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 ・・・思います。そのことをめぐって 問います。

 おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。
 すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。


 たたき台です。

 1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。

 1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。

 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。

 2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。

 3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。

 3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。

 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。

 4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。

 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。

 5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。

 5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。

 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。

 6-1. 《絶対》の二重構造:

  ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠

  ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果
      関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に
      すら用いられることがある。
       たとえとして都合がよいのだと思われる。
     

 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。 

 



 以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。

 ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。

 ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~
 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。
 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・

 むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。

 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)
   http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si …
 ~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (27件中1~10件)

『2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。


でも、経験世界との接触部分(=インターフェイス)との整合性や因果関係からは自由でなくて、経験世界によっています。


『3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。』
まあ、そうですけど、そのことを俺なりに言い換えると、絶対や無限や永遠を、経験世界に属している表現(=言葉など)で表現しているだけです。
そのことが逆説みたいであると言う気はわざわざしません。先に示した通り、経験世界に属している表現で表現することもが、経験世界との接触部分との整合性や因果関係の1つであるだけだからです。


『5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。』
直接には知覚できない物事に対して推測した結果がほとんど合う例が現実での様々な例で在って、そのことによって(=そんな現実であることによって)推測する能力や結果の有効性が上がっていることによって、直接には絶対に全く知覚できないと定義として確定している物事に対しても、その推測する能力や結果の有効性が在るのでしょう。
また、その有効性を共有したり、他者が持っているその有効性に影響されたりすることが、bragelonneさんが言っている「場としてのチカラ」なのでしょう。

因みに、直接には知覚できない物事に対して推測した結果がほとんど合う例は、例えば、1つの赤い球と1つの青い球が入っている箱から1つの青い球が出た場合に、箱の中を推測することです。古典的な論理だと、箱の中を直接には絶対に全く知覚できないので、「箱の中に何が入っているかは分かりません(=分からないと分かります)。」と答えることになります。でも、箱の中に1つの赤い球が入っているという推測の有効性は、その箱や球に対するさらに他の事実や推測の結果や有効性などによって、相互的に上がっていって、今改めて箱の中を見ても、確かに1つの赤い球が入っているだけです。


『6-1』『6-2』
自分や他者の原理(=無根拠な前提)が何であるかは、才能や育った環境などによっているのでしょうね。
そして、原理という規則性は、自己循環や自己適用することもをし得て、より自身の原理の尤度(=尤もらしさ)や有効度を上げていく原理(=自然対数の底の定義の1つなど)もが在るし、自身を否定し続けることの繰り返しで2種類の値で振動し続ける原理(=不完全性定理など)もが在ります。

その2重構造って、俗っぽく言うと、「そう思ったら(=そう言われたら)、そう思えてきた。」みたいなことですよね。
例えば、何かを推測する場合に、数学での補助線を引き当てたように、何かを仮定すると、バッチリはまる場合が在りますね。もちろん、だからと言って、合っているとまでは確定しないですけど。

なので、原理はその原理によってますます尤度や有効度が上がっていく場合もが在って、だからと言って、合っているとは限らないですから、結局は、「自分で考えたり想像したりして、様々な原理を持っていたら良いんじゃない?」っていう結論です。
あと、bragelonneさんに合わせると、「ちゃんと自分の原理であることをも自覚しながら。」ってことでしょう。


因みに、この質問を見て俺が思った「絶対」である例は、この現実をコンピュータによってシミュレーションされた世界であると例えた場合の、そのコンピュータや、そのコンピュータが在る世界です。そう例えると、様々に面白かったり想像が広がっていったりします。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 『2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。』
 でも、経験世界との接触部分(=インターフェイス)との整合性や因果関係からは自由でなくて、経験世界によっています。
 ~~~~~~~
 ☆ この《インターフェイス》は 

 ○ (趣旨説明欄) ~~~~~
 6-1. 《絶対》の二重構造:

  ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この部分を言うと見ます。わが心なる《非思考の庭》です。

 言いかえると 
 ★ 経験世界によっています。
 ☆ というところは けっきょく《経験世界を超えた》非経験の場 またそのチカラによって そのように成っていると見ます。人間の側から はたらきかけることは出来ないと見ます。非経験の場・要するに神のことですが 神がわれわれ人間にはたらきかけて来たときに その声をわれわれは受け容れる。このことによって 《インターフェイス》は成る。こう見ます。


 ★ ~~~~
 『3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。』
 まあ、そうですけど、そのことを俺なりに言い換えると、絶対や無限や永遠を、経験世界に属している表現(=言葉など)で表現しているだけです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ おっしゃるとおりだと思います。
 
 ただし
 ★ ~~~~~
 そのことが逆説みたいであると言う気はわざわざしません。先に示した通り、経験世界に属している表現で表現することもが、経験世界との接触部分との整合性や因果関係の1つであるだけだからです。
 ~~~~~~~
 ☆ ここは 微妙だと思います。というのも 
 ★ 経験世界に属している表現(=言葉など)で表現すること
 ☆ というとき この《経験世界に属している表現》つまり 人間の言葉 これは 神を指し示すときには あくまで代理の表現として用いているというのが じっさいのことだからです。
 神を表わすとき 《絶対=永遠=無限》と言って示すことは あくまで神を仮りに表わしただけだと思われるからです。つまり《神》という言葉でさえ 仮りの表現です。
 仮りの表現なら 非経験の場を指し示しているからには 経験世界に属さないかのように思ってしまいます。けれども 言葉としては すでに経験世界に属しています。それで 逆説的に見えると。
 ★ 経験世界との接触部分との整合性や因果関係の1つであるだけだからです。
 ☆ 《整合性》については分かりますが 《因果関係》については どうでしょう? 《仮りの表現》を用いていることに 因果関係はあるでしょうか?
 経験世界と非経験の場とを区別して それと分かる表現を用いるというのが 整合性だと思いますから 分かりますが 因果関係というのは にわかには分かりません。



 ★ ~~~~~
 直接には知覚できない物事に対して推測した結果がほとんど合う例が現実での様々な例で在って、そのことによって(=そんな現実であることによって)推測する能力や結果の有効性が上がっていることによって、直接には絶対に全く知覚できないと定義として確定している物事に対しても、その推測する能力や結果の有効性が在るのでしょう。
 また、その有効性を共有したり、他者が持っているその有効性に影響されたりすることが、bragelonneさんが言っている「場としてのチカラ」なのでしょう。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これは 或る意味で物語なわけですよね。おとぎ話です。それでも 《非経験の場》と経験世界とのインタフェイスが考えられるというそういう話になっています。
 たぶん これは ひとりの人の・つまりは《わたし》の主観におけるそういう事象としての問題であるように思われます。ここで質問者が トーンダウンするのも おかしな話ですが。


 ★ 因みに、直接には知覚できない物事に対して推測した結果がほとんど合う例は、例えば、1つの赤い球と1つの青い球が入っている箱から1つの青い球が出た場合に、箱の中を推測することです。・・・
 ☆ どうでしょう? ここでうたがうのも おかしな話ですが この例の場合は どうも経験事象という世界の内に限られるようにも思えるのですが どうでしょう?




