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 ( a ) 悪は存在しない。

 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 この問いを あらためて問います。
 
 たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
 ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。

 ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

 ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
  

A 回答 (134件中11~20件)

何も教えず話そらすbragelonne さんの何を知れという言うんだね?


質問にまともに答えず。挙句の果てに悪は存在しなくて悪は愛とか言い出す馬鹿なのかと陥落しました。
おっと馬鹿と言ってしまいましたね。ん~まだ俺も未熟だな~しかしご自身そろそろボケはじめてるんじゃないんですか?
施設行くとかした方がいいですよ。
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この回答へのお礼

 けっきょく何をねらっていたのかな?

お礼日時:2012/09/18 23:19

>知ろうとしない悪につき合う悪。


 それは 死のほうへ寄って行くことだが
 しかも愛だ。>

やっぱご自身なにか悪いことしたのか悪人と思っているかのどちらかですね。
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この回答へのお礼

 分からないというひとに答えたのが わるかった。

お礼日時:2012/09/18 22:44

>ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?


 なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?
 その心の片向きは 弱さから来るのか?
 思うようにならないことにやけを起こすことからか?
 ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?
 けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。
 おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起こる。
 やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。
 はっきり言えば おのれの死を意志がえらぶ。
 けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。
 愛である。
 社会にあるというその存在の関係性にもとづく愛である。
 おそらく生きることを欲するゆえに 生きることしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見ないことにはできないという愛から である。
 世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。
 なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。
 愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして。>

 なにを言いたいのかわかりませんがご自身はなにか『悪』を行ったんですか?なぜ悪を自然本性と変えてなお且つ最後には愛とか言っているのかがそれを語っています。『自分は虐めはしてないんだ!これは全部遊びなんだ』と言わんばかりの虐めっ子の様に・・・・
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この回答へのお礼

 知ろうとしない悪につき合う悪。
 それは 死のほうへ寄って行くことだが
 しかも愛だ。

お礼日時:2012/09/18 20:34

たとえ善悪の突き合わせを試みましても、


ゼロサムにはならないのでしょうか!?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7702102.html
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この回答へのお礼

 たぶん なってもいいのでしょう。

 問題は――この少し前から述べて来ていますが―― 自然本性なる善に根差しそして悪をも引き受けるところのチカラである愛 これの上に乗っかっている。または この愛の中につつまれている。
 ので
 ★ ゼロサムにはならない
 ☆ か成るかは あまり問題とはならないのでしょう。

 善あるいは悪に聞けというより 愛に聞けというかたちになる。

お礼日時:2012/09/19 10:17
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この回答へのお礼

 アース役といった意味ででしょうか?

お礼日時:2012/09/19 10:14

対照勘定的な善悪の対生成は?


http://netyougo.com/nb/3052.html
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この回答へのお礼

 ふたつ前のご回答へのお礼欄に書きましたが この
 ★ 対照勘定的な善悪の対生成
 ☆ の基盤は これまでは 自然本性なる基礎(それとして 広い意味での善)だと考えていましたが どうもこれは

  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》

 だと捉えるようになりました。どうでしょう?

お礼日時:2012/09/19 10:13

スマートフォンには責任への当事者意識が存在していないでしょう。


http://www.nikkei.com/article/DGXBZO46180800V10C …
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この回答へのお礼

 ええ。

お礼日時:2012/09/19 10:09

悪が無いと、安全…!?


http://okwave.jp/qa/q7702786.html
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この回答へのお礼

 たぶん そうではなく

 ○ 悪が起きれば すぐにそれに対処できると 安全

 なのだと思います。

お礼日時:2012/09/19 10:08

default状態では、悪い因子がインストールされていないのですね。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120917-00000 …
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/wbs/trend_tamago/po …
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この回答へのお礼

 ▲ マイクロソフト、中国で出荷時からマルウェアを含むPCを発見――工場でプリインストールか?
 ☆ という事件なんですか?



 ★ default 状態では、悪い因子がインストールされていないのですね。
 ☆ そして 《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在ですから 死を死ぬというさだめにあるといった――性質があります。

 この《うまれて来て 生きて やがて死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はなく 言うなれば善であると思われますが その善なる基礎としての自然本性・そのうちの自由意志には その朽ちるウゴキをみづから早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。

 これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えましたが さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという言ってみれば〔コジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキもある。


 悪に同調することと悪を引き受けることと。
 
 考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。

 《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。


 愛は すでに 理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラである。

お礼日時:2012/09/19 10:07

スマートホンは 行動をすることもないが したとして その責任を取らない。

取るような主体ではなく 存在ではない。

 悪は 悪意も悪行も 現象として起きているが――また それが《ある》というなら 表現として《存在する》とも言うことはあるが―― それ独自の存在としてあるわけではない。善という基礎の上に その善の損傷として起きる現象である。
 善なる存在がなければ 悪は起き得ない。その意味で 悪は 存在しない。

 >★ それは重々承知だし当たり前です。
 >☆ ならば そういう一票を投じる回答であるはずです。>

なんでか?ご自身はご自身の主張に投票して欲しかったんですか?この場は投票場ではありませんよ。

>★ いやだから近いと言っているじゃないですか?意味分かります?「近い」という言葉の意味が?
>☆ あほ!>

<あほ!>と言って意地張って抵抗するとは・・・・抵抗の意地だけは認めますが、内容の是非については相当無能ですね。
まあようはご自身は「悪」という表現は的確ではないのではないかということを言わんとしていたのでしょう。まあそういう意味では賛同します。犯罪でも殺人の方がよっぽど的確な表現かと思います。しかし悪意を感じた人が「悪意を感じた」と表現する場合などに置いては未だに廃れきれていないということはまだ悪意を発する人がいやいやヤマシサを覚えるような悪行を行う人がいるからなのでしょう。そういう人は一刻も早く消えてもらいたいですね、おっと人ではなく悪意・悪行の性質がです。
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この回答へのお礼

 ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?

 なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?

 その心の片向きは 弱さから来るのか?
 思うようにならないことにやけを起こすことからか?
 ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?

 けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。
 おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起こる。
 やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。
 はっきり言えば おのれの死を意志がえらぶ。



 けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。
 愛である。
 社会にあるというその存在の関係性にもとづく愛である。
 おそらく生きることを欲するゆえに 生きることしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見ないことにはできないという愛から である。

 世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。
 なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。
 愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして。

お礼日時:2012/09/18 13:35
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