・・・思います。そのことをめぐって 問います。
おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。
すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。
たたき台です。
1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。
1-1. その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。
2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。
2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。
3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。
3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。
4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。
4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。
5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。
5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。
5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。
6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。
6-1. 《絶対》の二重構造:
・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠
・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果
関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に
すら用いられることがある。
たとえとして都合がよいのだと思われる。
6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。
以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。
ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。
● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~
近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。
ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・
むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。
しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)
http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si …
~~~~~~~~~~~~~~
No.18
- 回答日時:
No.17
- 回答日時:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%BF%E5%BA%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%92%8C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE% …
http://www.nct9.ne.jp/poporu/18.html
▲ 絶対王政 ~~~~
(ぜったいおうせい、英語: absolute monarchism)は、
王が絶対的な権力を行使する政治の形態を指す。絶対主義や絶対君主制とも呼ばれる。
▲ 湿度 ~~~~~
(しつど、humidity)とは
大気中に含まれる水蒸気の量や割合のこと。湿度にも数種類の指標があるが、一般的には相対湿度を意味し、気象予報などで使用されている。
一般的に相対湿度(relative humidity)とは、ある気温で大気中に含まれる水蒸気の量mw(重量絶対湿度)を、その温度の飽和水蒸気量mwmax(重量絶対湿度)で割ったもの(単位:%)である。
▲ 総和 ~~~~~~
数学において、総和(そうわ、summation)とは
与えられた数を総じて加えることである。
§ 概説
有限個の数を加えるためには2つの数を加えるという操作を帰納的に繰り返せばよく、このとき数を加える順序は気にする必要もない。一方で、無限個の数を加えるということはそれほど自明な操作ではない。18世紀以前には、無限個の和に対しても有限和と同じように、加える順序について放漫に扱われる傾向にあり、奇妙な矛盾を結果としてみちびいてしまうこともたびたびあったようである。
無限和についての正しい取り扱いは、ディリクレ、リーマン、コーシーといった数学者によって極限の概念が整備される19世紀を待たなければならなかった。
▼ 絶対値 ~~~~~~~~~~
数学において、絶対値(ぜったいち、英語: absolute value)は
数の「大きさ」の概念を与える規準の一つである。その数が 0 からどれだけ離れているかを知ることができる。
▲ 絶対零度 ~~~~~~
(ぜったいれいど、Absolute zero)とは、
絶対温度における 0 度で、0 Kと表される。セルシウス度で表せば -273.15 ℃、ファーレンハイト度で表せば -459.7 °Fである。
熱力学では最低温度。統計力学では 0 K未満の負温度が存在する。
▲ 絶対主義 ~~~~~~~
(ぜったいしゅぎ、absolutism)
・ 哲学上で、絶対的な存在や、絶対的な価値・基準の存在を認める考え。
・ 政治上で、絶対的な権力を振るう体制。独裁政治や、ファシズムなどがあり、立憲主義とは対立概念にあたる。狭義では絶対王政、絶対君主制を指す。市民革命の前夜まで続く体制。社会発展という観点からみると封建社会の最後の段階。
・ 美術上で、抽象性を徹底した絵画の一形態。⇒シュプレマティスム
・ 俗に、単一の価値観のみを絶対化する考え。「○○絶対主義」のように用いる。
▲ 絶対評価 ~~~~~~~~~~~
(ぜったいひょうか)は、
評価のうち、特定の基準に基づいて絶対的に評価する方法。
教育分野での絶対評価について:
絶対評価は生徒の成績を評価するにあたって、他の生徒の成績を考慮に入れず、生徒本人の成績そのもので評価しようとするものである。
絶対評価には、到達度評価と認定評価のふたつがある。
▲ 相対参照と絶対参照 ~~~~~~~~
数式を入力するセルの数だけいちいち式を入力していては効率が悪い!そんな時どうするか?
セルに入力した数式も文字データや数値データと同様にコピーして使用することが可能です。実際に表で
計算をする場合にはセルの数値を用いて計算式を作成するよりも、セル参照で指定する方が一般的です。
セルの数値で数式を作成すると、数式の参照元データが変わっても変更されたデータで再計算が出来なく
なりますが、セル参照で数式を作成しておけばセルの数値が変化してもそれに合わせて再計算出来ます。
ここでは数式をコピーする際に必ず発生する相対参照と絶対参照について説明してゆきます。
~~~~~~~~~~~~~~~
No.16
- 回答日時:
テオーシス 神化
という思想もあるようで、
ケノーシス 自己無化 と組み合わせると
ケノーシスによって自己を無にした者は
無なる神へとテオーシス 神化 によって一体となる。
このキリスト教式梵我一如は
どうやら修道士たちの思想に見られるようです。
有と我ではなく、
無と無我が一体となると考えるのが特徴ではないでしょうか。
参考にエックハルト。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4% …
ご回答をありがとうございます。
▼ (エックハルト) ~~~~
§ 教義
神との合一を、そして神性の無を説く。
「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。
さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。
神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、
名前無き無なることを理解するであろう」
このようなネオプラトニズム(新プラトン主義)的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった。
~~~~~~~~~~~
☆ 《神性》の《無》ですか。神性の無なんですね?