 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。 
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これの事例というのは――挙げてもらっていますが―― むつかしいのでしょうね。
 ★ 原理という規則性は、自己循環や自己適用することもをし得て、より自身の原理の尤度(=尤もらしさ)や有効度を上げていく原理(=自然対数の底の定義の1つなど)もが在るし、
 ★ 自身を否定し続けることの繰り返しで2種類の値で振動し続ける原理(=不完全性定理など)もが在ります。
 ☆ じつは かなしいかな この事例につきましては なかなかはっきりとは分かりません。それは そのときに 《定義としてのまぼろし(=非思考の庭)》が どこにかかわっているのか。どのように見えているのか。これが 容易には分かり難いところです。
 インタフェイスが しっかりと成っていますか? 対話で浮き彫りになると言っていたのが 力不足です。申し訳ない。ほかの方々で分かる人がいたら どうぞご参加くださって さらに明らかにしていただければさいわいです。よろしく。

 じつは コンピュータの方面も あかるくありません。その例示を出してもらっていますのに。
 ★ 原理
 ☆ これが どうもインタフェイスのこと もしくはその場であるように思いますが。


 がっかりされたかと思いますが すみません。そして ありがとうございます。

 締めのことばがなくなりましたが 前へとすすみたいと思います。

お礼日時:2012/09/10 22:07

俺がそれぞれの言葉をどう用いていたかは、あまり大切なことでないと思っていますし、そのことについて回答して、bragelonneさんが想定していた用い方と同じでない場合に、さらに互いの回答が爆発してしまうかも知れないので、今は要点を明確にしたいと思います。




bragelonneさんが言っている『絶対』について考える場合に大切なことは、そんな『絶対』もが、経験世界から推測や精製した物事や概念である、ことですよね。
で、2重構造って、自己適用して自己増幅することのように、そんな推測や精製した物事や概念もが有効である、ってことですね。
また、そう有効であることになるように助長しているような現実であることもが大切だし、『絶対』についての例えや物語りは、経験世界だけで説明できるってこともが大切ですね。


『そのときに 《定義としてのまぼろし(=非思考の庭)》が どこにかかわっているのか。どのように見えているのか。これが 容易には分かり難いところです。』
つまり、どこが俺の説明のどこと対応しているかってことだと思いますけど、「より自身の原理の尤度(=尤もらしさ)や有効度を上げていく原理(=自然対数の底の定義の1つなど)」の「原理」が、『《定義としてのまぼろし(=非思考の庭)》』に対応していて、「尤度(=尤もらしさ)や有効度を上げていく」という原理という規則性の必然性や結果やさらなる尤度や有効性が、『《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》』と対応しています。
bragelonneさんが言っていることについては俺は理解しているつもりなんですけど、ただその例は、根本では合っていると思いますけど、分かりにくい良くない例だったかも知れませんね。
bragelonneさんのお礼欄を見ていて、別の例を思い出したんですけど、よく在る直角の例えです。直角という概念は在るけど、ちょうど直角である物事は現実に(絶対に)ない、っていう例えを共有した方が良かったかも知れませんね。
因みに、言われてみて、「自身を否定し続けることの繰り返しで2種類の値で振動し続ける原理(=不完全性定理など)」は、『絶対』についての例として良くなかったと思います。ただたんに、自己適用の例であるだけでしたね。


それとも、要点はそうでなくて、『非経験の場・要するに神のことですが 神がわれわれ人間にはたらきかけて来たときに その声をわれわれは受け容れる。このことによって 《インターフェイス》は成る。』という異質な内容もが在りますけど、『絶対』について考察することによって、神について考察したかった、ということでしょうか。
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この回答へのお礼

 でぃーえむあいえむさん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。
 ★☆ 二重構造
 ☆ が むつかしい。と感じました。



 まづ
 ★ 『絶対』について考察することによって、神について考察したかった、ということでしょうか。
 ☆ これは ちがいます。
 ただし 一般に個人の信仰における神は 《絶対》のことだと思いますので 話が早くまた分かりやすくなると思って 神をも出しました。というかたちです。


 ★ 因みに、言われてみて、「自身を否定し続けることの繰り返しで2種類の値で振動し続ける原理(=不完全性定理など)」は、『絶対』についての例として良くなかったと思います。ただたんに、自己適用の例であるだけでしたね。
 ☆ これは正直 論じるほどにはくわしくありません 残念ながら。

 ★ 直角という概念は在るけど、ちょうど直角である物事は現実に(絶対に)ない、っていう例えを共有した方が良かったかも知れませんね。
 ☆ これは つまり《直角》は あたまの中にはありますよね。だとすると

 ○ 精神ないし思考の緑野また密林

 のなかにおける二重構造ではないかと考えるのです。目に見えるかたちとそしてあたまの中の理念のようなものとのです。


 ★ ~~~~~~
 ( a-1 ) 「より自身の原理の尤度(=尤もらしさ)や有効度を上げていく原理(=自然対数の底の定義の1つなど)」の「原理」が、
 ( a ) 『《定義としてのまぼろし(=非思考の庭)》』に対応していて、

 ( b-1 ) 「尤度(=尤もらしさ)や有効度を上げていく」という原理という規則性の必然性や結果やさらなる尤度や有効性が、
 ( b ) 『《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》』と対応しています。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 考えてみれば――よくよく考えてみれば―― ( a-1 )も ( a )のまぼろし(=非思考の庭)とは別であって 《思考の平原》において認識しうるコトガラですよね? つまり( b )の精神の緑野に属している。のではないか? と思ったのです。

 《絶対》は 思考に非ず。だと思うのです。どうでしょう?




 ★ bragelonneさんが言っている『絶対』について考える場合に大切なことは、そんな『絶対』もが、経験世界から推測や精製した物事や概念である、ことですよね。
 ☆ これも けっきょく考えるに ( b )の経験世界におけるものごとを抽象して概念化したもの ですよね?


 というわけで 《絶対》をどう表現して行くか? の旅はつづくように思いました。どうでしょう?

お礼日時:2012/09/11 05:17

こんばんは。



どうしても《非経験》という言葉に引っかかってしまいます。
「《非経験》など存在しない。あるのはただ《未経験》だ」と言いたくなってしまう。
この立ち位置の差は、どうしても、埋めがたい。

言葉の違いは別にして、《非思考》の概念はすんなりと受け容れられるのですが。。。。

僕なら、たぶん
《非経験》───《未経験》
《非思考》───《不可思議》
と、これをもって理論を構成します。
そして、《不可思議》も《経験》で包んでしまう。
これらなば、宇宙の森羅万象はすべて《経験》に包まれてしまう。
なんて狡猾な理論構成!!


