしますが、どちらにも変質するのが自然本性である、と素直に考えてよいのではないでしょうか。
と再度提案しておきます。
  
    
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 本性の伴わない誕生はあり得ませんから、本性に関しても答えが出ない、つまり、善か悪かという思考の対象とはなり得ない。
 このように考えるのが自然だということになりませんか。
 ~~~~~~
 ☆ この場合の《本性》が何を言うのかですが いちど出ましたね この問題は。どうもわたしの用いる《自然本性》とは別の意味のようでした。
 もし《自然本性》のことでしたら 意志行為をおこなう基礎のことですから 善の基礎である。と答えます。
 つまり
 ★ つまり、善か悪かという思考の対象とはなり得ない。
 ☆ という意味で 答えが出ないのではありません。いえ 同じ意味かも知れないとことわっておきますが こうです。
 つまり生きるという意味では善であり そして現象としての善悪の選択がなされる意志の座として基礎である。重ねて述べれば 善ないし悪を選択して実行することになる意志の座として基礎である。――という意味で 答えを出すような問いではない。こう思います。



 ★ ~~~~
 つまり、本性として備わっている道具の発明・発見には善も悪もない、ということでしょう。
 あるいは、人間の本性たる好奇心に善も悪もない、としたほうが適切かもしれませんが、まだ、そこまで述べる段階ではないと思います。
 ~~~~~~ 
 ☆ いちおう触れてみたが保留に付すというのでしたら それまでですが この命題の中身は 微妙にずれているところがある。こう思いますから わたしも触れてみます。
 ★ 本性として備わっている道具の発明・発見には善も悪もない、
 ☆ 《道具の発明》という中立のコトがあるというのは まだ善悪論を始めていないことを意味します。つまり その中立の主題を取り上げて 《善も悪もない》と言ってもまだ話を始めることが出来てはいないのです。
 《主観》とあいまって初めて 善悪論が始まります。
 ですから
 ★ 人間の本性たる好奇心に善も悪もない
 ☆ という表現は おそらくそのとおりなのでしょうが その・そのとおりだという意味合いが違うはずなのです。
 《主観》のやましさ反応を通過させての善悪の判断と 《好奇心は中立としてそのウゴキがある。ゆえに 善も悪もない》という判断とは 明らかに違いがあります。
 後者は けっきょく《善も悪も まだ 決められない》という意味で 善も悪もないのであって 主観のやましさ反応をとおしたなら いづれかに決まるということです。好奇心の具体的なことがらは そういうことです。《好奇心》という抽象的なものは 中立です。具体的なものごとにつながっていないのですから 当然です。



 ★ 「善の損傷としての悪」と言えば、いかにも善が基本(本性)であるように思われますが、それは単に「悪」という認識が芽生えた際に、対立する概念としての善を想起した、というだけではないでしょうかね。
 ☆ これは 明らかに違います。少なくとも
 ★ 「悪」という認識が芽生えた際
 ☆ というその時点での認識の生じ方や内容について 明らかにしたうえでなければ 話が成っていません。
 どういう認識でしょうか?
 つまり 《善の損傷としてある》という認識ではないか? と言っています。


 

お礼日時:2012/09/11 21:39

>これは 答える必要がないと判断しました。

>

なんですかこれは?「私はあなたの言っていることに賛同しました」という意味でしょうか?
「反論できないから答えられない」という意味でしょうか?
「俺の言っている事に賛同できないのかー!くそやろー!」という怒りでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 議論の筋道をはづれましたよ。という意味です。

お礼日時:2012/09/11 16:05
←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!