▲ まだ存在しない存在 / 名前無き無なること
☆ わっかんねえや。
《見えざる神(隠れたる神) デウス・アブスコンディトゥス》なのかなぁ。
エックハルトは この説明によると けっきょく《聖道門》と《易行門》のうちの前者すなわち 自力であるように思えます。
早い話としては 《ハカラヒ無き》が 信仰だと思うのですが
自己から離れ 神の自己に溶け込め
といったところは ハカラヒによっているように見えます。
エックハルトは 《自力》が勝ち過ぎなような神秘思想なんですかネ。
★ ケノーシスによって自己を無にした者
☆ これも 自分の能力と努力とでニルワ゛ーナに達したと言っているような感じを受けます。
おまけに
★ 無なる神へとテオーシス 神化 によって一体となる。
☆ のですね? 自由自在に天がけりして みづからのチカラでアマアガリをするような感じですが 果たして どうなんでしょう。
★ ~~~~~
有と我ではなく、
無と無我が一体となると考えるのが特徴ではないでしょうか。
~~~~~~
☆ ん?
○ ~~~~~
ブラフマン(梵天)とアートマン(我)ではなく
《無なる神》と《ケノーシスを終えた無我=アン-アートマン》が一体となる・・・・
~~~~~~~
☆ですか。
★ ~~~
このキリスト教式梵我一如は
どうやら修道士たちの思想に見られるようです。
~~~~~
☆ マイスター・エックハルトは 《異端宣告》を受けたとありますが 修道士らのあいだで流行ったのでしょうか。
何だか分かったような分からないような。つまり《絶対》をどう位置づけているのか です。《無なる神》としてでしょうが。
No.15
- 回答日時:
おはようございます。
☆☆☆
《無》ですか。。。。
これは仏教というよりも老荘ですよね。
とふっておきながら、僕の老荘理解はかなり怪しいので、こっちはパス。
ヴェーダやウパニシャッドでは、《無》は、《有・sat》の否定概念である《非有・a-sat》ですね。この《非有》がけっこう曲者。これは、《虚無》ではなく、物質などを生み出す力をもっています。
《空》の元々の意味は、Wikipediaに
『サンスクリット: शून्य, śūnya(シューニヤ)は、śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という意味である。』
とある通り、
空は「あったものがなくなった」、そんなイメージです。ですから、○○は空といったら、心の中にあった○○がなくなった、除去されたという意味です。スッタニパータかダンマパダのどちらかに《空》という言葉が出てきますが、その意味で使われているようです。『般若心経』にある《色即是空・空即是色》の《空》の意味ではありません。
で、『般若経』の《空》ですが、
『般若経』の「○○は空」という記述は、ぜ~んぶ、禅定・毘鉢舎那(びばしゃな)の世界の話です。『般若経』は、元々は、哲学のための経典ではなく、瞑想・禅定のための経典。
なので、「りんごは空(ない)」からといって、現実にあるりんごが《ない》わけでもなければ、消えてなくなってしまうわけでもない。りんごは、ちゃんと存在します。
しかし、「りんごは、禅定中にあらわれる《幻のようなもの》、《はかないもの》、つまり《空》だから、りんごに執着していけない」というのが《般若経》の主張。
ですので、大乗経典で《空》という言葉が出てきたら、《実体がない》ではなく、《幻のようなもの》と置き換えて読むと分かりやすいですよ~。
《色即是空》は「色(物質的な存在)は《幻のようなもの》」。
《空即是色》は「《幻のようなもの》が物質的存在」。
《空が空たらしめるわけではない》は、《幻のようなもの》が《幻のようなもの》にするわけではない。
といった感じに。そんなに無茶な主張はしていません。
《実体がない》の《実体》、これは説一切有部の概念なんですけれども、たとえば《りんごの実体》といったら、現象の背後、イデアの世界にある現実世界にある《りんご》を《りんご》たらしめたるもののことです。で、龍樹は『中論』で、そんなものは存在しない、と言っているわけで、『中論』は説一切有部の学説に対する反駁の書です。このことを知らずに『中論』を読むと、確実に大火傷します。眼の前にあるりんごは実は《ない》のである、そんな無茶苦茶なことは言っていないので。
お早うございます。ご回答をありがとうございます。
説明したから それらと《絶対》とをつなげてみろって?
よわったな。
★ ヴェーダやウパニシャッドでは、《無》は、《有・sat》の否定概念である《非有・a-sat》ですね。この《非有》がけっこう曲者。これは、《虚無》ではなく、物質などを生み出す力をもっています。
☆ そうしますと 次のシューナターの解説を見ると その《生みだす力》でつながっているようにも見えます。
▲(ヰキぺ:空) ~~~~
§ インドでの基本概念
サンスクリット: शून्य, śūnya(シューニヤ)は、śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という意味である。
また、「膨れ上がった」、「うつろな」を意味する。
転じて、膨れ上がったものは中空であるの意味もあり、初期の仏典にもその意味で登場することがある。
シューニヤはインドの数学における「 0 (ゼロ)」の名称でもある。
~~~~~~~~~~~~
☆ ううーむ。この《空=シューナター》は あとで説かれたとすれば ブラフマニズムの《非有 a-sat 》を受け継いでいるとも見えてしまうのですが そのへんはいかにでしょうか?