☆☆☆
とくに茶々を入れたくなるところはないのですが~、
~~~~~~~~
5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。
~~~~~~~~
の《場としてのチカラ》の意味が僕には不明です。

適当な言葉がうかばないので、《神》と《神ならざる神》という言葉を使いますけれども、
《場としてのチカラ》とは、《神》or《神ならざる神》の現象界・現実界への働きかけ・作用という意味ですか?
たとえば、《表現の自由》という《神ならざる神》が万人に認められた場合、実際にその効力がある、作用を有するというように。
《無限》でもいいのですけれども、《無限》という概念が仮定された場合、思考の対象になり、それ以前は存在しなかった属性の探索などの作用が発生するというように。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん ご回答をありがとうございます。


 いえいえ。《非経験の場》は あくまで想定です。わざわざ《経験世界における因果関係から自由な場》を――つまりは 《絶対》の説明として―― 想定するというかたちです。

 ★ 「《非経験》など存在しない。あるのはただ《未経験》だ」と言いたくなってしまう。
 ☆ 《絶対》は 存在しますか? 
 つまり 絶対=非経験の場は 人間にとってそれが存在するか存在しないかは 分かりっこないのです。そういう想定なのですから。
 
 人間がわざわざ絶対とか無限とか永遠とか不可変性とか――そしてその意味での神とか――を 言葉だけとしてでも 持ったのですから その言葉を定義しておかなくてはならないと思います。さもなければ死語としてしまうかだと思います。





 《未経験》は むろん経験世界に属します。
 では 《非経験》は?

 もし非経験が 経験世界に属さないと言い切ったとしたら そのときそう言った人は 経験世界の果てを知っていると言ったことになります。非経験の場と経験世界との境界が分かったと言っていることになります。
 つまり その境界までは まづ 経験世界です。しかもその境界が 経験合理性で認識出来たとしたら その外というのは 外であるということまでは 認識や思考の対象になります。つまり 《経験世界の外部である》という部分としては 《非経験の場》が 知られてしまった。つまり《経験されてしまった》!?


 非経験の場が 経験された。――これは おかしいです。


 よって 非経験の場は 人間にとってそれが存在するか存在しないか 存在するとしてもどこに・いつ存在するか これらは 分からない。分かるか分からないかが 分からない。――と想定されるしろものです。これが 絶対というものだと考えます。






 次に 《人間にとってそれが存在するか存在しないか 存在するとしてもどこに・いつ存在するか これらは 分からない》というところから その非経験の場は どこにでも・いつでも存在する――つまり 遍在する――という・経験思考としての命題が みちびかれます。



 さらには 触れておられるように
 ★ 《場としてのチカラ》とは、《神》or《神ならざる神》の現象界・現実界への働きかけ・作用という意味ですか?
 ☆ といった《非経験の場と 経験世界との 接触》が考えられて来ます。

 この《インタフェイス》は ニュートリノのごとく場のチカラが経験世界を突き抜けて行くのか / 場のチカラが 場そのものとして経験世界をぜんぶ覆いつつんでいるのか / あるいは 指先でそうっと触れているといった感じなのか・・・だと思われます。それらの全部かも分かりません。

 
 ただし――こちらからの一方的な言い分をならべるかたちになりますが――
 ★ たとえば、《表現の自由》という《神ならざる神》が万人に認められた場合、実際にその効力がある、作用を有するというように。
 ☆ これは・つまりこの公理は すでに精神の緑野に持たれる理念のようなものであり 思考の平原における対象としても捉えられるものですから げんみつには《非経験の場》ではなく 神でも《神ならざる神》でもないと思います。


 しかも 微妙なことには この《表現の自由》等々の《自由》ということは インタフェイスとしてその接触の場において得られる公理なる命題なのだと見ます。つまりは その意味では 神ないし 神ならざる神にかかわっています。つまり その非経験の場のチカラであると言えるかと考えます。


 例の自然法ということではないでしょうか?
 神の法――これは 非経験の場のことであって 人間に分からない――から しかも導かれると想定する自然法です。自然法から もろもろの具体的な人定法がつくられるというかたちのそれだと見ます。
 《自由》ないし一般に公理は 無根拠なのだと思います。







 ★ 《非思考》───《不可思議》
 ☆ は 《言い表わせない》といった形容とともに そのとおりだと思います。

 ただし
 ★ そして、《不可思議》も《経験》で包んでしまう。
 ☆ は 困ります。《非経験の場》を《不可思議》と形容していますから 経験世界に属すものではありません。  

 
 問題は 《非思考・不可思議・非経験などなど》と言い表わしたとき その言葉は・つまり言葉じたいは 経験世界に属していることになる。ということだと思います。
 経験ことばで 非経験の場をあらわしている。ということです。二重構造だと思います。

お礼日時:2012/09/11 05:54

こんばんはです。




☆☆☆
《非経験》───《未経験》
で思い切り突っ込まれてしまった。
深く考えず、ちょっとした思いつきを書くと、思わぬところで墓穴を掘ってしまう。
でもまぁ~、せっかく、
《非経験》───《未経験》
《非思考》───《不可思議》
を提出したんだから、《ねむりねこ》のオツムの赴くままに哲学してみます。



☆☆☆
人間の世界は、最も広い意味での認識によって構成されている。過去、現在の時点において、認識の対象にならなかったもの、なるもの以外は、それは、その人間にとって、ない(と同じことである)。
認識の対象には、理解可能なもの、その構造や仕組みが解明できるものなどと、その方法・手段の欠如などによっていまだ解明できないものと原理的に解明できないものがある。このいまだ解明できない、理解できないものを、便宜的に、《不可思議》なものと呼ぶことにする。しかし、この《不可思議》なものは同時に我々は「理解不能だ。解明できない。不可思議だ」と感じることができる。経験できる。また、認識の対象になっているという意味において、《不可思議》も経験に属するのである。
つぎに、未だ認識の対象にならなかった、そして、現時点において認識の対象にならないものは、経験されていないものなので《未経験》または《未経験》なものと呼ぶことにする。そして、この《未経験》に属する領域は、かつて認識の対象になった、認識の対象になる人間の世界の解明とともに次第に狭められて行く。しかし、それでも、人間という存在、その認識や知性の不完全さを考える時、どうしても経験されない《未経験》に属する領域が残るであろう。それは《非経験》の領域と呼ぶことができるかも知れないが、その《非経験》の領域の存在は、我々人間にはもはや認識の対象を越えたものであり、その《非経験の場》が存在することを知ることことはもちろん、推測することもできない。それ故に、(人間の)世界には、《非経験)の場)は存在しえない。それがあったとしても、我々の認識とは無縁の存在、無関係な存在なのである。

ということで、
bragelonneさんのおっしゃる通り、《非経験》は《経験》をすることができません。
ただ、同時に、《非経験》の場は、あったとしても、人間の認識の対象にならないので、その意味において《ない》と同じではありませんか?