▲ śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という意味である。
☆ この《発展》は どうなってるんでしょう?
コインキデンチア・オッポシトールムってことで 対極の意味に変身することはあり得ましょうが かんたんに言われても どうなってんだか 分かりにくいですよね。
★ ~~~~~~
空は「あったものがなくなった」、そんなイメージです。ですから、○○は空といったら、心の中にあった○○がなくなった、除去されたという意味です。スッタニパータかダンマパダのどちらかに《空》という言葉が出てきますが、その意味で使われているようです。
~~~~~~~~
☆ 了解ですが 《絶対》との関係では わづかに《ゼロ》の概念がどうなってしまったのか? これが気がかりです。
★ 『般若経』の「○○は空」という記述は、ぜ~んぶ、禅定・毘鉢舎那(びばしゃな)の世界の話です。『般若経』は、元々は、哲学のための経典ではなく、瞑想・禅定のための経典。
☆ ううーむ。
▲(ヰキぺ:ヴィパッサナー瞑想) ~~~~~
(パーリvipassanā、サンスクリットvipaśyanā、古語「毘鉢舎那」)
ヴィパッサナーとは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味である。
一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。
▲(同上) ~~~~~~~~
仏教において瞑想(漢訳「止観」)を、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある。
前者が心を静めることを中心とし、仏教以前にもインドにおいて広く行なわれてきた瞑想方法であるのに対し、
後者では観察することを中心とし、釈迦が新しく開拓しそれによって悟りを開いた仏教独自の瞑想方法とされる。
~~~~~~~~~~~~
☆ この修行において
★ しかし、「りんごは、禅定中にあらわれる《幻のようなもの》、《はかないもの》、つまり《空》だから、りんごに執着していけない」というのが《般若経》の主張。
☆ 身も蓋もないことを言ってしまえば この意味での《空》観は ひとことそう言えば 誰でもすぐに それとして納得しますよね。リンゴが いつまでもそのままあり続けるとは誰も思っていないのですから。
《心を静め サトリを開いた》あとようやく見ることができるというのは リンゴとそして世の中のシガラミとの違いはあるよと言いたいのでしょうか。
★ ですので、大乗経典で《空》という言葉が出てきたら、《実体がない》ではなく、《幻のようなもの》と置き換えて読むと分かりやすいですよ~。
☆ 分かりました。分かりましたが では シガラミは マボロシと思えということなのでしょうか?
まさか シガラミを成り立たせている一切の因果関係 これの探求を忘れろというわけではない。だって 十二支縁起を説いているのだから。順観と逆観があるというのだから。無明を明らかに見よと言うのでしょうから。
《まぼろしとして見た》そのあと 《やはり実体がない》とさらに見るのか? それとも無明やそして逆に明知を得させるところの《実体がある》というふうにみちびかれるのか?
この《実体》は けっきょくすでに《絶対》のことでしょうね。
★ ~~~~~~
《実体がない》の《実体》、これは説一切有部の概念なんですけれども、たとえば《りんごの実体》といったら、現象の背後、イデアの世界にある現実世界にある《りんご》を《りんご》たらしめたるもののことです。で、龍樹は『中論』で、そんなものは存在しない、と言っているわけで・・・
~~~~~~~~
☆ シガラミの背後に イデアの世界としてのチカラなる《実体》が存在していて この経験世界に対して リンゴをリンゴたらしめ シガラミをそうあらしめている。神は神で存在するが 悪魔も神のゆるしを得ているかぎりで悪魔として存在しそのチカラを振るっている。??????
★ で、龍樹は『中論』で、そんなものは存在しない、と言っているわけで・・・・
☆ それゆえ 《空=シューナター》と見るということで いいのかなぁ。
そう見る視点は 単純に捉えるなら けっきょく神の視点であるようにも見えるんだけれど・・・。つまり《絶対》なる概念ないし視点を導入すると そのように《空観》が無理なく得られる。って言う。
〔あと 悪魔のチカラは けっきょく人間の自由意志の振る舞いに代えて捉えるべきしょうね〕。
あぁ。分からん。何と面倒なことか。
いままでブディストたちは いったい何をやって来たのか?
こんなことは とっくの昔に明らかにしていなければ ウソである。恥を知れと言わないよりは 言っておいたほうがよいのでは?
おあとがよろしいようで。
No.14
- 回答日時:
無について考えています。
虚空蔵菩薩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA% …
人間が無を発見したのが、いつかは分かりませんが、
無を発見し、無は誕生し、無を認識するようになりました。
キリスト教のように、無から全てが創造されたなら
我々の存在の背後や根底には、無があります。
人間が無を恐れます。
一方で、無を望むこともあります。
無こそが絶対である。
と回答してみます。
ただし、無がどれほど長く続くのか。
「持続」の問題があります。
無も永遠を必要とします。
虚空蔵菩薩を上に掲げたのは
虚空を文字通りに読み、
空海も無を見たのかな、と勝手な解釈をし
話題が広がればと思いました。
かざみどりさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
▲ (ヰキぺ:虚空蔵菩薩) ~~~~~
梵名アーカーシャ・ガルバ (आकाशगर्भ [Âkâśagarbha])またはガガナ・ガンジャ(गगनगञ्ज [gaganagañja])
~~~~~~~~~~~~
☆ どちらも 《そら(空)(ether; sky / atmosphere; firmament )》の意味のようですね。
《虚空》と訳していますが 《そら》のほうに語義があるようです。
▲(同上) ~~~~~
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。
そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。
その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。
空海が室戸岬の洞窟 御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったという。
~~~~~~~~~~
☆ この《虚空の母胎》は 言うなれば《絶対の二層構造なる海 もしくは 小宇宙》〔=No.12お礼欄(6)〕のいまひとつの形容とすれば よいかも知れません。
《真言を百万回唱える》というのは わたしはパスです。
★ 無
☆ とすれば シューナターのほうでしょうか。
▲(ヰキぺ:空) ~~~~
§ インドでの基本概念
サンスクリット: शून्य, śūnya(シューニヤ)は、śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という意味である。
また、「膨れ上がった」、「うつろな」を意味する。
転じて、膨れ上がったものは中空であるの意味もあり、初期の仏典にもその意味で登場することがある。
シューニヤはインドの数学における「 0 (ゼロ)」の名称でもある。
~~~~~~~~~~~~
《空(くう)》となれば ねむりねこさんに訊いてみなければなりませんね。
★ ~~~
キリスト教のように、無から全てが創造されたなら
我々の存在の背後や根底には、無があります。
~~~~~
☆ オシエは 相対的なものです。
無から有の創造は 最初の無は 《絶対》のことでしょうね。絶対無でも絶対有でもいいと思います。
そのあとの有は この経験世界のことで 有とそれが移ろい行き 無となる場合があるということで 《有無の世界》のことでしょう。
つまり
★ 我々の存在の背後や根底には、無があります。
☆ の《無》は 《絶対》のことだと見ます。
ですから このいまのわたしの推理がまちがっていなければ
★ ~~~~~
無こそが絶対である。
と回答してみます。
~~~~~~
☆ については 《はじめに〈絶対〉 ありき。》と言ったときに その《絶対》は 絶対有とも絶対無とも表現しうる。というかたちになるのだと思います。
さらにそこから
★ 無こそが絶対である。
☆ を導くのは たぶんすでに文学の世界の問題ではないかとわたしは考えます。ご期待に添えなくてすみません。
《絶対》が 経験的な出来ごとの因果関係から自由であるということは 経験事象としての有無から自由であって 有無を超えているということだと思います。
そして その超えている《絶対》の世界について それを人間が受け留め言葉で表わすとすると 存在する(有神論)とも存在しない(無神論)とも表現して おのれの位置づけをするのだと見ます。
信仰という形態が そのように表わされるということですが 信仰は 《絶対》と《わたし》との関係のことですから。
No.13
- 回答日時:
こんばんはです。
☆☆☆
~~~~~
★ 《非経験の場》に属するものが、仮定的でも認識の対象になった場合、・・・「それは本来的に《非経験の場》に属していなかった」とされます。
☆ つまり 表現が少し違うだけになります。つまり 《神》として想定していたものが 認識しうると分かったばあい それは もともと神ではなかったことになる。という具合いです。
~~~~~
はい、表現の仕方の違いです。
bragelonneさんとわたくし《ねむりねこ》の差は、僅かなんです。でも、これが埋めがたい。
「経験論的な立場から、《ねむりねこ》は《非経験》という言葉を使いたくない。
真なる《非経験の場》は、《わかるか分からないか、分からない》という思いすら発生しないんじゃないか、と思っているわけです。」
ほとんどこの一点に尽きると思います。
☆☆☆
A B ふたりの話のつづきです。
★ ~~~~~~
B はおそらく「 A は神を見ていない」と結論を下すでしょう。しかし、《未経験》─《不可思議》理論では、「 A が《神を見た》」ことの真偽を判断する A の話の情報が欠如していた、検証する方法・手段がなかったわけなので、これは本来《不可思議》のカテゴリーに分類されるべきものです。
~~~~~~~~
☆ これは――つまり ねむりねこさんの理論構成の仕方が ここでようやく分かりました というところですが―― けっきょく《無神論》派の思考形式なのだと思いました。
======
オツムが根っから理系で出来ているもので(笑い)。
それに、《無神論》ってわけでもないんですよ、この《未経験》─《不可思議》理論。