人間が《神》と名づけた瞬間、《神》の外延や内包は曖昧ながらも決定されます。のちに外延や内包の拡大は可能ですが、外延や内包の領域は思惟の対象内です。それはさらに、解明された、解明可能性を有すると意味での《可思議》な領域と、今は解明されていない、解明可能性を有さないという意味での《不可思議》の領域に分類できます。しかし、《不可思議》の領域は、認識の対象になった、「不思議だ」と感じられるという意味で《経験》の領域に属します。つまり、《神》は経験できるということになります。
また、皮肉なことですが、《神》と名づけられた瞬間、つまり対象化された瞬間、それはもはや本来の意味での神ではなくなってしまっています。そして、人間は、認識の対象にされた《神》の根拠を《非経験》にではなく《不可思議》の中に求めているのである、という結論に達しました。

レベルの低い宗教だ、アニミズムだという批判もあるでしょうが、
原始の人間、古代の人間は、不可思議な自然現象などを神と名づけました。《火の神》、《雷の神》でげしょ。《非経験》や《未経験》の中に、神は存在していないんですよ。今もそうなんじゃないでないでしょうか。そして、これからも。。。。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 さっそく直接の反応をつづってまいります。

 ★ 《不可思議》も経験に属するのである。
 ☆ これは 表現の問題です。定義の問題です。《未経験》の中で 不可知だ・解明できないと分かったばあい それを《不可思議》と表現することは あり得ます。 
 ただし 《非経験の場》としての不可思議のことではない。同じ言葉を使うことがあるという問題です。


 このとき 経験世界における《不可知》は 不可知と表わしてよいとして 非経験の場にかんしては 《非知》と言うとよいかと思います。
 知るべからざるものとは 知り得ないと知ったかたちになるのですから 経験事象に属すことになります。



 ★ ~~~~~~
 (あ) 《非経験》の領域の存在は、我々人間にはもはや認識の対象を越えたものであり、その《非経験の場》が存在することを知ることことはもちろん、推測することもできない。
 (い) それ故に、(人間の)世界には、《非経験)の場)は存在しえない。
 (う) それがあったとしても、我々の認識とは無縁の存在、無関係な存在なのである。
 ~~~~~~~
 ☆ (あ)は そのとおりだと思います。
 (い)および(う)は マチガイです。一部の真理をのみ表わします。

 (あ)で《思考・認識を超えている。認識の対象であることを超えている》というのですから その《非経験の場》は (い)のように《存在しえない》という認識は持ち得ないのです。

 もちろん 《存在する》ということも言えません。

 よって 人間は この《非経験の場》を(つまり《絶対》を) 《それが存在するとも存在しないとも分からない。分かるか分からないかが分からない》という定義で想定します。

 なぜわざわざ想定するのか?
 幸か不幸か そういう絶対とか無限とか神とかいう言葉を持ってしまっているからです。それらをどういう意味で用いるかを 哲学は 決めて行きます。


 (う)も 厳密には違います。《存在するか存在しないか分からない》非経験の場は それがわれわれの経験世界を そのまますっぽり包んでいるかも分からないと言えるからです。
 つまり その場合は 最初の想定から派生する命題として《神の遍在》という見方がみちびかれて来ます。

 ですから
 ★ (う) それがあったとしても、我々の認識とは無縁の存在、無関係な存在なのである。
 ☆ は ことの一面を言い当てただけのものです。《存在しない。認識にとって無縁で無関係である》というのは けっきょくいわゆる無神論の場合です。つまり この場合も 《非経験の場》は 想定されているというからくりになっています。

 つまり 《非経験の場》は それをわが心に受け容れてそこに《非思考の庭》が成ったというとき それをどう呼ぶかは ふたとおりがあります。
 《存在するもの》として受け容れたなら 有神論である。
 《存在しないもの》として受け容れたなら――つまり 有神論の言うところの神を受け容れないなら―― 《無い神》としての《非思考の庭》となります。つまり 無神論というひとつの信仰の形態です。







 こうなると――つまり 雲をつかむ話としての《非経験の場》を 心に受け容れたという段階になると―― 今度は その神(ないし 無い神)は 俄然 親しみをもって迫って来ます。
 ★ ~~~~
 bragelonneさんのおっしゃる通り、《非経験》は《経験》をすることができません。
 ただ、同時に、《非経験》の場は、あったとしても、人間の認識の対象にならないので、その意味において《ない》と同じではありませんか?
 ~~~~~~
 ☆ という認識が そのまま通って行くと同時に――同時にです―― すでにそれを受け容れているなら その心なる《非思考の庭》では 俄然 親しみをおびて あたかも予感するかのように《非経験の場》を経験したと 直感において 思うことがある。こうなります。

 そしてこれは あくまで一人ひとりの主観の内面においてのことです。
 言ってみれば 自己満足に過ぎないようなことであり 独り善がりの出来事でしかない疑似経験であるとなります。
 ひとは 《神を見た》と――その主観の問題として――言うことまでは 自由だとなります。


 すなわち
 ★ ~~~~
 人間が《神》と名づけた瞬間、《神》の外延や内包は曖昧ながらも決定されます。のちに外延や内包の拡大は可能ですが、外延や内包の領域は思惟の対象内です。
 ~~~~~~
 ☆ 《思惟》を《主観――特には直感――》と言いかえると そのとおりのことだと見ます。


 ★ それはさらに、解明された、解明可能性を有すると意味での《可思議》な領域と、今は解明されていない、解明可能性を有さないという意味での《不可思議》の領域に分類できます。
 ☆ これは 違います。つねに《非経験の場》は 《非知》です。《分かるか分からないかが分からない》場です。
 それゆえにも 主観の問題としてなら 《神を見た》と――つまり《分かった》と――表現してみることまでは ゆるされています。


 《主観》の領域という問題が 登場して来ています。
 これは 良心・信教の自由という公理にかかわっていて これはどうしても――その自由の享受としては 二人や三人があつまって感性としてまでいっしょに享受することは出来ない相談だからですが―― 《ひとり》としてのワタシおよびその主観が おもな舞台になる。こうなるはずです。


 


 ★ ~~~~
 また、皮肉なことですが、《神》と名づけられた瞬間、つまり対象化された瞬間、それはもはや本来の意味での神ではなくなってしまっています。そして、人間は、認識の対象にされた《神》の根拠を《非経験》にではなく《不可思議》の中に求めているのである、という結論に達しました。
 ~~~~~
 ☆ ええ。これが 二重構造の問題です。
 《神》という言葉は――それとしての認識をふくめて―― すでに経験世界のものです。言いかえると 経験言葉で 非経験の場のことを 仮りに・代理として 指し示すというかたちになっているし そういう代理表現というかたちを取らざるを得ない。というのが 非経験の場だと思います。