神の根拠を、解明可能性をまったく有さない《不可思議》の領域にもとめることができるんで。。。。
『いくら考えても分からない。不思議だ。』
この思いから、きっと、謙虚さや畏れなどの、自然発生的な宗教心らしいものが芽生えるはず。
起きない人は、たぶん、宗教や信仰と呼ばれるものを必要としない人。
実は自分が《神ならざる神》を信じていることさえ気づかない人なんでげしょ、た・ぶ・ん。
おもしろいですね。まづは ご回答をありがとうございます。
というのも じつを申せば 何を隠そう わたしの場合は けっきょく無神論と言いますか 何も信じていなかった。信じられなかった。
★ ~~~~
『いくら考えても分からない。不思議だ。』
この思いから、きっと、謙虚さや畏れなどの、自然発生的な宗教心らしいものが芽生えるはず。
起きない人は、たぶん、宗教や信仰と呼ばれるものを必要としない人。
~~~~~~
☆ 《この思いから 信仰心は芽生えなかった》口です。
親鸞がいいと思ったのも 信じるために信じるのではないというところ。
アウグスティヌスがいいと思ったのは ひとつに例の《悪は 存在しない》と言っていたから。
もうひとつに 《信じるとは 人に信じさせること》と言っていた。
あるいは 《自分が敬虔な信仰者だと見えなくとも あなたがたによきことをおこなって欲しい》とパウロが言っていると知ったこと。
《はらからのためなら イエスに見捨てられてもいい》とか。
そうしたら 或る日或る時 あれっ おれは このキリストの神なら 信じている。子どものときから受け容れている。と思った。神をさししめしつつ 神などは要らないと言うか 神の違いは要らないと言うか そこまで踏み込んでいると思った。・・・
★ ~~~~
それに、《無神論》ってわけでもないんですよ、この《未経験》─《不可思議》理論。
神の根拠を、解明可能性をまったく有さない《不可思議》の領域にもとめることができるんで。。。。
~~~~~~
☆ ですから わたしの神は 無根拠だと思っています。アウグスティヌスは 不合理だから信じると言ったようですが わたしは 信じなくてもよいというほどに受け容れているという意味で信じているのは 無根拠だからです。無理に信じる必要がないからです。
あるいは あなたの神は 自然のかたちにおいてでも少しは考えたり努力をしたりするとしたらそれに対して わたしの神は 信じるのに人為的なことは一切ないからです。
★ ~~~~
「経験論的な立場から、《ねむりねこ》は《非経験》という言葉を使いたくない。
真なる《非経験の場》は、《わかるか分からないか、分からない》という思いすら発生しないんじゃないか、と思っているわけです。」
ほとんどこの一点に尽きると思います。
~~~~~~~
☆ 《無根拠》について多少は説明しておかねばならないとすれば 《分かるか分からないかが 分からないもの》とでも言わないとならないと思ってです。
つまり《思いが発生する》のではなく いっさいの思いを捨ててしまったところで あとは無根拠が残る。そしてそれは どうも《信じる》という・つまり《受け容れている》という基礎としての動態のようなものではないかと。
★ 《未経験》─《不可思議》理論
☆ だと まだ思いや考えや《謙虚さや畏れ》などの感覚を捨て切っていないと思ってしまうでしょうね。もし採るとするとです。
話は やや逸れますが モーセは神と 顔と顔を合わせて語り合ったと言います。これも不思議です。
No.12
- 回答日時:
エマヌエル・カントをお忘れのようです。
「純粋理性批判」の始めに以下のような主張をしております。《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属さないものとしております。ご参照ください。「我々の認識が全て経験をもって始まるにしても、我々の認識が必ずしも全て経験から生じるのではない」「認識の源泉が経験にあるものをア・ポステリオリな認識と呼ぶ。ア・プリオリな認識と言うときには、経験にかかわりのない認識というのではなく、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味する」「両者を確実に区別しうる標徴とは、『それ以外ではあり得ない』という必然を持つことである」。そうして「一切のア・プリオリな認識の可能・原理および範囲を規定するような学」を目指すとしております。例題としては、彼は数学・自然科学の原理に言及しております。
ふろいらいんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
★ 例題としては、彼は数学・自然科学の原理に言及しております。
☆ あぁ やはり《絶対》の二重構造ではないか。これが やっかいなんだよなぁと 自分の関心のあり方に寄せて思いました。
そうですね。
★ そうして「一切のア・プリオリな認識の可能・原理および範囲を規定するような学」を目指すとしております。
☆ このいとなみ この問い求めですね ここでやろうとしていることは。
少しわざと違いを見ようとして そこに見えたことを述べるとしますと:
▲ ア・プリオリな認識
☆ というのは ここでは 《ヒラメキから それを言葉に表わして理解が可能な表現にして得られる認識》と言っています。
そうして おもしろいことには このアプリオリな認識は 実際にその内容としては すでに《アポステリオリな認識》とほとんど違わないということだと思います。
アプリオリな認識は 経験思考に合った認識になっているのであれば もうその段階では アポステリオリな認識とほとんど違いはない。こうなると考えます。
つまりは 《認識》は すでにつねに経験世界に属し 経験事象であるということだと見ます。
そのように考えてくると エマヌエル老師にちょっとは物言いを言いたい気分になりますね。
★ 「両者を確実に区別しうる標徴とは、『それ以外ではあり得ない』という必然を持つことである」。
☆ 両者とは むろんアプリオリな認識とアポステリオリな認識とのことです。
それ以外ではあり得ないというのは アプリオリな認識のその内容について言っているのだと思います。
では果たして
○ アプリオリな認識は アポステリオリな認識と違って 《それ以外ではあり得ない》内容であるか?