 でも だからと言って 非経験の場が 経験世界の中におさまってしまったということではありません。それを指し示すしるし(記号つまりここでは言葉)が 経験世界のものだというだけですから。



 ★ ~~~~
 レベルの低い宗教だ、アニミズムだという批判もあるでしょうが、
 原始の人間、古代の人間は、不可思議な自然現象などを神と名づけました。《火の神》、《雷の神》でげしょ。
 ~~~~~
 ☆ この原始心性は 《非経験の場》を受け容れたときの《非思考の庭》が ワタシとしてしっかりとした心性ないし知性ではないので いわば到るところにこの・のちに持たれるようになる《非思考の庭》がぼんやりと膨らんだような恰好においてあって 世界のあらゆるものごとに神を見ると言っているのだと見ます。



 よって 《非経験の場》およびそれをわが心に受け容れたとき成る《非思考の庭》は なお有効です。どうでしょう。

お礼日時:2012/09/11 20:59

そんな『絶対』について考えて、より知ったり、より良い表現を得たとして、どう役立つのでしょうか?



2人の老齢の哲学者について偶然に見て感じた印象なんですけど、今までに蓄え続けてきた知識群の整合性を見付けようとしているだけで、提示された問題や目的をどう解決や実現させるかについては、それらの知識群や知識群の整合性がほとんど役立っていないような回答をしている感じでした。

で、もしかしたら、bragelonneさんも、そんな感じに何かの思想や知識に囚われているのかも知れません。
別に、bragelonneさん個人が実体験してしまったどんなかの神秘体験などを説明や表現や理解したいってわけでもなさそうですし…。

でも、最後に、関係しているかは分かりませんけど、それっぽいことを言っておきたいと思います。

「知覚のどこでもなさ」です。「知覚のどこでもなさ」だから、知覚がどこでもないその期間は、その「知覚のどこでもなさ」は知覚できません。知覚がどこかになってから、後で「あ、さっき、知覚がどこでもなかった。」と気付けるだけです。
知覚がどこかである場合にだけ、知覚がどこでもなかったことを知覚し得る、っていう機構です。

それが、俺の精一杯の実体験した神秘体験です。w
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この回答へのお礼

 でぃーえむあいえむさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ それが、俺の精一杯の実体験した神秘体験です。w
 ☆ この内容も むつかしいものですね。
 それでは むつかしいむつかしいと言っていたのでは 質問者がつとまりませんので 精一杯応答するとしますと:

 どうも 意識していなかった状態ないしその時間があるということではないのですか?

 なぜそう見るかと言いますと――むろんあえて推測で応答しているわけですが―― 《知覚》は それが薄れていることはあると思いますが たとえば寝ているときでも はたらいている。と思うからです。
 寝ているときに蚊に刺されると痒くなって意識がめざめます。だからです。

 とんちんかんなことを言ったとしたら ごめんなさい。




 ★ そんな『絶対』について考えて、より知ったり、より良い表現を得たとして、どう役立つのでしょうか?
 ☆ 特には欧米あるいはイスラームの人びととコミュニケーションをとるとき 断然有効にはたらきます。それらの人が書いた本を読むときに 効果があります。

 さらに言うとすると その《絶対》という概念を駆使して本を書いているその内容について われわれ日本人が批評するというような場合 けっきょくこの《絶対》のことを知らないで評価をしていたとしても ほとんど用を足しません。無理です。
 
 そういう速効的にして身近なところで役に立つ場面があるというわけです。

 もう一点付け加えますと ブディズムの解釈の問題にも有効です。
 《絶対》の概念で切って行くと ずばり信仰がどうで ブディズムは無神論で・・・という見方が明らかになって来ます。


 そんなところでしょうか。

お礼日時:2012/09/11 21:13

トンチンカンな答えかもしれません。

ご容赦を。

bragelonneさんの非経験のモノをいかにして知覚するか ですが 私は 一度(瞬時一過性)経験し そこで知覚するのではないかとおもうのです。言葉か 視覚か 触覚か とにかく 外部からの情報を 人間のセンサーのいずれかを通し 最後に脳内知覚細胞活性化さす瞬時一過性の現象をさすことと思うのです。瞬時一過性は非思考と思うのです。瞬時ではなく長時間現象になるとそこには思考が働き 通常の経験と同じ知覚が働くとおもうのです。

他方、非経験を 想像することは 勿論可能ですが それは センサーを通していないのです。重要なことは その時 比較的長く脳は働き 普通の思考となると思うのです。勿論、非経験を思考することは 意味のあることであって 思考結果を言葉として生かし 人間生活を活性化することは可能です。例えば、神とか絶対とか 言葉で説明できるものは思考の結果でしょう。その非経験思考の言葉が、現実繰り返し現象が起きる世界で意味をもつ言葉として理解されるとき 言葉の二重構造と呼ばれるのかもしれません。また 瞬時一過性経験をトリガーとして神思考に至る ということは よくあることなのでしょう。

この非経験の論理思考の中で原理(公理)の定義(堂々めぐり)は、その定義はそれ以上は考えても意味がなく 意味のない思考となります。これは 思考停止としてとらえ 特殊な思考であって 一過性脳活性化の非思考とは違っているように思われます。

そこで 話を飛躍させれば 神(の存在)を信じる場合 言葉(定義)を信じるのか 一過性経験を信じるのか の議論になるように思うのですが いかがでしょうか。

以上 失礼しました。
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この回答へのお礼

 おうけい9608さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 けっきょく 二重構造なんですよね。やっかいなのは。
 次の項目をその説明をおぎなって かかげます。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 6-1. 《絶対》の二重構造:

 [ゆめ]:《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠

 [うつつ]:《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:
     因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合にすら
    用いられることがある。
     たとえとして都合がよいのだと思われる。

     これは よく言われるところの《神の摂理》や《宇宙の法則》と
    いった用い方のことです。
     

 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 

 [ゆめ]:《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と

 [うつつ]:《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神の緑野ないし思考の平原また密林)》

 との《二重構造》を呈しています。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ よく考えると 《非経験の場》なる神を 《摂理》や《宇宙の法則》だとかと言いかえるのは それらは科学によって認識されうるのならば ほんとうは マチガイである。かと思われます。
 でも《宇宙の根本原理》だとかとも言われたりします。

 
 ★ そこで 話を飛躍させれば 神(の存在)を信じる場合 言葉(定義)を信じるのか 一過性経験を信じるのか の議論になるように思うのですが いかがでしょうか。
 ☆ これについて考えてまいります。

 1. ★ 神(の存在)を信じる場合
 ☆ と言った時点で じつは《神》についてそして《信じる》について その定義が必要になっています。
 つまり何が言いたいかと言うと その定義をすれば 
 ★ 言葉(定義)を信じるのか 一過性経験を信じるのか 
 ☆ などの問いに おそらくすでに 答えているものと思います。
 《非経験の場》という想定事項を扱うというのは そういうかたちになり そういう問題であると思うのです。揚げ足取りにそっくりで 申し訳ないのですが。


 2. ここで質問者なりの定義を述べます。

 ○ 《非経験の場》を わが心に受け容れること――神の名をそのまま受け容れること―― そうするとわが心に伸びがあたかも現われ 同じくあたかも窓が出来たかのごとく明けが現われたかに思う。これが わが心に非思考の庭が成ったという事件であり これを《信じる》とよぶ。


 3. すでにこの定義から横着にも逆に いまの問いの中身を吟味していきますが: 
 ★ 言葉(定義)を信じるのか 
 ☆ これは 《言葉ないし 言葉による定義》は 経験事象ですから 《非経験の場》ではない。それは 信じるのではなく 考えるの対象である。

 ★ 一過性経験を信じるのか 
 ☆ 一応の答えは いかに一過性といえども経験であるからには 非経験の場ではなく やはり信じる対象にはならない。


 4. ただし《一過性の経験》というのは 《ひらめき》のことらしい。

 ところが わが心にその伸びとしてまた明けとして非思考の庭が成るとすると ヒラメキはまさにその庭〔なる動態〕において起こる直感や直観のことである。
 ならば 非経験の場とつながっていると見られる。
 ただし《一過性の経験を信じる》のではなく 非思考の庭が成ると そこにヒラメキという一過性の事件が起きることがある。という順序であるものと思われる。
 (もっとも このようなヒラメキの事件をあたえられると その経験がわが《非思考の庭》なる動態についての確信をふかめてくれることがある。と思われる)。

 5. 次のように観察された内容は ヒラメキのことを語る認識であると思われます。
 ★ ~~~~
 この非経験の論理思考の中で原理(公理)の定義(堂々めぐり)は、その定義はそれ以上は考えても意味がなく 意味のない思考となります。これは 思考停止としてとらえ 特殊な思考であって 一過性脳活性化の非思考とは違っているように思われます。
 ~~~~~~~ 
 ☆ 《一過性脳活性化の非思考》なるヒラメキの庭は 一般に《公理》を直感において受け留める庭(もしくは 《とき》)であるだろうと。
 いちど得られた公理は すでに初めの直感から言葉で表現され文章となっているので これは 思考の対象とすでになっている。