おそらく 一面を言っているのだと考えます。
すなわち そういう場合もある。そしてまた別の場合もあると。
なぜなら (1) それ以外ではあり得ないというのは そう捉えるひとりの人の主観の問題だと思われるからです。
(2) 認識内容つまり 経験思考の対象となる経験事象 これは 移ろい行かないということがない。不可変性は 持ち得ない。
(3) けれども ヒラメキから得られたその思考内容としての認識は 本人にとって――その時その場その情況において―― いわば絶対的なと言えるほどの適宜性(ふさわしさ)を持つと思われます。と同時に それだけの話でもあります。
(4) ということは 仮りにアポステリオリな認識を持って来ても その内容が――経験思考にかかわる内容として同じである限りで―― ときにはアプリオリな認識が持つ《絶対的と言えるほどの適宜性》を同じく持つことだってあり得る。こう考えられます。
(5) 《絶対》の――わが心の内なる庭における――二重構造は きわめて微妙なものであります。《ゆめ・まぼろし》の《非思考の庭》そのものは ヒラメキの源泉です。ヒラメキを得てこれを言葉に表わしたなら それはすでに《うつつ》としての精神の緑野あるいは思考の平原ないし密林といった舞台に降りて来ていて あとは 言ってみれば《ゆめ・まぼろし》の庭とは もう隔たっていると見たほうがよいように思われます。
二層構造と言ったほうがよいでしょうか。
(6) ということは この《二層構造》は 言ってみれば《アプリオリな非思考の庭》と《アポステリオリな〈精神=身体〉的な思惟および行動の領野》とのとてつもなく広く深い海のようになっていましょうか?
いや 海は どうでしょうか? 宇宙つまり小宇宙でしょうか? どなたかいいたとえがありましたら おおしえください。
エマヌエル氏の本は
▲ 「我々の認識が全て経験をもって始まるにしても、我々の認識が必ずしも全て経験から生じるのではない」
☆ という命題から始まるとのことでした。
ありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
回答ではないのですが、
No.5のDMIMさんの回答にある
☆2人の老齢の哲学者について偶然に見て感じた印象なんですけど。。。。
の「二人の老齢の…」というのは、
bragelonneさんとわたくし《ねむりねこ》のことでしょうか?
《老齢》。。。。
ぐすん、ねむりねこ、まだまだ《老齢》じゃないもん(涙)。
でも、これは《老練》と書きたかったのだけれど、
DMIMさんが、キーボードの「i」と「n」のキーを誤って押し、《老練》が《老齢》と誤変換されたために違いない!!
でも、《老》という文字が気になるなぁ。。。。
つづいてです。
あぁ ほんとうですね。
わたしは あれっとは思いましたが それより《絶対》を定義しておくことの効用について考えて応答することのほうに気が行っていました。
ねむりねこさんは プロフィールからはお歳は分かりませんから ただの推測で言ってみたんでしょうか。
でぃーえむあいえむさん よろしかったらこの《2人の老齢の哲学者》は 具体的に誰なのか。おしえてください。
わたしだったら 《老齢》はあたっていますが。
中国で先生のことを ラオシー(老師)と言いますね。ところが 若い教師についてもみな このラオシーと呼んでいるのですね。関係なかったかぁ。
No.10
- 回答日時:
こんにちはです。
No.4のお礼にあるご指摘への対する反論です。
☆☆☆
~~~~~
★ 《不可思議》も経験に属するのである。
☆ これは 表現の問題です。定義の問題です。《未経験》の中で 不可知だ・解明できないと分かったばあい それを《不可思議》と表現することは あり得ます。
ただし 《非経験の場》としての不可思議のことではない。同じ言葉を使うことがあるという問題です。
~~~~~
《不可思議》を
この(認識対象の)いまだ解明できない、理解できないものを、便宜的に、《不可思議》なものと呼ぶことにする。
と定義しています。
《未経験》の領域は《不可思議》の領域とみなさいという立場をとっています。
《不可思議》と感じるものは認識の対象だけであって、認識の俎上にのぼっていないものを《不可思議》と感じることはできない、と、この理論では考えています。
☆☆☆
★ ~~~~~~
(あ) 《非経験》の領域の存在は、我々人間にはもはや認識の対象を越えたものであり、その《非経験の場》が存在することを知ることことはもちろん、推測することもできない。
(い) それ故に、(人間の)世界には、《非経験)の場)は存在しえない。
(う) それがあったとしても、我々の認識とは無縁の存在、無関係な存在なのである。
~~~~~~~
☆ (あ)は そのとおりだと思います。
(い)および(う)は マチガイです。一部の真理をのみ表わします。
======
ご指摘の通り、今回、提出した《未経験》─《不可思議》理論は、真理の範囲を敢えて狭めています。
それは、
人間の世界は、最も広い意味での認識によって構成されている。
過去、現在の時点において、認識の対象にならなかったもの、なるもの以外は、それは、その人間にとって、ない(と同じことである)。
という立場をとっているためです。
《存在する》《存在しない》の外延は《経験》領域内です。
(い) それ故に、(人間の)世界には、《非経験)の場は存在しえない。
は、それ故の結論です。
(う) それがあったとしても、我々の認識とは無縁の存在、無関係な存在なのである。
は、(い)を言い換えただけです。
======
~~~~~~
よって 人間は この《非経験の場》を(つまり《絶対》を) 《それが存在するとも存在しないとも分からない。分かるか分からないかが分からない》という定義で想定します。
なぜわざわざ想定するのか?
~~~~~~
今回提出した《未経験》─《不可思議》理論では、
想定された瞬間、それは認識の対象になった、《未経験》が《経験》に変わった、《経験》領域が拡がった、という見方をします。
《非経験の場》に属するものが、仮定的でも認識の対象になった場合、《経験の場》においては《可思議》か《不可思議》のいずれかだけです。と同時に、「それは本来的に《非経験の場》に属していなかった」とされます。
(拡大された《経験領域》に存在しないものは議論をしても意味がない。捨ててもいいし、《未経験の場》に戻してもいい。《経験》領域の理解・解明が進めば、それは再び認識の対象になるに違いない。)
というような理論の組み立て方をしています。
☆☆☆
~~~~~
★ それはさらに、解明された、解明可能性を有すると意味での《可思議》な領域と、今は解明されていない、解明可能性を有さないという意味での《不可思議》の領域に分類できます。
☆ これは 違います。つねに《非経験の場》は 《非知》です。《分かるか分からないかが分からない》場です。
それゆえにも 主観の問題としてなら 《神を見た》と――つまり《分かった》と――表現してみることまでは ゆるされています。
~~~~~
《非経験の場》は《非知》です。それ故に、それは認識の対象になりません。仮定であれ何であれ、認識の対象になりうるものは、《非経験の場》に属していない。それは、認識の対象以前に《未経験》の領域に属していたものに過ぎません。
《非経験》は「経験できない」ことをもって定義される。《非経験》のものがどうして《経験》されようか!!
======
~~~~~
それゆえにも 主観の問題としてなら 《神を見た》と――つまり《分かった》と――表現してみることまでは ゆるされています。
~~~~~
これはその個人の経験的事象の話なので、許されます。
体験者Aがその経験を他者Bに話せば、間接的ながら他者も経験をしたことになるので、Bの《経験の領域》が拡大されます。そして、Aのその話が蓋然性を有していなければ、Bは《神を見た》という話を信じないだけです。《神を見た》と「《神を見た》という話を信じない」は矛盾しません。
Bはおそらく「Aは神を見ていない」と結論を下すでしょう。しかし、《未経験》─《不可思議》理論では、「Aが《神を見た》」ことの真偽を判断するAの話の情報が欠如していた、検証する方法・手段がなかったわけなので、これは本来《不可思議》のカテゴリーに分類されるべきものです。
(思いつきと、それに基づき急ごしらえした理論。そろそろ理論の破綻?。。。。)
また、Aは《不(可)思議》な体験をしたと実感するでしょう。そして、自分が《神を見た》という経験に合理的な説明が与えられない、解明できない。Aも《神を見た》という事実を《不可思議》に分類するでしょう。
直接、間接体験の違いはありませんが、Aが《神を見た》ことは、AとBにおいて同様に《不可思議》のカテゴリーに分類されるので、矛盾も生じません。
したがって、主観の問題ではない。真偽を判定する情報と方法・手段の欠如にすぎない。
(苦しい。すでに詭弁の域か。。。。
でも、提出してしまったのだから、正々堂々と最後まで防戦につとめよう!!)
☆☆☆
ということです。
ご回答をありがとうございます。
★ 《不可思議》と感じるものは認識の対象だけであって、認識の俎上にのぼっていないものを《不可思議》と感じることはできない、と、この理論では考えています。
☆ こちらのほうが筋がとおっているようです。
というのも わたしも 《不可知》を経験世界に 《非知》を非経験の場にそれぞれ当てはめているからです。
つまり《不可思議》は 《思議》を《知》に入れ替えるだけの同じ概念としなければならない。こう帰結されます。
おっしゃるとおりでした。
たぶん――では何故 非経験の場のほうに対応させたかと考えてみますと―― 不可思議と言えば 一般に《なぞ》という意味があるぢゃないですか。そしてわたしは よく《非経験の場》を 《ナゾの何ものか》と言ったりしていました。このゆえだったと思いました。
いづれにしましても 筋のよいほうで用語はととのえたいと思います。
★ ~~~~~
ご指摘の通り、今回、提出した《未経験》─《不可思議》理論は、真理の範囲を敢えて狭めています。
それは、
人間の世界は、最も広い意味での認識によって構成されている。
過去、現在の時点において、認識の対象にならなかったもの、なるもの以外は、それは、その人間にとって、ない(と同じことである)。
という立場をとっているためです。
~~~~~~~
☆ 分かりました。別様の理論構成だというふうに捉えます。質問趣旨の理論構成としての観点からの物言いでした。
この観点の違いによる行き違いは 次のことがらにも見られるようです。
★ 《非経験の場》に属するものが、仮定的でも認識の対象になった場合、《経験の場》においては《可思議》か《不可思議》のいずれかだけです。と同時に、「それは本来的に《非経験の場》に属していなかった」とされます。
☆ これは 観点の違いから受け留め方で違いが出ていたようですが このようにうかがうと 重なる事柄もあると分かりました。
すなわち
★ 《非経験の場》に属するものが、仮定的でも認識の対象になった場合、・・・「それは本来的に《非経験の場》に属していなかった」とされます。
☆ つまり 表現が少し違うだけになります。つまり 《神》として想定していたものが 認識しうると分かったばあい それは もともと神ではなかったことになる。という具合いです。
★ 《非経験》は「経験できない」ことをもって定義される。《非経験》のものがどうして《経験》されようか!!