 6. ★ ~~~
 言葉か 視覚か 触覚か とにかく 外部からの情報を 人間のセンサーのいずれかを通し 最後に脳内知覚細胞活性化さす瞬時一過性の現象をさすことと思うのです。瞬時一過性は非思考と思うのです。
 ~~~~~~~~
 ☆ ということだろうと思います。つまり ヒラメキがです。
 非思考の庭に起きる瞬時一過性のできごと。


 7. ★ ~~~~
 その非経験思考の言葉が、現実繰り返し現象が起きる世界で意味をもつ言葉として理解されるとき 言葉の二重構造と呼ばれるのかもしれません。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《非経験思考》というのは 《非経験の場》を受け容れたあと 非思考の庭に起こるヒラメキ事件のその内容について 直感やそのイメージから 言葉にして捉えようとする思考としてのいとなみ。のことだと見ます。
 それが 意味をもって表現されえたとき ワタシの主観なる世界には ヒラメキの源泉とも呼ぶべき《ゆめ・まぼろし》とそしてすでに《意味のある言葉にして表現されたウツツ(現)》との二重構造が出来たかに思われる。


 でしょうか?

 ふうう。おあとがよろしいようで。

お礼日時:2012/09/12 02:46

bragelonneさん、こんばんは。




「絶対」て、無理なのです。
「確からしさ」ということが言えるに過ぎません。


「ヨーロッパの荘厳さ」も、市民(社会)革命や宗教改革の前には、どうだったでしょうか。
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この回答へのお礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 「絶対」て、無理なのです。
 「確からしさ」ということが言えるに過ぎません。
 ~~~~~~
 ☆ 微妙にちがうと思いました。

 ○ (《絶対》とは)~~~
 1. ★ 「絶対」て、――無根拠なることですから―― 無理なのです。

 2. だけなのです。基本は。《確からしさ》も 基本としては ないのです。

 3. しかも無根拠なるものは 逆説的にだと思うのですが どういうわけか 《経験合理性によってものごとの根拠を問い求めるこの経験世界に対して あたかも逆襲をして来る》とさえ思われます。

 4. つまりは経験世界をまったく超えているにもかかわらず その《非経験の場》のチカラは この経験世界をすっぽり覆い包んでいるとさえ 考えられます。《絶対》というのは――想像の世界においてだとしても―― そういうものであるようなのです。

 5. むろんそのときの《逆襲》というのは――わざと言ったのですが―― むしろそれは《愛》だとさえ捉えられることもあるようです。

 6. そうしてこの〔神の〕愛は 《確からしさ》などというものではなく まったく雲をつかむようなしろものです。何が何だか分かりません。

 7. 風は 気ままに吹くというように ときには―― 一般には試練だと受け留められているようですが―― かえって人を窮地に落とし入れることさえあるかに思われます。このように不利な場合には 余計に《確からしく》思えてくるから 不思議です。

 8. いっそのこと 慈悲とか愛とか 人間にはおこなうのが無理なことは いっさいわれわれは語らないということにしたら どうなのか? 慈悲とか愛とかいう言葉を 死語にしてしまったら どうなのか? 神という言葉も じんるいの言語から無くしてしまおうと提案したら どうなのか?


 9. もし出来ないのなら 哲学は 出来るかぎりにおいて それらの定義をしておく責務を負っている。のではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ 「ヨーロッパの荘厳さ」も、市民(社会)革命や宗教改革の前には、どうだったでしょうか。
 ☆ このヨーロッパの荘厳を 摂取すべきは摂取して われわれは自分たちの社会の歴史的な伝統にもとづき 乗り越えて行かねばならない。しかもその日本人による乗り越えは 意外と世界にとって有効で有益となるかも知れない。

 長所は 唯一神体制のあたまの中に巣食う頑固さから自由であること。
 短所は ブディズムをいまだにそれが何であるかが捉えられないでいるそのあいまいさ。あいまいであることのほうが ただしいとでも思っているそのモヤモヤ・ワールド。
 どちらに対しても 《絶対》とは何かを明らかにしてすすむなら 道が開けると思われる。のですが どうでしょう?

お礼日時:2012/09/12 10:43

真の全体と唯一者、といった具合に量的な意味と質的な意味に分けたほうがよいかも。

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この回答へのお礼

 ぼけゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ううむ。《質と量》ですか。しかも 《絶対》ということについて。


 あぁ。えぇ。《絶対》のいわゆる属性として どういう中身が考えられるか。ここから捉えて行けばよいのでしょう。


 1. 《絶対》について それは思考に非ずというにもかかわらず その特性ないし属性が 思考においてみちびかれてくる。ことがある。

 2. それは 《絶対》が 《相対》なる経験世界を ひょっとすると覆っているからかも知れない。

 3. 《絶対》:
   [擬人化]→ 絶対者
   [その質の形容]→ 唯一者
   [その量の形容]→ 真の全体

 4. つまりは [質の形容]としては

    真理・《ひとり満ち足りているもの》・全知全能・至高の愛・霊・・・



 といったところでしょうか。
 形容語については 議論のあるものもあるようです。
 とりあえず 質問者としてここまでとします。

お礼日時:2012/09/12 10:54

No.6です。

蛇足ですが。

お礼欄の 説明ありがとうございました。一つを除いては是と思います。
それは 言葉は信じるものではなく 考えるものである という ご指摘
です。私は ほとんどの言葉は ご指摘の通りだ と思います、が
思考のはてに 信じるしかない という場面があると思うのです。
それは ヒラメキ一歩手前の言葉の領域です。ヒラメキの定義の程度
によるのかも知れません。が脳内には言葉が体のハードとして残っている
状態です。

他方、電撃的にヒラメク場面は言葉はない と思うのです。ご説明の
通りと思います。

以上です。失礼しました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~
 ・・・私は ほとんどの言葉は ご指摘の通りだ と思います、が
 思考のはてに 信じるしかない という場面があると思うのです。
 それは ヒラメキ一歩手前の言葉の領域です。ヒラメキの定義の程度
 によるのかも知れません。が脳内には言葉が体のハードとして残っている
 状態です。
 ~~~~~~
 ☆ これは 判断がむつかしい。とまづ思いました。

 というのも 一般にヒラメキを得たというとき それは案外 言葉をも伴なっていることがあると思うからです。
 あるいは 言葉が その一瞬ののち 伴なわれているのを知る。と言いますか ヒラメキと分かったときには すでに何らかの言葉による了解が得られていて やっとそれがヒラメキだと分かった。というような情況ではないかとも思います。


 つまりむしろ
 ★ ヒラメキ一歩手前の言葉の領域
 ☆ なら すでにヒラメキにつながっている。かも知れません。つまりあるいは
 ★ ヒラメキの定義の程度によるのかも知れません。


 とまづは 思いが浮かんで来ました。
 そして さらに考え直したとき こう思いました。

 つまり 直感ないし直観は イメージなり あるいは何かあるようだといった感じなりがあるだけではなく 何がしかの言葉も伴なわれているのかも知れないと思うと同時に――そう思うと同時にです―― その《言葉》は ただしやはりヒラメキのほうにくっついているのであって どう考えても《思考》によって得られたものではない。ということ。

 言いかえます。
 ヒラメキには 思考で理解されうる言葉が伴なっている。そういう場合もありうる。
 ただし 問題は その言葉は 思考によってたどり着いたものでは 断じてない。


 こういうことではないでしょうか?




 でも さらにいい考えがあるかも知れません。

 いまは このように考えました。どうでしょう?

お礼日時:2012/09/12 13:18

こんにちはです。


No.4のお礼にあるご指摘への対する反論です。



☆☆☆
~~~~~
 ★ 《不可思議》も経験に属するのである。
 ☆ これは 表現の問題です。定義の問題です。《未経験》の中で 不可知だ・解明できないと分かったばあい それを《不可思議》と表現することは あり得ます。 
 ただし 《非経験の場》としての不可思議のことではない。同じ言葉を使うことがあるという問題です。
~~~~~
《不可思議》を
 この(認識対象の)いまだ解明できない、理解できないものを、便宜的に、《不可思議》なものと呼ぶことにする。
と定義しています。
《未経験》の領域は《不可思議》の領域とみなさいという立場をとっています。
《不可思議》と感じるものは認識の対象だけであって、認識の俎上にのぼっていないものを《不可思議》と感じることはできない、と、この理論では考えています。



☆☆☆
 ★ ~~~~~~
 (あ) 《非経験》の領域の存在は、我々人間にはもはや認識の対象を越えたものであり、その《非経験の場》が存在することを知ることことはもちろん、推測することもできない。
 (い) それ故に、(人間の)世界には、《非経験)の場)は存在しえない。
 (う) それがあったとしても、我々の認識とは無縁の存在、無関係な存在なのである。
 ~~~~~~~
 ☆ (あ)は そのとおりだと思います。
 (い)および(う)は マチガイです。一部の真理をのみ表わします。

======
ご指摘の通り、今回、提出した《未経験》─《不可思議》理論は、真理の範囲を敢えて狭めています。
それは、
 人間の世界は、最も広い意味での認識によって構成されている。
 過去、現在の時点において、認識の対象にならなかったもの、なるもの以外は、それは、その人間にとって、ない(と同じことである)。
という立場をとっているためです。
《存在する》《存在しない》の外延は《経験》領域内です。
 (い) それ故に、(人間の)世界には、《非経験)の場は存在しえない。
は、それ故の結論です。
 (う) それがあったとしても、我々の認識とは無縁の存在、無関係な存在なのである。
は、(い)を言い換えただけです。


======
~~~~~~
 よって 人間は この《非経験の場》を(つまり《絶対》を) 《それが存在するとも存在しないとも分からない。分かるか分からないかが分からない》という定義で想定します。

 なぜわざわざ想定するのか?
~~~~~~
今回提出した《未経験》─《不可思議》理論では、
想定された瞬間、それは認識の対象になった、《未経験》が《経験》に変わった、《経験》領域が拡がった、という見方をします。
《非経験の場》に属するものが、仮定的でも認識の対象になった場合、《経験の場》においては《可思議》か《不可思議》のいずれかだけです。と同時に、「それは本来的に《非経験の場》に属していなかった」とされます。
(拡大された《経験領域》に存在しないものは議論をしても意味がない。捨ててもいいし、《未経験の場》に戻してもいい。《経験》領域の理解・解明が進めば、それは再び認識の対象になるに違いない。)

というような理論の組み立て方をしています。



☆☆☆
~~~~~
 ★ それはさらに、解明された、解明可能性を有すると意味での《可思議》な領域と、今は解明されていない、解明可能性を有さないという意味での《不可思議》の領域に分類できます。
 ☆ これは 違います。つねに《非経験の場》は 《非知》です。《分かるか分からないかが分からない》場です。
 それゆえにも 主観の問題としてなら 《神を見た》と――つまり《分かった》と――表現してみることまでは ゆるされています。
~~~~~
《非経験の場》は《非知》です。それ故に、それは認識の対象になりません。仮定であれ何であれ、認識の対象になりうるものは、《非経験の場》に属していない。それは、認識の対象以前に《未経験》の領域に属していたものに過ぎません。
《非経験》は「経験できない」ことをもって定義される。《非経験》のものがどうして《経験》されようか!!