☆ ここは 趣旨説明欄のたたき台としての理論構成から行けば 別の捉え方をしています。
○ 《非経験の場》 ~~~~~~
これは 経験世界における因果関係から自由な領域として想定し設定する。
ゆえに その存在があるのか無いのか いっさい人間には分からない。
というその意味は 人によっては その主観において 《非経験の場》が存在すると言う人もいれば いや《存在しない》と言う人もいる。
もしこの非経験の場をおのれの心に受け容れたときには 存在派と不在派とのふたつに分かれるはずである。
すなわち 人なる存在における心としての《非思考の庭》では 神はある派と 神は無い派とのいづれかの《信仰》形態が現われる。
~~~~~~~~~~~~
☆ 詭弁そのものになりますが 不在派の場合というのは 《非経験は 経験され得ないというかたちで――認識し切ったからには―― 経験し得た〔とその主観の内で思っている〕》のだと理解されます。
いえいえ。何のことはない。その同じことを 次のように述べられています。
★ ~~~~
体験者 A がその経験を他者 B に話せば、間接的ながら他者も経験をしたことになるので、B の《経験の領域》が拡大されます。そして、A のその話が蓋然性を有していなければ、B は《神を見た》という話を信じないだけです。《神を見た》と「《神を見た》という話を信じない」は矛盾しません。
~~~~~~~
☆ 別の言い方では こうだと思います。
C なる人が 自分の神は 《いわしのあたま》だと言います。そしてそれは 自由です。良心・信教の そして表現の。
ところがただし その C が 神は じっさいの魚のその部分だと言ったとしたら それは 冗談でしかありません。《経験事象》が《非経験の場》だと言ったことになりますから。
主観の問題だという意味で 例示を添えました。
A B ふたりの話のつづきです。
★ ~~~~~~
B はおそらく「 A は神を見ていない」と結論を下すでしょう。しかし、《未経験》─《不可思議》理論では、「 A が《神を見た》」ことの真偽を判断する A の話の情報が欠如していた、検証する方法・手段がなかったわけなので、これは本来《不可思議》のカテゴリーに分類されるべきものです。
~~~~~~~~
☆ これは――つまり ねむりねこさんの理論構成の仕方が ここでようやく分かりました というところですが―― けっきょく《無神論》派の思考形式なのだと思いました。
だって《非経験の場》は 《無い》というのですから その《非経験の場》を示す言葉――このばあい 神――を出されても その表現の自由はみとめたとしても その内容にかんしては けっきょく《未経験》―《不可思議》のカテゴリに入れて捉えることになる。
こういうことだと思いました。
たぶん 《神を見た》という A さん〔やほかの人びと〕と同じ自由という空気を共有しようと思えば そのA さんの見神体験は B さん自身にとっては《無い神》のカテゴリに入るとしてもらうとよいのだと思います。つまりは 《不在派としての 非経験の場》なるカテゴリであると。
《神とは 人間にとって 分かるか分からないかが分からない非経験の場である》 この命題は まだ生き残ります。手前味噌ながら。
No.9
- 回答日時:
No.6です。
蛇足ですが。お礼欄の 説明ありがとうございました。一つを除いては是と思います。
それは 言葉は信じるものではなく 考えるものである という ご指摘
です。私は ほとんどの言葉は ご指摘の通りだ と思います、が
思考のはてに 信じるしかない という場面があると思うのです。
それは ヒラメキ一歩手前の言葉の領域です。ヒラメキの定義の程度
によるのかも知れません。が脳内には言葉が体のハードとして残っている
状態です。
他方、電撃的にヒラメク場面は言葉はない と思うのです。ご説明の
通りと思います。
以上です。失礼しました。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~
・・・私は ほとんどの言葉は ご指摘の通りだ と思います、が
思考のはてに 信じるしかない という場面があると思うのです。
それは ヒラメキ一歩手前の言葉の領域です。ヒラメキの定義の程度
によるのかも知れません。が脳内には言葉が体のハードとして残っている
状態です。
~~~~~~
☆ これは 判断がむつかしい。とまづ思いました。
というのも 一般にヒラメキを得たというとき それは案外 言葉をも伴なっていることがあると思うからです。
あるいは 言葉が その一瞬ののち 伴なわれているのを知る。と言いますか ヒラメキと分かったときには すでに何らかの言葉による了解が得られていて やっとそれがヒラメキだと分かった。というような情況ではないかとも思います。
つまりむしろ
★ ヒラメキ一歩手前の言葉の領域
☆ なら すでにヒラメキにつながっている。かも知れません。つまりあるいは
★ ヒラメキの定義の程度によるのかも知れません。
とまづは 思いが浮かんで来ました。
そして さらに考え直したとき こう思いました。
つまり 直感ないし直観は イメージなり あるいは何かあるようだといった感じなりがあるだけではなく 何がしかの言葉も伴なわれているのかも知れないと思うと同時に――そう思うと同時にです―― その《言葉》は ただしやはりヒラメキのほうにくっついているのであって どう考えても《思考》によって得られたものではない。ということ。
言いかえます。
ヒラメキには 思考で理解されうる言葉が伴なっている。そういう場合もありうる。
ただし 問題は その言葉は 思考によってたどり着いたものでは 断じてない。
こういうことではないでしょうか?
でも さらにいい考えがあるかも知れません。
いまは このように考えました。どうでしょう?
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