======
~~~~~
 それゆえにも 主観の問題としてなら 《神を見た》と――つまり《分かった》と――表現してみることまでは ゆるされています。
~~~~~
これはその個人の経験的事象の話なので、許されます。
体験者Aがその経験を他者Bに話せば、間接的ながら他者も経験をしたことになるので、Bの《経験の領域》が拡大されます。そして、Aのその話が蓋然性を有していなければ、Bは《神を見た》という話を信じないだけです。《神を見た》と「《神を見た》という話を信じない」は矛盾しません。
Bはおそらく「Aは神を見ていない」と結論を下すでしょう。しかし、《未経験》─《不可思議》理論では、「Aが《神を見た》」ことの真偽を判断するAの話の情報が欠如していた、検証する方法・手段がなかったわけなので、これは本来《不可思議》のカテゴリーに分類されるべきものです。
(思いつきと、それに基づき急ごしらえした理論。そろそろ理論の破綻?。。。。)
また、Aは《不(可)思議》な体験をしたと実感するでしょう。そして、自分が《神を見た》という経験に合理的な説明が与えられない、解明できない。Aも《神を見た》という事実を《不可思議》に分類するでしょう。
直接、間接体験の違いはありませんが、Aが《神を見た》ことは、AとBにおいて同様に《不可思議》のカテゴリーに分類されるので、矛盾も生じません。
したがって、主観の問題ではない。真偽を判定する情報と方法・手段の欠如にすぎない。
(苦しい。すでに詭弁の域か。。。。
でも、提出してしまったのだから、正々堂々と最後まで防戦につとめよう!!)



☆☆☆
ということです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 《不可思議》と感じるものは認識の対象だけであって、認識の俎上にのぼっていないものを《不可思議》と感じることはできない、と、この理論では考えています。
 ☆ こちらのほうが筋がとおっているようです。
 というのも わたしも 《不可知》を経験世界に 《非知》を非経験の場にそれぞれ当てはめているからです。
 つまり《不可思議》は 《思議》を《知》に入れ替えるだけの同じ概念としなければならない。こう帰結されます。
 おっしゃるとおりでした。

 たぶん――では何故 非経験の場のほうに対応させたかと考えてみますと―― 不可思議と言えば 一般に《なぞ》という意味があるぢゃないですか。そしてわたしは よく《非経験の場》を 《ナゾの何ものか》と言ったりしていました。このゆえだったと思いました。
 いづれにしましても 筋のよいほうで用語はととのえたいと思います。





 ★ ~~~~~
 ご指摘の通り、今回、提出した《未経験》─《不可思議》理論は、真理の範囲を敢えて狭めています。
それは、
 人間の世界は、最も広い意味での認識によって構成されている。
 過去、現在の時点において、認識の対象にならなかったもの、なるもの以外は、それは、その人間にとって、ない(と同じことである)。
 という立場をとっているためです。
 ~~~~~~~
 ☆ 分かりました。別様の理論構成だというふうに捉えます。質問趣旨の理論構成としての観点からの物言いでした。
 この観点の違いによる行き違いは 次のことがらにも見られるようです。



 ★ 《非経験の場》に属するものが、仮定的でも認識の対象になった場合、《経験の場》においては《可思議》か《不可思議》のいずれかだけです。と同時に、「それは本来的に《非経験の場》に属していなかった」とされます。
 ☆ これは 観点の違いから受け留め方で違いが出ていたようですが このようにうかがうと 重なる事柄もあると分かりました。
 すなわち
 ★ 《非経験の場》に属するものが、仮定的でも認識の対象になった場合、・・・「それは本来的に《非経験の場》に属していなかった」とされます。
 ☆ つまり 表現が少し違うだけになります。つまり 《神》として想定していたものが 認識しうると分かったばあい それは もともと神ではなかったことになる。という具合いです。




 ★ 《非経験》は「経験できない」ことをもって定義される。《非経験》のものがどうして《経験》されようか!!
 ☆ ここは 趣旨説明欄のたたき台としての理論構成から行けば 別の捉え方をしています。
 
 ○ 《非経験の場》 ~~~~~~
 これは 経験世界における因果関係から自由な領域として想定し設定する。
 
 ゆえに その存在があるのか無いのか いっさい人間には分からない。

 というその意味は 人によっては その主観において 《非経験の場》が存在すると言う人もいれば いや《存在しない》と言う人もいる。

 もしこの非経験の場をおのれの心に受け容れたときには 存在派と不在派とのふたつに分かれるはずである。

 すなわち 人なる存在における心としての《非思考の庭》では 神はある派と 神は無い派とのいづれかの《信仰》形態が現われる。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 詭弁そのものになりますが 不在派の場合というのは 《非経験は 経験され得ないというかたちで――認識し切ったからには―― 経験し得た〔とその主観の内で思っている〕》のだと理解されます。


 いえいえ。何のことはない。その同じことを 次のように述べられています。  
 ★ ~~~~
 体験者 A がその経験を他者 B に話せば、間接的ながら他者も経験をしたことになるので、B の《経験の領域》が拡大されます。そして、A のその話が蓋然性を有していなければ、B は《神を見た》という話を信じないだけです。《神を見た》と「《神を見た》という話を信じない」は矛盾しません。
 ~~~~~~~
 ☆ 別の言い方では こうだと思います。
 C なる人が 自分の神は 《いわしのあたま》だと言います。そしてそれは 自由です。良心・信教の そして表現の。
 ところがただし その C が 神は じっさいの魚のその部分だと言ったとしたら それは 冗談でしかありません。《経験事象》が《非経験の場》だと言ったことになりますから。
 主観の問題だという意味で 例示を添えました。


 A B ふたりの話のつづきです。
 ★ ~~~~~~
 B はおそらく「 A は神を見ていない」と結論を下すでしょう。しかし、《未経験》─《不可思議》理論では、「 A が《神を見た》」ことの真偽を判断する A の話の情報が欠如していた、検証する方法・手段がなかったわけなので、これは本来《不可思議》のカテゴリーに分類されるべきものです。
 ~~~~~~~~
 ☆ これは――つまり ねむりねこさんの理論構成の仕方が ここでようやく分かりました というところですが―― けっきょく《無神論》派の思考形式なのだと思いました。
 だって《非経験の場》は 《無い》というのですから その《非経験の場》を示す言葉――このばあい 神――を出されても その表現の自由はみとめたとしても その内容にかんしては けっきょく《未経験》―《不可思議》のカテゴリに入れて捉えることになる。
 こういうことだと思いました。

 たぶん 《神を見た》という A さん〔やほかの人びと〕と同じ自由という空気を共有しようと思えば そのA さんの見神体験は B さん自身にとっては《無い神》のカテゴリに入るとしてもらうとよいのだと思います。つまりは 《不在派としての 非経験の場》なるカテゴリであると。




 《神とは 人間にとって 分かるか分からないかが分からない非経験の場である》 この命題は まだ生き残ります。手前味噌ながら。

お礼日時:2012/09/12 18:37

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